↑クリック・クリック↑
←いつも
応援クリックをありがとうございます。
平地の泥土に苗を丁寧に並べて植え、
泥土の州に苗を植え、
草葺屋根の大きな屋敷の戸(門)に至る道の先には
大きな門(戸)のある屋敷で麻製品を作っている男女がいて
そこでは人々が豊かに暮らし
誰もが大地に根ざた生活をして
みんなの顔は笑顔に輝き
堅い樫の木でできた我が家は大地に根ざして美しく耀き
堅い樫の木でできた青い我が家は大地に根ざし
そこで神々の意を受けた堂々とした男性神である伊弉諾尊(いさなきのみこと)と、
神々の意を受けたしなやかな女性神である伊弉冉尊(いさなみのみこと)がお生まれになりました。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)◆
【お知らせ】◆
11月25日(土)18:30
第20回 百人一首塾12月16日(土)18:30
第46回 倭塾 公開講座12月23日(土)18:30
第21回 百人一首塾1月6日(土)13:30
第47回 倭塾 公開講座1月20日(土)18:30
第22回 百人一首塾2月18日(日)18:30
第48回 倭塾公開講座2月22日(木)18:30
第23回 百人一首塾※2月の倭塾の開催日が変更になっています。
(2月10日(✗)→2月18日(◯)) *****
<原文>次有神、埿土煑尊(埿土此云于毘尼)、沙土煑尊(沙土、此云須毘尼。亦曰埿土根尊・沙土根尊)。
次有神、大戸之道尊(一云、大戸之辺)、大苫辺尊(亦曰大戸摩彦尊、大戸摩姫尊。亦曰大富道尊、大富辺尊)。次有神、面足尊、惶根尊(亦曰吾屋惶根尊、亦曰忌橿城尊、亦曰青橿城根尊、亦曰吾屋橿城尊)。
次有神、伊弉諾尊、伊弉冉尊。<読み下し文>次に神有(ま)す。埿土煑尊(うひぢにのみこと)(埿土=此(これ)をば于毘尼(うひぢ)と云ふ)、沙土煑尊(すひぢにのみこと)(沙土=此(これ)をば須毘尼(すひぢ)と云ふ。亦(また)は埿土根尊(うひぢねのみこと)、沙土根尊(すひぢねのみこと)と曰(まを)す)。
次に神有(ま)す。大戸之道尊(おほとのぢのみこと)(一云(いちにいは)く大戸之辺(おほとのへ)、大苫辺尊(おほとまへのみこと)(亦(また)は大戸摩彦尊(おほとのまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとのまひめのみこと)と曰(まを)す。亦(また)は大富道尊(おほとのまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまへのみこと)と曰(まを)す。
次に神有(ま)す。面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)(亦(また)は吾屋惶根尊(あやかしかねのみこと)と曰(まを)す。亦(また)は忌橿城尊(いむかしきのみこと)と曰(まを)す。亦(また)は青橿城根尊(あをかしきねのみこと)と曰(まを)す。亦(また)は吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)と曰(まを)す)。
次に神有(ま)す。伊弉諾尊(いさなきのみこと)、伊弉冉尊(いさなみのみこと)。<現代語訳>次に生(な)られた神様は、埿土煑尊(うひぢにのみこと)と沙土煑尊(すひぢにのみこと)です。
埿土は「うひぢ(于毘尼)」と読みます。沙土は「すひぢ(須毘尼)」と読みます。
この神様には、それぞれ埿土根尊(うひぢねのみこと)、沙土根尊(すひぢねのみこと)という別名があります。
次に生られた神様は、大戸之道尊(おほとのぢのみこと)と大苫辺尊(おほとまへのみこと)です。
大苫辺尊は、別な書には大戸之辺(おほとのへ)とあります。
この神様にはそれぞれ、大戸摩彦尊(おほとのまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとのまひめのみこと)、あるいは大富道尊(おほとのまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまへのみこと)という別名があります。
次に生られた神様は、面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)です。
惶根尊には、吾屋惶根尊(あやかしかねのみこと)、忌橿城尊(いむかしきのみこと)、青橿城根尊(あをかしきねのみこと)、吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)という別名があります。
次に生られた神様は、伊弉諾尊(いさなきのみこと)、伊弉冉尊(いさなみのみこと)です。<解説>
▼神世七代最初の三神である国常立尊(くにのことたちのみこと)、国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)に続く創生の神々が紹介されている段です。
ここでは、次の八神が紹介されています。
埿土煑尊(うひぢにのみこと)・沙土煑尊(すひぢにのみこと)
大戸之道尊(おほとのぢのみこと)・大苫辺尊(おほとまへのみこと)
面足尊(おもたるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)
伊弉諾尊(いさなきのみこと)、伊弉冉尊(いさなみのみこと)
前の創生の三神と異なるのは、ここでの八神がそれぞれ対(つい)をなしていることです。
電気でいえばプラスとマイナス、陰陽(おんみょう)なら陰(いん)と陽(よう)、あるいは男女の対(つい)です。
ちなみにこの「対」という字は、現代人の我々はあたかも一対の敵対関係や反対や対抗関係のようにとらえがちですが、この字のもともとの訓読みは「つれあう、むかいあう、ならぶ」です。
漢語としての意味は、旧字が「對」で、辺が工具、つくりが手ですから、工具を手にしている姿の象形で、そこから何かに向かい合っている姿を表す意味を持つようになった字です。
◆youtubeの動画サイトをはじめました。↓下のバナーをクリックするとチャンネルに飛びます↓

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
新しい動画がアップされました!◆
『ねずさんと語る古事記・参』絶賛発売中!!

この「向かい合う」ことについて、China圏での文化は基本的に支配する者と支配される者という対立構造を持ちますから、漢語的な意味では、まさに対立関係になります。
ところが我々の祖先には、対立という概念がありません。
そこに大工道具があり、人がそれを手にしているのならば、あらゆるものは神々が造られたものであり、我々はそれを使わせていただく立場ですから、目の前のものにその道具を使うときは、誠実に心をこめて丁寧に制作する事以外に考えられないわけです。
ですから「対」という漢字に、我々の祖先は「なにかとならびたったとき、ともにつれあい、大切に接し、協力しあったり、ならびたったりするという意味を、この文字にあてているわけです。
従って、ここで紹介された八柱の神々も、それぞれ対立関係ではありません。
むしろ相互補完関係にある神様であるということを、まず、認識しなければなりません。
そして最初の三柱の神様に続く、次の四組の神々を合わせて、日本書紀では神世七代を形成しています。
▼埿土煑尊・沙土煑尊はじめに登場する神様は埿土煑尊(うひぢにのみこと)と沙土煑尊(すひぢにのみこと)です。
この二柱の神様は、漢字の意味ですと、泥土を煮る、砂を煮るとなり、なんだか意味がわかりません。
そこでちゃんと注釈があって、「埿土はうひぢ(于毘尼)と読み、沙土はすひぢ(須毘尼)と読みなさい」と書かれています。つまり、大和言葉で読みなさい、という指示がされているわけです。
古い大和言葉では、「ひぢ」も「に」も泥土のことを意味します。
ここでの「う」は「植う」、「す」は平らな地である「州」や「据える」ですから、泥土に苗など植えたり、平地に据え並べ植えることとわかります。
つまり田んぼに苗を丁寧に並べて植えることが、神様のお名前になっているわけです。
我が国では、田植えの際に、田に苗を等間隔に丁寧に並べて植えます。
こうすることで土地を涸(か)らささず、同時に単位面積あたりの収穫高を高めます。
日本ではあまりにもあたりまえの光景ですが、実は世界では、ついこの間までは、これはめずらしい農法でした。
いまでこそ世界中の田で、この農法が採られるようになりましたが、それはようやくこの百年位の間に日本の農業技術指導によって世界に普及されたものです。
それまでは、どこの国でも、田には単に種をばらまくだけでした。
なぜそうだったのかというと、そこには日本と異なる複雑な事情があります。
まず、種をばらまくというのは、単位面積あたりの収量を増やそうとするから、そうなります。
ところが、これを行うと土地が涸(か)れてしまって、何年かに一度は、その土地を休耕地にせざるをえなくなります。
土地に対して人が少ない地域では、3〜4箇所くらいの田のうち、一箇所を休耕地にして順繰りに稲作が行われます。
ところが我が国は逆で、土地に対して人が多い。
すると、できるだけ休耕地にしないで、田を営めるようにしていく必要がありますから、整然と苗を植える田植えが行われるわけです。
こうした整然とした田植えが、では我が国でいつごろから始まったものなのかは、まったくわかりません。
つまり、いつからはじまったのかわからないほど遠い昔から、我が国では、こうした農法がとられてきたということです。
そしてこのことは、同時に我が国の農業が、大昔から政治的にも安定していたという証拠でもあります。
たとえばChinaでは、農作物が収穫される時期になると役人がやってきて、税と称して出来た作物をみんな持っていってしまいます。
全部持っていかれたら自分たちが食べられなくなるので、農家ではなんとかして米を隠すのですが、そうして隠しておいたお米も、次には暴徒たちがやってきて、残りの米をみんな持っていってしまいます。
これでは農家は、自分たちが餓死してしまいますから、自衛策として、作物の収穫期の少し前くらいに、作物を全部刈り取って、それを持って農民たちは村から逃げてしまうのです。
どうせ捨てる土地なら、なるったけ収量を増やしたほうが勝ちです。
当然、種は密集して植えたほうが良いことになります。
あとは野となれ山となれです。
ところが日本は「知らす国」であり、農家こそが国のたからとされてきた国です。
だからこそ神様のお名前に「うひぢに、すひじに」とありということは、稲作が始まっった遠い昔から、農民たちの田畑は、ちゃんと守られてきたということを意味しているのです。
▼沙土煑尊の別名埿土煑尊(うひぢにのみこと)と沙土煑尊(すひぢにのみこと)には、別名として「埿土根尊(うひぢねのみこと)」、「沙土根尊(すひぢねのみこと)という別名があると日本書紀は記しています。
上の説明で、「うひぢに(埿土煑)」は田植え、「すひぢに(沙土煑)」は、「苗を丁寧に据え並べる」こととわかります。
では、「埿土根(うひぢね)」、「すひぢね(沙土根)」は何を意味しているのでしょうか。
違いがあるのは、「に(煑)」が「ね(根)」に代わっていることです。
「根」は、大地に根ざすことを意味します。
「埿土」は「うひぢ(于毘尼)」と読むと注釈されていますから、使われている漢字には意味がなく、大和言葉の「うーひぢ」で、「う」が植える、「ひぢ」が泥土です。
そこから「うーひぢーね」は、泥土に根を植えることとわかります。
「すひじね(沙土根)」も、沙土は「すひぢ(須毘尼)」と読むと注釈がありますから、大和言葉の「すーひじ」です。
「す」は「州、据える」、「ひじ」が「泥土」ですから、「すーひじ」泥土の州に据えるで、「すひじね(沙土根)」の「根」は、根っこのことですから、苗の根を泥土でできた州に据えるとなり、苗を植えることを意味しているとわかります。
要するに、「埿土煑(うひぢに)、沙土煑(すひぢに)」も、別名の「埿土根(うひぢね)、沙土根(すひぢね)」も、いずれも田植えを意味する神様のお名前となっています。
▼大戸之道尊、大苫辺尊次に生られた神様は、大戸之道尊(おほとのぢのみこと)と大苫辺尊(おほとまへのみこと)です。
ここでは注釈がありませんから、神様のお名前の漢字の意味と、大和言葉の読みが共通していることになります。
大戸之道尊は、「大戸」が大きな戸で、それが「之道」ですから「大きな戸に至る道」です。
大苫辺尊は、「苫(とま)」にはワラで編んだゴザやワラジの意味もありますが、他に草で葺いた屋根のことも言います。「辺」は「ほとり、そば、あたり」の意味ですから、「大きな草葺き屋根の家のあたり」となります。
すると「大戸之道」と「大苫辺」を合わせて、「草葺屋根の大きな屋敷の戸(門)に至る道」といった意味になります。
この二神にも別名があり、それが大戸摩彦尊(おほとのまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとのまひめのみこと)、もうひとつが大富道尊(おほとのまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまへのみこと)です。
大戸摩彦、大戸摩姫の「摩」は、もともと手で麻をすりつぶして繊維をとることの象形で、「彦・姫」はそれぞれ男女を意味しますから、大きな門(戸)のある屋敷で麻製品を作っている男女の意と読むことができます。
もうひとつの大富道(おほとのまぢ)、大富辺(おほとまへ)は、「大富」が「たいへん豊か」、「道」と「辺」はそれぞれ「至る道」と、「あたり」を意味しますので、誰もが豊かに生活できるための道と、その富のもとに暮らす人々を意味しています。
▼面足尊、惶根尊次に生られた神様は、面足尊(おもたるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)です。
こちらも和名の注釈はありませんから、漢字の意味を読んでみます。
「面」は顔、「足」は二本の足という意味と、足(た)す、満足するという意味があります。
「惶」は、「皇」が美しく輝くで、これに「忄」が付いていますから、心が美しく輝く。
「根」は、大地に根ざすことです。
ということは、面足が「みんなの顔が満足に輝く」、惶根が「大地に根ざす」ですから、二神を合わせて「大地に根ざすことで、みんなの顔が笑顔に輝く」といった意味になります。
この二神の別名の一は、吾屋惶根尊(あやかしかねのみこと)、忌橿城尊(いむかしきのみこと)です。
上と同じように名前の漢字を読んでいくと、吾屋惶根は「我が家は大地に根ざして美しく耀き」、「忌」はかしこまるの意で、「橿城」は「樫の木でできた硬い城」ですから、「堅い樫の木でできた我が家は大地に根ざして美しく耀く」となります。
二神の別名の二の青橿城根尊(あをかしきねのみこと)、吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)は、青橿城根で「堅い樫の木でできた青い我が家は大地に根ざし」、吾屋橿城で「我が屋敷は堅い樫の木の城」といった意味になります。
▼伊弉諾尊、伊弉冉尊伊弉諾尊(いさなきのみこと)、伊弉冉尊(いさなみのみこと)は、古事記では「伊耶那岐神、伊耶那美神」と書かれている神様ですが、日本書紀では伊弉諾、伊弉冉の文字が使われています。
「伊」は、漢字の成り立ちは手にムチを持った人で、そこから氏族の長とか治める人を意味するようになった字です。
「弉」は、装いを凝らして堂々としているさまを表す字です。
「諾」は、シャーマンが神意を口にすることの象形で、そこから承知する、承諾するといった意味になった字です。
「冉」は、しなやかなさまを意味する漢字です。
そこから、次の意味となります。
「伊弉諾」=神々の意を受けた堂々とした男性神
「伊弉冉」=神々の意を受けたしなやかな女性神
▼四代八柱の神々の意味するもの日本書紀に書かれた創生の三神である国常立尊(くにのことたちのみこと)国狭槌尊(くにのさつちのみこと)、次に豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)は、全宇宙の根幹に成られた永遠不滅の神様の両脇に、神稲の土壌を司る神様、豊穣をもたらす神様が並んでいる様子を描いた記述になっていました。
図示すると次のようになります。
国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊
↓ ↓ ↓
全宇宙の根幹に成られた永遠不滅の神様の両脇に、
神稲の土壌を司る神様、
豊穣をもたらす神様が
並んでいる様子
続く四代八柱の神々のお名前を並べると、次のようになっていました。
埿土煑尊、沙土煑尊
(別名)埿土根尊・沙土根尊。
大戸之道尊、大苫辺尊
(別名一)大戸摩彦尊、大戸摩姫尊
(別名二)大富道尊、大富辺尊
面足尊、惶根尊
(別名一)吾屋惶根尊、亦曰忌橿城尊
(別名二)青橿城根尊、亦曰吾屋橿城尊。
伊弉諾尊、伊弉冉尊
上述の説明から、これらの神々のお名前の持つ意味をもちいて現代語訳すると次のようになります。
***
平地の泥土に苗を丁寧に並べて植え、
泥土の州に苗を植え、
草葺屋根の大きな屋敷の戸(門)に至る道の先には
大きな門(戸)のある屋敷で麻製品を作っている男女がいて
そこでは人々が豊かに暮らし
誰もが大地に根ざた生活をして
みんなの顔は笑顔に輝き
堅い樫の木でできた我が家は大地に根ざして美しく耀き
堅い樫の木でできた青い我が家は大地に根ざし
そこで神々の意を受けた堂々とした男性神である伊弉諾尊(いさなきのみこと)と、
神々の意を受けたしなやかな女性神である伊弉冉尊(いさなみのみこと)がお生まれになりました。 ***
ひとつ気をつけていただきたいのは、漢語を用いた日本の古典文学というものは、特に神語においては「常に意味は一通りだけではない」ということです。
大人には大人の読み方がある、と日頃から申し上げていますが、童話として読む幼な子(おさなご)としての読み方もあれば、大人としての読み方もあるわけです。
ただし、お一柱ごとの神様は、偉大な神様です。
そのことは、私たちは読み解きに際して決して忘れてはならないことです。
ただ同時に、「偉大だ、神だ」という先入観だけで、そのドグマに浸(ひた)って思考停止に陥っては、私たちはご先祖が私たち子孫のために遺してくれた大事な思考を失ってしまいます。
なぜなら私たち日本人は、遺跡や遺物をもってすれば12万年、縄文時代以来でも1万7千年という途方もないはるか太古の昔から、この日本列島で生活してきたのだし、いつの時代においても、親が子に、少しでも幸せになってもらいたいと思う心はずっと継続してきているのです。
そうして親から子、子から孫へと代々受け継がれ、歴史の中で研(と)がれていくことで形成された神語は、決して表面上の一枚だけの物語ではなく、必ずそこに複数の意味があり、深みがあるのです。
そういう思いで、私たちは日本の古典を学んでいかなければならないと思うのです。
私たちは、すべての人が両親から生まれています。
その両親は四人の祖父母から生まれています。
こうしてご先祖をずっとたどっていくと、いまの日本人ひとりが生まれるためには、七〇〇年前におよそ1億3千万人の祖先がいなければならないという計算になってしまいます。
しかし、七〇〇年前の日本の人口は六九九万人です。
これが何を意味しているかというと、七〇〇年もさかのぼったら、日本中の日本人のすべての祖先が重なってしまうということです。
私たちは死んだら「ほとけさま」と呼ばれます。
その亡くなったご祖先をずっとさかのぼった先においでになる日本中のすべての家系に共通するご祖先のことを、ご先祖をかみのほうにさかのぼった先におわすご先祖という意味で、私たちの祖先はこれを「かみ(神)」と呼びました。
その神々をさらにずっとさかのぼっていくと、稲作を中心にして幸せに暮らす人々がいて、その幸せのなかから、偉大な神様であるイザナキ、イザナミの二神がお生まれになったのだということが、日本書紀の創生の七代の神々の記述であるということが、ここまでの三回の読み解きであきらかになりました。
では、そのイザナキ、イザナミは、どのような活躍をされるのでしょうか。
続きはまた次回。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

コメント
疑問
現在は、ホモサピエンスが日本列島に渡ってから3万8千年とか4万年とか言われているようです。
ネアンデルタール人等の旧人が縄文人に進化して、やがて現代日本人になったわけではないそうです。
旧人がいたとしても、巨大噴火等の大規模自然災害や環境の激変にうまく適応できず、その後、人口の激減や文化の断絶を余儀なくされた事でしょう。
一方、縄文人は、変化する自然環境に上手く適応し、噴火や地震や津波や台風にも負けず、狩猟や採集を主力の生業としつつ、人口を20~30万人にまで増やしたのは凄いと思います。
2017/11/25 URL 編集