↑クリック・クリック↑
←いつも
応援クリックをありがとうございます。
国が荒れ、食べ物がなくて責任を伴わない権力だけが残るとどうなるか。
そこはまさに地獄絵図に描かれた地獄になります。
武器と権力と持つ者が、持たない者を食べるからです。
日本が、古代から中世にかけての半島にならないために、私たちはいま重大な岐路に立たされているのかもしれません。好太王碑

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)◆
【お知らせ】◆
2月18日(日)18:30
第48回 倭塾公開講座3月10日(土)18:30
第24回 百人一首塾3月24日(土)13:30
第49回 倭塾公開講座4月7日(土)18:30
第25回 百人一首塾4月22日(日)13:30
第50回記念 倭塾公開講座5月5日(土)18:30〜
第25回百人一首塾(公開講座)5月19日(土)18:30
第51回倭塾(公開講座) *****
古代の朝鮮半島の様子をものすごく簡単にまとめると、次のようになります。
まず、紀元前37年に、いまの北朝鮮というよりも、満洲のあたりに高句麗が起こります。
次いで589年に、中原(Chinaの中央部)に隋が興ります。
というとは高句麗はその間、600年以上も安泰であったかのようですが、これはそうではなくて、中原が戦乱で明け暮れていたことによるということによります。
高句麗そのものは、統一国家として存在していたというよりも、いわゆる馬賊や匪賊の集団であったと見たほうが、実態を正しく把握できます。
ただし、馬賊匪賊のたぐいであっても、満洲あたりでは、強大な勢力を張っていたわけです。
ところが3世紀に中原北方に魏が興ると(あの三国志の魏です)、高句麗は進んで魏への朝貢国となって臣属して国家を自称するようになります。
ところが実態は馬賊匪賊の類です。
気がつけば魏の版図に侵入して略奪を行い、これに怒った魏によって高句麗は2度にわたって魏に攻められています。
このとき高句麗は2万の兵を率いて魏軍に対峙するのですが、連戦連敗で、一度目は高句麗の千人が斬首、二度目は三千人が斬首されています。
4世紀になると、高句麗はここでようやく朝鮮半島への進出をするようになります。
いま平壌となっているところは、昔、楽浪郡と呼ばれ、西晋の郡庁が置かれていましたが、西晋の混乱に乗じて、この地を占拠します。
ところが、これに脅威を感じた百済が、高句麗に立ち向かい、なんと高句麗王が戦死を遂げています。

◆youtubeの動画サイトをはじめました。↓下のバナーをクリックするとチャンネルに飛びます↓

↑よろしかったらチャンネル登録をお願いします。登録無料です↑
このため、即位したのが第19代の好太王で、一時はソウルのあたりまで迫り、百済・新羅を臣従させています。
ところが百済も新羅も、もともと倭国に臣従していた国です。
そこで倭国は5世紀のはじめに、半島に兵を送り、高句麗を撃退して、百済・新羅の領土を保全しています。
6世紀の終わりに中原に隋が興り、およそ300年ぶりに中原を統一するのですが、これに高句麗が臣従しないので、隋は隋は度々高句麗に軍を送って、結果、戦費がかさんで疲弊して、わずか37年で滅んでしまいます。
これに代わって王朝を築いたのが唐です。
唐は、隋と同じ轍は踏むまいと、唐からみた高句麗の後背地にある新羅と手を結び、新羅に大軍を送って、まず百済を滅ぼします。
ここでよく「唐と新羅の連合軍によって」などと説明されるのですが、実際に正面に出て戦ったのは唐の軍隊で、新羅は、単に場所を提供したのと、若干の兵を出したにすぎません。
これによって百済が滅び、百済救援軍を送った倭国も、3倍以上もの兵力を持つ唐軍との3年半もの戦いの果てに、白村江で敗れて、倭国は半島から完全撤退します。
勝った唐は、半島内に郡庁を置いて、形式的にも実質的にも、半島を唐の支配下におさめます。
この間、ずっと新羅はおとなしく唐に言われるままにしていました。
それで唐が安心して、郡庁の役人と、若干の兵を残して、半島から大軍を引き上げたときです。
この軍の引き上げは、実は唐は、西の吐蕃と大きな戦となって、兵力をそちらに向ける必要ができたためです。
ところが唐の兵が引き上げたと見るや、新羅は半島内の唐の行政組織に奇襲攻撃を仕掛け、唐の役人たちを皆殺しにして、朝鮮半島を完全に手中におさめています。
要するに「唐と新羅の連合軍が白村江の戦いで倭国に勝利して、新羅が朝鮮半島を手中におさめた」という歴史の記述は、実は真っ赤なウソです。
実際には、「唐が白村江の戦いで倭国に勝利して朝鮮半島を支配下に置いたけれど、唐の軍隊が吐蕃との戦いのために不在になると、それまで何もしなかった新羅が、唐の役人たちを皆殺しにして朝鮮半島を手中に収めた」というのが、実際にあったできごとです。
では、なぜ、唐の役人を皆殺しにした新羅を、唐は放置したのでしょうか。
実はこれには新羅の事情が深く関係しています。
新羅というのは、大昔はもともとは倭人の国家であったようですが、紀元後、中原が戦乱に明け暮れるようになると、その中原から、様々な民族が半島に押し寄せています。
このことについて、たとえば『魏志東夷伝』は、秦・燕・斉・趙の流民が数万口で朝鮮に逃避した」と書いています。
半島南部は、もともと倭人の国で、たいへん豊かであったわけです。
また新羅は、もともと倭人を王に立てることで成立した国でもあります。
三国史記には、新羅の王の名として、居西干、次次雄、尼師今、麻立干などの表記が見られ、これは順に、コソガン、チャチャウン、イサグム、マリカンと読むと言われているのですが、普通に読んだら、伊勢香(いせか)、千鶴夫(ちずお)、西尾(にしお)、又治(またじ)で、それぞれ倭人らしい名前であったともいえます。
ところがその新羅に、粛慎、挹婁、靺鞨、沃沮、濊、濊貊などの諸部族が、次々とやってくる。
なにせ、豊かであったのです。
しかも朝鮮半島南部で鉄が取れたため、倭人たちは、彼らをその労働力として雇ってくれた。
養っていくのですが、あまりの移民の多さに、次第に民族性が崩れて、人を殺してでも自分の利益だけを得ようとする輩が跋扈するようになり、しかも人口構成上、そうした人たちのほうが、人口が多くなります。
もともとこの地での富は、倭人たちが持っていたのですが、倭人たちは、みんなの幸せが自分の幸せと考えますから、富を皆に分け与えます。
これに対し、流民たちは、俺の富は俺のもの、お前の富も俺のものという思考ですから、気がつけば富の逆転現象が起きて、倭人たちのほうが、むしろ貧しくなる。
気がつけば、国が乗っ取られてしまい、その国では、恥も外聞もなく、我が富だけが求められるようになります。
新羅が唐を滅ぼし、10世紀に高麗によって滅ぼされるまでの200年、新羅の国内は、食料の生産ができないほど荒れ果ててしまいました。
倭国にやってきた海賊は、逮捕されたときに「すでに国内に食べ物もなく、自分は新羅国王の命令で海賊をするためにやってきました」と答えたとか。
国が荒れ、食べ物がなくて責任を伴わない権力だけが残るとどうなるか。
そこはまさに地獄絵図に描かれた地獄になります。
武器と権力と持つ者が、持たない者を食べるからです。
それが半島の歴史です。
もともと古代の半島は、日本と同じ薄味の菜食でした。
これは当然のことで、倭人たちが入植して国家を営んでいたからです。
その後、元に征服されて肉食になったとされていますが、どうやらそうではない。
国内の農業が壊滅したときに食人習慣が始まっています。
なぜなら他に食べるものがないからです。
そして郡庁の役人たちを皆殺しにされた唐が、半島に報復しなかった理由も、これで説明がつきます。
地獄になど、誰も行きたがらないからです。
むしろ元がやってきたときに、半島の庶民たちは、元に付いて大陸側に移住しています。
60万人が大陸に移動しました。
まさに元は、半島に住む人々にとって、お釈迦様が垂らした蜘蛛の糸であったからです。
そういえば、新羅は、新しい羅刹と書きます。
羅刹というのは、China以東では、地獄の魔物であり、地獄の獄卒のことをいいます。
10世紀の延暦寺の僧の源信の『往生要集』では、羅刹を亡者を責める地獄の怪物として描いているのは有名な話です。
新羅がもとからそういう国であったというのではありません。
6〜7世紀までの新羅は、倭人が国王を勤める、平和な国だったことは、各種資料が証明しています。
けれど、倭国を裏切り、唐をも裏切って半島を統一したあたりから、国名は同じでも、その内情は180度変わってしまったのです。
そしてその影響は、いまでも残っています。
往生要集(絵は江戸時代のもの)

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)これを古代の話として片付けることはできないと思います。
いまの日本も、次々と外来種がやってきて、はじめはまずしい労働者であった彼らが、いつのまにか巨大な権益を手に入れて、日本の政財界を牛耳るようになっています。
そしてかつての半島では、そうした人達によって、国政は壟断され、結果として国土は荒れ果て、もはや盗賊をする他に、生きるすべがないとこまで追い詰められて行ったのです。
このことは、国内においては、もはや人以外に食べるものがなかったことをも意味します。
まさにそこはこの世の地獄であったのです。
日本が、古代から中世にかけての半島にならないために、私たちはいま重大な岐路に立たされているのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。

【メルマガのお申し込みは↓コチラ↓】
ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
最初の一ヶ月間無料でご購読いただけます。
クリックするとお申し込みページに飛びます
↓ ↓

コメント
くすのきのこ
知人の故郷は島で特産品の海洋産物があります。加工工場は人手不足の
為かタイリクから来た人達を雇いました。数年前にその内の一人に地元
民が頃されています。既に過疎地であり、老人の人口が多い土地です。
そんな地方の事など、中央のセイジ屋は知らないでしょうね。侵食は既
に始まってます。国力とは、カネと経済だけではない。故郷を大事に思
う庶民一人一人の思いが基本なのでは?
何かの本で読んだのですが、大航海時代の宣教師が来日した時に、日本
という国は草も生えない程荒れ果てても、必ず国人達が立ち上がって復
活するだろうと言ったと。果たして・・日本は今後もそういう国であり
続ける事ができるか?戦後、アメの保護下にある事に甘え切ったのは事
実。それにより得た事は多いが、弛んでしまいましたねw
ハントウは元々、口外交の達者な国でしてw現在、キタとミナミの奇妙
な協調でアメ軍を国外に出し、核兵器に手をかけ、有事をも回避しそう
ですね・・有事が無ければ亡命移民による日本国内の混乱は最小限に?
さ~て・・そういくでしょうか?
どういう道を歩むにしろ・・厳しい道ですね。
2018/02/21 URL 編集