日本の志を育む学問の力 ~昌平坂学問所~

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「重職心得箇条」は、
幕府直轄の大学であった
昌平黌の学長であった
佐藤一斎(1772~1859)が、
美濃岩村藩の重役たちのために著した書です。
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)「重職心得箇条」は、幕府直轄の大学であった昌平黌の学長であった佐藤一斎(1772~1859)が、美濃岩村藩の重役たちのために著した書です。
聖徳太子の十七条憲法に倣って、17条で構成されています。
「重職」は、いまでいう中間管理職ではなく、上級管理職、つまり重役・重臣のことをいいます。
組織でいえば、組織の上級幹部です。
とても内容の良いものなので、原文、現代語訳に簡単な解説を付けてご紹介したいと思います。
「重職心得箇条」の現代語訳は、結構あちこちのサイトでも紹介されていますが、おそらく、かなりわかりやすい訳と解説になっていると思います。
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重職心得箇条 佐藤一斎 著
第一条
(原文)
重職と申すは、家国の大事を取り計らうべき職にして、此の重の字を取り失ひ、軽々しきはあしく候。
大事に油断ありては、其の職を得ずと申すべく候。
先づ挙動言語より重厚にいたし、威厳を養うべし。
重職は君に代わるべき大臣なれば、大臣重うして百事挙ぐるべく、物を鎮定する所ありて、人心をしつむべし、斯の如くにして重職の名に叶うべし。
又小事に区々たれば、大事に手抜あるもの、瑣末を省く時は、自然と大事抜目あるべからず。
斯の如くして大臣の名に叶うべし。
凡そ政治は名を正すより始まる。
今先づ重職大臣の名を正すを本始となすのみ。(現代語訳)
企業などにおける管理職というのは、その組織の大事を取り計る職ですから、重味を失って、軽々しく落ちつきがない態度でいてはいけません。
なぜなら大事なことに際して油断があっては、職が務まらないからです。
ですからまず日頃の挙動や言語から重厚にして、威厳を養わねばなりません。
とりわけ重職というのは、トップに代わる大臣なのですから、重味と厚味がであって、はじめて万事がうまくいくのですし、事態を鎮(しず)め、緊急事態があっても人の心を落ちつかせることができるのです。それでこそ重職です。
また小事にばかりこだわると、大事に手抜かりができます。むしろ小さなことを省くことで、自然と大事に抜け目がなくなるものです。それでこそ重臣の名に恥じない職をまっとうできるのです。
およそ政治というものは、名を正すことから始まります。
まず重役重臣の名を正すことを政治の第一歩と心得なさい。(解説)
常に油断なく大局に目を向け、同時に常日頃から言動に重厚と威厳を心掛けよということです。
そして「名をただせ」という。
つまり不名誉を受けないように気をつけなさいと続いています。
少々の失敗はむしろ勲章で、向こう傷は勲章というのは若いうちのことで、歳をとったら、逆に失敗がないようにしなさいというわけです。
なぜなら、中間管理職までは減点があっても加点で挽回できるけれど、上級職は加点があたりまえ(つまり加点があって0点)だからです。
逆に、減点は容赦がありません。
どうしてそうなるかというと、権限と責任は、常に一体だからです。
上に行くほど権限の範囲も広くなりますが、その分、責任も重くなります。
だから身をただし、名をただすのです。
ところが、誤解を受けやすいのですが、こうした理屈は、日本ならではのものです。
半島や大陸では、このような理屈は成り立ちません。
なぜなら、上に立つものは収奪するものであって、収奪には責任が生じないからです。
王、皇帝、書記長、大統領、主席等と名前が変わっても、トップには責任は生じません。
責任は誰かに押し付けるものであって、自分が責任をとることはありません。
つまり権限は下から収奪する権利なのです。
権利に責任は生じません。
これに対し日本社会は、責任と権限が常に一体ですが、これは日本が古い時代から、民を「おほみたから」とし、権限を持つ臣は、「おほみたから」への責任を負うと規程する文化を育んできました。
だからこそ、上の第一条になります。
第二条
(原文)
大臣の心得は、先づ諸有司の了簡を尽さしめて、是を公平に裁決する所其職なるべし。
もし有司の了簡より一層能き了簡有りとも、さして害無き事は、有司の議を用いるにしかず。
有司を引立て、気乗り能き様に駆使する事、要務にて候。
又些少の過失に目つきて、人を容れ用る事ならねば、取るべき人は一人も無之様になるべし。
功を以て過を補はしむる事可也。
又賢才と云う程のものは無くても、其藩だけの相応のものは有るべし。
人々に択り嫌いなく、愛憎の私心を去て用ゆべし。
自分流儀のものを取計るは、水へ水をさす類にて、塩梅(あんばい)を調和するに非ず。
平生嫌いな人を能く用ると云う事こそ手際なり。此工夫あるべし。(現代語訳)
大臣の心得は、まず部下に意見をつくさせて、これを公平に裁決すものです。
もし自分に、部下の考えより一層良いものがあったとしても、さして害がなければ、部下の意見を採用しなさい。
部下を引き立てて、やる気を出させることは重職の要務です。
部下の些細(ささい)な過失にばかりこだわれば、使える部下が誰一人いなくなってしまいます。
むしろ手柄をたてさせてあげることによって過ちを補(おぎな)わせなさい。
とびきり優秀ということはなくても、必ずその組織なりのあいふさわしい能力はあるものです。
部下に選り好みすることはいけません。愛憎の私心を捨てて部下を用いなさい。
自分に合う部下ばかりを取り立てるのは、水に水を挿すのと同じで、それでは調理になりません。
日頃、苦手な部下を能(よ)く用いることこそが、手際(てぎわ)というものです。
常にその工夫を心掛けなさい。(解説)
「自分流儀のものを取計るは、
水へ水をさす類にて、
塩梅(あんばい)を調和するに非ず」
というのは、いわゆる名言とされたもので、いかに苦手な部下を上手に用いるかこそが、重職の手際というものだというわけです。
自分の器の範囲内でしか部下の才能を認めないのは、最大公約数と同じです。
12と18の最大公約数は、6です。
これでは組織は6の力しか発揮できません。
けれども、上司である重職が、部下の才能をいかんなく発揮させれば、24(=12+18-6)の力が発揮できることになります。
さらに、人数が5人10人と増えて行くとき、そのすべてをカバーできるほどの能力を持つ人間などいません。
要は、自分を超える部下才能を、いかに組織に活用させるかが、重職の手際というものだというわけです。
第三条
(原文)
家々に祖先の法あり、取失うべからず。
又仕来仕癖の習あり、是は時に従て変易あるべし。
兎角目の付け方間違うて、家法を古式と心得て除け置き、仕来仕癖を家法家格などと心得て守株(しゅしゅ)せり。
時世に連れて動すべきを動かさざれば、大勢立たぬものなり。(現代語訳)
どの家にも、その家に先祖代々伝わる基本精神としての祖法があるものです。
これは決して失ってはならないし、ないがしろにしてはならないものです。
しかし、各家にあるその家独自の仕来(しきた)りや、仕癖(しぐせ)は、必要に応じて変えさせなさい。
よくあることはまったく逆で、先祖伝来の基本精神を、古臭いとないがしろにし、むしろやり方や方法を守株(しゅしゅ)するというものです。
時代によって変えるべきものを変えなければ、時勢に遅れて役立たないものです。(解説)
守株(しゅしゅ)というのは、韓非子にある故事で、役に立たない習慣にとらわれて進歩がないこを戒めた故事です。
宋(そう)の農夫が偶然に田中の切り株にぶつかって死んだウサギを拾い、以来彼は働かずに、またウサギがかかるのを待って切り株の番をして暮らして、人々の嘲笑を買ったというものです。
文意は、部下の持つ伝統的精神は尊重すべきだけれど、手段や方法については、常に改善努力する必要を語っています。
第四条
(原文)
先格古例に二つあり。
家法の例格あり、仕癖の例格あり。
先づ今此事を処するに、斯様斯様あるべしと自案を付け、時宜(じぎ)を考えて、然る後例格を検し、今日に引合すべし。
仕癖の例格にても、其通りにて能き事は其通りにし、時宜(じぎ)に叶わざる事は拘泥(こうでい)すべからず。
自案と云うもの無しに、先づ例格より入るは、当今役人の通病なり。(現代語訳)
先例には二つの種類があります。
ひとつは、先祖伝来の家法からくる先例であり、もうひとつは手段や方法の先例です。
ことを行うに際して「こうしよう」とする自案をまず作り、そのうえで時宜(じぎ)考えながら先例を調べて採否を判断しなさい。
手段や方法の先例であっても、その通りで良いことはその通りにすれば良いけれど、時宜に合わないときは、先例に拘泥してはなりません。
ところが昨今の役人は、肝心の自案を持たずに、先例ばかりを口にします。それは病気です。(解説)
この条にある「時宜(じぎ)に叶わざる事は拘泥(こうでい)すべからず」は、そのまま慣用句にさえなった有名な語句です。
脳みそがあるのだから、まずは自分の頭で考えなさいということです。
世の中には、古い神社における祭事のように、何百年何千年と変えてはならないこともあれば、必要に応じて変えて行かなければならないこともあります。
こうした発想が重職の心得とされることができるのも、まさに日本流です。
武士は、天子様から、天子様の「おほみたから」をお預かりする者です。
大切なことは、その「おほみたから」が豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことにあり、先例を墨守することばかりが能ではないということを述べています。
大陸や半島スタイルの場合は、そうではなく、中間管理職にせよ重職にせよ、常に自分よりも上の者から責められないようにするために先例を優先させます。
なんでも自国発にしたり、平気で他所の国の文物をパクっても、彼らにとっては先例があれば、それは言い訳になります。
スポーツの祭典においても、「戦わずして勝つ」というのが彼らの先例なのであって、だから「よーい、ドン」のドンを意図的に遅らせたり、審判を買収したり、食べ物に下剤を混ぜたり、試合の最中に空調を調整したりすることは、いずれも彼らにとっては、「先例に従ったまで」であるわけです。
情けないことです。
第五条
(原文)
応機と云ふ事あり肝要也。
物事何によらず後の機は前に見ゆるもの也。
其の機の動き方を察して、是れに従ふべし。
物に拘(こだわ)りたる時は、後に及んでとんと行き支(つか)へて難渋あるものなり。(現代語訳)
機に応じることが肝要です。
物事は、何事によらず、後からやって来る機会は、事前に察することができるものです。
その動きを察して行動しなさい。
物に拘(こだ)わると、後で支障が出て難儀(なんぎ)するものです。(解説)
聖徳太子の十七条憲法11条の明察功過と同じです。
先に察して手を打ちなさい、ということです。
碁や将棋などをすると実感しますが、強い人は何手も先を読みます。
早指しで打っているように見えても、瞬時に何十手も先を読み、それに応じて次の手を打ちます。
碁には定石、将棋にも矢倉や振り飛車戦法などがありますが、自分の手だけにこだわると、相手にそれを読まれて簡単に負けます。
「物事何によらず後の機は前に見ゆる」とあります。
何事も、次にどうなるのかを予測することは可能だいうのです。
予測できないのは、考えが足りないから。
それを考えることができるようにするのが、学問というわけです。
第六条
(原文)
公平を失ふては、善き事も行はれず。
凡そ物事の内に入ては、大体の中すみ見へず。
姑(しばら)く引き除(の)きて、活眼にて惣体の体面を視て中を取るべし。(現代語訳)
公平を失ったら、善い事は行われません。
ひとつ物事に没頭してしまうと、どこが中で、どこが隅なのかさえ見えなくなるものです。
すこし問題を脇に除けて、活眼で物事の全体像を把握し、その上で中身を考え行動していきなさい。(解説)
「着眼大局、着手小局」と同じことです。
ただしそのときに、公平公正を失ったら独善に陥るということです。
第七条
(原文)
衆人の圧服する所を心掛くべし。
無利押し付けの事あるべからず。
苛察を威厳と認め、又好む所に私するは皆小量の病なり。(現代語訳)
どのボタンを押せば、衆人が納得して行動するかを常に把握しなさい。
無理強いをしたり、押し付けがあってはなりません。
部下たちの細かい点にまで立ち入って厳しく詮索 (せんさく) することを威厳と履き違えたり、自分の好むままに私(わたくし)することは、皆、人物の器(うつわ)が小さいところから生ずる病です。(解説)
衆人というのは、多くの人、人々という意味です。
それは、部下であったり、同輩であったり、ときには上司であったり、あるいは顧客であったりします。
その人々に納得し、行動してもらうに際しては、無理強いや押し付けはいけないと説かれています。
やはり大陸や半島系の人に多く見られる行動パターンですが、いたずらに権威権力をかさに来てものを言ったり、あるいは、相手の弱みを握ることで、言うことを聞かなければ何々するぞと脅したり、そうすることで人を自分の思うままに操ろうとしたり、それらは、すべて人間の器が小さいことに起因するといいます。
では、人を動かすにはどうしたら良いのか。
人を動かすには、誰もが納得する知識と見識が必要です。
そしてこれを実行させる力を「肝識(かんしき)」といいます。
要するに肝(きも)を鍛え、肚を据えて行動せよ、ということです。
第八条
(原文)
重職たるもの、勤め向き繁多と云ふ口上は恥ずべき事なり。
仮令(たとえ)世話敷(せわし)くとも世話敷きと云はぬが能(よ)きなり。
随分の手のすき、心に有余あるに非ざれば、大事に心付かぬもの也。
重職小事を自らし、諸役に任使する事能(あた)はざる故に、諸役自然ともたれる所ありて、重職多事になる勢いあり。
(現代語訳)
重職たる者が「いそがしい」と言い訳することは、恥ずべきことです。
たとえ本当にいそがしくても、いそがしいとは言わないほうが良い。
なぜならずいぶんと手をすかせて、心にも余裕がなければ、大事な事に気付かないものだからです。
重職みずからが小事を行い、部下に任せるという事をしないから、部下が自然ともたれかかって、重職が忙しくなるのです。
(解説)
要するに「いそがしい」というのは恥ずべきことだ、ということです。
なんでもかんでも自分でしていたら、忙しくなるのはあたりまえのことです。
ところがそうすると、大局が見えなくなる。
するとうまくいかないから、もっと忙しくなり、最後には、仕事をただ放り出さざるをえなくなります。
第九条
(原文)
刑賞与奪の権は、人主のものにして、大臣是れ預かるべきなり。
倒(さかし)まに有司に授くべからず。
斯くの如き大事に至っては、厳敷(きびし)く透間あるべからず。
(現代語訳)
刑賞与奪の権限行使は、本来主君のものであり、重職がこれを預かるものです。
間違っても簡単に権限を部下に持たせてはなりません。
このような大事は、厳格に手抜きや洩れやすき間がないようにしなければなりません。
(解説)
刑賞与奪というのは、単に刑罰を与えたり、地位を剥奪したりすることだけではなく、誰にどの仕事を与えるかという人事や、昇格昇給、論功行賞の報奨も含みます。
それらは本来、主君が持つ権限を、重職が代わりに責任を持って行使するものです。
つまり権限行使者には、常に刑賞与奪の結果についての責任があります。
重大な結果責任を負っているのです。
それを易々と部下に委ねてはいけないという戒めです。
第十条
(原文)
政事(まつりごと)は大小軽重の弁を失ふべからず。
緩急先後の序を誤るべからず。
徐緩(じょかん)にても失し、火急にても過つ也。
着眼を高くし、惣体を見廻し、両三年四五年乃至十年の内何々と意中に成算を立て、手順を遂(お)いて施行すべし。
(現代語訳)
政事(まつりごと)は、事の大小や軽重の切り分けを間違えてはなりません。
緩急や前後の順序も誤ってはなりません。
ゆっくりでも時機を失するし、急げば過ちを招きます。
着眼を高くし、全体を見廻し、向こう三年のうちに、あるいは四・五年、もしくは十年のうちにどのようにしていくのか、意中に成算をたて、手順を踏んで実行しなさい。
(解説)
どうしても日々に追われて、中長期の見通しや計画、その実行等はおそろかになりがちです。
けれどそれではいけないというわけです。
なかなかむつかしいことですが、大事なことだと思います。
第十一条
(原文)
胸中を豁大(かつだい)寛広にすべし。
僅少の事を大造(=大層)に心得て、狹迫なる振る舞いあるべからず。
仮令(たとえ)才ありても其の用を果たさず。
人を容るる気象と物を蓄うる器量こそ、誠に大臣の体と云ふべし。
(現代語訳)
いつも胸を開いて心を寛大にしていなさい。
つまらないことを大層なことのように考えて、狭い了見で振舞ってはなりません。
どんなに素晴らしい才能があっても、それでは御用は勤まりません。
人を容(い)れる寛大な心と、何でも受けとめることができる器量こそが、大臣の大臣たるゆえんです。
(解説)
「胸中を豁大寛広にすべし」とはいっても、馬鹿になってはいけません。
常に大局にかんがみて時勢を読み、その上で、人に寛大にあるべしということです。
第十二条
(原文)
大臣たるもの胸中に定見ありて、見込みたる事を貫き通すべき元より也。
然れども又虚懐(きょかい)公平にし人言を採り、沛然(はいぜん)と一時に転化すべき事もあり。
此虚懐転化なきは我意の弊を免れ難し。
能々視察あるべし。
(現代語訳)
大臣たるもの胸中に一つの定まった意見を持ったなら、その見込を貫き通しなさい。
しかし虚心坦懐かつ公平に人の意見を受け入れ、すばやく転換しなければならないときもあります。
この転換ができなければ、我意による弊害を招きます。
よくよく反省することです。
(解説)
沛然(はいぜん)というのは、雨が一時に激しく降るさまのことです。
これまでの意見を転換することは、相当な痛みを伴うことがあります。
しかし重職にこれができなければ、それは「我意の弊」であり、老害となります。
常に公平正大で居続けなけれならない。
「虚懐転化なきは我意の弊を免れ難し」
これはとてもたいせつなことだと思います。
ある大手家具販売商のことです。
親娘のヤラセであったという説もありますが、表面化したトラブルは、創業社長である父の泥臭い営業方針と、米国留学までして米国流の、いわゆるかっこいい洗練された経営を学んできた娘さんとの軋轢というものでした。
この会社は、巨大な設備に、ゴージャスな家具を並べて販売しているように見えますが、実際には、それは単なる集客装置であり、来店したお客様の家具内装一切の面倒を見ることで業績を伸ばしてきた会社です。
とりわけ埼玉は、以前は大水のために床上浸水することがよくあり、都度、浸水で汚れた家具を全部引き取って、代わりに顧客の求める家具一切を提供する。
つまり、店舗という「見世物」と、実際の商売(営業マンの活躍)の両輪という独自のビジネススタイルによって、一部上場まで果たした会社でした。
ところが娘さんは、洋風の大型店舗販売ビジネススタイルへと走りました。ところがすでにその分野には、ニトリなど、格安のChina製品から、洋式の高級品までを取り揃える企業があるわけです。
結果、父娘の対立が激化、そして業績の悪化へと繋がりました。
このケースでは、むしろ創業社長が我意を通したほうが、もしかしたら良かったのかもしれません。
一方、学会などによく見受けられることですが、すでに客観的証拠によって旧説は完全に論破され、否定されているのに、大御所と称する大先生が、新説の一切を否定して、学問の府を事実上の政治の府にしてしまうというケースがよくあります。
この場合は、まさに「我意の弊」であろうと思います。
第十三条
(原文)
政事に抑揚の勢を取る事あり。
有司上下に釣合を持事あり。
能々弁うべし。
此所手に入て信を以て貫き義を以て裁する時は、成し難き事はなかるべし。
(現代語訳)
政事(まつりごと)には「抑揚の勢」というものがあります。
また上下の間に釣合いを持たなければならないこともあります。
このことを、よくよくわきまえねばなりません。
これを心得たうえで、信を以って貫き、義を以って裁(さば)いていけば、できないことはありません。
(解説)
信は、まこと。
義は、我が身を捧げることです。
まことの心をもって、我が身を捧げ、日頃は節制抑制し、機を見たら一気に攻める。
その信念を持すれば、できないことなどないということであろうかと思います。
第十四条
(原文)
政事(まつりごと)と云えば、拵(こしら)え事繕い事をする様にのみなるなり。
何事も自然の顕れたるままにて参るを実政と云うべし。
役人の仕組事皆虚政也。
老臣なと此風を始むべからず。
大抵常事は成べきだけは簡単にすべし。
手数を省く事肝要なり。
(現代語訳)
政事(まつりごと)というのは、こしらえ事や、つくろい事ばかりなるものです。
何事も自然に現われたままでいくことが、実政というものです。
役人の仕事というものは、すべて虚政です。
老臣がそこに落ちてはなりません。
大抵の仕事は、できるだけ簡素化しなさい。
手数を省いていくことが肝要です。
(解説)
オリンピックでの選手の活躍は見事なものですが、選手たちはそのために、まる4年間、一日も休まず訓練を重ねます。
それはとても地味なものですが、その地味な日頃の活動があって、はじめて大舞台に立てるのです。
しかしだからといって、仕事においては、無駄も省いて合理化していかなければなりません。
仕事のために仕事をつくるようでは、役人組織の肥大化と、経費の増加を招くだけです。
だから「手数を省(はぶ)く事肝要なり」と説かれています。
第15条
(原文)
風儀は上より起こるもの也。
人を猜疑し、蔭事を発(あば)き、たとえば誰に表向き斯様に申せ共、内心は斯様なりなどと、掘出す習いは甚あしし。
上に此風あらば、下必其習となりて、人心に癖を持つ。
上下とも表裡両般の心ありて納めにくし。
何分此むつかしみを去り、其事の顕れたるままに公平の計いにし、其風へ挽回したきもの也。
(現代語訳)
人々の品行は、上から起こるものです。
人を猜疑し、他人の隠し事をあばき、たとへば誰かに、
「あの人は表向きには、あのように言ってたけれど、
内心は実はカクカクシカジカで〜」などとほじくり出す人は、甚だ悪人です。
もし、上にこの風があれば、下の人たちは必ずそ真似して、人心に悪い癖がつくようになります。
そうなると、上下ともに心に表裏ができ、統治しにくくなります。
このような難しさにならないよう、正直に公平を心掛け、良い風土にしていきたいものです。
(解説)
このことは、どことは言いませんが、お隣の国を見たらわかることだと思います。
昔は、部下は上司の良いところは10分の1しか真似ず、悪いところは10倍真似ると戒められたものです。
最近では個人主義の影響からか、上司だろうが部下だろうが、組織人としてというよりも、人としてとか個人としてなどと言うようになりましたが、それはただの甘えです。
第16条
(原文)
物事を隠す風儀甚あしし。
機事は密なるべけれども、打出して能き事迄もつつみ隠す時は却て、衆人に探る心を持たせる様になるもの也。
(現代語訳)
物事を隠すという風潮は、非常に悪いものです。
大事な秘事もあるけれど、打ち出しても良いことまで包み隠すと、かえって人々に探ろうという心を持たせることになります。
(解説)
現代語訳の通り。
第十七条
(原文)
人君の初政は、年に春のある如きものなり。
先人心を一新して、発揚歓欣の所を持たしむべし。
刑賞に至ても明白なるべし。
財帑(ざいど)窮迫の処より、徒に剥落厳沍(はくらくげんご)の令のみにては、終始行立ぬ事となるべし。
此手心にて取扱あり度ものなり。
(現代語訳)
君主が最初に政治を行なうときというのは、一年に春の季節があるようなものです。
まず人心を一新して、よろこびを持たせるようにしなさい。
刑罰や、褒賞についても、明白にしましょう。
財政が窮迫しているからといって、寒々とした命令ばかりでは、結局うまくいかなくなります。
ここを心得ておいてください。
(解説)
辞令をもらって管理職として、そのセクションの長として赴任したときは、現地でできるだけ華やかに、まずはよろこびあふれる楽しい姿を演出して、みんなに喜んでもらい、同時に、何をやったら褒め、何をしたら叱られるのかを明確にします。
新任地に着任したばかりですと、何かと物入りなものですが、ここをそれなりにやっておかないと、人心が離れ、それを取り戻すのに、余計な費用がかかって、それでも取り戻せなかったりするものです。 *****
いかがでしたか?
幕末頃の重職心得ですが、現代社会でも立派に通用するものばかりです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
にっぽんじん
9条に何が書かれているかしっているのでしょうか。
第1項は戦争の放棄です。
第2項は軍備の放棄です。
素直に読めば「国民の命は守らない、守ってはいけない」と書いているのです。
主権者である「国民」が自国民の命は守らないと言ってるのです。
じゃあ誰が日本国民の命を守るのでしょうか。
平和を愛する諸外国が守るのだそうです。
中国が守ってくれる。北朝鮮が守ってくれる。
と言っています。
9条改正に反対する国民は「外国の工作員」と言ってもおかしくありません。
自国の国民の命を守らない日本国民は本当に冷たい人たちだ。
2018/03/04 URL 編集