宮古湾海戦

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戊辰戦争のさなかの明治2(1869)年3月25日のことです。
この日、我が国の海戦史に残る宮古湾海戦がありました。


20180309 宮古湾海戦
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 *****

慶応4(1868)年8月19日、元幕府海軍副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、幕府軍艦「開陽丸」を旗艦に、回天(かいてん)・蟠龍(はんりょう)・千代田形(ちよだがた)という三隻の軍艦と輸送船、計八隻で品川を脱出しました。
「開陽丸」は、オランダ製の船体にドイツ製の大砲を備えた、世界でも通用する最新鋭の軍艦です。
「回天」もこれに次ぐ大きさ、これに蟠龍・千代田形を加えた榎本艦隊は、当時としては、まさに世界屈指の艦隊でした。

開陽
開陽


これは実はすごいことで、日本に黒船がやってきたのが嘉永6(1853)年です。
それからわずか15年で、日本は、世界屈指の艦隊を保有する国になっていたのです。

榎本艦隊は、9月3日に仙台に到着しました。
榎本武揚は、ここで落城寸前となった会津若松城の、会津藩の精鋭藩士たちを引き取り、次に蝦夷(北海道)を目指しました。

蝦夷に到着した榎本らは、またたくまに函館の五稜郭を奪い取ります。
そして明治元(1868)年12月に誕生させたのが、
「蝦夷共和国」
です。

ここで榎本は、日本史上初の「選挙によって選ばれた初代大統領」に就任しています。
これまたすごい話です。
この時代に大統領公選制を実現させているのです。


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榎本武揚が北海道を選んだ理由は明らかです。
この時代には、まだ航空機がありません。
つまり海に囲まれた北海道ならば、強力な海軍力を保持すれば、陸兵は少数であっても、国家としての独立を保つことができる、ということです。

しかしいくつかの不幸が襲って、彼の計画は失敗しました。

まず、陸上で五稜郭や松前城を攻略した直後の11月15日、江差沖に停泊中の旗艦「開陽」が、嵐のために座礁して沈没してしまいました。
やむなく榎本艦隊は、旗艦を「回天」に移しました。
この「回天」の艦長が甲賀源吾(こうがげんご)です。

「回天」は、軍艦としての能力は「開陽」に及びません。
しかし、艦長の甲賀源吾の力量がすごいのです。
榎本が幕府海軍を率いて北海道に北上したときには、「咸臨丸」の速力が遅いからと、「回天」がこれを曳航してました。
「咸臨丸」だって、福沢諭吉らを乗せて米国まで旅した船です。
それなりの良い船なのだけれど「回天」の能力は、はるかに「咸臨丸」を上回ります。

ところが、「咸臨丸」を曳航しているときに、銚子沖で台風に遭遇してしまうのです。
海は大しけとなりました。
甲賀は、やむなく曳綱を切っています。

回天
回天


いまも昔も、台風は北上します。
つまり榎本艦隊のルートは、台風の進路に沿ったものでした。
曳綱を切られた「咸臨丸」は、榎本艦隊の進行方向とは逆方向の下田に漂着しています。
そこで官軍側に拿捕されました。

一方「回天」は、暴風雨の真っただ中を、台風とともに北上し、三本のマストのうち、前と中央の二本を折られながらも航行を続けて、友藩である奥羽越列藩同盟の中心地だった仙台藩の松島港に見事入港しています。
これには艦の性能もさりながら、艦長であった甲賀源吾の采配が見事であったためと言われています。

松島港でマストの修理を済ませた「回天」は、こんどは大しけの冬の海を、単独で北上します。
気仙港では海賊化していた旧幕府軍艦の「千秋丸」を拿捕し、これを奪いました。

そして箱館に到着した「回天」は、甲賀源吾艦長の指揮のもと、僚艦「蟠竜」とともに函館港の隙をうかがい、10月25日早朝に水兵を上陸させて、いっきに港湾施設と五稜郭を占領しています。
そして27日には、函館港が榎本軍に占領されたことを知らずに入港した官軍の軍艦「高雄」を急襲して奪い取りました。

また松前藩との戦いでは、「回天」は、陸軍の応援をし、旗艦「開陽」が江差で座礁したときには救援に向かってもいます
まさに八面六臂の大活躍をしていました。

一方、強大な海軍力を持つ榎本海軍に対抗するため、新政府軍は、幕府が以前米国から購入した最新鋭の軍艦「ストーン・ウォール・ジャクソン号」を、交渉して官軍のものにしています。
新政府軍は、この船に「甲鉄(こうてつ)」という名前をつけましたた。

甲鉄
甲鉄


「甲鉄」は、その名の通り、装甲軍艦です。
当時最新最強だった「開陽」でさえ木造軍艦です。
「甲鉄」は、砲数やトン数では「開陽」に劣るものの、頑強な装甲によって、絶対的な防備性を誇りました。
これなら榎本艦隊を打ち破れるかもしれないと考えたのです。

新政府軍は、この「甲鉄」を旗艦に、朝陽(ちょうよう)・春日をはじめとする五隻の軍艦を揃え、これに飛龍(ひりゅう)・豊安(ほうあん)といった輸送船、さらに外国船までチャーターして、万全の態勢を整えて榎本艦隊との対決に向かいました。

この時点で、旗艦「開陽」を失っていた榎本艦隊は、分が悪い状態です。
陸上戦力は、多勢に無勢です。
これで制海権を喪失したら、蝦夷共和国は「はかない夢」となります。

頭を悩ませているところへ、明治2(1869)年3月、新政府軍の艦隊が、岩手県の宮古湾に集結したという情報を得ます。
そこで榎本が考え出したのが、
「ならば新政府軍側の最新鋭艦の『甲鉄』を奪ってしまえ」
というものです。
すごいことを考るものです。

具体的には、斬り込み隊を乗せた「回天」、「蟠竜」、「高雄(函館で手に入れた秋田藩の軍艦)」の三艦が、外国旗を掲げて宮古湾に侵入する。
そして湾内で、「蟠竜」と「高雄」が「甲鉄」の両岸を挟みこむ。
挟み込む直前に、外国旗を降ろして、日の丸を掲げる。
そして「蟠竜」と「高雄」が、周囲にいる官軍側艦隊を砲撃し、敵艦隊の動きを封鎖している間に、「回天」を「甲鉄」に接岸させ、斬り込み隊が乗り込んで船を奪取する、という計画です。

直前に旗を付け替えるという戦法は、なんだか海賊みたいに思えますが、これは「アボルダージュ」と呼ばれ、万国公法で認められている、れっきとした海戦戦法です。

榎本にとって、これは絶対に負けられない戦いです。
「甲鉄」への斬り込み隊は、総指揮が新撰組土方歳三、添役が相馬主計と野村利三郎です。
その下に彰義隊から10名、神木隊から36名のツワモノを揃えました。
周囲にいる艦船からの攻撃を防ぐ役の「蟠竜」「高尾」両船には、新選組、彰義隊、遊撃隊、神木隊から、それぞれ計57名の斬り込み隊が乗り込みました。

作戦が成功し、「甲鉄」を拿捕すれば、まさに榎本艦隊は名実ともに世界最強艦隊となります。
そうなると、いかに官軍といえども、最早、蝦夷共和国に手出しはできません。
そして日本は、二つに割れる・・・。

3月21日の夜明け前、ひそかに「回天」、「蟠竜」、「高雄」の三艦が、箱館港を出発しました。
互いを大綱で繋ぎ、一列縦隊で、一路、岩手県の宮古湾を目指しました。
しかしここでも、榎本艦隊は「天命」に見放されてしまいました。

出発の翌日に、なんと季節外れの大暴風雨に襲われたのです。
嵐のために、三艦を繋いでいた大綱が切断されてしまいました。
艦隊は嵐の中を離散してしまう。

いまのような無線などない時代です。
大海原で離ればなれになったら、最早出会うのは至難の業です。

24日になって、ようやく嵐がやや静まったとき、「回天」艦長甲賀源吾は、執念で「高雄」を見つけました。
「高雄」は、嵐で機関をやられ、漂流していました。

「回天」は、「高雄」を曳航し、修理のため宮古湾の南の山田湾(岩手県山田町)に入港しました。

その頃「蟠竜」は、互いを見失った際の取り決めに従って、鮫村沖で船を待機させていました。
無線がないのですから、互いの連絡はとれません。
要するに、この時点で「蟠竜」は放置状態になったわけです。

山田湾に停泊した二艦のもとには、新政府軍の艦隊が、宮古湾の鍬ケ崎港に入港しているという情報がもたらされました。
敵の「甲鉄」が出航してしまったら計画は水の泡です。
「回天」と「高尾」は、「蟠竜」との合流を諦めて、二艦のみでの突入を決めました。
「高雄」が「甲鉄」を襲撃し、「回天」が残りの艦船を牽制すると決め、宮古湾に乗り込むという作戦です。
決行は25日早朝、夜明け前の午前4時と決めました。

新政府軍側も、この時点で、所属不明の艦船が宮古湾沖に出現したという情報を得ました。
しかし船からあがって警戒を解いていた新政府軍の海軍には、危機感がありません。
陸にあがれば、水兵たちは骨休めの遊びのときなのです。

薩摩の陸軍参謀黒田清隆が、この情報を聞きつけました。
そして新政府海軍に、斥候を出してすぐ確認せよと命じました。
ところが海軍副参謀の石井富之助も、すでに陸にあがっています。
だって陸には酒と女が待っているのです。

一方、「回天」と「高雄」は、24日深夜、山田湾を出港して宮古湾へ向かいました。
ところが途中で「高雄」が機関に故障を起こしてしまいます。
両舷のエンジンのうち、ひとつが完全に動かなくなってしまったのです。
こうなると、ただでさえ速度の遅い「高雄」は、さらに船速が遅くなります。

やむをえず、「甲鉄」に接舷して先制攻撃を仕掛けるのは「回天」の役目とし、あとから追いついた「高雄」が、途中で参戦して周囲の敵艦隊を砲撃しようということになりました。

夜明けが近づきました。
「回天」は宮古湾の入り口付近に到着しました。
「高尾」はまだやってきません。

夜が明けて、あたりが明るくなれば、艦は敵に発見されてしまいます。
「回天」は計画通り、「高雄」の到着を待たずに、単独で宮古湾へ突入しました。

「回天」は、アメリカ国旗を掲げて宮古湾にはいりました。
新政府軍の艦隊は、機関の火を落として静まり返っています。
夜明け前です。
静かです。

「回天」がじりじりと「甲鉄」に近づきました。

新政府側は、まだ気付きません。
これには、暴風雨で回天の特徴であった三本のマストが二本になっていたことも幸いしました。
薄闇の中です。
新政府軍側にも、だからそれが「回天」とはわからない。

「甲鉄」に接近した「回天」は、作戦通り米国旗を下ろすと、すぐに日章旗を掲げました。
そして「甲鉄」に近づきました。
ところが、湾が思ったよりも小さい。
そのため、船の向きを変えて「甲鉄」に並ぶように接舷することができません。
やむなく「回天」は、「甲鉄」の横腹に、斜め後方から突入しました。

大きな音がして、「回天」の船首が「甲鉄」の船腹に突っ込んで乗り上げました。
「回天」が上になり、「甲鉄」が下です。
高低差、約3メートル。

甲鉄に接舷する回天
甲鉄に接舷する回天


「甲鉄」の隣で警戒にあたっていた薩摩藩籍の「春日」が、この音で敵襲に気付きました。
そして味方に危機を知らせるために空砲を撃ち鳴らしました。
「甲鉄」の上に、警備の兵隊たちが群がりました。
「回天」の船首からは、斬り込み隊36名が、「甲鉄」の甲板に飛び降りようとしました。

けれども船首は細い。
だから乗り移る人数が限られてしまいます。

さらに「甲鉄」甲板上から、最新鋭の機関銃「ガトリング砲」が火を噴きました。
「回天」甲板上では、乗り移る前に、撃たれて倒れる兵が続出します。

それでも、先に「甲鉄」に乗り移った土方歳三、野村利三郎ら7名は、群がる敵兵を次々に切り伏せました。
そして甲板上のガトリング砲を奪い、今度は新政府軍の兵たちを次々となぎ倒しました。

そこに「春日」をはじめ周囲にいた新政府軍艦船も、ようやく戦闘準備を整わせて、「回天」に向かって、集中砲撃を浴びせかけてきました。

甲賀源吾
甲賀源吾


「回天」の甲板上では、艦長の甲賀源吾が、「甲鉄」から逆に乗り移ろうとする敵兵を、水兵を指揮して撃退し、また周囲から鉄砲や砲撃を加える敵船に対して、別な手勢を用いて大砲を撃ち返していました。

けれど多勢に無勢です。
束になって飛んでくる敵の銃弾の中で、甲賀源吾は、左足と右腕を銃弾に撃ち抜かれました。
それでも源吾は大声をあげながら、甲板上で猛然と指揮をとり続けました。

しかし、群がる敵弾は、ついに甲賀源吾の頭(こめかみ)を撃ち貫きました。
即死でした。

形勢不利と見た榎本軍の海軍奉行・荒井郁之助は、「もはやこれまで」と作戦中止を決め、斬り込み隊の回収を命じました。
高低差3メートルの壁をよじ登って、切り込み隊が帰ろうとする。
そこに敵の銃弾が襲いかかりました。

「甲鉄」に乗り移った野村利三郎ら5名は、撤収できず戦死してしまいます。
結局、「回天」に帰還できた者は、土方歳三ほか1名のみでした。

切り込み隊の回収を終えた荒井郁之助は、自ら「回天」の舵を握って「甲鉄」から船体を離すと、宮古湾を離脱しました。

この間、およそ30分です。

この敗戦によって、本州・北海道間の制海権を失った榎本らは、五稜郭などへ陸戦に備えることになります。
「函館戦争の先が見えた」
榎本にとって3月25日は、そんな日となったのです。

それにしても、もし「回天」が突撃前に出会った船が、故障した「高雄」ではなく、無傷の「蟠竜」であったなら、この宮古湾の戦いの帰趨は、まったく別な流れになっていたことでしょう。
もしかすると、「回天」と「蟠竜」は、見事「甲鉄」を奪い、榎本海軍を興隆させ、もしかしたら日本は、蝦夷共和国と大日本帝国の二つの別な国になっていたかもしれません。

また、もし最強軍艦「開陽」が、沈没せずに生き残っていたならば、榎本艦隊は、宮古湾決戦をすることなく、「回天」の天才艦長甲賀源吾もまた、生き残れたかもしれません。

しかし歴史は、季節外れの嵐を起こし、「開陽」を沈め、「回天」「高雄」「蟠竜」の三艦を切り離し、さらに「高雄」を故障させ、「蟠竜」を孤立させました。
もしかすると日本を守護する八百万の神々は、榎本が北海道を日本から切り離し、蝦夷共和国を打ちたてようとした段階で、彼を見捨てたのかもしれません。

日本は神の国と言われています。
北海道から沖縄まで、島嶼を含めてひとつの国です。
そのひとつの国の領土を、バラバラに切り離すようなことを、日本の神々は認めない。

さて、この戦いに出てきた甲賀源吾は、遠州・掛川藩の出身です。
築地の幕府軍艦教授所で学び、オランダ語、英語、数学、操船を学びました。
寡黙で、思慮深くありながら、度胸も座っていた。
また、部下からもとても慕われた男でした。

荒井郁之助は、甲賀源吾の早逝を惜しんで次のように述べています。
「業を修むるに
 鋭意にして
 勤勉倦(う)まず。
 少なしく解せざることあれば
 手に巻を釋(す)てず。
 暫(しばら)くにして
 其事を解するに
 至りて止む」
甲賀源吾は、ひたむきな探究心旺盛な男とであったことを偲ばせます。

宮古湾の戦いで奮戦し、31歳の若い命を散らせた甲賀源吾について、当時官軍だった東郷平八郎は、
「今日に至るまで、
 私の歎賞措く能はざる勇士なり」
と絶賛しています。

さらに東郷平八郎は、甲賀源吾を「天晴れな勇士」と讃え、「回天」を操船した甲賀源吾の生涯から「意外こそ起死回生の秘訣」であることを学び、そのことが日本海海戦の勝利に繋がったと言っています。

そういえば、同志社大学の創立者の新島襄(にいじまじょう)は、若き日に残した和綴のノートの毛筆でオランダ語や計算式が延々書かれた片隅に、
「天下英雄、甲賀源吾」と落書をしています。
彼にとっても、甲賀源吾という逸材は、学ぶに足る人物であったのです。

この宮古湾海戦は、いちおう戦争といえます。
なぜなら、榎本らは「蝦夷共和国」を名乗っているからです。
つまり、宮古湾海戦から函館五稜郭の戦いまでは、国際戦争となっていたのです。

しかしこの戦いを通じてはっきりと見えてくることは、どんな理由があっても、どれほど優秀な人材に恵まれたとしても、日本の神々は、決して国を割ることを許さない、ということです。

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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
電話:080-4358-3739
出身:静岡県浜松市
住所:千葉県野田市
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
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