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尼港事件(にこうじけん)というのは、大正9(1920)年3月から5月にかけて、黒竜江(アムール川)の河口にあるニコラエフスクで、約4300人の共産主義パルチザンが引き起こした大規模な住民虐殺事件です。大正9年頃の尼港(ニコラエフスク資料館所蔵)

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第52回 倭塾 公開講座ニコラエフスクというのは、樺太の北端あたりで海に注ぐ黒竜江の河口付近にある都市で、満洲国があった当時は、ここは尼港(にこう)と呼ばれていました。
尼港事件で殺された住民は、当時のニコラエフスクの人口の約半分にあたる6,000名です。
日本人はほぼ皆殺しとなり、街の建物もことごとく破壊されました。
犯行は共産パルチザンによるもので、内訳は、ロシア人約3000人、Korean1000人、Chinese300人の内訳です。
共産パルチザンというのは、共産主義革命のために非正規の軍事活動を行なう連中のことですが、実態は思想犯というよりも、むしろ共産主義者たちが利用した破壊活動専門のろくでなしどもというべきものです。
彼らには理想も信念もなく、ただ破壊や殺戮によって自己の利益を図ることしか興味がないし、そのためには人の命など、まるで意に介しないというわけですから、まさに人類が生んだ悪魔のような人達といえます。
事件当時、尼港には、日本人700名を含む1万7千人あまりが住んでいました。
内訳は次の通りです。
日本居留民 約 700名
白系ロシア人約1万5000名
Chinese 約 1000名
Korean 約 500名
白系ロシア人というのは、ロシア帝国時代のロシア貴族だった人達です。
ロシアはもともと、スラブ系の人たちが住むエリアでしたが、そこにバイキングの人たちがやってきて王朝を築きました。
ヨーロッパの王朝の多くがこの元バイキングによるもので、オーストリアのハプスブルグ家やフランスのブルボン王朝、英国のノルマンディ公を祖とする王朝なども同様といわれています。
ロシアでは、ロシア革命によってソ連が成立すると、この白系ロシア人たちは国を追われ、生き残った人たちは、実は満洲国で日本が面倒を見ていました。
ところが終戦に伴って満洲国が崩壊すると、再び白系ロシア人たちは迫害の対象となり、その多くが殺害されました。
その後、彼らがどうなったのか気になっていたのですが、なんと、終戦時に日本軍に保護されてブラジルの日系移民に保護されて、現在に至っています。
このためブラジル日系社会では、同じくブラジルに移民した白系ロシア人社会と、いまでもきわめて濃厚な信頼関係が築かれているのだそうです。
暗い話の多い終戦時の話の中で、唯一、嬉しい話といえます。
話が脱線しました。大正9年の尼港事件に話を戻します。
尼港にいた日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名と軍属、およびその家族(婦女子等)の440名の構成です。
日本陸軍が尼港に駐屯していことには理由があります。
大正6(1917)年、帝政ロシアでは、レーニンに指揮された「ロシア革命」が起こりましたが、これによってロシア国内は、いわば無政府状態となっていました。
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアでは、シベリア送りになっていた旧ロシア帝国の凶悪犯罪者などの重大犯たちが、突然牢から出されると、銃を渡されて世間に放たれたのです。
釈放され、武器を手にした彼らは、民家を襲い、食べ物や財物を奪いました。
キチガイに刃物とはよく言ったものです。
もともと粗暴で凶悪な犯罪者だった彼らは、集団で徒党を組み、武器を手にし、組織化されたゲリラ集団となって、シベリア各地を荒し回っていました。
それでもまだシベリア方面には、ロシアの極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などがいて、彼ら正規軍がこうした共産パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ってくれていました。
こうした正規軍の支援のため、日英米の三国がシベリアに共同出兵したのが大正7(1918)年8月のことです。
ところが翌年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの穏健派総督府が、武装共産パルチザンの攻撃を受けて崩壊します。
ロシアの総督府あればこその、シベリア出兵です。
身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまう。
ところが日本にとっては、これは深刻な事態です。
日本にしたら、友好で穏健な総督府があればこそ、極東の平和と日本居留民の安全が図られ、ひいては日本の安全が守られたのです。
パルチザンが勢力を増し、海をわたって樺太、北海道にやってくれば、その被害は想像を絶するものになります。満州にも、多数の日本人が入植しているのです。
やむなく日本は、シベリアに兵を留めました。
けれど、英米は撤退してしまったのです。
極度の戦力不足に陥った日本は、やむなく第12師団(約1万5000名)を、シベリアに派兵しています。
ところが広大なシベリアに、わずか1万5000名です。
諸所に分散したため、結果として尼港には、2個中隊260名しか配備できなかったのです。
これが当時の情況です。
事件は、大正9(1920)年1月29日にはじまりました。
それまで尼港は、季節が雪に閉ざされる冬だったこともあって、共産パルチザンも鳴りをひそめていました。
ところがこの日、突然ロシアのトリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンが、尼港市街を包囲したのです。
守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていた)の合計約350名です。
要するに守備隊のおよそ10倍もの悪鬼たちが、街を取り囲んだのです。
共産パルチザンたちは、
「自分たちには敵意はない、
食料の補給に協力を
してほしいだけだ」
と言って、街に入りたいと求めました。
真に受けたわけではないでしょうが、放っておけば4千の無法者たちです。
尼港市は、やむなく共産パルチザンを市内に入れました。
すると・・・市内に入るやいなや、共産パルチザンたちは、ロシア白衛軍の将兵を捕らえて、全員虐殺してしまったのです。
さらに彼らは、一般市民(ロシア人、ユダヤ人)を虐殺し、家内の家財、財宝を奪い、婦女子に暴行を働き始めました。
そしてその婦女子たちまでも、黒龍江の結氷を破って作った穴から、凍る流れに放り込んだのです。
こうしてたった一晩で、ロシア人とユダヤ人、約2500人が殺されてしまいます。
翌朝、状況を知った石田副領事は、彼らに「厳重抗議」を行ないました。
けれど共産パルチザンは、聞く耳など持ちあわせません。
あたりまえです。
抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしない。
それどころか、共産パルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
日本側が武装解除したら、そのあとに何が起きるかは火を見るよりも明らかです。
現地の日本軍は、日本に急を知らせる電文を打ちました。
けれど日本からの救援隊は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期です。
海面が凍結していて、すぐには動くことができません。
満州方面にいる他の部隊も、徒歩による移動です。
いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日かかる。
尼港から日本人らが脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されています。
つまり尼港は、極寒のシベリアで完全に孤立していたのです。
「座して死を待つくらいなら、
勇敢に戦って死のう。」
白人たちの惨殺を目の当たりにした日本人たちは、義勇隊を募りました。
そして3月11日、日本側は軍人と義勇兵の合計110名の攻撃隊が、武装パルチザンの本拠を急襲しました。
これは軍人でない軍属や婦女子ら600名を、日本領事館に退避させるためです。
そこで籠城戦を行い、救援を待つ手筈でした。
けれど衆寡敵せず。
攻撃隊の指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。
一方、市内にうろつく共産パルチザンのために、領事館に集まることができた日本人は、わずか250名でした。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかって殺されていました。
事後の調査記録によると、共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していたことが判明しています。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名と、領事館に集まれなかった日本人約240名が犠牲になりました。
そのあと、日本領事館で、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘はまる一昼夜続きました。
これは実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ方から聞いた話ですが、一般に銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものなのだそうです。
銃撃戦が10分も続いたら、
「今日の戦闘は
むちゃくちゃ激しかったねえ」
などと、後々までの語り草になるほどで、それだけ銃撃戦というのは、ものすごい集中力と緊張と疲労を強いるものなのだそうです。
それがまる一昼夜続いたのです。
立てこもった日本人たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像を絶します。
朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきました。
残った一同は、やむなく、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と、領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
日本人強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」
を偽造したのです。
河本中尉は「怪しい」思いました。
けれど、もし停戦命令が本物であり、これに従わなかったことが、後日、国際上の問題となったならば、それは取り返しのつかないことです。
軍は、あくまでも上官の命令によって動くものです。
河本中尉は、命令を受け入れました。
こうして武装解除した河本中尉以下121名は、全員、投獄されました。
そして食事もろくに与えられないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通されて後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま次々と川に放り込まれて殺されました。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が、現地の救援に到着しました。
そこで彼らが見たものは、まさに地獄絵図でした。
死臭が漂って焼け野原と化した街区に、
「いったん撤退するが
再び来て日本人を征服し尽くす。
覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。
日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日に、Chineseの妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していました。
Chineseの妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました。
日本人は、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、
死ぬまで何度も刺されていました。
金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていました。
そして、その獄舎の中で発見されたのが、獄舎の壁に書かれた下の写真です。
被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれています。

共産パルチザンの、こうした卑劣きわまりない暴虐行動は、尼港事件に限らず、通州事件、済南事件、通化事件、奉天事件など、歴史上明確になっているところだけでなく、大小の事件は、当時の満洲からChinaのいたるところでくりひろげられたものです。
人を殺すことをなんとも思わないどころか、殺して奪うことを、むしろ楽しみながら行なう彼ら共産パルチザンは、まさに人類史上に他に類例がないほどの、悪鬼そのものの集団でした。
そして共産主義者たちは、そうした悪鬼のような集団に、金と武器を与えて、目標とすべき国に送り込み、そこで思う存分に暴れさせ、治安を極度に悪化させ、民衆の国家に対する忠誠心を木っ端微塵に破壊したあとに、共産党正規軍を送り込んで、その地を制圧し、これを「共産主義革命だ」としたのです。
その共産党が終戦後に国家を形成したのが中華人民共和国であり、共産パルチザンが国家を形成したのが朝鮮民主主義人民共和国、つまりいまの北朝鮮です。
そしてその北朝鮮は、南の大韓民国政府と一触触発状況となったとき、南の済州島に共産パルチザンを送り込みました。
そこで島民たちに何が起こったかは、推して知るべしです。
驚いた李承晩は、済州島に韓国の正規軍を送り込みました。
正規軍がやってくるとの情報を事前に把握した共産パルチザンのメンバーは、そのまま船に乗って、占領統治下にあった日本に逃げ込み、そこで名を変え、戦勝国民を自称して朝鮮進駐軍を名乗り、日本中で暴れまわりました。
一方、すでに共産パルチザンがもぬけの殻となっていた済州島にやってきた韓国正規軍(南朝鮮国防警備隊、韓国軍、韓国警察、朝鮮半島の李承晩支持者等)は、そのまま、「すでにパルチザンは逃げた後でした」と報告することをしませんでした。
これは大陸や半島では、古来あたりまえのことですが、命令を受けて敵地に行き、手ぶらで帰れば責任を問われるのです。
ですから彼らは、共産パルチザンではなく、一般の島民たちを虐殺しました。
これが1948年4月3日から始まった済州島四・三事件(さいしゅうとう4・3じけん)です。
この事件によって、済州島では島民の5人に1人にあたる6万人が殺され、島内の村の7割が焼き尽くされました。
日本では考えられないことですが、パルチザンではない国防軍や警察官が率先して島民の虐殺をしているのです。
日本に上陸したパルチザンたちは、日本国内で進駐軍を騙って、ありとあらゆる暴虐を行いました。
そのなかには駅前の一等地周辺の不法占拠、銀行や農協等への襲撃、国の食料倉庫の襲撃、畜産農家の飼う牛馬豚の不法殺奪、闇市支配、ヒロポンなどの麻薬売買なども含まれます。
そして日本国内で富を得た共産パルチザンは、60年安保などの闘争や、左翼組合の大規模ストライキなどを裏で牛耳りながら、いまなお日本支配を目論んでいるわけです。
そういう意味では、尼港事件も、通州事件も、まだ終わっていない。
私たち日本人は、目を覚まさないといけないと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
里の牛
もし日本がもう少しだけ大陸から距離があったならば、どれだけ救われたでしょうか?
世界の信頼を失わないよう国際法を遵守する新生日本の律義な姿勢が痛ましい。
つけ込むのが得意な輩が、今も日本を食い物にして太り続けている。
善人面するならず者に騙され続けるお人好しな日本。
先人の戦いをもっと知らなければ日本が可哀そうだ!
2018/03/31 URL 編集