もともとChinaは、歴代王朝の正統性は、天命にあるとされてきた国です。
天上界に天帝と呼ばれる絶対神がいて、特定の家系に人類界を統治するための権限を与えます。
それが天命で、その天命を与えられた人が皇帝です。
天帝は目に見えませんから、皇帝が実質的な天帝の代理人です。
だから皇帝は天帝の持つ人知を超越した権力を持つのです。
ところが皇帝に人望がなくなると、天帝が、別な家系の人、つまり姓が異なる人に天命を移し替えます。
これが易姓革命です。
易姓=姓が易(か)わる
革命=天命が革(あらたま)る
です。
従って、漢語にいう革命は、天命があらたまることをいうのであって、民衆が蜂起して権力を打ち倒すという共産革命の考え方とは、本来の意味が違います。
幕末の翻訳家たちは、レボリューション(Revolution)の訳語を、「きっとこれはChinaの易姓革命と同じものであろう」ということで「革命」と訳しましたが、実はレボリューションと易姓革命も、これまたまったく異なるものです。
易姓革命は、天命があらたまることですが、レボリューションは、リボルバー(Revolver)の派生語で、回転することを意味する単語です。
拳銃のリボルバー式と言ったら、わかりやすいかもしれません。
つまり、レボリューションというのは、復古運動、古代ギリシャやローマ時代の栄光の世紀への回帰運動のことが、レボリューションです。
ヨーロッパの中世というのは、原始的で闇雲な殺し合いが長く続いた時代で、実に文化レベルも低くて、軍事的にも疲弊した弱国の寄せ集め状態となっていました。
ですから14世紀のはじめにモンゴルの大軍が押し寄せたとき、まさに「ひとたまりもなく」制圧されてしまったわけです。
そのモンゴル帝国は、相続によって国が細分化されていきましたが、そのとき、モンゴルの支配下で金融業を営んで巨額の財を成した人たちが、積極的にギリシャの哲人んどを呼び込んで、あらためて古代ローマ帝国の栄光を取り戻そう、リボルブしようということで、はじまったのが、現代に続くヨーロッパ諸国です。
つまりモンゴルによって破壊された(実際には好転化)された西洋の文化を取り戻そう(リボルブしよう)ということで、あらたに王朝が立ったわけで、その取り戻す理由の正統性が、後に王権神授説のようなものに発展していきます。
ところがモンゴル以降、西洋では実は金融資本家が巨大な財力を築き上げるようになります。
はじめのうちは、資本家たちは王の庇護を歓迎しますが、そのうち王を超える財力を持つようになると、王の存在がじゃまになる。
そこで市民の中で弁舌のたつ者を焚き付けて、行われたものが市民革命です。
ですから市民革命によって生まれた新たな権力機構には正統性がありません。
そこでナポレオンを新たな皇帝にしてみたり、いろいろな取組が行われるのですが、最終的には、誰もが認める正統性を持つ者を選ぶには、選挙がもっとも望ましいだろうということになって、選挙制民主主義へと向かうことになるわけです。
ただし、その選挙は、もともとは権力者となりうる可能性を持つ者の中で行われる選挙です。
ですから、選挙も、もともとは、市民の代表者であること、資本があること、一般市民のために戦う勇気のある者の中での選挙だったわけで、これは身近なところでは、日本相撲協会内部での理事選とよく似ています。
ところが、敗れた側は、どうしても選挙結果に承服できないとなると、「一部のメンバーだけでの選挙の結果はこうだったけれど、民意はまったく違うのだから、選挙民の範囲をもっと増やすべきだ」ということになってきます。
こうして選挙民の範囲が拡大し、結果、18歳以上とか、25歳以上とか、国によっていろいろありますけれど、世間一般の人たちが、全員選挙に投票することで民意を問うという、いまの世界の普通選挙に至っています。
ところがここにも問題が出てきます。
すべての民衆を対象とした選挙というのは聞こえは良いのですが、一般市民というのは、必ずしも選挙結果についての利害関係者ではないわけです。
日頃は政治とは何の関わりもなく生きている人々が、選挙で投票券を持つわけで、そうなるといきおい選挙は、単なる人気投票になります。
つまり、民衆に媚びて都合の良いことばかりを口にする者が、選挙に強くなる結果となります。
選挙制度による民主主義が、衆愚政治に陥るというのは、そういうことによります。
Chinaの場合は、これとは違う歴史を辿ります。
天命があらたまったことを裏付けるのが、各王朝ごとにつくられた史書なのですが、そこには前の王朝の盛衰が描かれ、「前の王朝の初代皇帝には人望があり天命をいただいたが、代々続くうちに腐敗し、ついに天命が我が王朝に下ったのだ」というのが、すべてのChinaの歴代王朝の史書の筋書きです。
Chinaはこうして皇帝の正統性を確保してきたのですが、戦後に生まれた中華人民共和国の場合、土台が共産主義ですから、神や宗教を否定しています。
つまり中共政府は、正統性を「天命に依拠する」ことができないのです。
そこで毛沢東が行ったことが、毛沢東自身を神化すること、および反対派に対する猛烈な粛清でした。
これにより強引に権力の集中を確保したわけです。
毛沢東が高齢化したときに、この路線に修正を加えたのが鄧小平です。
鄧小平は改革開放政策を行い、「China経済を成長させる」ことを中共政権の正統性の根幹にしたのです。
ここからChineseたちを儲けさせることが中共政権の正統性となります。
この鄧小平戦略は、まさに大成功となりました。
なぜかというと、ちょうどその頃の日本が、産業の「規格大量生産」構造による高度経済成長から、消費の成熟による「多品種少量生産」へと経済構造が変化する渦中にあったからです。
多品種少量生産は、当然のように製造コスト負担の上昇を招きます。
ですから当時の日本企業は、より安い製造コストを求めて、人件費の安いKoreaやChinaへの進出を競うことになりました。
Chinaには日本の生産設備が移転するというだけでなく、日本の技術移転し、この結果日本の技術が流出して、日本は、付加価値の高い製品製造分野をほぼChina、Koreaに吸い尽くされてしまうという事態を招くわけです。
このため日本の産業は空洞化し、日本国内では、多品種製造の基礎になる共通の基盤(部品)だけが残るという状態になりました。
もっとも利益幅の大きい最終消費財の製造がChinaやKoreaに流出し、一方では基盤(部品)産業はロボット化していったわけです。
日本国内では、製造分野から大量の失業者が生まれ、さりとて、これに替わる産業がまだ十分に育っていない。
このことから、消費は縮小し、GDPも、世界で唯一20年のマイナス成長を遂げることになったというのが、実は、平成になってからの出口の見えない不況とデフレ・スパイラルの原因です。
似たようなケースが、1929年のNY市場大暴落時の米国経済にあります。
この恐慌まで、米国経済は英国の下請け経済でした。
NY市場の株価の大暴落のあと、米国経済は20年の停滞期を迎えています。
この間、旧型産業は壊滅的打撃を被りますから、街には失業者があふれ、消費は縮小し、景気はどん底、経済性もマイナス成長になりました。
結果として米国は、当時としては新産業となる石油産業によって経済力を回復させるのですが、旧産業が縮小し、新産業がその雇用や失われた経済を吸収してさらに大きなものとして成長するまで、まる20年の歳月を要したわけです。
実は日本もこれと同じ動きをしています。
ところが近年では、多品種少量生産財さえも、モノあまりの時代となりました。
しかもKoreaもChinaも経済成長を遂げた結果、その経済成長の根幹にあった格安人件費が高騰し、低価格多品種少量生産の競争力そのものが低下してしまうわけです。
ですから彼らはいま、日本にある最先端技術の窃盗に必死で、日本から奪うべき技術情報の具体的なリストまで用意して、ありとあらゆる方法で、日本から技術を盗み取ろうとしています。
そのリスト等については、坂東忠信さんが最近、詳しい情報を色々と出されているので、ご参考になろうかと思います。
経済の話になりましたので、もう少し続けますが、こうした状況の中にあって、近年の日本で新たに始まったのが、生産連合による「多品種大量生産」への動きと、「オンリーワンの付加価値化」です。
「多品種少量生産」の最大の難点は、各社が横並びで少しづつしか製造できない=製造コストが高くつくという点にあるのですが、そうであれば、各社が製造する品目を分担してしまえば、それぞれの品目については、各社は「大量生産」が可能になります。
当然、製造コストも下がります。
これを実現するためには、各社が連携できる相互信頼性が不可欠なのですが、KoreaやChinaにはこれができません。
自分さえ儲ければ良いと考えるKorea、Chinaでは、互いの信頼関係によって柔軟な取引を確立することが困難なのです。
このことを理解するために、わかりやすいのがマイクロソフト社や、アップル社の製品戦略です。
いちばん大事なソースを開示してしまう・・・つまりプラットフォームを開示してしまうことによって、世界中のファンが次々とアプリを開発し、それがまた新たな需要を喚起し、両者はそれを必要とするユーザーを次々に取り込むことに成功しました。
ここへきて、アップル社が少しリードするようになってきましたが、それはできあがったアプリについて、アップル社が安全性等を常に検証し、確保することで、ユーザーへの高品質と高性能、そしてなにより大切な消費者の信頼を得ることができたからです。
現在の日本製品の流れも、まったくこの流れに沿っています。
企業同士の連携によって多品種大量生産を実現して製造コストを下げる一方で、ユーザーに合ったサービス(オンリーワンのサービス)を企業側の努力によって実現し、さらに製品の安全性を確保する。
つまり、日本企業は、企業同士のゆるやかな連携によって、品質が良くて高付加価値なサービスを提供するという仕組みへと変化しているのです。
ひとつの例が、自動車産業です。
自動車の衝突安全装備や、危険察知装備は、テレビのCMでもよく宣伝しているのでご存知のことと思いますが、こうした装備は、どこかの会社が独占してしまうのではなく、むしろソースを開示することで、連携できる各社の標準装備にしてしまうわけです。
そうなると、標準化された装備を持つクルマしか売れませんし、安全という新たな需要が喚起されますから、クルマに関する消費そのものが上向きになります。
しかもその装置を造っているのは、それぞれの装備ごとに一社ですから、各社ともに製造コストを下げることが可能なのです。
こうしたことは、ノウハウを開示しても、ちゃんと権利金をキチンと支払うという相互信頼が図れる企業間でなければ、成り立ちません。
約束を破ったり、自分の会社の都合ばかりを主張したり、横からスパイして技術情報を盗み出すような企業は、自然と排除されることになります。
つまり世界の市場における競争から、脱落していくのです。
昨今、大手企業の倒産が相次いでいますが、経営幹部に日本人のような顔をした日本人でない人を起用してしまうと、こうした相互信頼の理屈がわからないし、理解できない。
結果として、多品種少量生産の製造コストの増加に対処できず、企業利益を下げ、資産を食いつぶして倒産に至っています。
つまり日本は、20年のマイナス成長期を経て、いま新たな成長期へとシフトしつつあるといえるのですが、これができるのは、日本が和を根本とする国だからです。
そしてその根本にある和は、天皇が、Chinaでいえば天帝の地位にあって、しかもそれが単なる形而上学的な存在ではなく、人であることによって確立されています。
つまり日本が、権力によって国や人を支配するという歴史ではなく、最高権威のもとに権力を置いて、権力がどこまでも天皇の「おほみたから」を豊かに安全に安心して暮らせるようにするという国家の仕組みを確立していたことが、日本をして和の国にしているのです。
逆にいえば、日本的和を取り戻さなければ、日本の繁栄も未来もないといえます。
このことは、言い方を変えると、我が国における戦後文化の最大の欠陥を、日本が乗り越えることができるかどうかに、日本の未来がかかっているということになります。
戦後文化の最大の欠点は、我が国の最高権力の正統性を、日本国憲法に置いたことです。
三権分立といいますが、三権の長がなぜ正統性を持つかといえば、それはそのように憲法に記載されているから、ということが、戦後教育です。
つまり憲法こそが、国家権力の正統性を担保する唯一絶対のものであるかのように、実は、日本人は洗脳され、錯覚してしまっています。
国家権力行使の正統性が、憲法に依拠すると、憲法が絶対のものという価値観が生まれます。
ところがその憲法は、単に位置づけと手続きを定めたものにすぎず、価値観ではありません。
つまり憲法を正統性の根幹に据えるということは、手続きを価値観の根幹に据えるということにしかなりません。
このため、権力の源泉は手続きにあるという、おかしな価値観が生まれてしまうのです。
西洋をはじめ、世界は違います。
憲法を筆頭とする法よりも、慣習法が優先します。
世界では、むしろこちらの方が常識なのです。
日本では、事の是非を別として、人を殺したら刑罰の対象になります。
しかし、テロのため、あるいはどこかの国のように、愛国(反日)のためであれば、人を殺そうが、財物を破壊しようが、刑罰の対象にはなりません。
法よりも社会慣習が優先するからです。
ここを誤解した日本企業は、外地での裁判に、いま全敗です。
ということは、戦後日本の法が最上位という考え方は、世界では通用しないものであるということです。
そしてそれは、戦後日本的価値観の抜本的な見直しが、いま求められているということです。
日本が伝統的価値観である天皇のシラス国を取り戻すということは、日本にもとからある慣習を取り戻すということです。
その慣習のもとでは、権力の正統性は、天皇の「おほみたから」である民衆の豊かさと安全と安心、そして愛と喜びと幸せと美しさを実現できる日々を保つことに責任を持つことにおかれます。
つまり日本における権力の正統性は、民衆に対して責任を持つことにあります。
権力と責任は一体なのです。
以上の論考は、現代法学を学ばれた方には奇異に感じられることと思います。
けれども、実際に日本の企業が外地の裁判で全敗していること、それは私たちが常識として教わってきたことが、実は世界ではまったく通用しない敗戦国に押し付けられた間違った社会通念であったかもしれないこと。
そうしたことから、私たちは戦後日本の常識を、いまあらためて根底から考え直してみなければならない岐路に立たされているという認識のもとでの考察です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
syn-i
私はここ数年来、人類社会といったものが幻想そのものではないのかと悲観的な見方をしていました。それでも、ネットで小名木先生を知るにつれ、自分の考え方を改めなければならないと思うようになりました。
日本人は今一度、あの異常ともいえる好景気に沸いた(バブルと呼ばれた)時代を見つめ直す必要があると思います。
あの当時、猫も杓子も、やれ海外資産だ、海外旅行だ、世界一周旅行だとか、よく耳にしたものです。私は、それを横目で見ながら、
どうしちゃったの日本人と思いながらも、自分だけが取り残されたと感じたものです。
私はその結果、日本に何が起こったのか、ということの方がより重要なことだと思っています。その後どうなったのか、海外資産は奪われ、延いては自分たちの会社や土地、さらには自分の家まで奪われ、最後には自分の命まで絶つという悲惨な結果になってしまったということです。これが一流という名の下に起こった
経済そのものだったのではないでしょうか。
本来、すべての国民が、豊かに、そして相互扶助を目的としたものである筈です(経世済民)。単に金儲けだけの、その一方では人間の命さえも奪ってしまう道具になっていないのか。福沢諭吉先生と同時代にアメリカに生きた思想家で、ヘンリー・デヴィット・ソローという人がいました。ソローは、イギリスで起こった産業革命の波が、アメリカ社会にも押し寄せ、それを目の当たりにし、゛人間は道具を扱うだけの道具になってしまった゛と当時のアメリカ社会に警鐘を鳴らしていたのです。
学問所を開くと、ブログで紹介されていましたが、素晴らしい構想ですね。
私は、本当の意味での学問とは、人々を生かすものであって、決して人々を死に追い込むものではないと考えてます。
2018/02/05 URL 編集
KK
経済のお話、大変勉強になりました!
まやかしの友好に腑抜けて、そもそも反日敵国に産業を展開するなどリスク意識が極めて低い平和ボケ日本人ですね。
早く展開した工場などを地方に戻して北方領土から沖縄まで日本全体が和で一丸となって相乗効果を醸し出す状態に戻って欲しいものです。
2018/02/04 URL 編集
レッスルマニア
大きなテーマが、並びました。
経済について、、、仮にですが、日本の産業構造が、
高度成長期のままであったなら、「多品種少量生産」の
コストは、たとい市場が成熟期を迎えたとしても、苦も無く
ロボット化などにより、吸収可能であったものと思われます。
企業が安いコストを求めて、海外に進出した。その通りなのですが、
結果としてなのであって、それに至る過程については、そっくり省略されて
います。東芝のラジカセを叩き壊すパフォーマンスがあったり、、、。
貿易黒字、為替、etc。
せっかくの、前向きなお話に、相済みません。
沢山の人間を、養える産業としては、いま一度、土建国家を目指すのも、
いいのでは、とも。
2018/02/04 URL 編集
ブラッディ・ノーズ
しかし、成分法を制定する際にすで確立している慣習や伝統を取り入れたり、社会的コンセンサスを得てからそれを立法化したりというのはごく普通のことですし、民主主義では多くの人が賛同したルールが法制化されるはず(ということなっている)ので、社会が持っている最大公約数的な価値観や倫理観が基礎となって法律が作られるはずです。その意味では成分法の法源は慣習(法)であるといえないこともない。
しかし、これは設計主義者には都合が悪いのです。そもそも成分法を最上位に置く大陸法の考え方はフランス革命期に始まります。革命派の「正統性」の根拠は議会でした。実力(暴力)を持つ勢力が憲法やら選挙やらを道具にして、自分に都合のいい立法議会や国民公会などの議会を作り、そこで作った成文法を絶対のものとしました。官僚や裁判官は王党派や貴族だったので、解釈の自由を認めるわけにはいかなかったからです。
この法体系がナポレオンによって欧州大陸に広められ、「大陸法」となります。そんな時期に開国した明治日本は、江戸幕府の旧弊を払しょくするのに都合がよかったのか、大陸法の体系を導入することになります。
大陸法を基礎とする政体だと議会が絶大な力を持つので、ここを少数派が握ると歴史や伝統、多数派の価値観に反する政策を強要できます。日本は議院内閣制ですから議会(衆議院)を押さえると政府も押さえることができます。この状態ですでに政権交代が起こりやすい「小選挙区制」が導入され、さらには「議員定数削減」が繰り返し叫ばれています。どういう勢力が何を狙っているのかが分かろうというものです。
2018/02/04 URL 編集
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2018/02/04 URL 編集