どんなに素晴らしい兵法であったとしても、自分の国の国情や民意に沿ったものでなければ、実際には使えない。
単に外国かぶれしただけの理論では、実際の経営には何の役にも立たないことは、戦後に導入された様々な経営学が、実際にそれを証明しているといえるのではないでしょうか。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)昌平黌(しょうへいこう)といえば、江戸時代の東大の前身校ですが、その昌平黌で幕末頃に塾長を勤めたのが佐藤一斎(さとういっさい)です。
この佐藤一斎が、後半生の四十余年にわたり記した随想録に「言志四録(げんししろく)」という書があります。
幕末頃に指導者のための指針書とされた本で、西郷隆盛の終生の愛読書にもなった本であり、また2001年(平成13年)5月に時の総理であった小泉純一郎氏が、衆議院「教育関連法案」審議中に、言志四録からの言葉を引用したことでも有名になりました。
このとき引用された言葉が次のものです。
少くして學べば、則ち壮にして為すことあり
壮にして學べば、則ち老いて衰えず
老いて學べば、則ち死して朽ちず
そのまま現代語に訳すと、
青少年が學べば、壮年になって為すことが見えてくる
壮年が學べば、老年になって気力が衰えなくなる
老年が學べば、死んでもその魂が生きる。
このようになるのですが、ここに「學ぶ」という字が出てきます。
このブログで再三述べているように、「學」という字の現代人の語感と、当時の語感は異なります。
「學」という字は、当用漢字では「学」と書きますが、実は「學」と「学」では、まなぶ主体が逆転してしまうのです。
過去記事の繰り返しになりますが、旧字の「學」は、複数の大人たちがひとりの子供を一人前にするために引き上げることの象形文字です。
つまり教える側の大人たちが主体であって、教わる子供達は客体になります。
別な言い方をするなら、大人たちが能動的に働きかける側で、子供はそれを受ける受動体です。
ところが戦後教育では「学」と教えます。
「學」が「学」になると、子供がまなぶところ、という意味になります。
あくまで子供が主体ですから、教える側は、これを受けるだけです。
従って、教わる子供が主体、教える大人が客体です。
別な言い方なら、子供が能動的に学ぶのであって、大人たちはその子供達の意向を受け入れる受動体になります。
つまり「學」と「学」では主客転倒してしまうのです。
ですから「学」なら、いくら大人たちが子供に勉強させたくても、子供にその気がなければ、その時点で学校教育は成り立ちません。
このことは、そのまま現代敎育が抱える問題点となっています。
こうしたことを踏まえて佐藤一斎の語を読むと、そこに書かれているのは、実は次のような意味であるとわかります。
あくまで教える側が主体なのです。
青少年時代を大人たちがしっかりと鍛え上げれば、
その青少年たちは、
壮年に達したときに
為すべきことをしっかりと為すことができるようになる。
壮年を老壮たちがしっかりと鍛え上げれば、
その壮年は老いても尚衰えることはない。
そして、老境に至った者を學ばせるのは、すなわち神々ですから、
老境に至った者を神々がしっかり鍛え上げれば、
その老人の魂は、死んでも朽ちることがない。
と、このような意味になるわけです。
もっといえば、老境に至れば、神々の御威光御意志をしっかりと受け止めていく努力をすることが大切だというのです。
ここでいう神々というのは、偉大なご先祖たちといった語感もあるのですが、要するに、年をとってまだ俗世にまみれて銭勘定ばかりしているようでは、駄目だというのです。
自分の人生を振り返り、世のため人のために人生最後のお勤めをいかに果たしていくか。
それは、先祖代々の仏様や、それよりもずっと昔の神々の築いた哲学をしっかりと魂に刻んでいく。
そうすることではじめて、人の魂は朽ちることなく永遠の存在になるのだと、説いているのです。
これは、年をとっても勉強したら(学んだら)、死んでも朽ちない財が残るという意味とは、まったく異なるものなのです。
その佐藤一斎は、一般には儒者であると言われています。
ところが昌平黌で教える儒学は、単なるChina産の儒教とは、実はまったく異なるものです。
なぜそのように言えるかといえば、昌平黌の創業者が林羅山(はやしらざん)だからです。
林羅山は、儒者は儒者でも、国学と儒学の合一を図った人物です。
もっというなら、国学を語るに際して儒学を用いた人物です。
林羅山が生きた当時、国内にいわゆる儒者は数え切れないほどいましたが、わずか23歳の林羅山が、これから國造りをしようとする家康に気に入られて、幕府御用達の学者として5000坪の土地を与えられて塾をひらくだけの援助を受けることができたのは、まさに、羅山の説く學問が、日本そのものを儒教を借りて説くものであったからです。
繰り返しますが、ただの儒者なら、他にいくらでもいたのです。
林羅山同様、国学と儒学を結びつけた学者に山崎闇斎(やまざきあんさい)がいます。
山崎闇斎も、儒教と神道を重ねた学者ですが、この闇斎がある日、弟子達を前に問いを投げかけています。
「方々、今、Chinaが孔子をもって大将とし、
孟子を副将となして数万騎を率いて
我が国に攻め込んできたら、
我が党の孔孟の教えを学ぶ者は、
これをいかにするか」
日頃から孔子や孟子を聖人としてその教えを學ぶ弟子たちは答えられません。
ついに、「願わくば、その答えを教えてください」と言いました。
すると闇斎は、
「不幸にして、
もしかくのごとき厄災に遭ったなら、
すなわち我が党は、
身に鎧をまとい、
手に槍刀を持って
彼らと一戦し、
孔孟を捕らえて
国恩に報ぜん。
これこそがすなわり孔孟の道である」
要するに、學ぶということは、ただ教えをそのまま受け止めるだけでは、ならないというのです。
何のために學ぶのか。
それは国を護る一人前の男子を育てるためなのです。
表面だけを見ていたら、そこがわからなくなる。
ですから羅山や闇斎が、国学を儒学の基盤に置いたのは、ある意味、当然のことであったといえるのですが、往々にしてそれがわからない。
ただ単に外国のものにかぶれてしまう。
どんなに素晴らしい兵法であったとしても、自分の国の国情や民意に沿ったものでなければ、実際には使えない。
単に外国かぶれしただけの理論では、実際の経営には何の役にも立たないことは、戦後に導入された様々な経営学が、実際にそれを証明しているといえるのではないでしょうか。
そうそう。最後に。
先日「昌平黌が正式名称」と書いたときに、「江戸時代の生徒たちの書簡を見ると、昌平坂学問所と書いてある。だから昌平黌というのは間違っているのではないか」という人がいました。
あのね、どんなに偉い人でも、自分のことを拙者というでしょう?
自分で書いた原稿なら拙稿です。
拙(つたない、まずい)者、拙(つたない、まずい)原稿って意味です。
自分に自信があったとしても、自己を誇らないというのが、日本人の普通の意識です。
前にも書きましたが、昌平黌というのは、「光り輝く太陽の光を公平に注がせるために金の卵といえる優秀な人材を育てる學校」という意味です。
「黌」は、金の卵といえる優秀な若者という意味です。
自分の通う學校を、「昌平黌」だなんて、普通の神経をしていたら言えるものではないです。
だから遠慮して「学問所」って書いているです。
常識を持っていただきたいと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
昌平坂学問所?
ねずさんは、ブログのコメントに賛同も反論も返信はしませんから、思わず笑ってしまいました。
今時、自分のことを「我輩」とは言いませんが、自分達を「知識人」って呼ぶ方々の集まりはありますからね。
2019/02/17 URL 編集
あ
『「捏造はいいからお前も心とやらを持って素直に退け。」』お前の存在に意味がない。
牽強付会をせずに消えろ実証馬鹿の曲学阿世の徒
2018/02/09 URL 編集
名無しマックス
あなたの世界の金は、光り輝いて無いとおっしゃると。
2018/01/25 URL 編集
にこ
2018/01/24 URL 編集
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2018/01/24 URL 編集
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相容れるものではなく、潔く認める方が適っているのではないでしょうか。
2018/01/24 URL 編集
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2018/01/24 URL 編集