勝利の要諦は至誠と愛情と情熱 藤原岩市陸軍中佐



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藤原機関(F機関)は、僅かな人員で莫大な成果をあげた諜報機関です。
そしてその成功は、自国のためではなく、東亜の人々のため、東亜の人々の愛と自由のためという目的意識によるものでした。


藤原岩市陸軍中佐
藤原岩市


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 *****


大東亜戦争の頃の「F機関」は、ビルマやマレーシア、インド、インドネシアなどの独立運動を支援して、大活躍をした日本の防諜活動機関です。
イメージ的には、なにやら映画に出てくる米国のCIAみたいですが、この「F機関」、発足当時の要員数は、たったの6名、最大増員時でもわずか30名でした。

「F機関」のリーダーは、藤原岩市陸軍中佐です。
その藤原中佐からして、現地の言葉は話せないし、それ以前にはマレーやインドの地を踏んだこともない。
現地関係者とも、事前には何の縁もなかったのだそうです。

彼の部下たちにしても、それ以前に海外勤務の経験はありません。
この種の防諜活動の実務経験もない若手ばかりでした。
ところが、そんな「F機関」が大活躍をする。

後年、「なぜか?」と問う英国人将校に対して藤原中佐は、次のように語っています。
「私は開戦直前に、何の用意も準備もなく、
 貧弱きわまる陣容でこの困難な任務に当面し、
 まったく途方に暮れる思いでした。
 そして自分にできることは、
 敵味方の違いを越えた
 純粋な人間愛、そして誠意、
 また、その実践しかないと思い立ちました。

 英国もオランダも、
 この植民地の産業の開発や、
 立派な道路や、
 病院や学校や住居の整備に、
 私たちが目を見張るような業績をあげています。

 しかしそれらは単に自分たちのためのものであって、
 現地の人々の福祉を考えたものではない。
 そこには絶対の優越感と驕りがあるだけで、
 現地の人々に対する人間愛や思いやりがありません。

 東亜の人々は、愛情と自由に飢えています。
 だから私は、私の部下と共に誓い合ったのです。
 敵味方、民族の違いを越えた
 愛情と誠意を、
 人々に実践感得させる以外に道はないと。
 そして「至誠と愛情と情熱」をモットーに実践してきました。

 すると人々は、
 あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、
 われわれにしがみついてきたのです。」

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そしてまさに藤原中佐の慈母の愛が、マレーシアを独立に導き、インドもまた、独立に導きました。
藤原中佐の行動は、常に至誠と愛情と情熱に貫かれ、それが民衆の心を揺り動かしたのです。

インドの独立といえば、日本では最大の功績者はガンジーであるといわれています。
たしかにガンジーの非暴力運動も効果をあげたのは事実です。
しかし人間は、単に非暴力や不服従といった哲学や道理だけでは、
国民的決起という命がけの集団的行動に至ることはありません。

そもそも約300年間もの長きにわたり、インドは英国の支配を受け続けていたのです。
300年です。
その間インドの人々は、英国人の下で、あたかも去勢された家畜のように生きるしかありませんでした。

現実論として、去勢された家畜が非暴力を謳ったとしても、施政者にとっては怖くもなんともないし、飼い主に対する強力な抵抗運動を支える力にはなり得ないのです。

しかも永い年月にわたる支配と被支配の構図の中には、様々な利権構造もあるし、確立された社会制度もあります。
それらを超えて、人々が命がけの独立運動に動いた背景には、ガンジーの哲学と闘争だけでなく、民衆の運動の起爆剤となる何かの事柄が事前に必要だったということは、十分に言えることです。
そしてインドにおいて、その起爆剤となったもの・・・それは間違いなく藤原中佐が構築した「インド国民軍」です。

インド国民軍(Indian National Army、略号:INA)というのは、大東亜戦争の中で、日本の支援の元に構築されたインド解放のための革命軍です。
そのインド国民軍のリーダーが、チャンドラ・ボーズです。
そしてその兵力は、最盛期には45000人にも達しています。

インド国民軍は、
「自由インド」
「インド解放」
をスローガンにして「自由インド仮政府」を樹立し、昭和18(1943)年10月には、米英に宣戦布告を行っています。
そして日本軍とインド国民軍が呼応して行った作戦が、昭和19(1944)年3月から6月まで行われた「インパール作戦」です。

インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールでの軍事作戦には、92000名の兵力が動員されました。その中には約6000名のインド国民軍が参加しています。
これに対し英国軍は、約15万人の兵力を投下。重火器装備をそろえ、日本軍の進出限界点(攻撃の限界点)であるインパール平原で一気に反攻し、これをせん滅する作戦を固めていました。

すでに大東亜戦争の末期です。
英国軍の豊富な火力に対し、日本軍にはろくな装備がありません。
しかも日本からの海上補給路線はすでに失われています。

糧食の補給もなく、銃弾さえ乏しい。
そのような中で、日本軍はインド国民軍兵士とともに、三か月もの長きにわたって、死地を戦い続けたのです。
そして敗れました。

日本軍の犠牲者は、戦死38,000名、戦病40,000以上です。
インド国民軍兵士は、なんとかチンドウィン河まで帰還できた者が2600名。そのうち即時入院を要する傷病者が2000名。その後戦死400名。餓死および戦病死1500名です。

インパール作戦は完全な失敗作戦だったとよく言われます。
インパール作戦といえば、牟田口中将が馬鹿だった、無策だった等々、いろいろな書きものを見ると、ボロクソに書かれています。
なかにはインパール作戦は、作戦自体が目的を欠くものであって、牟田口中将が単に功をはやっただけの意味のない作戦だったなどと、しかめつらしく解説しているものもあります。

たしかに多くの日本兵と、インド兵が亡くなり、部隊も潰走しました。
敗軍となったのです。
何を言われても仕方がないし、味方の将兵に、大損害を出しているのですから、その責任は重大です。

しかしこの作戦が、まるで意味のない作戦で、単に牟田口中将の功名心だけの無策な戦いにすぎなかったとするなら、どうして英国軍が15万もの大軍を展開し、重火器を備え付けて徹底した防御線をひいたのかの説明がつきません。
つまりこの作戦は英国側にとって、それだけ脅威のある、必死の防衛をしなければならない重大かつ的を得た作戦だったのです。

インパール作戦の作戦目的は、第一に英軍反攻の集結地を潰す事にあります。
第二がインド革命の支援。
第三が援蒋ルートの遮断です。

ちなみにインパール作戦の作戦目的について、あたかも援蒋ルートの遮断だけにあったかのように書いているものも多いですが、これは違います。
当時、仏印・香港・外蒙・ビルマ(ラングーン~昆明)は日本が制圧しており、既存の援蒋ルートはほぼ遮断されています。
この当時に残っていた援蒋ルートは、輸送機のヒマラヤ越えルートだけです。

輸送機のヒマラヤ越えだけが狙いなら、航空機作戦を行えばよく、陸軍の大部隊が進軍する必要はありません。
あたりまえのことですが、陸軍が大軍を投じて進軍するには、進軍を要するだけの理由が必要です。
そしてその理由の最大のものは、「英軍反攻の集結地を潰す」というものです。

もしインパール作戦が日本側の勝利となっていたら、どうなっていたでしょうか。
英国軍は反攻の拠点を失い、さらにインド国民軍本体約4万のインド国内への進撃を招き、これにインド国内の革命分子が呼応する。
そうなれば、インドの国内にどれだけのインド国民軍兵力が誕生するか想像もつかない事態を招き、英国のインド支配は、根底から揺さぶられることになったことでしょう。

それがわかるからこそ、英国も必死の防衛をしたし、だからこそ日本軍に倍する15万もの大軍を、英国本土からはるばる派遣したのであり、ヨーロッパ戦線でたいへんな時期にありながらも、インパールに重火器を取りそろえて、この戦いでの完全勝利を期したのです。

もし日本軍の進軍が意味のないものなら、英国は余計な兵力を割く理由も必要もありませんし、それでもあえて気になるというなら、空爆でもして損害を与えておけばよいだけのことです。
つまり、英国が大軍を割いたということには、それなりのちゃんとした軍事的理由があったし、このことは裏返しに言えば、日本側にもれっきとした理由があったということです。

なるほど大本営の南方作戦には、当初からインド攻略は含まれていませんし、大東亜戦争後期になると、むしろ戦線は縮小したかったというのが実際のところです。

しかし日本は、チャンドラ・ボーズの必死の意見を入れ、インパール作戦を敢行しました。
そしてその際、4万5千人のインド国民軍のなかの6千人だけを作戦に参加させました。
つまり、3万9千人のインド国民軍の兵力は温存したのです。
そして、苦戦が予想される作戦行動には、日本の精鋭部隊を送り込んでいます。

東南アジア地区を担当した牟田口中将は、たいへん頭の良い歴戦の勇士です。
おそらく彼の頭の中には、もはやこの時点で、日本の敗戦と、東南アジア地区からの撤退は、すでに読めていたのといえます。

そしてこの時点で、インドネシア、ビルマ、ベトナム、マレー、シンガポールの独立には、すでに見込みがつけられています。
あとは、東洋の大国、インドの独立だけです。
だからこそ彼は、チャンドラ・ボーズの意見を入れ、大本営の反対を押し切り、乾坤一擲、日本軍の東亜最後の戦いを、このインパールに賭けたといえるのです。

インパール作戦に勝てば、英国のインド駐屯隊は、その主力が壊滅し、インド国民軍がインド国内になだれ込み、民間の義勇兵を募る。
インドは、いっきに独立へと向かうことができるのです。

仮に、インパール作戦に負けたとしても、帝国軍人が最後まで必死の戦いをする姿をみせることで、インド国民軍はその姿を学び、インドの独立のため、必死の努力をすることを覚えます。

もちろん、勝った英国は、インド国民軍の大弾圧をしようとすることでしょう。
けれども、もしそれをすれば、すでに武装し、戦うことを覚えたインドの民衆も、もはや黙っていることはありません。
いちど点いた炎は、そうやすやすと消えるものではないし、そのような炎は、インドの独立を勝ちとるその日まで、決して絶えることはないのです。

このインパール作戦に従軍したインド人の兵士と、日本人隊長の物語があります。
以前、「勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人」という題で書かせていただいた物語です。
まだお読みでない方は、是非ご一読ください。
彼らがなんのために、なぜ、苦しい戦いを敢えて挑んだかがわかります。

衆寡敵せず。
インパール作戦は、日本軍の潰走に終わりました。
しかし、この作戦がもとになって、インドの独立が起こったという史実を、冷静に評価してみる必要があるのではないかと思うのです。

インパール作戦のあと、英国は、インド国民軍の生き残り将校を、軍事裁判にかけると発表しています。
軍事裁判というと聞こえはいいが、要するに、一方的に断罪し、処刑するという意味です。
支配者が、被支配者の抵抗軍を重刑に処すことで、彼らの抵抗力を奪うのです。
これには、先例があります。
安政4(1857)年に起こったセポイの乱です。

セポイというのはペルシャ語で兵士を意味します。
インドでは英国軍におけるインド人傭兵のことをセポイと呼びました。

この年、英国は新式の銃を導入し、セポイたちに持たせました。
その銃で、セポイたちは、ムガール帝国の再興を期して蜂起したのです。

激しい戦いの末、英国はセポイの反乱を完全に制圧しました。
そしてムガール皇帝を廃止して、インドを英国の完全統治下に置いています。

セポイの処刑の様子。
英国兵はインド人を大砲の前にくくりつけ、そのまま発砲することで、セポイの五体をバラバラにして殺害した。
セポイの反乱03


歴史は繰り返します。
英国軍はインドの独立のために蜂起したインド国民軍の兵士を、同じように虐殺すると宣言したわけです。
「これでインド人たちは再びおとなしくなるに違いない」
そう思った英国の思惑は、たちまち外れてしまいます。

発表を聞いたインド人たちが、
「インド国民軍こそ愛国者たちだ。彼らを救え!」
と、続々と蜂起したのです。
インド全域で、民衆たちは反イギリスをかかげ、独立運動の炎を燃え上がらせていきました。

民衆は議会を糾弾し、ミニコミ誌の拡散や集会を行い、また全国的規模で、デモ行進を行ないました。
首都デリーでは、英国の対日戦勝記念行事を、市民がボイコットしています。

 インドの独立を目指して
 戦ってくれた
 同胞を殺した英国を、
 なんで俺たちが
 祝福しなきゃなんないんだ!?

こうしてインド人たちの独立運動は、もはや誰も止めることのできない勢いとなっていったのです。

つまり、インパール作戦は、インドの民衆の心に火をつけたのです。
インパール作戦での邦人犠牲は、悲しいものです。
しかしその結果、インドの国民は蜂起したのです。

蜂起に際して、ガンジーの非暴力主義は、多くの人たちの支えになります。
ガンジー流の戦いは、女性でも、子供でも、老人でも、武器を持たず、暴力を用いずとも、戦うことができたからです。
そのことが、国民運動を老若男女の境なく参加させ、インドの独立運動に大拍車をかけていきました。

ここは誤解しやすいところです。
ガンジーの非暴力運動があったからインド人の国民蜂起があったのではないのです。
先に国民蜂起がありったから、ガンジーはその蜂起に方向を与えたのです。

ということは、インド国民軍の必死の戦いが人々の心に火をともしたということです。
その心の火が、次々に連鎖して、全国民的運動となりました。
その運動に「非暴力」という方向を与えたのが、ガンジーなのです。

やがて、英国はインドを手放しました。
当時、インド国民軍のために弁明をなしたパラバイ・デサイ博士は、次のように述べています。

「インドはほどなく独立する。
 その独立の契機を与えたのは日本である。
 インドの独立は日本のおかげで30年早まった」

古来、日本では「戦いに勝つ」ということにおいて、ただ相手を叩き伏せればよいという考え方を採りません。
「勝利」というのは、相手を叩きのめしたり、殺したりすることをいうのではなく、最終的に目的を達成したかどうかで決まると考えられてきたのです。

ただ単にケンカに勝つことは、「匹夫の勇」とされました。
ほんとうの勇は、「身を捨てて大を活かすこと」にあります。
それが日本の武士道です。

孫子の兵法は、何をしてでも勝てば良いと説きます。
しかし日本の兵法は、ただ戦いに勝って相手を屈服させるのではなく、相手が納得し、理解し、互いに協力しあって未来を築けるようにしていって、はじめて勝利となるのです。
そのときには、敵も味方もなくなっている。

西洋で生まれたオリンピックの競技種目は、もともとは軍隊格闘技(Martial arts of military)から発展したものです。
ただし競技であり、西洋社会はルールを重んじる伝統がありますから、卑怯卑劣な真似をして勝利した者は、たとえ勝者となっても、尊敬されることはありません。

ところが東洋的というかChina、Koreaの場合は、孫子の兵法ですから、兎にも角にも戦いに勝てば良い。
そして勝利のための最上の戦略が「戦わずして勝つ」、つまり戦わずに勝つことですから、試合の前日に相手チームの選手の部屋の暖房を切って風邪をひかせる、食べ物に下剤を混ぜるなどは、戦いに勝つために当然のことと考えられます。
それで問題視されるようなら、問題視するような連中を押さえ込むことができない政治力のなさこそが問題だと考えられるわけです。

日本の武士道は、そのどちらとも異なります。
卑怯卑劣な手段を用いず、正々堂々と戦うことはもちろん、たとえ相手が明らかに卑劣な手口を使ってきたとしても、できる最善を尽くしていく。
そうすることで、たとえ試合に敗れたとしても、世間は心を動かし、あとに続く者たちが出てきて、より明るい未来が築かれると考えます。
浅田真央さんとキム・ヨナでは、なるほど試合はキム・ヨナが勝ちましたが、Korea社会の中でさえも、フィギアは人々から見放される結果となっています。
ところが日本では、次々と選手が生まれてくる。

インドは、日本軍とインド国民軍が、命を的にして必死の戦いをしたことがきっかけとなって、約300年間の奴隷状態から解放されました。
約8万名の日本兵とインド国民軍の犠牲者は、決して無駄ではなく、彼らのおかげで、インドは独立することができたのです。
そしてその結果を招いた力の原点は、藤原岩市陸軍中佐の、「至誠と愛情と情熱」にあったのだと思います。

戦いというものは、汚い手を使ってでも勝てばよいというものでは、絶対に、ない。
多くの人を動かし、大きな事業を成功させるのは、すくなくとも日本の社会では、常に、至誠と愛情と情熱にある。
そのように思います。


※この記事は2010年2月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

くすのきのこ

No title
こんにちは。さすが藤原を名のるだけのことはあるw
手酷い尋問であったろうに、その末にペロリと至誠であると吐くとはw
名前に恥じない強者ですねwその強かな血筋が日本各地に散っている
と。卑怯だとかそうでないとか。そういうのは各々の時代の社会通念
により異なります。窮屈であっても意地を張り通し、勝ったモノが世
間を取る。日本は今、張り通すだけの意地があるかを問われている。
意気地なく皇室を貶めてい行けば、たちまち三流国です。ちなみに、
軍産複合体がブイブイ言わせている現代、戦地に選ばれるのは三流国
です。じっと状況を見つめて静かに準備する胆力があるか?食料とエ
ネルギーの自給、すなわち兵站の準備もままなってませんけどね。
原子力は禁じ手。エネルギーはメタハイその他いろいろでしょう。
地域発電しなければ、大停電でおしま~い。民間防衛は通信手段からw
・・こういう考察もしなくてはね。


one

No title
涙の雫があふれ出してきました。
私、右脳では、きっと神様の目から見たら、当時の時代背景に照らし合わせたとしても、戦争は過ちであり、決して讃美されてはいけないんだろうな、って思っております。
しかし、お国のためだけではなく、インドの独立のため、本気で戦った崇高な精神を持った日本人がいたことを、改めて心の底から感じました。インパール作戦で敗れた兵士は、どんなに飢えていても、略奪などは一切しなかったと言いますね。

私、都内のある場所で、最近よく並ぶのですが、ここに来る団塊の世代の女性の方の半分は、ニコニコしながら平気で割り込みを致します。”この方たちは、いったいどんな教育を受けてきたんだろう”と反面教師として捉えています。
去年、国際展示場の旅行イベントで私が開場前に並んだ時は、我先にと突進する若者は誰一人いませんでした。日本もまだまだ捨てたもんじゃないなと思ったものです。
東日本大震災の配給の時も、横入りする人はほとんどいなかったと聞いております。

戦前日本人が持っていた崇高な精神も大いに見直されて然るべきだと思います。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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むすび大学事務局
E-mail info@musubi-ac.com
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○受付時間 
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