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20万の大軍に、わずか5千の兵力で立ち向かい、正々堂々まっこう勝負を挑んで、これに打ち勝ってしまう。
これが西洋や、Chinaの古典なら、おそらくは世界史に残る勇敢な戦いとなっていたことでしょう。島津義弘公

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「爆弾三勇士」というのは、昭和に入って初めての軍神となった久留米第24旅団の工兵、江下武二、北川丞、作江伊之助の3名の実話です。
与謝野鉄幹の歌があります。
この歌は、与謝野鉄幹が新聞社の公募に本名の与謝野寛で応募し、1位入選しています。
廟行鎮の 敵の陣
我の友隊 すでに攻む
折から凍る 二月(きさらぎ)の
二十二日の午前五時・・・
昭和7(1932)年2月22日、上海事変の最中に、蒋介石の最強部隊である19路軍が立て篭もる廟行鎮(びょうこうちん)要塞に36名の決死隊が鉄条網に爆弾を投入して突撃路を開くことを企図しました。
このとき、久留米第24旅団の上記3名の工兵が、あらかじめ点火した破壊筒(竹製の即席爆薬筒)を抱いて鉄条網に突入爆破し自らも壮烈なる爆死をとげられたのです。
これが昭和の「爆弾三勇士」です。
「肉弾三勇士」ともいいます。
「爆弾三勇士」の物語は、鉄幹の歌をはじめ、映画、歌舞伎、演劇が三勇士ものを上演し、琵琶、浪曲、筝曲、絵画、彫刻、あらゆる分野で競って作品化されました。
当時は、「三勇士饅頭」「三勇士煎餅」までが売り出されたといいます。
さて、この物語に先立つこと334年前、同じく爆弾を抱いて、敵中深く侵入し、爆死した3勇士がいました。

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文禄・慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)といえば、文禄元(1592)年から、慶長3(1598)年にかけて、豊臣秀吉がKorea半島に攻め込んだ事件です。
この戦闘は、Korea半島を舞台として行われましたが、実際に日本が戦った相手は明国軍です。
半島に出兵した日本軍は13万です。
これほどまでに大規模な大陸出兵は、明治以前には一度もありません。
日本軍は、たちまち、鶏林八道を席巻したのですが、そのなかに、薩摩藩士の軍団がいました。
十七代藩主島津義弘公の軍です。
義弘公は、自ら陣頭に立って、鬼神といわれるほどの闘いをしています。
薩摩の強さについては、敵方の文書にも記録が残っています。
「もしひとり石曼子(せきまんし・しまづ)なかりせば、
倭寇をして一人も生還せしめざりしを」
これが明の記録です。
石曼子とは、島津公のことです。
島津軍は、全羅慶尚の二道を突破して、Korea半島慶尚道の泗川(しせん)に陣を構えまました。
泗川新塞(泗川倭城ともいう)というのが、それです。
城は、泗川を真ん中にして、小西行長が順天倭城、島津義弘が泗川倭城、加藤清正が蔚山倭城という布陣でした。
そしてこのなかの泗川倭城に、明国の董一元将軍が率いる20万の明軍が攻め寄せてきました。
泗川は日本軍が築城した城の中の中間に位置しています。
ここを先ず破って、左右の城を孤立させて叩こうというのが、明軍の戦略です。
迎え撃つ島津義弘公率いる泗川駐屯軍は、手勢5千のみです。
兵力は40分の1です。
近くにいた宗軍や立花軍が援軍を申し入れました。
ところが島津義弘公は、この申し出を断ってしまいます。
島津の手勢だけで明の大軍を迎え撃つというのです。
島津軍は川上忠実に数百の兵を与えて、明軍を挑発しました。
そうしておいて、明軍の背後にある食糧庫を焼き討ちします。
大兵力の明軍は、ただでさえ食糧が不足していたのです。
そこへ食料庫を焼かれたわけです。
彼らは、短期決戦を余儀なくされました。
攻め寄せる敵に対し、島津公は、泗川倭城を背に強固な陣を張り、伏兵を配置しました。
明軍は、これを破ろうと、執拗な攻撃を繰り返しました。
ところが、当時の日本は、世界最大の鉄砲保有国です。
しかもこの時代に薩摩藩では、独自に開発した鉄片や鉄釘を砲弾の代わりに装填した大砲や、新開発の地雷なども用いていました。
鉄片入り砲弾は、大東亜戦争の際の沖縄戦で米軍が用いていますが、詳しく調べたわけではないけれど、もしかすると、その種の砲弾や地雷が戦闘に用いられたのは、これが世界初の出来事であったのかもしれません。
こうした火力で明軍をさんざん悩ませた薩摩軍は、ここで白兵戦を挑みます。
これが強い。
明軍は、あまりの薩摩軍の強さから、ついに兵を引いて、遠くから城にめがけて矢を射かけ、城を火攻めにしようと試みます。
これには、さしもの島津軍も閉口します。
そのとき、敵陣の後方で大爆発が起こりました。
敵が命と頼む後方の火薬の元庫(もとぐら)に、どういうわけか、火が入ったのです。
大音声とともに、敵後方に盛大な火柱があがりました。
今度は反対に、敵軍が火に焼かれて、大混乱を起こします。
そのときとばかり、義弘公は、「ソレッ!」と下知する。
城門から繰り出した軍勢は、当たるをさいわい、バッタバッタと敵を薙ぎ倒し、斬り伏せ、軍を撃ち砕きました。
そのあまりの強さ、恐ろしさ。
明軍は潰走し、その後、集結して撤退できた兵力はわずか1万ほどであったといいます。
「島津家文書」に記された記録では、島津忠恒の鹿児島方衆が10,108、島津義弘の帖佐方衆が9,520、冨隈(島津義久領)方衆が8,383、伊集院忠真の軍が6,560、北郷三久の軍が4,146、合計38,717の首級を上げたと記録されています。
首級というのは、雑兵の首はあげても評価の対象にはならないから、要するに将官クラスの首をそれだけあげたということです。
これはものすごい数の大勝利です。
さらに打ち捨てた死体、数知れず、と書いてある。
この戦いにより島津義弘公は「鬼石蔓子」(おにしまづ)と恐れられ、その武名はKoreaだけでなく、明国まで響き渡りました。
しかし、不審なのは、敵の火薬壷の爆発が、なぜ起こったのか、です。
火薬庫というのは、わざわざ点火でもしない限り、容易に、爆発などしません。
敵が、自分で自分の火薬に、火を点けるわけもありません。
薩摩藩に残された記録によると、なんとこれは三匹の狐(きつね)がやったということになっているのだそうです。
赤い狐が二匹、白い狐が一匹、城の中から飛び出して、敵中に駆け入ったのを、大将の義弘公が、確かに、見届けたというのです。
それから、間もなく大爆発が起こったというのです。
ところが、それは、宣伝だったのです。
立派な、忠誠な、三人の若武者が、敵陣深く忍び入って、火薬壷に火を放ち、共に爆死したのです。
それは、瀬戸口、佐竹、市来という三勇士でした。
なかでも、瀬戸口弥七郎は、まだ19歳の若武者であったそうです。
そんな壮烈な事蹟を、なぜ狐の仕業などと宣伝したか。
それは、当時は個人の勲功よりも、軍全体の利益を重んじたからです。
「神明の加護われにあり」と考えれば、全軍の士気は百倍する。
義弘公には、それが白狐と赤狐の仕業ではなくて、白糸縅(しらいとおどし)の武者一騎、赤糸縅の武者二騎の働きであることがちゃんとわかっていたのです。
わかっていて、わざと、そう仰っる。
三勇士の霊も、個人的な勇名を後世に残すよりも、軍全体の利益のもとに、犠牲となることの方が、本望だった。
当時の武士は、実に、そのようなものだったのです。
「諸君、
廟行鎮(びようこうちん)の三勇士に劣らざる
泗川新塞の三勇士のことを、
覚えていてください。
そして昔の爆弾三勇士が、
わが薩摩から出たことを、
忘れんで下さい。
瀬戸口弥七郎の如きは、
本校の付近、
下荒田郷中の出身だったですぞ」
(引用。獅子文六小説「海軍」)
20万の大軍に、わずか5千の兵力で立ち向かい、正々堂々まっこう勝負を挑んで、これに打ち勝ってしまう。
これが西洋や、Chinaの古典なら、おそらくは世界的に有名な陸戦物語として、世界中に知られる「鬼石蔓子(おにしまづ)の三烈士物語」となっていたことだろうと思います。
ところが、なにせ日本の武人というものは、功を誇らない。
しかし、だからといって、忘れていいというものではないです。
私たち日本人が、しっかりと語り継いでいかなければならないと思います。
それにしても、哀れなのが明国軍です。
古来半島と組むとろくなことはない。
20万の大軍でさえ、壊滅してしまうのです。
※この記事は2010年2月に公開記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
読後感はあんまり~~・・という感じです。当時の人もそう感じ取っ
たから、狐の仕業として覆ったのではないでしょうか?そういう暴挙
はその時の戦術としては必要だった。しかし戦略としては下策・・と
いうより恥。城攻めの巧かった秀吉が、忍者階級出身ではないかと言
われたりするのも・・当時の世評が全く関係ないわけではないはず。
陰の者は陰であってこそ活きる。狐であるからいいのでは?
2018/02/11 URL 編集