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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)百俵の米も、
食えばたちまちなくなる。
だが教育にあてれば
明日の一万、百万俵となる◆
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第52回 倭塾 公開講座米百俵(こめひゃっぴょう)といえば、2001年の流行語として覚えておいでの方も多いのではと思います。
当時、小泉内閣発足時の総理の国会所信表明演説で、この言葉を引用して有名になりました。
もともとは幕末から明治初期にかけて活躍した越後・長岡藩(いまの新潟県長岡市東部)で大参事を務めた小林虎三郎(1828-1877)にまつわる故事から引用された言葉です。
越後・長岡藩藩主の牧野氏は、三河国でもともとは今川家の家臣でしたが、今川家が滅び、後に徳川家康の家臣となりました。
豪勇を持って知られ、徳川十七将に数えられた名門の家柄です。
この牧野氏が当時知行していた牛久保は、戦国時、常に今川、武田、織田、松平からの脅威に晒されていたところで、ここから家訓として「常在戦場」の四字が生まれています。
これは「常に戦場にあるの心を持って生きる」という意味です。
ちなみに山本五十六大将も、この「常在戦場」を座右の銘としていました。
米百俵の逸話に出てくる小林虎三郎も、「常在戦場」を座右の銘にしていました。
小林虎三郎は、幼いころ天然痘を患い、その後遺症が左顔面に残る人でした。
けれど一生懸命に努力して、長岡藩校で若くして助教を務めるほどの俊才となり、長じて佐久間象山の門下生になりました。
佐久間象山は、私塾「象山書院」を運営して多数の弟子を獲った人ですが、特に後に吉田松陰と呼ばれる吉田寅之助と小林虎三郎は、「二虎」と呼ばれ、
「義卿(松陰)の胆略、
炳文(虎三郎)の学識、
稀世の才」
と称えられています。
ちなみに佐久間象山自身も、江戸昌平黌(しょうへいこう)において佐藤一斎のもとで学び、山田方谷と共に「佐門の二傑」と称されています。
二虎に二傑、いまなら対立的な用語を用いて「ライバル」と呼ばれそうですが、もともとの日本語にライバルなどという言葉はありません。
むしろ、「両雄並び立つ」といわれたくらいで、互いに競い合い高め合って並び立つことこそが大事とされていたのです。
この頃佐久間象山が小林虎三郎に送った手紙の一節です。
「宇宙に実理は二つなし。
この理あるところ、
天地もこれに異なる能わず。
鬼神もこれに異なる能わず。
百世の聖人もこれに異なる能わず。
近来西洋人の発明する所の
許多の学術は、
要するに皆実理にして、
まさに以って我が
聖学を資くるに足る」
実理というのは、空理の対語で、実際に即した道理をいいます。
洋学も漢学も、すべては「おほみたから」である民のためにあるというのが、林羅山にはじまる江戸の昌平黌の学問の基幹であり、佐藤一斎はその最後の学長です。
その教えを受け継いだのが佐久間象山であり、小林虎三郎であり、吉田松陰であったわけです。
さて、この頃、黒船が来航しています。
このとき幕府の老中であった長岡藩主の牧野忠雅に、横浜開港を建言したのが小林虎三郎です。
このことが原因で小林虎三郎は帰国謹慎を申しつかるのですが、結果として虎三郎のこの案は幕府の採用するところとなりました。
こうして、何もない砂浜だった横浜に、わずか三ヶ月という、おどろくべき短期間で建設されたのが、横浜の町並みで、これがいまの「横浜市」に至っています。
戊辰戦争のとき、小林虎三郎は、やってくる官軍に対し、幕府の正当性をしっかりと訴えながら、なおかつ戦わないという独自の非戦論を唱えました。
けれど藩内の意見は河井継之助の奥羽越列藩同盟による開戦論となります。
長岡藩は勇敢に戦いました。
この戦いは、戊辰戦争中、最大の戦いであったともいわれています。
が、結果は敗北。
そのため、14万2700石あった藩の収入は、わずか6分の1の2万4000石に減じられてしまいます。
減封になったからといって、藩士たちの食べ物が6分の1で済むようにはなりません。
藩士たちはたいへんな貧窮のどん底に追いやられてしまいます。
残念なことですが、一部の足軽などの下級藩士が、妻子に食べさせる食べるものを得るために商家に盗人に入ろうとして、護衛の浪人者に斬り殺されるという事件などもあったそうです。
あまりの藩内の貧窮ぶりに、藩主の親戚の三根山藩の牧野氏がみかねて、長岡藩に米を百俵送ってくれることになりました。
飢えに苦しむ藩士たちからしてみれば、ひさびさに米にありつけるありがたいことです。
けれど、百俵の米というのは、藩士とその家族の数で頭割りしたら、ひとりあたり、わずか2合程度にしかなりません。
そこで当時、藩の大参事となっていた小林虎三郎は、その百俵を元手に、藩に学校を造ろうと提案しました。
「皆、腹は減っている。
しかし百俵の米をいま、
ただ食べてしまうだけなら
それだけのもので終わる。
こうした苦しい状況に
藩が追いやられたのも、
もとをたどせば、
官軍と自藩の戦力の違いを見誤り、
ただ感情に走ったことにある。
結果、多くの命が失われ、
生き残った者も、
このように苦しい生活を
余儀なくされている。
それもこれも、
教育がしっかりしていれば、
時勢を見誤ることなく、
危機を乗り越えることが
できたはずである。
そういうことのできる
人材が育っていなかったために、
藩がこのような窮乏に
立たされている。
二度と同じことが起こらぬよう、
しっかりとした
人材を育てるべきである。
そのためにこそ、
この百俵の米を
使うべきである」
けれど誰もが腹を減らしているのです。
藩士だけなら我慢もしましょう。
妻子が目の前で腹を減らしているのに、どうして、目の前にあるせっかくの米を「要らぬ」ということができましょうか。
藩士たちの言い分と、小林虎三郎の意見は真っ向から対立しました。
膝詰め談判となったとき、小林虎三郎の目の前には、藩士の刀が突き立てられたそうです。
このとき虎三郎は、静かに「常在戦場」の額を示したそうです。
「長岡藩の家訓は
『常在戦場』にある。
戦場にあれば、
腹が減っても
勝つためには、
たとえ餓死してでも
我慢をしなければならぬ。
貴公らは、
その家訓を忘れたか。」
「百俵の米も、
食えばたちまちなくなる。
だが教育にあてれば
明日の一万、百万俵となる」
長岡藩の武士たちは、その妻子に至るまで、みな腹を空かせていました。
しかし武士は民のためにあります。
戦乱を招き、結果として民にまで苦労をかけている。
二度とそうならないためには、あらためて『常在戦場』の言葉を思い出して、二度と同じことが起こらないように、しっかりとした人材を育成するというのが、小林虎三郎の意見です。
ちなみに米一俵は、おおむね1両に相当します。
1両はだいたいいまの6万円くらいです。
つまり米百俵とは、金額にすればおよそ600万円ということになります。
一藩の財政という点からすれば、決して大きな額ではない。
逆にいえば、その600万円が藩論をゆるがすほどの大金とされるほど、当時の長岡藩は財政的にも、また食糧自給の面においても、追い詰められていたということです。
結果、米は売却されました。
そして売得金によって、藩内に学校が建てられました。
ちなみに明治政府が学制の布告によって全国に小中学校を建てたときは、布告だけです。
「学校を建てることが決まった。
あとは地元でなんとかしろ」
というだけです。
それでも全国各地では、旧藩士や地元の庄屋さんたちが集まって、土地や校舎建設や、机などの什器備品代から教師を雇う費用まで分担しあって、短期間のうちに全国に学校が整いました。
長岡藩の場合は、この建設および初期費用として、藩として少額ながらもちゃんと費用負担をしたうえで、まさに学制などに先駆けて、学校を建設したわけです。
しかもこの学校には、士族だけでなく、一般の庶民の入学も許可されました。
藩士たちだけでなく、庶民までもが「納得して虎三郎に協力してくれた」から、これが実現したのです。
なぜ長岡藩では誰もが納得したのでしょうか。
とりわけ武士たちの窮状は目に余るものがありました。
武士だけなら我慢もしましょう。
しかし妻子が腹を減らしているのです。
誰だって一杯の飯で良い。
米は食いたいです。
それでも武士は人の上に立つ者として、明日の民のよろこびと幸せを実現していかなければならないし、そのために腰に日本の刀を差しているのだという矜持が、長岡藩の武士にも、その家族の婦女にもあった。
だから我慢したのです。
明治政府によって学制が敷かれたとき、この学校は現在の長岡市立阪之上小学校、新潟県立長岡高等学校となって、現在に至っています。
本当に苦しいときにこそ、自制して明日の民の幸せのために行動するか。
それとも目先の欲望のために、道義や道徳観を失って非行に走るか。
あるいは辛いからと逃げ出すか。
先の大戦が終結したとき、半島では、終戦の詔勅と同時に日本人の婦女が襲われました。
わずか12歳の少女が、半島において、半島人の若い男性たちが妙齢の日本人女性が全裸にして二本の棒で手足を開いて縛って担ぎ、真ん中に棒を刺し通していた様子を目撃していた実話があります。
今度詳しく紹介しますが、いとも簡単に手のひらを返して非行・非道を行なうのは半島人の特徴です。
現代日本人は、そんな半島人と同じ程度の民度に落ちるのでしょうか。
戦後の日本は、加害者が被害者に、被害者が加害者に置き換えられてきた歴史を持ちます。
そしてそれはいまも森友問題などで繰り返されています。
「知」という漢字の訓読みは「しる、あきらか、さとし、とも、のり」です。
「さ」とは神界の稲のことで、それを収穫するのが「さとし」であり、それを「のり=決まったこと」として、「とも」に「あきらか」に「しる」ことが、「知」の意味です。
その「知」は、ですから本来、神のものです。
その神から与えられた知恵を、我々はありがたく活用させていただいて、すこしでも住みよい良い国(豈国)を築くのです。
それが武士の道(武士道)であり、政治を司る「臣」の役割であり、そういうことをしっかりと教えることが教育であり、学問所であるとしてきたのが、ほんの150年前までの日本です。
戦後は、左翼の活動によって、教育から徳義が外され、ただの丸暗記や受験勉強のためだけのテクニックにすり替えられてしまいました。
これでは実理実学にさえなりません。
教育は
「米百俵の人をつくるもの」。
小林虎三郎は、
「こうした苦しい状況に
藩が追いやられたのも、
もとをたどせば、
官軍と自藩の戦力の
違いを見誤り、
ただ感情に
走ったことにある」
と厳しく指摘しています。
感情に走るということは、条理を外れて欲望に走るということです。
それはまったく半島人の気質そのものになってしまう。
昔、武士であっても、街を歩けば、地廻りのヤクザものに絡まれたり、脅されたり、喧嘩を売られたりということは、往々にしてありました。
しっかりとした剣術を習っているのですし、腰には大小二本の刀を差しているのですから、戦えば武士が勝ちます。
しかし刀を抜いて相手を斬り殺したり、そこまでいかなくても峰打ちで怪我をさせれば、武士の側は腹を斬らなければならないのです。
だからどうしたかといえば、武士がどつかれっぱなしで、ひたすら謝りました。
そのうえで、地廻りのような乱れを生んでしまった藩政を自分のこととして憂い、二度とそのような地廻りが他の人に迷惑をかけることがないように、しっかりとした治世をしていく。
そのために知恵をしぼり、何年かけてでもそのような事態が起きないようにしていく。
それが武士の勤めだと考えられてきたのです。
この小林虎三郎の物語は、映画化されています。
映画の中で、小林虎三郎は、藩の大参事に就任したときに、妻に離婚してくれと申し入れます。
収入が減って厳しくなっている藩政に責任を持つというときに、妻に迷惑をかけたくなかったからのことです。
妻は離婚し、実家に帰りました。
けれど妻は、その後も小林虎三郎を気遣って、毎日のように虎三郎のもとを訪れて内助の功を尽くします。
そんな中で、虎三郎の米百俵を学校建設に、という話が持ち上がるわけです。
藩論は、猛反対です。
当然のことです。みんな飢えに苦しんでいたからです。
このとき、妻はなんとかして夫の主張を、藩の武士たちに納得してもらおうと、藩士の女性たちに集まってもらい、妻たちから夫を説得してくれるように、夫の虎三郎に内緒で行動を起こしています。
結果は、「とんでもない」と、追い返されるというものでした。
そしてその帰り道、虎三郎の妻は下手人不明で、路上で斬殺されます。
この妻の行動と死は、映画製作時の作り話なのだそうですが、心情はわかる気がします。
映画については、下のHPに詳しい情報が出ています。
http://www.hirameki.tv/%E3%80%90%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%91%E7%B1%B3%E7%99%BE%E4%BF%B5/この映画ができたとき、試写会の案内を長岡市内の66ある学校に出したそうです。
けれど試写会にやってきた学校は、わずか7校でした。
平成5年(1993)のことです。
まだ日教組華やかりし頃です。
しかし逆にいえば、日教組が強大な実力を発揮していたときであっても、すくなくとも1割強の学校では、米百俵の映画の試写会に学校の代表者を出席させていたのです。
日本を取り戻すということは、この精神を取り戻すことであると思います。
いつの時代であっても、「変えよう」とする力は、はじめはごく少数の志を持った者たちから始まります。
そしていま、日本は目覚めつつあります。
お読みいただき、ありがとうございました。

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小泉首相 米百俵
コメント
くすのきのこ
江戸時代は確かに幕府が中心でしたが、地方の自治力も高かった。
各藩の藩主もそれぞれが自らのルーツを肝に銘じて治めていた。
そういう身分社会だった。だから支店長を代えるように藩主の交代
もあったが、毎年とか大部分が~・・というわけではないでしょう。
各地に藩校を造る方針を幕府が指示すれば、当然各藩が自前で造っ
た。あるいは大規模な治水事業が計画されると、幕府といくつかの
藩が人夫とカネをやり繰り交渉して実施されるが・・その検討にも
時間をかけて単なるトップダウンではなかった。明治政府もその流
れで、学校建設の方針を示せば各藩あるいは各県が動く時代だった
のでは?明治政府の初期は予算が無くて無くて~困っていたわけでw
現代も中央から補助金はでてますが、各地方自治体の財布が基本の
はずですし・・。
長岡藩 表高7万4000石(実高14万石)これから5万石減ら
され表高2万4000石へ・・実高は9万石位?河合継之助のリキ
足りず中立状態から詰められて1868年5/2~29北越戦へと・・つまり
奥羽越列藩同盟にも洋式武器を供給する新潟港を官軍が取ったと。
なんだか藩内に反藩勢力がいたような気配もしますね・・・1870年
に廃藩。会津藩の話ですが、農民はクールだったようですよ・・戦
場にするなと。現実は厳しい。長岡藩では1857年農民による栃尾騒
動も起きてますね。武士がどういうつもりであろうと、農民には不
満があったのでしょう・・藩財政を巧く回せず農民が負担を背負っ
ていたわけですから。その上幕府参与してたメンツのために戦??
また新潟湾は元々は長岡藩の領でしたが、薩摩藩の私貿易に利用さ
れていたのがばれたりして1843年には幕府直轄領に・・ここを官軍
が見逃すはずもない・・ココを取らなければ、洋式武器による抵抗
が続き犠牲者が増えるだけ。内乱にはスピード対応が重要。そうで
なければ洋式武器の輸入で日本国からますます金銀が喪失していく。
各藩がこぞって贋金造りをしたのも、金銀喪失量を減らす意味では
正解~w金銀の含有量が減ってる~と諸外国に言われても、幕府に
バっくれてもらうだけ。そして新政府にとって代われば・・wです
が明治政府は最初っから金欠でした~w
どちらが善とか悪とかはない・・どちらも懸命に日本国を保持する
ために競り合ったわけで・・海外に対しては双方共に無言の連携プ
レーしたりしてね。狡賢くていいんです。海外勢力はもっと酷いで
すからw陰謀論者が国際金融のカネで踊らされた~とか主張してた
りしますが、そういう銭ゲバをも利用して大帝国に登った島国がザ
英国です。安定した?立憲君主国としてね。仏・独・米とはその意
味でカテゴリーが違います。明治政府が見抜かないわけがないので
は?ですから当時の帝政オーストリアの学者の憲法論議が呑めたの
では?他の国は内外で混乱とその余波が続いていました。
2018/04/02 URL 編集
竹千代
お早うございます。
眼先の飢えを我慢しても後世の一万俵百万俵に期する…は綺麗事ではありません。
現代でも中々受入れてもらい難い施策だと思いますが、食ってしまえばそれっきりの状況を度々経験し、根本原因を断つ決断の重さを熟熟感じています。
来週の朝礼の一言テーマとして使わせていただきます。
2018/04/01 URL 編集