まず誤解を解いて置かなければならないことは、江戸時代の大名(藩主)というものは、絶対王政における君主ではないということです。
我が国のすべては神々のものであり、神々の直系の子孫である天子様(天皇)のものであるというのが、基本です。
我が国は天皇の知らす国なのです。
ですから藩主は、絶対君主ではなく、どこまでも藩の総責任者であって、藩を天子様から将軍を経由して預かっている立場です。
もっとわかりやすくいえば、藩主は、藩の土地を護り、藩民が豊かに安全に安心して暮らせるようにするための藩の最高責任者です。
従って、藩に何かあれば、その責任は藩主の責任となります。
そしてそれが許しがたい問題であれば、藩主は腹を斬らなければならない。
それが江戸時代の標準となる考え方です。
藩主という地位は、命がけなのです。
そのことが理解できず、藩主が傲慢な君主のように振る舞うときには、家臣たちが藩主を座敷牢に押し込め、毎日対話を続けて藩主に考えを改めるように説き、もしそれでも改まらないときには、藩主は家臣たちによってその地位を追われたし、藩主が改心すれば、そこではじめて座敷牢から出されて、もとの藩主の地位におさまりました。
これは「主君押込(しゅくんおしこめ)」といって、有名な上杉鷹山さえも、その「主君押込」に遭っています。
とりわけ播州赤穂藩の浅野家は、そうした日本古来の思考を重要視した山鹿素行によって、藩の教育が施された藩です。
山鹿素行は『中朝事実』を著し、真の中華といえるのは、Chinaではなく我が国であると、言い切った、江戸時代を代表する国学者であり、皇室尊崇論者です。
従って、赤穂藩の藩風は、とりわけ更新尊崇の念が強い。
その赤穂藩が、吉良上野介とともに、勅使下向の接待役を幕府からおおせつかります。
勅使下向というのは、毎年正月に、幕府から京の都の天子様に充てて、新年の祝賀の品が届けられます。
その届け物の御礼にと、今度は天皇の使いである勅使が、江戸に下向します。
京の都に向かうのが「上り」、京の都から江戸に行くのが「下り」です。
だから「勅使下向」といいます。
赤穂藩は山鹿流ですから、何よりも皇室尊崇です。
一方、吉良家は、高家(こうけ)といって、もともと室町時代以来の名門の家柄です。
室町幕府は、ご存知の通り将軍が「日本国王」を名乗った政権で、比較的冷静に官位に忠実な気風があります。
そこでトラブルが起こります。
勅使(ちょくし)は天皇の使いです。
ちなみに、天皇の使いが勅使で、上皇の使いなら院使(いんし)、皇后の使いなら皇后宮使(こうごうぐうし)、中宮の使いなら中宮使(ちゅうぐうし)、皇太后の使いなら皇太后宮使(こうたいごうぐうし)、女院の使いなら女院使(にょいんし)です。
勅使は天皇の使いで、大納言、中納言の官位にある人が、勅使を努めます。
将軍は、左右大臣ないし内大臣です。
徳川将軍は、この時代、五代将軍綱吉の時代ですが、綱吉はこの時代には、正二位内大臣兼右近衛大将兼征夷大将軍です。
官位の順番は、
太政大臣
左大臣
右大臣
内大臣 (←将軍)
大納言
中納言 (←勅使)
少納言
と続きます。
つまり、勅使は天皇の名代ではありますが、官位は将軍の下です。
そこで問題になるのが、勅使の席次です。
官位からすれば、将軍が上座、勅使は下座です。
勅使を天皇の名代と考えれば、勅使が上座、将軍が下座です。
室町幕府以来の伝統は、将軍が上座、勅使が下座です。
しかし・・・です。
これはおかしなことです。
勅使は天皇の名代なのですから、将軍に対しては、天皇と同じ高さにあります。
つまり、勅使が上座でなければおかしいのです。
山鹿流の浅野家は、もちろん皇室尊崇ですから、勅使が上座という考え方です。
室町幕府以来の伝統に従う吉良家は、将軍が上座、勅使が下座です。
室町以来、徳川幕府も将軍が上座、勅使が下座で勅使下向の接待を行ってきています。
吉良上野介と浅野内匠頭による勅使の接待役は、二度行われていますが、一度目は、初めてのことでもあり、浅野内匠頭は吉良上野介の指示を受け入れています。
単純に受け入れたのですから、トラブルも起きていません。
しかし皇室尊崇の念の強い播州赤穂家にしてみれば、この席次はどうにも受け入れがたい席次です。
常識で考えても、天皇の勅使が上座は当然のことだからです。
ですから二度目の接待に際しては、これが許せない。
そこで浅野内匠頭は、勅使を上座、将軍を下座として席を準備します。
ところが、これに気づいた吉良上野介が、席を全部やり直してしまいます。
浅野内匠頭ならずとも、赤穂藩士たちにとって、これは許しがたい蛮行です。
そこで松の廊下の事件が起こっています。
この事件では、浅野内匠頭が、脇差しを抜いて吉良上野介の額を割っています。
しかし少し考えたら誰にでもわかることですが、この行動に殺意はありません。
第一に、顔の傷はものすごい流血量となります。
ところが吉良上野介は、そこまでの流血はしていません。
ということは、刃物で切ったのではなくて、刃物の背を使って額を叩いたか、薄皮一枚の傷を負わせただけということがわかります。
浅野内匠頭は、脇差しを抜くと、刀身を返して刀の峰で吉良上野介の額を叩いたか、はじめから額の薄皮一枚を斬るという離れ業を行っているわけです。
これなら多少の出血はあっても、大流血ということにはなりません。
第二に、額に向けて切りつけられれば、誰でも手で額をかばおうとします。
ところが吉良上野介は、手には怪我をしていません。
これはおかしなことです。
顔の前に刃物を振り下ろされて、手でかばおうとしない人などいません。
ということは、浅野内匠頭の小刀の使い方は、よほどの練達ぶりであったということです。
なぜなら、吉良上野介が額を手でかばういとまも与えずに、素早く傷を負わせているからです。
まさに抜く手もみせぬ早業です。
吉良上野介が自分の額をかばう間も与えずに、額を割ったのです。
ところが、それだけの早業のできる練達の剣士であった浅野内匠頭でありながら、浅野内匠頭は吉良上野介の額に浅く傷をつけただけです。
これはつまり、浅野内匠頭に殺意はなかったということです。
吉良上野介を懲らしめようとしただけであったということです。
もし浅野内匠頭に殺意があったのなら、脇差しで上野介の首を狙うか、肋骨の間に刀身を水平に差し込んで殺害しています。
仮に殺意を持って頭部を狙ったのなら、すくなくとも吉良上野介は額を割られているわけですから、渾身の力を込めて打ち下ろしたなら、吉良上野介は頭を二つに割られて即死しています。
そうはならず、額から一筋の血が流れた程度の傷であったということは、はじめから浅野内匠頭には殺意がない。
では、何のために額に傷を負わせたのか。
答えは簡単に見つかることです。
たとえ殺意はあらずとも、殿中で刃傷に及んだとなれば、大目付ないし老中クラスの取り調べを受けることになります。
このときに、勅使の席次について、これを改めるように建言する。
その機会を得るために、吉良を斬っています。
ただし、目的が、建言にあるのですから、吉良上野介を死にいたらしめる必要はない。
必要がないから、浅野内匠頭は吉良を殺さなかったのです。
そしてこのことから、浅野内匠頭の行動は、衝動的なものではなく、あくまで計算ずくで行ったものであることがわかります。
ただ、誤算がありました。
それは、幕府が、いきなり浅野内匠頭に切腹を命じたことです。
幕府がなぜそのような対応としたのか。
これもまた理由は明白です。
仮に浅野内匠頭の言い分を認めて、勅使と将軍の席次を入れ替えれば、江戸幕府開闢以来、今日までの勅使饗応に際して、幕府が不手際を続けてきたことを認めることになってしまいます。
その責任は、誰がどのように取るのか。
つまり幕府の体面を守るためには、浅野内匠頭を、単に「城中で刃傷沙汰を起こした」という一点で切腹とし、後に禍根を残さないように赤穂藩を解体するしかなかったのです。
なぜなら、筋も道理も、赤穂藩の側にあることが、誰の目にもあきらかだからです。
もともと浅野家は、秀吉の妻の兄の家柄です。
つまり出自は百姓であるわけで、その浅野家にとっては、百姓は天皇の「おほみたから」という皇室尊崇論は、まさに希望そのものでもあったという側面も無視できないものです。
しかし、万一、生き残った赤穂藩の残党が、何らかの行動に出たらたいへんです。
万一にも討ち入りのような事件が起きれば、これまた将軍の責任問題になる。
以前、川崎で中一児童の殺害事件がありましたが、このような事件が江戸時代に起これば、川崎の町奉行は切腹です。
なぜなら川崎の町奉行は、そうした事件や事故が起こらないようにするために、あらゆる権限を与えられているわけです。
にも関わらず事件が起これば、権限と責任は一体ですから、当然に町奉行は責任を取って切腹です。
では、大名同士の刃傷の場合はどうなるでしょうか。
武家の総責任者は将軍です。
つまり、万一、大名殺害という事件が起これば、将軍にその責任が及ぶのです。
これが道理です。
しかしそのような前例を作れば、大名同士で刃傷が起きたことを演出しさえすれば、将軍を切腹に追い込むことができるという悪しき先例を作ってしまうことになります。
そうであるならば、城中で刃傷に及んだというその一点をもって、浅野内匠頭に切腹を申し付ける。
これは、高度な政治的判断です。
しかし、そうなるとおさまりがつかないのが、赤穂藩士たちです。
赤穂藩は山鹿流ですから、放置をすれば、赤穂藩が幕府に反旗を翻すやもしれず、だから、即時、赤穂藩のお取り潰しが決まっています。
藩という後ろ盾がなくなれば、これは現代サラリーマンが、会社という後ろ盾を失うようなもので、普通なら、それ以上の仇討ち事件などには至らないものです。
ただし、動静は注視していく必要がある。
だから、大石内蔵助は、幕府の密偵によって、ずっと監視が続けられます。
こうして、赤穂浪士の討ち入りが行なわれます。
その討ち入りの前、大石内蔵助は、芸者をあげて派手な大騒ぎをしています。
なぜそのようなことをしたのか。
そうすることで大石内蔵助が、世間に目立つ存在になれば、討ち入りの成果がより大きくなるからです。
大石内蔵助が江戸に下るとき、橘右近の名を騙ります。
そこに本物の橘右近が現れる。
両者が出会ったとき、橘右近は、内蔵助が右近を名乗ることを認めています。
なぜでしょうか。
このときの橘右近は、都の貴族である九条家の使いとして道中を旅しています。
つまり、皇室尊崇の側の人間です。
浅野内匠頭の気持ちも、なんとしても「勅使が上座」を実現しようとする赤穂の浪士たちの気持ちも痛いほどわかる。
だから、道中証を内蔵助に渡しています。
こうして大石内蔵助以下、四十七士が討ち入りを果たすわけです。
以上の次第をご理解いただければ、浅野内匠頭の辞世の意味もわかってこようと思います。
風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん
まさに正義の実現のために、本来の筋道を通すために、浅野内匠頭は全力で戦い、散っていったのです。
そしてその思いのすべてを、家臣たちに託しました。
なぜ播州赤穂の四十七士は、討ち入りをしたのでしょうか。
時は将軍綱吉の時代です。
綱吉は、犬でさえも殺してはいけない、まして人であればなおのことを生類憐れみの令にまでした将軍です。
生類憐れみの令は、稀代の悪法呼ばわりする人が結構いますが、この令は、幕末まで、何度も繰り返し発布されています。
武士は人を斬るのが商売ですが、生きとし生けるものは、犬でさえ斬り殺してはいけないというのです。
まして人であればなおのことです。
そういう綱吉の時代に、討ち入りをするということが、何を意味するか。
討ち入りをした浪士たちは、全員揃って打ち首が当然ということになるでしょう。
彼らはそれをわかって討ち入りをしています。
こうした行動は、逆ギレして場所柄もわきまえずに刃物を揮うような情けない上司のためになど、絶対に行われないものです。
そうではなく、彼ら自身も、将軍が上、勅使が下ということに納得がいかない。
これを不条理と思う。
だから、彼らはそれを将軍家に改めさせるために、最も有効な手段として、吉良上野介の首をあげるという選択をしています。
打ち首切腹は、最初から覚悟の上なのです。
これを、再就職に有利になるから打ち入ったのだなどと解説している識者の方がいましたが、誤解もはなはだしいといいたい。
さて、討ち入りによって困ったのが幕府です。
浪士といえども、武士は武士。
かつてはれっきとした藩士たちが起こした事件です。
しかも場所は将軍家のお膝元の江戸市中です。
誰の責任になるのでしょうか。
誰が責任をとって腹を斬ることになるのでしょうか。
答えは将軍です。
では、そうならないためには、何が必要でしょうか。
そうです。
四十七士の行動を、義挙にしてしまうことです。
その宣伝工作のために、およそ2ヶ月が費やされ、赤穂浪士は切腹となりました。
赤穂浪士=義士という風評が立ったところで、幕府は、あらためて四十七士に切腹を命じたのです。
これは当然のことで、赤穂浪士が義士でなければ、将軍は武家の責任者として、腹を斬らなければならなくなるからです。
また赤穂浪士たちの意思は、主君が報じた天皇尊崇を、まさに身をもって表すことにあります。
赤穂の四十七士は切腹して果てました。
そしてその後、勅使下向に際しての幕府の対応は、勅使が上座、将軍が下座に改められました。
浅野内匠頭と四十七人の武士たちの一分は、こうして、見事、実現することになったのです。
このような、「浅野内匠頭と四十七士は尊皇の筋道を通したのだ」という話は、「そんな話、初めて聞いた」という方が多いかもしれません。
実際、江戸時代からの各種演劇や忠臣蔵の講談などに、そのような描写はありません。
当然です。
すれば将軍家に恥をかかせることになるからです。
そんなことをしたら、世を乱し、人心を乱したとして、罪に問われかねない。
だから、あからさまに、ありえない、すぐにおかしいとわかる「年寄りの若者イジメ」を発端として描いているのです。
「江戸の芸能は二度美味しい」と言われます。
なぜなら、本当の理由が、帰り道の蕎麦屋などで、お年寄りや父母から聞かされたからです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
善造
ところで、当ブログのHPは開くのが遅い(重い)し、見てたら固まったりします。
これも当ブログのお話を広められたら困る反日勢力が絡んでるのか?と思ってしまいます。
日本はまだまだ親日的なことをやろうとすると何かしら抵抗を受けますね。
ですが、そういうものに負けずにやり続ける事が大事と思います。
これからも応援しています。
2017/12/24 URL 編集
くすのきのこ
感じですか。昭和までは議員に爆弾投げつけたりする輩もいたっけw
朝廷の使いの接待の真っ最中に御法度の抜刀など・・戦国時代の武将
に比べれば格段に覚悟が甘いのでは?
江戸猫なかま~が何か言いたいようです・・w
まあね~人様はそれぞれ身を置いている所で自分の分を尽くせば光る。
で、身を置く場所で見えるもんも違ってくるってこってw
当時の5代将軍綱吉さんは文治主義・儒教重視・尊皇の御方。お陰で
山鹿素行も世に出て播磨国赤穂藩に・・ってな。で、綱吉さんはこの
赤穂事件の17年前1684年も刃傷沙汰が。時は綱吉さん治世4年目だ。
有栖川の宮将軍じゃ~なくて家光筋の吉綱さんを5代目に推した堀田
正俊さんをイトコの稲葉正休が、わざわざそれ用に拵えた刀で切った
という・・それが不思議な事にね稲葉は大久保・戸田・安倍にその場
で無抵抗でヤられたってんで・・謎が~・遺書には将軍家への御恩返
しだと書いてあった~って話だ。どんな理屈かね。でもって堀田さん
が逝った結果が側用人の柳沢吉保の重用。誰得かって話w堀田さんに
対する・・こう黒~いものがwどうもね。綱吉の御母堂で京から来た
桂昌院に嫌われてたって話もあるってんだ。大奥は恐いかもな~w
赤穂事件もね、大石と吉良は遠い血縁。大石を知らぬふりして便宜を
図った九条家師孝の妻は広島浅野本家の綱長の娘さん。大石には多分
ドッカからカネと情報提供がある・・柳沢の抱えていた・・細井広沢
が討ち入り支援してたってんだwココでも柳沢だ・・泰平な中での出
世では金と女を使うに限る・・の御仁だよ~w幕府要人も御存知・・
ととれる文を大石は残してて、吉良の屋敷替えも不自然だと。じゃあ
結局、赤穂事件1701・1702で誰得だってか?刃傷騒ぎで即日切腹っ
てのは、やっぱり口を開く前に・・ってなあ・・。前に稲葉に事情聴
かなかったと文句つけてたのは光圀さん。誰得?・・これが何ともw
幕府側工作員の吉良が逝って、公卿・近衛基煕は日記に珍事・・お上
は御喜悦・・と記したって話だw吉綱は刃傷3日後に紀伊徳川家と接
触。綱吉は男子後継がいないもんで、娘が嫁いでた紀州の綱教を次代
将軍にってな?紀州姻戚の上杉と、上杉姻戚の吉良もソレを推してた
と。なんか・・柳沢じゃ~ないが嫁繋がりでw対して甲府の家宣の嫁
が近衛基煕の娘(天英院)で、30年位前に婚姻。でもって基煕の叔母
が嫁なんで・・今回は無言の?水戸の光圀さん・・ってな~w
1204家宣に決定し翌年に綱教病死しちまう。吉良のついてた側が落ち
た。1709綱吉さん亡くなって家宣6代将軍に。柳沢は家宣の甲府をちゃ
かり貰ってて、さっさと辞職し悠々隠居~ウマイね~w基煕の方は江
戸時代初の実質的な太政大臣。のぼってるよ~w1710江戸に来て2年
居座る親幕派?侵略派?家宣により新井白石が浮上~・・元々豊臣に
より没落した家系だってな~w2年ばかり、アノ堀田さんにも仕えたっ
ていう怪しさ満点じゃないか。因縁かねえ?wこれ豊臣繋がりの浅野
家の分家の崩壊をどう思った事かね?え?7代家継の3年間まで活躍。
そして大奥では、家宣嫁の天英院が1716吉宗を8代将軍に御指名~30
年以上権力を持ち続けたっていう。大奥には公家の娘達がドンド~ン
とw柳沢の側室町子も公家娘って事で。大奥の予算には吉宗も文句言
えねえな~とwただし。この吉宗指名は下手すると徳川幕府内紛に発
展しかねなかったってね。将軍争いは紀州・吉宗との尾張・継友。継
友の婚約者がまた基煕の孫娘~wだが尾張藩の不文律が将軍位を争う
べからずだというんだから争わなかった・・なんだかね・・スカっと
するね。はっきり・・お公家さんより、水戸の光圀さんよりねww
この2つの事件は・・どっかキナ臭いねえ。赤穂事件は芝居まで使っ
て喧伝しまくった・・ああ悲惨~いやん・ふ~モリカケ~・・ってな
マスメディアと同じ臭いがしませんかい?文芸を使うという発想は・・
禄を食んでる武士階級というより没落した輩が絡んでておかしかない
や。庶民はいつでも消化不良の娯楽が大好きだからねw幕府は御法度
を破った浅野に切腹を命じ、吉良は義士が討ち果たし、その義士は切
腹の命に従う。最後に逃げたら忠が無くなるてもんで。復讐の繰り返
しが無くすためには、ここで踏ん張って腹を切るわけで。単なる私・
刑では美しくないってね・・最後は武士の形式美が光ってる。
権力を得たのは柳沢・・全体像が掴めなくても利用してのし上がる力w
そして待つのを厭わなかった公家の近衛基煕。自分の気持ちに沿った
かは知らないが運命を素直に受け入れた天英院ですかね。
自分の場所で粘りきれるか?特に天英院さんには問われてるってねw
2017/12/23 URL 編集
滅びの儒教
2017/12/22 URL 編集
鳳麒
よく「喧嘩両成敗の原則が適用されず、吉良だけ何の御咎めもなかったのは不公平な裁定だ。だから討ち入りが起こったんだ。」と言われますが、それは違うようです。
当時の幕法においては、江戸城内で刀を鯉口三寸切っただけで、誰であろうと事情や経緯を問わず、問答無用で死罪になる事が定められていたそうです。
そういう場合は刀身を抜かず、鞘に納めたまま防御すべきで、吉良はそれをきちんと守っていたのだと。
吉良上野介は実際そのように対処したそうで、事件後に吉良はそんな冷静な振る舞いを称賛されたそうです。
故に喧嘩両成敗の論理は成立せず、浅野内匠頭一人だけが有罪、吉良が無罪と裁定が下されたのは至極尤もな話であると。
「喧嘩になった」とは、両者とも刀を抜いた(鯉口三寸を切った)場合の話であり、実際にそうしたのは浅野の方だけであり、吉良は一切そうしなかったのですから、喧嘩は成立していません。
だから法的には吉良は無罪であり、「喧嘩両成敗の原則が守られなかった。不公平な裁定だ。」という論は当たりません。
しかしそうなると、本記事の記述と多少食い違ってしまうので、その辺はどうなのでしょうね?
2017/12/21 URL 編集
-
赤穂事件を結論有りきで美化し過ぎているように思います
2017/12/21 URL 編集
-
知れば知るほどに好きになる。
有り難うございます。
2017/12/20 URL 編集
山口翔
私自身は故郷の播州赤穂を拠点に忠臣蔵に関して研究する者です。
人気ブログを運営する小名木善行氏にお願いがあるのですが、忠臣蔵(元禄赤穂事件)に関する記事の精度を高めて頂くことは可能でしょうか。
自身の研究の結果、現在の忠臣蔵観を白紙に戻す必要を強く感じています。忠臣蔵を否定する社会の流れに違和感を感じています。
現在、地元の赤穂で「忠臣蔵の再生」を掲げて活動を開始したところです。赤穂山鹿素行研究会等、よき理解者であり協力者であると認識しております。
若干、自身のブログにも説明していますが、わたし自身が作成した資料等に目を通して頂けることがあれば幸いです。
大変お忙しい中、下らないコメントを送信することは心苦しくもありますが、日本の心を語るには、忠臣蔵を再生することにあると確信する者の戯言とお許しください。
2017/12/20 URL 編集
-
2017/12/20 URL 編集
戦後生まれ
侍としての小刀帯刀で、使う為のものではないですし、それこそ将軍の前とも言える場での抜刀は、将軍、幕府への反逆ですから。
内匠頭にそこまでの思慮があったなら、自身の考えを一つだけと決めつけるのは、無理がありましょう。
ましてや、誰にそそのかされたのか、前回と逆の席次に変えたのはおかしな事です。
前回と逆にすべき、というのなら事前にその趣旨を吉良上野介にお伺いを立てて居るはずです。
それ程の思慮深い方であれば。
内蔵助以下、殿中での争いは喧嘩両成敗なのに、殿は切腹、吉良上野介は…、という片・落ちの決着からの主君の仇討ち判断と思いますが。
2017/12/20 URL 編集
しゅう
浅野内匠頭と四十七人の武士たちの一分は、こうして、見事、実現することになったのです。
”
恥ずかしながら、還暦を前に初めて知りました
全てが納得出来ました
機会があれば息子たちに話してあげたいです
本当にありがとうございます
2017/12/20 URL 編集
-
尊王ではなくて、尊皇ですよね。
皇と王では偉い違いです。
2017/12/20 URL 編集