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ヤッカサライ日本人墓地

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トルキスタンとか、カザフスタンとかいいますが、スタンというのはペルシャ語で「国」を意味する言葉です。
ウズベキスタンは、古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市です。
13世紀にはモンゴル帝国に征服され、14世紀にティムール王朝になって、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げました。
そのウズベキスタンの首都都タシケント市にあるのが「国立ナポイ劇場」(写真)です。
この建物は、戦後間もない昭和23(1948)年に、約2年の月日をかけて完成しました。
その後、タシケント市には、二度、大地震が起こり、市内の建造物は、そのほとんどが倒壊するのですが、二度とも、ナポイ劇場はビクともしませんでした。
そのためウズベキスタンの人たちは、劇場を眺めて次のように仰るそうです。
「戦いに敗れても
日本人は誇りを失うことなく
骨身を惜しまず働いて
立派な仕事を残した。
素晴らしい民族だ」
そうです。
この建物は日本人のシベリア抑留者が造ったのです。

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同じ抑留者でも、ドイツ人たちは、ロシア兵に反抗もするし、自分たちの権利を主張しました。
ロシア兵たちもドイツ人たちは、同じ白人種であることから、あるていど大目に見ていたといいます。
ところが日本人は黄色人種です。
反抗すれば殴られるどころか、すぐに殺されてしまいます。
食べ物もひどい差別を受けました。
それでも日本人たちは、威張らず、文句も言わず、黙々と作業をしました。
その姿に、市内の作業現場では、タシケント市民は、ソ連と戦争をした日本人に、かえって尊敬と畏敬感をいだいたそうです。
ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当しました。
そのうち60人が、建築途中で亡くなっています。
10人にひとりです。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみてもあきらかであろうと思います。
使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。
裸にされて並ばせられると、
すぐ前に立っている男の肛門まで、
上から見えた。
ろくな食事も与えられず、
全員がそこまでガリガリにやせ細っていた。
建設工事の途中、
あまりの労苦に耐えかねたひとりの日本人が、
クレーンの先端まで駆け上がって
「天皇陛下万歳!」と叫んで
飛び降り自殺した
等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されています。
シベリアに抑留された日本人は65万人です。
このうち2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられました。
シベリア抑留者というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というわけではありません。
シベリアに連行された日本人の中には、旧満鉄の職員や技術者もいました。
要するに技術者集団がいたのです。
ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡しました。
そして、日本人技術者たちを使役して満洲にあった様々な立派な建造物を分解させ、その日本人を強制連行してソ連各地に移設しています。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の支出なのです。
それを、給料無料、ろくな食事も与えないで、日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械や設備をまるごと持ち帰って、ソ連の建国のために使ったわけです。
道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。
旧ソ連は、莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開したのです。
ソビエト社会主義連邦共和国は、かつて人類の理想郷のように言われました。
人々は働かなくても、国家から給料がもらうことができ、街はみるみるうちに素晴らしい建物が次々に建設されたのです。
人々が働かなくても、町のインフラは次々と整い、道路ができ、鉄道がひかれ、建物ができ、あらゆる工業生産物が生まれ、農業も振興されて、食料生産高も飛躍的に向上したのです。
人々はほんのちょっと仕事をするまねごとをするだけです。
クレムリンが、計画経済○か年計画を策定するだけで、国民はなにもしなくてもみるみる経済が成長し、豊かになっていきました。
国家の力で、インフラは整備され、工業・農業の生産高は飛躍的に向上していく。
これぞ理想郷。これぞ人類の夢の社会といわれたものです。
けれども誰も生産活動をしていないのに、成果だけが生まれるわけがありません。
では、いったい誰が労働していたのか。
それが、シベリア抑留者です。
なかでも日本人は良く働いた。
資材は、満洲からのお持ち帰りの品々です。
足りないものはない。
人もモノも全部揃っている。
しかも労働力を使うために必要な賃金(カネ)は、栄養失調寸前の申し訳程度の食糧支給だけ。
犯罪者として抑留しているのですから、もちろん給料なんてない。
ちなみにいまでもロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動している施設は、ほぼ日本人抑留者が造ったか、ソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
旧ソ連時代にできたものは、あまり多くない。
あっても陳腐化して使い物にならない。
要するにソ連は、人だけでなく、モノと技術を一緒にソ連に運んだのです。
そして日本人を奴隷のように使役し、モスクワの町やらイルクーツクの街並み、カザフやウズベキの街や道路、発電所、建築物等を作らせたのです。
ウズベキスタン

ウズベキスタンのタケシント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。
運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故などで、合計813人の日本人がこの地で亡くなられています。
しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなっています。
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっています。
ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えています。
日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。
中山恭子参議院議員が、ウズベキスタンに大使として赴任したのは、平成11(1999)年のことです。
このとき、いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。
その元監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出話を、中山恭子大使に涙ながらに語ってくれたといいます。
苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。
栄養失調でボロボロの体になりながらも、愚痴も文句も言わないどころか、明るい笑顔さえあった日本人。
昨日、具合悪そうだったけれど、笑顔を向けてくれた日本人が、今日は来ていないのです。
どうしたのかというと、昨夜栄養失調で死んだという。
それほどまでに過酷な情況にあってなお、きちんとした仕事をしてくれた日本人。
いまでもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えます。
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。
ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに、
日本人は敗れてもサムライの精神をもっていた。
強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、
我々市民は彼らに何度も食料を運んだのです。」
タシケントに日本人墓地があります。
細い木で組んだ粗末な十字架が、そこにいくつも並んでいました。
聞けば、旧ソ連時代、日本人の墓を作ってはならないとされていたそうです。
日本人の墓だとわかれば、墓はあばかれ、遺体は捨てろと命令されたそうです。
それでも、ウズベキの人たちは、ひっそりと日本人の墓を護りました。
それは、日本人が作ってくれた建物や発電所などが、いまでもウズベキの人々の生活をささえてくれてることへの、せめてもの恩返しだったのだといいます。
実は、中山大使赴任の3年前、平成8(1996)年ソ連崩壊で独立したウズベキスタンでは、大統領のカリモフ氏が自ら進んで、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げてくれています。
そこには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年にかけて
極東から強制移住させられた
数百人の日本人が
この劇場の建設に参加し、
その完成に貢献した」
ナポイ劇場正面に掲げられたプレート

ひたむきに努力をし、異国の地で果てた日本人。
この話を聞いた中山恭子大使の夫の中山成彬衆議院議員は、「みんなの力で、ウズベキスタンの日本人墓地を整備しよう」と呼びかけました。
そして宮崎の事務所を拠点にして、元抑留者や応援者たちに声をかけ、寄付金を募りました。
寄付は、宮崎県内から半分、県外から半分が集まりました。
そして中山夫妻はウズベキスタンに行き、そのお金でお墓の整備をと、申し出ました。
ところが大統領は、これを拒否したのだそうです。
「亡くなられた日本人に、
わたしたちは心から
感謝しているのです。
このお金は受け取れません。
わたしたちで、
日本人のお墓の整備をさせてください。」
そしてウズベキスタンでは、日本人墓地を、美しい公園墓地にしてくれました。
中山成彬ご夫妻は、集めた寄付金で、それならウズベクの学校に教育機材をご提供しましょうと申し出ます。
そしてパソコンや教材などを買いそろえ、寄贈しています。
これは喜んでウズベクの人々が受け取ってくれました。
中山成彬先生

さらに残ったお金で、日本人墓地と、ウズベクの中央公園に桜の木を贈ろうと提案しました。
(きっと生きて祖国に帰りたかったであろう
彼らにせめて、
日本の桜を毎年、
ずっと見せてあげたい)
そして中山成彬先生は、日本さくらの会に交渉して、日本から桜をウズベキスタンに運びました。
ところが、桜の木は弱酸性の土でないと育ちません。
ウズベキスタンの土はアルカリ性です。
これでは桜が枯れてしまう。
そこで日本から弱酸性の土も一緒に運びました。
いま、ウズベクの日本人墓地と、中央公園には、日本から寄贈された1900本の桜の木が、毎年美しい花を咲かせています。
おもしろいエピソードがあります。
あまりに桜が美しいので、「桜泥棒」が出たのだそうです。
桜の木を根こそぎ持って行ってしまうのです。
ウズベキスタンでは、そのための対抗策として、日本から寄贈された桜を守るためにと、なんと専門の「さくら番」を雇って、桜の木の保護をしてくれました。
シベリア抑留者の悲劇。
その悲劇の中でも笑顔を失わず、立派な仕事を残した日本人。
祖国に帰れなかった彼らのために、お墓の整備や桜の寄贈を呼び掛け、これに応じてくださった心優しい日本人。
そのやさしさに答えようと、日本から桜を贈った心優しい人たち。
その心を大切にするために、桜番を雇って警護までしてくれているウズベキスタンの人々の誠実。
こういう人と人との真心のつながりこそが、真実の友好を結ぶのではないでしょうか。
※この記事は2010年2月の再掲です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
どんなに立派な建物もインフラも、保守・点検のメンテナンスがあっ
てこそ保つ事ができるのでは?作りっぱなしで放っておかれるのでは、
維持はできません。旧ソの庶民の努力も考えてみませんか?あまりに
も旧ソ政権に抑圧され、場所によっては強制移住も行われ・・例のク
リミア地方です。クリミア・タタール人、ギリシャ人。アルメニア人、
ブルガリア人は中央アジアへ・・10万人餓死(1944年)。これ
以前の1932~1933年ウクライナのホロドモールで400万人
餓死。大戦中の話はいれなくてコレです。共産の赤軍に追われ、白軍
20万人が凍結したバイカル湖上を走破できずに全滅し20万人が湖
に沈んだと・・大規模な庶民の受難はこの辺から・・(大戦中は男女
の兵士が2000万人死・・有名なのがレニングラード包囲戦市民100万
人死、スターリングラード攻防戦市民59万人減)官僚が大手を振り、
庶民は息を凝らす監視社会。官僚は責任問題にしたくないから当然イ
ンフラは壊れぬように大事に扱われる・・多分人命よりも。庶民だっ
て身を守るためにメンテナンスしていく。けれどもウラル核惨事が起
き、チェルノブイリ原発事故が起き・・崩壊していった。大規模内乱
に発展しなかったのには、いろいろな人々がそれぞれの立場で働いた
からだと推測します。息子の写真を掲げて戦車隊の前に並んだ母親達
も含めて。ロシアンジョークの楽しい黒さは、負けない庶民の息づか
いw・・原発事故で汚染された作物がはじかれたってさ~大丈夫おれ
達の食う缶詰に入ってる~ww陰の中にも笑いを探す美を探す。これ
は強制労働の日本兵も同様だったようで、演芸会を施行するのにカツ
ラを作ったり、手作り将棋を作ったり・・お客様はカミ様ですのあの
御方も歌っていたようで・・そういう文章を書いた方がいたりします。
帝政ロシアとは歴史上唯一陸戦条約順守の戦ができたりしましたねw
さて現在の露はど~なんでしょうか?
ついでに。シ~ナの大躍進政策での餓死者数は一桁多い。文革などな
ど含めると~世界一。現在ウイグルで監視カメラシステム強化実験中。
いずれシ~ナ全土に?という声もあり。。
2018/02/13 URL 編集
にっぽんじん
日本の基準値100ベクレルに対してアメリカは1200ベクレルです。
馬鹿げています。
日本は外国からの輸入食料品の放射線量を測定しているのでしょうか。
恐らく殆どやっていないと思います。
日本は食料輸入国です。
仮に外国の食料品の放射線量が500ベクレルになれば全て輸入できなくなります。
厳しければ良いというものではありません。
輸入していることも考える必要があります。
2018/02/13 URL 編集
KK
いつもながら心に響き沁み入るお話、ありがとうございます。
昔の方々の心身の逞しさには只々感服あるのみです。
ご英霊の方々の身を呈しての功績への感謝を忘れずに、それに恥じぬ生き方を心がけたいと思います。
2018/02/13 URL 編集
syn-i
日本人が日本の歴史を学ぶことは本当に大切なことだと思います。このブログの講義を通じて思っていることは、日本の長い歴史の中にあって、日本人がどう考えどう行動してきたのかを知ることが、自分を知ることに繋がっていくものだと考えるからです。この情報化社会の中にあって、何が正しくて何が間違っているのか。私自身、その判断を自分が生きてきた経験値によって判断していると考えているのですが、友人に忠告されたのです。
゙自分自身を疑え ゙と。この言葉は私の座右の銘となりました。私自身、お金に関しては縁遠い人間ですが、人との出会いには友人を含めて、本当に恵まれていることに日本の社会に感謝しているのです。その日本の社会が、私たち日本人が安心して安全に暮らすことが出来ているのか、いないのか。私はむしろ、自分の思いとは裏腹に逆行しているのではないのかと思えるのです。現在より約450年前から戦前に至るまでに、日本を訪れた外国人の方々が一様に共通して認識していることと言えば、彼等(日本人)は本当に貧しい、それでも我々にはない豊かさを持ち合わせていたということです。何がそう思わせるのでしょうか。現代に生きる私たちと何が違うのでしょうか。貧しいことに卑屈になることなく、むしろそのことに誇りさえ持っていたと思えるのです。私なりの考えでは、日本国が持つ豊かさ(歴史・伝統・文化)を持つことの大切さが、自己の完成に向けての確立というものに繋がっていき、そのことが国民の共通認識としてあったのではないかと思います。
完成された人間なんている訳がありません。自分を見つめて、自分自身に問いかける。それは決して個人主義的なものではなく、それが動機となって日本の社会に目を向けていくようになる。先の大戦で亡くなられた方々の思いと、現代社会の中で自ら命を絶つ(約20年より年間3万人前後の方が亡くなっている)日本人が数多くいることに複雑な思いで何ともやりきれません。同じ魂を持つ同胞なのです。悲しくありませんか。皆さんはどう考えているのでしょう。
生きることの選択を我々日本人の大人が指し示す責任を持ち合わせてはいないのでしょうか。それと、私は何も日本人に貧しくなれと言っている訳ではないのです。お金を持っている人も持っていない人も、身分の高い人もそうでない人も、名誉を与えられた人もそうでない人も、日本が持つ豊かさ(歴史・伝統・文化)を大切にしながら、人生の最終目的として自己の完成を目指す。そのことを国民の共通認識としていけば、自ずと社会は私たちが望むものになっていくものだと信じて疑いません。
2018/02/13 URL 編集