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学校ではよく「律令制は、唐の制度に倣(なら)った」と教わるのですが、ぜんぜん違います。
Chinaでいう皇帝の地位にある者が、天皇というより上位にある最高権威と、弾正台という監察機構の両方から、常に責任ある政治が行われているのかcheckされる仕組みができていたのです。
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律令体制における朝廷組織というのは、実は、たいへんおもしろいというか、画期的なものです。
比較のために、先に、同時代にあった唐の律令体制を見てみます。
唐では、まず皇帝に「李」という姓(名字)があります。
その皇帝の直下に、中書省、門下省、尚書省という3つの機構があります。
これを三省といいます。
中書省は、国政の発案機構、
門下省は、その発案事項を審議する機構です。
その結果、これは国政として実行すべしということになると、皇帝がその裁可を下し、尚書省に実行を命じます。
形の上では、皇帝の下に三権があるようですが、その実態は、政治を取り仕切るのは、要するに「皇帝ただひとり」です。
例外はありません。
その皇帝は、天帝という神様から天命を受けた存在です。
従って、皇帝に責任追及ができるのは、天帝ただひとり(一柱)です。
けれども、天帝は目に見えない存在ですから、要するに現実の世では、皇帝という名の責任を持たない、あるいは責任をとらなくて良い存在が、すべての権力を一手に握っているわけです。
ところがその皇帝に非道が重なると、天帝という名の神様は、別の姓(名字)を持った家系に天命をあらためます。
これが易姓革命です。
つまり「天命が革(あらたま)り、姓が易(か)わる」のです。
漢字で書く「革命」という用語は、ここからきています。
つまり「革命」のもともとの意味は、「天命が入れ替わる」ことを意味していたのです。
ところが幕末に、レボリューション(Revolution)という英単語を翻訳することに迷った翻訳家たちが、
「Revolutionとは、きっとChinaの革命と同じ意味だろう」
ということで、これを革命と翻訳し、それがそのまま現代日本においても定着したままになっています。
西洋におけるレボリューションというのは、リボルバー(Revolver)という単語があるように、回転することをいいます。
つまり西洋におけるレボリューションというのは、神様からの天命が入れ替わるのではなくて、輝かしい古代ギリシャ・ローマの時代などに還ろうという運動です。
従って、レボリューションの訳は、本来なら「復古」と翻訳したほうが、より語感に近いものといえるかもしれません。
さて、話をもとに戻します。
Chinaの制度は、上に申し上げたように、すべての権力は、皇帝ただひとりに集約されています。
そしてその皇帝の権力を裏付ける正統性は、天命に依るとされています。

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これに対し、我が国の律令体制を見ると、実は全然違った制度になっていることに気付かされます。
学校ではよく「律令制は、唐の制度に倣(なら)った」と教わるのですが、ぜんぜん違います。
そもそもこうした国家運営の組織論を含めて、昔は兵法とも呼びましたが、本来兵法というのは、国や民族ごとに異なるものです。
これは当然のことで、それぞれの国や民族ごとに、国民性も民族性も異なるからです。
こうしたことは、昨今の企業経営においても同じことがいえます。
同業種であったとしても、会社ごとに社風も、社内文化も要員構成も異なります。
どこかの会社が、なんらかの組織改革で成功したからといって、それが自社でまったく同様の成果を上げることにはなりません。
まして業種が違えばなおさらのことです。
それが国家や民族の政治体制となれば、それぞれの民族性どころか、言語まで異なるわけですから、よその国が成功しているからといって、その体勢をそのままコピーしたところで、良い結果など生まれるわけもありません。
この点、戦後の日本が、欧米の制度をまるっきりコピーしたかのような政治体制を築いたことは、果たして日本という国にとって、というよりも日本人にとって、本当に幸福な選択であったといえるかは、はなはだ疑問であると思います。
なるほど律令体制は、唐の体勢にかなり学んだものとなりました。
しかし、その内容をよく見ると、実は唐とは全然違う、我が国独自の考えが見事に反映していることに気付かされます。
まず、国家最高の存在として天皇がおわします。
その天皇は政治権力を行使しません。
どこまでも国家の最高権威という立場です。
そしてその立場から、民を「おほみたから」としています。
これは我が国の古代から続くシラスを形にしたものです。
天皇直下に、太政官、神祇官、弾正台の3つの役所があります。
このなかで、政治権力の中枢となるのは、太政官のみです。
そこには、太政大臣と、左大臣、右大臣がいるのですが、そのなかの最高権力者である太政大臣は、唐で言ったら、ここがまさに皇帝の地位です。
ただし唐と異なるのは、太政大臣の上に、形而上学的存在としての天帝ではなく、実在の天皇がおいでになることです。
そしてここからですが、太政官と並んで、弾正台が置かれています。
冒頭の図を見るとわかるのですが、右弁官の下に刑部省があります。
ここはいわばいまでいう警察や裁判所に相当する機構です。
ところがそれとは別に弾正台があるのです。
これが何を意味しているかというと、弾正台は、政治権力の中枢を監察するために置かれた役所であるということです。
そして弾正台は、政治権力とは、独立した機構です。
弾正台は、都の風紀取締りを担当していたと書いているものもありますが、それは右弁官の仕事であって、弾正代の仕事ではありません。
弾正台のトップは、弾正尹(だんじょうのいん)といいます。
役職は上から順に、
尹(いん)
大弼(だいひつ)
少弼(しょうひつ)
大忠(だいちゅう)
少忠(しょうちゅう)
大疏(だいそ)
少疏(しょうそ)
台掌(だいしょう)
巡察弾正と続きます。
実際には、この弾正台が、直接太政大臣や左右の大臣を逮捕、処罰したという実績は、歴史上ほとんどありません。
なかったということは、機能していなかったということではなくて、ひとつには、そこまでアコギな太政官職員がいなかったということと、弾正台がちゃんと機能していたことを示します。
日本はどこぞの国とは違う、明察功過の国ですし、現実に政治を行う、Chinaでいえば皇帝、日本で言えば太政大臣の地位にある者が、天皇という最高権威と、弾正台という監察機構と、両方から常に責任ある政治が行われているのか、checkされているわけです。
一方、民衆はというと、天皇の「おほみたから」とされていることに加え、その民衆は、毎月、老若男女が神社に集まって一緒に食事をし、互いの交流を図ります。
また神社は(仏教が庶民に普及する以前には)、苗の管理と、非常時の備蓄米の管理を行っていました(このことはいまでも神社への奉納米として習慣が残っています)。
そして庶民生活に関する様々な情報は氏神様のいる神社の宮司にもたらされ、その宮司は上位の神宮に毎月集まり、神宮の宮司は天皇の神事を司る神祇官と半年に一度は相互交流を持っていたわけです。
天皇は祭祀を司るシラス最高権威ですが、その側には常に神祇伯がいます。
つまり庶民の声は、神々のネットワークを通じて、国家最高権威である天皇の耳に達するという仕組みが作られていた・・・というより、もとからあったその仕組が、政治に生かされていたのです。
すごいシステムだと思います。
さて、この弾正台の家柄を持つ有名人に、織田信長がいます。
信長は、代々弾正忠の家柄です。
つまり万世一系の天皇直下にあって、高位高官の監察を行うことを家の職務としてきた家柄にあたります。
信長は桶狭間の戦いで今川義元を破っていますが、駿河の今川家というのは、足利将軍家の親族の家柄です。
室町将軍家は、足利家がその頂点にありますが、次席が吉良家、三番手が今川家の順で、これが江戸時代でいえば、御三家にあたるのですが、そもそもが将軍の下にある守護大名の家柄です。
つまり、政治の世界の監察役である弾正の家柄にある織田家からすれば、家格からしたら、今川家ははるかに格下になります。
その今川家から今川義元が、三河を攻め取り、さらに尾張への進出を図ったわけですが、これは実は他国を切り取ってはならないという守護使不入を定めた足利将軍家のご法度も破るものでした。
そしてそうであれば、尾張を領国とする弾正家である信長としては、何が何でも今川義元を討たなけれならないという事情が生まれます。
あまりそうした切り口から桶狭間の戦いを描くものはないかと思いますが、はっきりいえることは、信長は、単に今川義元に尾張を取られるのがいやで乾坤一擲の戦いを挑んだのではなく、弾正家として、非道を許すわけにいかなかったという側面があったであろうことも、事実です。
そして信長は、このあと、美濃を陥落させ、浅井・朝倉攻めなどを行って天下布武を公称しています。
ここでいう「武」ですが、これまた、武力によって天下を征するという意味であると、誤解されているようですが、実は、我が国における「武」というのは、これで訓読みが「たける」です。
「たけ」は竹のことですから、「たける」というのは「竹る」、つまり、曲がったり斜めになっているものを、もとのまっすぐな状態に戻すことをいいます。
つまり天下布武というのは、天下にある歪みを整え、まっすぐにするという意味を持つ用語になります。
まさに、弾正家の信長らしい、見事な言葉であると思います。
話が脱線しましたが、思うに戦後の日本は、三権分立とは称しているものの、裁判所は監察機能を持たず、独自の軍も持っていなければ武装もしていません。
しかも警察権は行政の中にあり、その行政は国会議員が担うという仕組みになっています。
いっけん対立と闘争を繰り返しているような体裁をとっている国会の与野党、行政対国会議員ですが、実際には、仲良しクラブ(といったら対決をしている現職の議員さんたちに叱られそうですが)みたいなもので、もりそばに、かけうどんの注文合戦を延々と繰り返していても、それについて、不埒な振る舞い有りとして監察権を持つ機構は、まったく存在していません。
無意味な論争を延々と繰り返すようならば、たとえ大臣・国会議員といえども逮捕する、あるいは、外国から裏金をもらって国政を壟断していると噂される者については、逮捕勾留して厳しい取り調べを行い、場合によっては、大臣や議員資格を剥奪するといった機能を持った機構がありません。
権力というのは、世の中に対して責任を負うものであって、責任を追わない権力などというものは、本来、あってはならないものです。
そういう意味においては、いまの日本の国家体制よりも、7世紀に打ち立てられた律令制度の方が、はるかに斬新かつ進んだ国家機構となっていたのではないかと私には思えるのですが、みなさんはいかがお思いでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
あ
茶化しているのかどうか知らんが、松永は世間一般で言われているような悪人ではない。そもそも官位だけ貰っただけの松永を一緒にできるのか?
2018/03/05 URL 編集
-
私は織田信長があまり好きではないのですが、皇室尊崇の念の篤い武将であった事は確かなようです。 この織田信長の出生地は、名古屋尾張ではなくて霊峰白山の麓福井で、代々神官の家柄であった織田家の末裔である事が知られています。 織田信長、明智光秀、徳川家康を影で結びつけたのが、京都賀茂上神社を本拠地に置く賀茂氏であると伊勢白山道氏は書いていました。賀茂氏は伊賀、甲賀の忍者部隊を結成し、男系の天皇、皇室をお守りする為の実働部隊としての側面も受け持ったそうです。 今川義元の撃破、
桶狭間での武田軍殲滅、天皇家に仇なす比叡山延暦寺の焼き討ち。最期は
信長を明智光秀に討たせて、信長が
世間から姿を消す猿芝居。そして明智光秀が家康の軍師として戦術を授けて
天下人にさせてたのも、賀茂氏の策略だったそうです。信長が如何に天才であったとしても此れだけの軍略を一人で考案できる訳がありません。
天皇家を守る為に知恵を授けた者達が
いたのです。
2018/02/21 URL 編集
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2018/02/21 URL 編集