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近年、スエズ運河の先にあるアデン湾に、ソマリア海賊が跋扈して、通行する貨物船の安全を脅かしています。
運河を利用する世界中の国々が、海域の安全を守るために軍隊を派遣しました。
日本では、さんざん国内ですったもんんだのあげく、ようやく自衛隊の派遣が決まりました。
しかしスエズの安全は、日本とエジプトの国交の柱でもあるのです。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)「101回目のプロポーズ」といえば、武田鉄矢と浅野温子主演で、フジテレビで放送された(1991年)番組でした。
それまでに99回ものお見合いに失敗した42歳の建設会社万年係長星野達郎(武田鉄矢)が、オーケストラのチェリスト矢吹薫(30)に出会い、恋をする。
番組のラストで、別れを言いだした薫の前で、トラックの前に突如飛び出して数センチの所で止まった後に、武田鉄矢が
「僕は死にましぇん。あなたが好きだから…」と叫びます。
名シーンであり、「僕は死にましぇん」は、その年の流行語大賞を受賞にもなりました。
番組の主題歌はCHAGE&ASKAの「SAY YES」で、こちらもオリコンシングルチャートで13週連続1位を獲得しています。
このシーンの撮影が行われたのが、大手ゼネコンの五洋建設本社前でした。
その五洋建設という会社は、海洋土木工事の大手です。
もとの社名は水野組で、明治29(1896)年、広島県呉市に誕生しました。
そして大正6年頃から呉や佐世保などの海軍の工事に携わっていました。
そこから「水の土木の水野組」という評価が生まれました。
昭和33(1958)年の第2次岸内閣のとき、エジプト政府から日本政府にあて、港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事業界各社(浚渫:しゅんせつぎょうかい)に、「調査団を派遣してもらいたい」という依頼が飛び込んできました。
そこで日本政府は、高碕達之助通産大臣を団長として、エジプトを訪問しました。
するとエジプト政府から、スエズ運河改修の国際入札に、日本からも参加してもらいたいとの要請がなされました。
もちろん、水といえば水野組です。
水野組では、他社との合同でスエズ運河改修計画調査団にメンバーを派遣しました。
同時にエジプトとアラブ連合共和国に関する資料の調査を始めました。
すると次のようなことがわかってきました。
スエズ運河は、地中海と紅海を結ぶ運河です。
もともと砂漠と湖沼からなる平地であったため、紀元前1300年ごろには、地中海と紅海とを連絡する運河が、小規模ながらできあがっていました。
紀元前13世紀といえば、エジプトでラムセス2世や、モーゼがイスラムの民をひきつれて、エジプトを脱出した時代です。
ところがその小規模運河は、古代エジプトの衰退とともに砂漠に埋没してしまって、運河も長く忘れ去られてしまっていたのです。
近世に入って、ナポレオンが東方への進出を夢見たとき、そのスエズに大規模運河の計画をたてました。
それは10年がかりの大工事で、明治2(1869)年になって、運河は開通しています。
ところがこのときの工事では、150万人のエジプト人が動員されいて、そのうち12万5000人ものエジプト人が炎天下の過酷な労働のために死亡しています。
さらに、せっかくできたこの運河は、水深がたったの7.9Mと浅くて、大型の船の通行ができません。
このため、日本海海戦にやってきたバルチック艦隊も、相変わらずアフリカの南端の喜望峰を回らざるを得なかったのです。
その運河は、開通後は、フランスとエジプトの共同所有になっていました。
しかし、莫大な対外債務を抱えたエジプトは、運河の管理会社の株を英国に売却してしまいます。
ちなみに、このとき英国に運河購入資金を融通したのが、あのロスチャイルドです。
明治15(1882)年、エジプト国内で民族運動の機運が高まると、英国が運河の通行権を持っていることに、民間から大規模な反乱運動が起こります。
英国は、その鎮圧と運河の保護を目的に、運河を軍事的に占領しました。
そして昭和31(1956)年まで、スエズ運河を支配していました。
スエズ運河は、地中海とインド洋を直接結ぶ要衝ですから、運河の通行料収入は、英国に巨額の利益をもたらしました。
エジプトにあるのに、利益は英国なのです。
エジプトはついに「民族解放・独立達成・スエズの権益確保」を旗印に、英国と戦端を開きました。
そしてようやく昭和27(1952)年7月、ナセルの革命政権が、運河から英国軍を撤退させ、イギリス・エジプト条約を締結したのが昭和29(1954)年10月のことです。
こうして運河は、エジプトのナセル政権が国有化し、アラブ連合共和国のスエズ運河庁が運河を管理するようになりました。
ところが、現代世界の船舶は大型です。
運河の水深が7.9Mでは、どうにもならない。
そこでエジプト大統領ナセルは、この運河の水深を深くし、大型の貨物船でも通れるように、スエズ運河の大改修計画を発表したのです。
計画は、昭和35(1960)年を初年度として工期10か年の大計画とされていました。
運河の全長は162kmです。
最大級のタンカーが通行できるようにするためには、灼熱の中で、水深を14.5Mまで深めなければなりません。
スエズ運河浚渫(しゅんせつ)計画は、世界初の巨大で未知の特大工事だったのです。
水野組は、この冒険に闘志を燃やしました。
第1回の国際入札は、日本側の応札は時間がとれず見送りとなったけれど、第2回の入札ならまだ間に合う。
水野組は準備をすすめました。
水野哲太郎社長

ところが実際に準備調査をすすめると、難題が目白押しでした。
まず、このような巨大工事には、これまでにない大型ポンプ船が必要となります。
石川島播磨重工業の概算見積りでは、5000馬力のタービンポンプ一式で、建造費は軽く10億円を越えました。
しかもそのポンプ船を現地に回航する曳航費用も、億単位です。
この時点で水野組は、国際入札は未経験の分野でした。
ヨーロッパ諸国の業者が、日本の応札を知れば、予想外の低価格で応札してくることも考えられました。
無理して落札したら、新造船のポートサイドまでの曳航費はもとより、かけた費用の回収さえできません。
そうなれば会社は潰れるしかない。
当時の水野哲太郎社長は、熟慮の上、リスクを冒してでも、この巨大工事に挑戦しようと腹を決めたました。
そして業務課に見積書の作成作業を指示するとともに、5000馬力の超大型新造船の建造準備にも取り掛かりました。
当時のことを水野社長は、後に次のように語っています。
「国際入札に負ければ、
またスゴスゴと船を日本まで
引っ張って帰らなければならない。
そのみじめさもさることながら、
失敗したら会社をつぶすことに
なるかもしれないと思った。
しかし、考えぬいたすえに、
失敗してゼロになったら、
またゼロからスタートすればいいさと考え始めた」
(「中国新聞」昭和49年10月17日、「この人」の欄)
水野社長は、大型ポンプ船、石川島播磨重工業に発注しました。
もう後戻りできない。
こうして昭和36(1961)年1月31日、5000馬力のタービンポンプ式浚渫(しゅんせつ)船「スエズ」が誕生しました。
浚渫船(しゅんせつせん)「スエズ」

昭和36(1961)年5月22日、「スエズ」は、無事にポートサイドに到着しました。
そして6月5日、水野組は、第2回の国際入札に参加しました。
入札前に浚渫船(しゅんせつせん)を用意したのみならず、億を超える曳航費を負担して現地まで回航したなんてのは、国際的にみても異例中の異例です。
その国際入札には、アメリカやヨーロッパの世界的有名業者が参加していました。
そして水野組は、見事、一番札で、工事を落札しました。
落札価格は当時の邦貨換算で約15億6000万円です。
これが戦後日本の建設技術が本格的に海外進出した第一号です。
水野組の落札価格は、これまでヨーロッパの有力業者に独占されていたエジプト側の関係者にショックを与えました。
地元の新聞は「日本のカミカゼ」とまで書いたそうです。
スエズ運河庁や住民たちも、大型新造船を曳航してまでして入札前に先乗りした水野組の積極的な姿勢を高く評価ての発注だったのだそうです。
水野組の心は、人種と言葉の壁を乗り越えて、しっかりと通じたのです。
スエズ出張所の初代所長に就任した水野組の今中時雄氏は、調印式に先立って、同年7月10日にカイロに到着していました。
この年のカイロは57~58℃という酷暑でした。
その酷暑の中で1週間ほどかけて作業現場を調査した今中氏は、愕然としたそうです。
まさに難工事なのです。
工期も、どうみても2年はかかる。
ところが水野社長は、なにがなんでも1年3か月で工事をやれという。
受注額も最低です。
追加工事のための予算もない。
今中氏は思ったそうです。
「これほどの難工事は、
かつて水野組では誰も経験したことがないし、
この工事による会社の利益もない。
しかしこの大事業に成功すれば、
水野組は、世界に知られる一大企業に飛躍できる。
社長の心意気を肝に銘じて、
なんとしてもこの事業を成功させよう。」
工事は、8月下旬から開始されました。
スエズ運河の地層には、堅固な岩盤があります。
スエズ運河の創設者レセップスの記録にも、それは書いてあります。
今中は、レセップスが掘った土砂を綿密に調査しました。
そして硬い岩盤の調査結果をただちに本社に報告しました。
本社では、岩盤の硬度の分析・調査を行い、掘削に適したカッターを製作して輸送するよう手配しました。
しかし新規製作のカッターは、船便で輸送するまでに最低3か月を要します。
そこで今中氏は、カッター到着の遅れを見込んで、地盤の柔らかい場所を先に探しあてて、そこから工事を開始しました。
すると、運河庁の役人が、
「契約どおりの仕事をしていない」
とクレームをつけてきました。
「約束を守っていない。
即時運河庁に出頭せよ」
というのです。
今中氏は、調査記録をもとに、丁寧に作業手順を説明しました。
かたくなに「違約」を主張していた先方の貿易局長は、最後には理解してくれました。
そして今中氏に全幅の信頼を置くようになりました。
三ヶ月後、ようやくカッターが到着しました。
しかし炎暑です。
当時の最新技術の粋を集めたカッターでしたが、焼きついてしまって容易に掘削がはかどりません。
こうして岩盤に阻まれて水野組が悪戦苦闘しているという噂が日本に伝わると、同業他社からは、
「水野はもうオシマイだ」
と取り沙汰されるようになりました。
銀行筋からも、水野組の経営破たんを懸念して再三、問い合わせがはいりました。
水野組に話をもちこんだ通産省内にも不安の声が広がりました。
再度エジプトを訪れた高碕達之助(元通産大臣)は工事中の現場に立ち寄り、その進捗状況を見て今中氏に言いました。
「水野さんも、よくこんなことをやったものだなあ。
私だったら、こんな思いきったことはようやらんわい。
あの人は度胸があるというか・・・」
エジプトのスエズ運河庁も、水野組がコストを割って契約をしたことはわかっていました。
もしかすると日本の水野組は工事半ばでギブアップして撤退するのではないかとも危倶していました。
「予想外の硬い岩盤が出た」ということは、工事撤退の口実になり得るのです。
心配して工事の視察に行った運河庁の役人は驚きました。
水野組は、ぜんぜんあきらめてないのです。
実に粘り強く誠実に岩盤と闘っているのです。
少しずつ掘削を終えた部位ができてきました。
運河らしい姿が徐々に現れてきました。
工事の出来映えは、素晴らしいものです。
実によく整っていて、予想以上の緻密さです。
運河庁の役人たちは、水野の誠実な工事に驚きました。
そして等しく感嘆しました。
高性能のポンプを装備した「スエズ」も、エンジンの音を響かせながら、運河浚渫(しゅんせつ)の難工事に挑戦していました。
強靭な特殊カッターはきわめて硬い海底岩盤を次々に掘削していきました。
こうして、スエズ運河の第1期工事は、なんと、予定通り、1年6か月で完成してしまうのです。
第一期工事の見事な仕上がりに、水野組は、続く第二期、第三期の工事も相次いで随契で受注しました。
工事の受注金額の合計は36億800万円にものぼるものとなりました。
昭和42年6月5日、第四期工事の国際入札がカイロで行われることになりました。
社長の水野哲太郎氏、内林達一専務、初代スエズ出張所長の今中時雄(のちに副社長)ほか技術者など数名は、前日の深夜過ぎまでホテルの部屋で缶詰めになって見積りの細部を調整していました。
そして3台の車に分乗して、カイロのヒルトンホテルから運河庁のあるイスマイリアヘ向かいました。
距離にして約120km、約2時間の行程です、
車がイスマイリアにあと20分ほどの距離に迫ったとき、運転手が不意にスピードを落としました。
やがてタイヤが地表から持ちあがるような衝撃が続きました。
地震ではありません。
しかし地面が、なにかの震動で大きく揺れています。
タイヤがバウンドしました。
行く手はるかには黒煙が上がりました。
運転手が車を停めました。
まもなく、頭上に戦闘機が飛びました。
だれかが「イスラエルのマークがついている」と叫びました。
飛来したジェット戦闘機は、前方の黒煙の上がるあたりに急降下し、その都度、大きな黒煙があがり、振動が襲いました。
戦争が始まったのだと、わかりました。
頭上ではイスラエル機とエジプト機が、超音速の空中戦を演じていました。
二機が交差したと思ったつぎの瞬間、片方の機が煙を吐いて失速して落下していきました。
社長らは、わずかに土堤のかげに身を潜めているものの、敵機に発見されれば逃げ場はありません。
雲ひとつない空を背景に、空中戦はますます激しさを加えていきました。
そうです。
第3次中東戦争が勃発したのです。
入札をどうするのか。
今カイロに戻っても、市街地はどうなっているのだろうか。
目的地のイスマイリアも激戦地になっているかもしれない。
誰もが心配する中、水野社長は、にっこり笑って言いました。
「行っても爆弾。
引き返しても爆弾。
なら、入札に行こう!」
このひと言で、衆議一決した一行はイスマイリアに向かいました。
途中の道のゲートでは、再三、自動小銃を持った兵隊に押しとどめられました。
彼らはその都度、「スエズ運河庁総裁から呼ばれている」と粘って通してもらいました。
ようやく一行は運河庁に到着しました。
それは、ちょうど入札がはじまるギリギリの時間でした。
入札というものは、時間に遅れたら、もう対象外です。
厳しいのです。
ところが肝心の担当官が見当たらないのです。
一行が焦る気持ちをもてあましていると、連絡を受けた担当官がようやく姿を現しました。
自分たちでさえ、戦争がはじまって避難しているのに、入札があるからと約束の時間をたがえずやってきた日本人に、担当官は驚きました。
しかも他の国の業者は、なんと事前に戦争の情報を入手していて、前日に大使館を通じて入札書を運河庁に渡していたというのです。
ところが水野組は、見積りの最終調整で、ニュースに目もくれていませんでした。
だから戦争がはじまったことすら知らずにいたのです。
このときの様子を後に今中氏は次のように語っています。
「向こうの人が喜んだのなんの。
オランダやアメリカそのほか、
ぜんぶおそれをなしたのに、
日本人だけは敵中突破という感じで、
約束通りにもってきたんですから。
イスラエルとの戦争なんか一日で終わる。
むろんわが軍の大勝利だ。
ありがとう、
なんていって受け取ってくれました。
戦争のほうは逆に負け戦さでしたけどね。
いま思えば、水野哲太郎社長のあのひと言が、
天下分け目の決断になったんです。」
こうして第四期工事の入札も、水野組が落札しました。
しかし、戦争のためにスエズ運河は閉鎖され、工事は宙に浮いてしまいました。
仕事がなくなった水野組は、全員がやむなく帰国の途につきました。
それから7年の歳月が流れました。
平和を取り戻したエジプトは、昭和49(1974)年10月に、超大型のスエズ運河拡幅増深工事を発注しました。
受注額は、なんと506億円というビックプロジェクトです。
三期にわたる誠実な改修工事の実績、そして戦火のなかを入札に駆けつけた熱意が、エジプトに高く評価されたのはもちろんのことでした。
この工事費の3分の2にあたる380億円は、前年末に特使としてエジプトを訪問した三木武夫総理が約束した円借款でまかなわれることになりました。
スエズ運河庁のマシュール総裁は、訪問した日本政府関係者に、運河再開計画として、4月20日からすでに始めている沈船の引き揚げ、機雷爆破などの掃海作業は6か月間で完了する見通しであると述べました。
さて、500億円を超える工事受注の報が国内に伝わると、大きな話題をさらいました。
日本の建設会社が海外で受注した大型工事で100億円を超える例は、過去にありました。
しかし500億円という工事は過去に例がありません。
スエズ運河は、当時の日本の建設業界では戦後最大の海外工事となったのです。
拡張計画は、7万トン級の船舶しか航行できないスエズ運河を、25万トン級の船舶が航行できるようにするというものでした。
いま、スエズ運河の通行料はエジプト政府の主要な外貨収入のひとつとなっています。
2007年には約46億ドルの収益を上げています。
ちなみにスエズ運河は、泳いで横断しても通行料がかかります。
冗談のようですが、本当のことです。
しかしその料金を払って「僕は死にましぇん」と船の前に飛びだしたら、たぶん危ないです(笑)。
危険といえば、近年、スエズ運河の先にあるアデン湾に、ソマリア海賊が跋扈して、通行する貨物船の安全を脅かしています。
運河を利用する世界中の国々が、海域の安全を守るために軍隊を派遣しました。
日本では、さんざん国内ですったもんんだのあげく、ようやく自衛隊の派遣が決まりました。
しかし、スエズの安全は、日本とエジプトの国交の柱でもあるのです。
その自衛隊派遣に、どうして反対する政党があるのでしょうか。
でも私は信じています。
世界の安全と平和、そして世界の人々の豊かな暮らしのために、いつの日か、日本の艦隊が胸を張って人々を守る、そんな日がきっとやってくることを。
※本文には五洋建設のスエズ運河改修プロジェクトを参考にさせていただきました。
※この記事は2012年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
しょうちゃんのつぶやき
将来の総理候補として期待していた小池氏の詐欺師ではと思われる行動に情けなくなりましたが、ねづさんのブログで素晴らしい先輩日本人を学ぶ事ができ失われた自信が甦ってきます。
明日は新嘗祭ですね。新米をありがたく頂戴したいと思います。子供たちに親戚から購入した米を送付してやりましたが陛下が神様にお供えした後からいただくよう要請しています。
いつもありがとうございます。今後ともお導きのほどよろしくお願い致します。
2017/11/22 URL 編集
愛信
https://twitter.com/kenpou1000/status/933194592295387137
この意味する事は、ロシアが天皇陛下の処刑を強く要求しているので、皇統を残す事
を前提に纏めた占領憲法を受け入れるか否かと要求した。
同時に、アメリカの原子爆弾(新型爆弾)と言う1度に20万人もの国民が殺傷する
新型爆弾を広島に続き長崎に投下した国際法規に違反した連合国アメリカの蛮行に対し
て昭和天皇は終戦の詔勅を発せられた。
先帝陛下(昭和天皇陛下)の日本民族へのお言葉。
堪え難きを堪え忍び難きを忍び生き残れ。
詳細は
【皇室関係の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj7.cgi
【皇室関係のタイトル一覧】
http://aixin.jp/axbbs/kzsj/kzsj7_hdir.cgi
2017/11/22 URL 編集
昆布
勉強になります
2017/11/22 URL 編集