お祭りでは御神輿を担いだり、地方によっては、屋台を引いたりします。
また、お正月などには獅子舞が行われたりします。
その御神輿や屋台や獅子舞の獅子は、たいてい金ピカに飾られています。
いまでこそ、その飾りは真鍮(しんちゅう)のハリボテの偽物ですが、昔は、純金が使われていました。
だいたい御神輿ひとつで、いまの価格で2千万円くらいです。
誰がその資金を負担したのでしょうか。
村の鎮守様の建物は、耐久年数が普通に100年位ありました。
いまの建築物は25年〜35年です。
50年経ったらボロボロです。
古民家は、いまでもあちこちに飾られていますが、それらはいずれも200年近く経っていて、いまなお健在です。
それだけの建築物を建てる費用は、どこの誰が負担したのでしょうか。
いまではすっかり住宅街になっている土地も、ほんの数十年前までは田んぼや畑だったところです。
その土地は誰が開墾したのでしょうか。
河川の堤防も、いまある堤防の多くは江戸時代に築かれたものです。
誰がそれを築いたのでしょうか。
そもそも江戸時代の農民は、人口の八割を占めます。
貴族・武家が一割、残りが寺社と町民です。
士農工商という用語はもともとChina社会の用語です。
日本の身分制の用語として開発された用語ではありません。
むしろ我が国では、
貴族
武家
農民
町民
に、寺社を加えたものが、実際の姿に近い。
この上に天子さまがおいでになります。
それが「皇」です。
貴族と武士は、昔で言う「臣」にあたります。
農民・町民は「民」です。
武士に、所領武士と俸禄武士がありました。
これは貴族も同じで、所領を持って地域を管理監督し、所領内の天変地異を含むあらゆる事態に責任を持つ者が所領武士です。
土地や地域の管理権を持たず、所属長から俸禄をもらうだけの者が俸禄武士です。
農民も、土地を所有している地主と地主から土地を借りて耕作している小作人の区別がありました。
税を収めるのは、地主だけの仕事で、小作人は、地主に米や野菜などを収めました。
町民は、商人、職人、ヤクザ、土方など、様々な職業に就く者たちです。
そして実は、この順番は、社会的地位の高低であると同時に、貧乏な順番でもありました。
なぜなら、貴族や武士で所領を持つ者は、災害や飢饉が発生するたびに、身銭をきって、災害対策にあたりました。
また、用水路の確保や、火消したちの確保などの、いまで言ったら、市町村の行政費用も、全部、所領を持つ武士や貴族の自己負担です。
幸か不幸か、日本は天変地異の多い国です。
大雨が降れば土砂災害。
雨が降らなければ干ばつで凶作。
地震も来れば津波もある。
その都度、被災者たちの面倒は、所領を持つ者が全責任を負うのです。
死者が出ればお見舞いもしなければならない。
年寄りがお亡くなりになれば、花輪を出すのも領主の仕事のうちです。
お金など、いくらあっても足りないから、幕末頃には、どの大名家も、どの武士も、みんな大借金をこしらえていました。
おそらく食生活も、武家・町人・農民の中では最低ランクであったものと思われます。
一方、農家はどうであったかというと、年貢を収めるのは地主さんの役目です。
その地主さんの多くは、庄屋さんとなっていました。
庄屋さんたちは、そこそこ経済的に余裕があったので、明治に入って郵便制度ができあがったときに、街の郵便局となりました。
いまでも、郵便局には、郵政省の地方機関としての大規模な郵便局と、全国各地にある小規模な旧特定郵便局がありますが、特定郵便局というのは、もともとその地域の庄屋さんの家に、郵便事業を国が委託したことが出発点となっています。
仮にもし、農家がどこも貧農であったのなら、そのような国の大事を委ねることなどできない相談だったはずといえます。
農家は、そうした地主さんと、その地主さんの土地を借りて農業を行なう小作さんに分かれます。
納税義務を負うのは地主さんです。
小作さんたちは、地主さんに、地代として作物等を納めたりしていました。
ちなみにこの時代、税というのは、お上の御用を意味しました。
ですから税というのは、お米の物納(これが年貢)だけでなくて、道路の普請や、堤防普請などといった生活利便を図るための各種労働も含まれました。
町民ですと、たとえば吉原の遊郭の親父さんたちは、将軍家や大名家で宴席があると、料理の材料や料理人、配膳のための女性たち差し出したりしています。
これらすべてが税と呼ばれました。
さて、その年貢のことです。
農民たちが、収穫高の4割も5割も年貢として納めていたとします。
少ない方の4割でも良いです。
そうすると人口の1割に過ぎない税の徴収者側の人たち(貴族・武士・寺社)が、日本全体で生産されたお米の4割を食べていたことになります。
人口というのは、食料の供給できる範囲でしか生きることができません。
そして江戸時代は鎖国ですから、日本国内の人口は、日本国内で生産された食料の範囲でしか生存できません。
では、人口の1割の人が年貢の、つまり国内生産高の4割分のお米を食べていたのでしょうか。
江戸時代の人口はおよそ3千万人と言われています。
そのうちの1割ということは(300万人)です。
一方、人ひとりが一年間に食べるお米の量が、概算で1石(60kg)といわれています。
日本は鎖国で海外からの食料の輸入をしていません。
つまり国内で生産されたお米の量の分しか、日本は国内人口を養うことができません。
ということは、日本全体の人口が3000万人なら、3000万石が、お米の国内生産量です。
年間3000万石が生産され、そのうちの4割が税だったのなら、1200万石です。
その1200万石を、300万人の日本の武士・貴族・寺社が食べていたことになります。
毎食、男も女子供老人に至るまで、4人前です。
武士であろうが貴族であろうが農民であろうが、人が1年に食べる量は変わりません。
ならば1200万石ー300万石=900万石は、余剰米です。
日本はそのお米を輸出していたのでしょうか。
いやいやそんなことはありません。
日本は鎖国しているのです。
実に簡単な計算ですが、話が合いません。
計算が合いません。
つまり、どこか、話しにウソがあるということです。
では実際にはどうだったのでしょうか。
年貢徴収のもとになるのは、言うまでもなく「検地」です。
検地台帳は、耕地の広さはもちろん、土地の質、陽当たりの善し悪しなどまで克明に記録され、一定区画の土地からどれだけの収穫が見込めるかが算出されています。
その「検地」に基づいて年貢(税)が取り立てられます。
当然、この「検地」は、毎年調査されていると思いきや、なんと江戸270年を平均して、ひとつの村につき「2回」しか行われていません。
しかも新田開発したところでも、開発時点で「検地」が行われているのは一部だけです。
幕府直轄地に至っては、豊臣秀吉の「太閤検地」以来、検地が行われていません。
これが何を意味しているかというと、今でいうなら「会計監査」が270年間、まったく行われなかったということです。
平和だった江戸時代に、農業技術は非常な進歩を遂げています。
江戸中期以降の1ヘクタールあたりの米の収穫量は、現代とほとんど変わりがないところまで進歩しています。
それだけでなく、養蚕や、小麦、大豆、大根などの他の生産物の収穫も、進みました。
要するに、いまでいったら、明治初期の税率で、いまの所得税を計るようなものです。
太閤検地の頃に定めた納税額で、いまの税金を納めているのです。
ということは、実際には、脱税のし放題であったわけです。
まじめなお代官は、これではいかんと検地を再施行しようとします。
すると農民は既得権を侵害されることになるから力一杯抵抗します。
まじめなお代官を「悪代官」と呼んでそしるわけです。
お代官は、派遣された官僚です。
民から不評が出ると、更迭の対象になります。
こうしてまじめなお代官(悪代官)がいなくなると、民ははたまた脱税のし放題となる、というわけです。
おかげで、江戸期の農村は、所得水準・教育水準とも非常に高く、農民出身の学者もたくさん出現しているし、武芸に秀でる者もいました。
それだけ、経済的に余裕があったのです。
もちろん現代に較べて豊かであったかどうかは別問題です。
凶作が続けば餓死者も出るし、当時の住居にエアコンが完備してたわけではありません。
しかし、江戸初期には入口は「むしろ」だった農家も、江戸中期にはちゃんとした扉ができ、多くの農家が家内で養蚕ができるほどの大きな家を建てていました。
さらに、もうひとつ大事なこととして、
「年貢は土地にかかる税であって、
人にかかる税ではない」
ということです。
どういうことかというと、年貢を払うのは、自分の土地を持って農業を営んでいる地主農民であって、圧倒的多数の小作農ではなかったということです。
地主から土地を借りて耕作している小作人は、地主に小作料を納めるのであって、彼らに年貢を治める義務はありません。
問題はその小作人ですが、実はここがまたやっかいなところです。
地主の上には、そのあたり一体の土地を管理している領主がいます。
徳川家の場合なら、それを知行地と呼びました。
武士が知行を行なうのですが、その武士は、家が単位となっています。
昔は、子供がよく死んだので、家を保つためには、子をたくさんつくっておかなければなりません。
そうしなければ、家督を継ぐ者がいなければ、簡単にお家断絶になってしまうからです。
これは、今で言ったら会社倒産と同じことで、従業員一同(昔なら一族郎党)が、その日から路頭に迷うことになります。
ところが、家督を継げるのは、生き残って成人した長男ひとりだけです。
これは、長男が子供のうちになくなって、二番目の男の子が長男となって家督を継ぐ場合も同じです。
すると、二番目以降の子供達は、家督を継げず、成人後、生活に困ってしまうことになります。
収入の当てがないのです。
好きな女性がいても、結婚すらできない。
女の子なら、まだ他家に嫁ぐことができます。
けれど、男の子の場合、剣術が達者であったり、学問に優れていれば、剣術道場の師範になったり、寺子屋の師匠、大手私塾の学長となって身を立てることが可能ですが、なかなかそんなにできの良い子ばかりではないのです。
もちろん、なかには幸運にも他家に養子に入って、その家を継ぐというケースもあります。
けれど、世の中そうそう達者なものばかりではありません。
するとどうなるかというと、剣術の腕もそこそこで、学問もそこそこでしかない、普通の武士の次男坊以下は、知行地の庄屋さんにお願いして、その土地で小作人として使ってもらうしかなかったのです。
農業をすれば、すくなくとも餓えて死ぬことはないし、そこそこの生活ができて、もちろん嫁さんももらうことができます。
というわけで、実際には、庄屋さん(地主さん)のもとで、小作人になる領主の子が多かったのです。
そうなると「武士が領主として年貢を取り立てる庄屋さんが使用している小作人は領主の実子である」というケースが多々発生することになります。
だから一揆が起こったのです。
一揆という言葉は、現代語訳したら「みんないっしょに心をあわせて」という意味の言葉です。
現状に不条理がある。
けれども、それが改善されない。
ならば庄屋(地主)さんを通じて、そのことを領主に願い出なければならない。
もちろん、領主の息子さんが小作人にいるのですから、
「親父〜、ちょっと頼みがあるんだけどさ・・・。」
と、話を持っていくことは可能です。
しかしそれでは、その要望事項が、小作人衆みんなの共通の思いなのか、地主さんだけの思いなのか、特定の誰かの勝手な思い込みなのかがわかりません。
だから、みんなで話し合って、こころをひとつ(一揆)にして、お代官様(つまり一部の小作人にとっては実父)にお願いにあがります。
人が生きて生活していれば、必ず数々の問題が起こります。
田んぼにゴミを捨てるな、
畑の肥溜めを増やしたい。
作柄を一部変更して、大根ではなく、桑の葉をつくりたい。
作物を運ぶのに、道路を作りたい。
いやいや、陸路を運ぶのでは荷物が重たくて仕方がないから、水路をひいて、船で作物を運びたいetc....
それらのなかで、御代官様や領主の許可が必要なものがあれば、ひとりではなく受益者となるみんなで交渉する。
そして実はここが大事なのですが、
「受益者として交渉した全員が、その結果についても責任を持つ」
これが日本的責任についての考え方だったのです。
このことは、いまでもあると思います。
会社で、営業部のみんなが、どうしてもパソコンソフトを共有したい。
けれどそのためには、会社にパソコンを買ってもらわなければならない。
そのことを営業部のみんなの総意として取り決めたのなら、それによって営業成績を上げることも、営業部みんなの責任です。
権利と責任の両立。
これが日本的思考です。
昨今では「百姓」という語も、差別用語にされていると聞きます。
誰が「差別だ」と言い出したのか知りませんが、無教養にもほどがあります。
日本語で「百」というのは、文武百官という言葉があるように、「かぞえきれないくらいたくさんの」という意味があります。
そしてその「かぞえきれないくらいたくさん」の「姓(名字)」をもらったのは、7世紀の大化の改新の公地公民にまでさかのぼります。
そしてこのとき、天智天皇によって、
「すべての土地は、漢字二文字で書き表すように」
「すべての戸籍は、漢字二文字で書き表すように」
とお達しがあったのです。
だから日本人の姓や日本の地名は、ことごとく漢字二文字でできています。
そしてこのときに、それこそ「かぞえきれないくらいたくさん」の姓が生まれました。
そしてその姓は、「天皇にいただいた由緒ある、そして誇りある姓」なのです。
その「かぞえきれないくらいたくさん」の、つまり「百」の「姓」を持つ者たちが、
「木っ端役人何するものぞ!」
と言って、みんなでこころをひとつに(一揆)したのが、「百姓一揆」なのです。
これを差別用語だという人たちは、日本語の言葉の使い方を、まったくわかっていない。
つまり、そういうことを言い出している人たちというのは、日本に国籍を持って日本語を話していて、日本人のような顔をしているけれど、実は日本人ではない人たちである、ということです。
その日本人でない人たちが、自分たちのもといた祖国で白汀(奴隷)として差別されていたから、きっと日本人も同じだったに違いないと、勝手に思い込んで、政治運動をして、差別だと騒いでいるだけです。
ちなみにその差別されていると騒ぎ立てている日本人のような顔をして実は日本人ではない人たちの多くが済州島出身だといわれています。
朝鮮戦争が始まる前、済州島で北朝鮮の意向を受けた共産主義パルチザンが、島内で大暴れしました。
殺人、略奪、強姦、火付け盗賊などありとあらゆる蛮行が行われました。
韓国の初代大統領である李承晩は、これを鎮圧するために済州島に軍隊を派遣し、島内の人たちを手当たり次第、殺戮したといわれています。
このとき、正規軍がやってくるという情報を聞いて、いち早く済州島から日本へ逃げてきたのが、まさに大暴れしていた共産主義パルチザンたちでした。
当然のことですが、彼らは本国には帰れません。
帰れば逮捕されるからです。
ですから戦後の混乱期にあった日本にやってきて、名を変え、日本人になりすましたり、日本で共産主義による破壊活動を繰り広げました。
当時の日本はGHQの支配下にあり、初期のGHQは、日本国内にいるKoreanに治外法権を認めていましたから、まさにパルチザンにとって、日本は天国であったわけです。
そして日本国内で、ありとあらゆる非合法手段を使って彼らは財を築きました。
そして日本の行政、司法、立法、教育、メディアなどあらゆる分野に介入したわけです。
多くの日本の官僚さんや政治家さん、教育者の人たちが、そんなパルチザンによる日本破壊工作の手先として洗脳され、利用されてきました。
そして悲しいことに、洗脳された日本人が、何の自覚もなく、日本の文化や歴史の破壊工作の片棒を担がされているのが戦後日本です。
貧農史観や、百姓が差別用語だという主張をする人たちの背景には、そのような歴史があったりするわけです。
そうそう。
ちょっと前まで日本には、このような人たち向けた良い言葉がありました。
「おととい来やがれ!」
「幼稚園から勉強し直して来い!」
です。
お粗末さまでした。
お読みいただき、ありがとうございました。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com
コメント
takechiyo1949
で、四公六民?五公五民?
どう考えても変ですよね。
余った米はどこに行った。
昔からの素朴な疑問です。
米は「腐る通貨」ですから最終的には食べるしかありません。
酒を造って飲んでも量はたかが知れてます。
米は足りていた!というより余っていた筈だと思うのです。
余った米はどこに行った?
ねずブロを読んでも、この疑問は残ります。
2019/04/20 URL 編集
戦後生まれ
一揆は、寺、宗教者による扇動から始まったものでしょう。
一向一揆他、枚挙にいとまが在りません。
武力による制圧支配でなく、宗教による洗脳支配だと思います。
現在、多くの神社が外国人に乗っ取られたり、買い取られたりしております。
何とかしないと子孫に先祖に申し訳が立たないです。
2018/03/17 URL 編集
ポッポ
米は豊作でも七公三民だから、百姓は米は食べられないとの考え方でしたが、米は何年も保管は出来ないので、食べて消費しなければならないと考えます。
また、日本は鎖国していたから米が豊作で余った場合、誰が食べるのかと考えると、輸出することも出来ずに国内にいる人が食べるしかなかったのです。
こう考えるとき、百姓が米を食べられなかったはずはないのです。それを戦後の日本では百姓は米を食べられないとしていました。
このような形で、大東亜戦争の終戦後の日本は、占領軍によって歴史を完全なまでに否定されました。
そして、何事も日本は悪かったとされてしまったのです。
農家の人ならお爺さんやお婆さんに聞けば判ることでも、都市に生まれて田舎を持たない人間は、GHQによるWGIPの政策はそのまま受け入れていたのです。
GHQそしてWGIPとプレスコード恐るべしですが、これに加えて戦後の敗戦利得者・反日・在日に欺されてはならないと、改めて思います。
2018/03/11 URL 編集