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日本書紀には、大国主神話の稲羽の白兎の記述がありません。
このことから、古事記が正しいとか、日本書紀が正しいとか、古来様々な議論がされていますが、「どちらも正しい」というのが正解です。
古事記と日本書紀では、書かれた目的が異なるのです。
目的が異なれば、その目的に沿って必要なものは書かれますし、必要のないものは省かれます。
ごくあたりまえのことです。卑弥呼

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4月7日(土)18:30
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チャンネルAJER「古事記に学ぶ日本型経営学」4月22日(日)13:30
第50回記念 倭塾公開講座5月5日(土)18:30〜
第26回百人一首塾(公開講座)5月19日(土)18:30
第51回倭塾(公開講座)6月9日(土)18:30〜
第27回 百人一首塾 公開講座6月30日(土)13:30〜
第52回 倭塾 公開講座日本書紀は、私達の国が稲作を中心として、国民みんなで「豈国(あにくに)」つまり、よろこびあふれる楽しい国を築くために書かれています。
もちろん、いくらよろこびあふれる楽しい国といっても、日々の苦労もあれば、天然の災害もあります。
親しい人や大切な人との別れもあることでしょう。
けれど、そうした様々な苦難を、みんなで力を合わせて乗り越えることで、すこしでもよろこびあふれる楽しい国を築いていこうというのが、日本書紀の立場です。
そしてこのことは、日本書紀の冒頭で、伊弉諾(いざなぎ)と伊弉冉(いざなみ)が、「豈国」を築こうとして磤馭慮嶋(おのごろじま)を築いたという記述で明らかにされています。
一方古事記は、天皇の統治が神々と繋がり、民を「おほみたから」とし、国家最高権威と国家権力を建て分けてシラス国を実現することを目的に書かれています。
このことは、古事記の冒頭で天の中心という意味での天之御中主神が登場すること、そして伊耶那岐(いざなき)と伊耶那美(いざなみ)が、「諸命以(もろもとのみこともちて)」淤能碁呂島を築いたということで明らかにされています。
すべては神々の諸命以(もろもろのみこともちて)なのです。
そのことを理解するために、様々な艱難辛苦を乗り越えて偉大な王国を築いた大国主神でさえも、高天原の意思によって、「汝のウシハケルこの葦原の中つ国は、我が御子のシラス国ぞ」という建御雷神の言葉によって、王国を天孫に譲り渡しています。
そのために稲羽の白兎も古事記では「菟」という字で書かれ、その字の意味がネナシカズラであることから、根っこを持たない人、つまり行商や陸運などを生業(なりわい)とする人として描かれています。
「菟」は「和迩(わに)」を騙したとありますが、「和迩」は、和迩船という言葉があるように、海運業者と読むことができます。
つまり大国主神話は、「菟」と書かれた陸運業者と「和迩」と書かれた海運業者が争ったといったようなものと読むことができるわけで、このことは大国主神が築いた大いなる国家が、商流や物流を中心とする商業国家であったことを想起させる内容となっています。
ところが商業というものは、仕入れを叩いて、売値を高くすれば儲かるという基本構造を持ちます。
従って、国家の根幹に商業を置けば、もっとも人口が多く、人が生きるのにもっとも必要な食料を生産する人達、つまり今風にいえば第一次産業である農林水産業に従事する人達は、常に買い叩かれ、貧しい生活を余儀なくされてしまうことになります。
だから古事記は、我が国は諸命以(もろもろのみこともちて)、その末端にある一次生産者たちをこそ、天上の「おほみたから」とするとしているわけです。
そしてそのことを理解してもらうためには、稲羽の白兎の物語は必須になります。
古事記や日本書紀が史書であるかないかの議論があります。
しかし、私からみると、申し訳ないけれど意味のない議論に思えます。
東洋史といえば、司馬遷の史記に始まり、隋書、唐書、宋書など、歴代王朝ごとに史書が書かれています。
いずれも「史書」の言葉の由来となった書であり、それらは間違いなく史書であるといえます。
ところがChina史においては、これらの史書はすべて、まったく同じパターンで書かれています。
どういうパターンかというと、
前の王朝の時代、
初代皇帝がまだ若い頃、
国は乱れ
時代を担う王朝から
すでに天命が
離れようとしていた。
天命を受けた初代は
たいへんな人格者で、
さまざまな艱難辛苦の上
前の王朝を築いて皇帝となった。
国は安定し民衆に幸せが訪れた。
ところが代を重ねるごとに
だんだんと皇帝の人格が
よろしくなくなり、
ついに天命は、
現在の王朝へと移った」
これが全部の史書の共通するパターンです。
ですから、たいていの人は史記から学び始めて、そのときは面白いのですが、順に時代を下って次の王朝の史書、そのまた次の王朝の史書と読み進むと、どれも人名や地名が異なるだけで、内容や展開はまったく同じで、飽きてしまう。
こういうことがなぜ起こるかというと、要するにChinaの史書というのは、「現王朝の正統性を担保する」という固有の目的のために書かれているからです。
現代の世界の多くの国では、大統領や市長がなぜ権力を振るうことができるかといえば、選挙によって民衆に選ばれたということが唯一絶対の正統性の根拠となっています。
政治家についていうならば、誰が見ても、この人ちょっと頭がおかしいのでは?と思うような人であっても、選挙で選ばれたということが、そのおかしな政治家の発言に正統性を持たせるのです。
つまり権力には、「なぜ権力を持てるのか」という、正統性が不可欠の要素なのです。
もっとわかりやすく言えば、会社の部長や課長が部下に命令できる根拠は、会社の人事によって選ばれたこと、職務分掌規程によって、その職掌が明らかにされていることによります。
Chinaの場合、歴代王朝の実体は、外来の侵略王朝です。
いわば、周辺の蛮族によって、植民地にされ続けてきたのがChina史でしかないのですが、そうはいっても「俺達は侵略者であり、植民地支配者なのだから、言うことを聞け!」というわけにはいかない。
やはり、統治者として、正統であるということが、何らかの形で立証されなければならないのです。
ところが実際には、単なる虐殺者であり、収奪者にすぎないわけで、だからこそ史書によって、正統性をアピールしなければならなかったというのが、Chinaの歴史です。
従って書かれていることは、実際には庶民に対してあくどい強盗を行い虐殺を行った者であっても、それは「ひどい悪者たちを懲らしめたのだ」、「悪い奴らを駆逐したのだ」と置き換えられることになります。
つまり、歴史によって、悪を善に、善を悪にすり替えるわけです。
そのために書かれたのがChinaの史書です。
これに対し日本では、天皇の正統性の論証などまったく必要ありません。
そうであれば、我が国の史書に求められることは、民をいかにして大切なものとするか(古事記)、民をいかにしてよろこびあふれる楽しい国の住民としていくか(日本書紀)ということが史書に求められるようになるわけで、それに沿った形で、記紀が書き分けられているわけです。
従って、記紀が史書であるか、と問われれば、その答えは「もちろん史書です」となります。
記紀を史書として否定するなら、Chinaの史書も否定の対象になるし、そもそも史書という言葉自体が成立しないからです。
では、その史書に書かれていることは真実なのか、という問いはどうでしょう。
この場合、真実という言葉が、歴史に実際にあった出来事や事実関係を正確に記しているという意味であるならば、答えは「No」です。
早い話、大国主の出雲王朝の国譲りは、「◯◯と日記には書いておこう」というものにすぎず、実際にはもしかしたら、天孫族と出雲族との間で、何世紀にもわたる血で血を洗う激しい戦いが繰り広げられていたのかもしれない。
実際、平成10年から3年がかりで発掘された鳥取市の青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)は、弥生時代の後期の遺跡ですが、そこからは110体におよぶ殺傷痕のある人骨が出土しています。
この人骨の中には、頭部に矢じりが突き刺さった痕のある女性の頭蓋骨なども出土しているのですが、問題はその人骨の出土の状況で、なんと大量に出土した人骨は、埋葬したのではなく、ただ溝に放り込まれて埋められていただけという状況で出土しています。
また、すぐ近くにある荒神谷遺跡からは、我が国最多となる358本もの銅剣が出土しています。
「後漢書」には、倭国大乱の記述がありますが、時代的にも、もしかするとその大乱のあった時代の、これらは遺物なのかもしれない。
そして「後漢書」によれば、そのあと、2世紀(西暦100年代)の終わり頃に国を統一したのが卑弥呼であったとされています。
その卑弥呼は「魏史」によれば、西暦245年に狗奴国(くなこく)との間で戦争状態になり、247年には魏から武官の長政(ちょうせい)と軍を派遣してもらって狗奴国との激しい戦いを行い、その戦いの最中である248年頃に亡くなったと記載されています。
ちなみにその247年には九州で、翌248年には大和で日食が起こっています。
まさに天の石屋戸が閉まる出来事があったともいえるわけです。
そうした古代の考古学的発見から、その時代にかくかくしかじかの出来事があったのではないか、という説には、まさに様々なものがあります。
しかしそのことをもって、「記紀の記述は史実ではない」という読み方もまた、東洋的史書とは何かという視点に立てば、考えのいたらないものと言わざるを得ません。
東洋的史書というのは、目的をもって書かれたものであり、その目的に合致した内容が記されるのです。
過去にどのような悲惨な出来事があったにせよ、最終的に私達の祖先は、権力よりも上位に権威を、そしてその権威によって民を「おほみたから」とするという、世界史上稀有な究極の民主主義を実現し、世界がまだ「国も国民も王の私的な所有物」という概念しか持たない時代に、国民国家という西洋でさえも18世紀になってようやく登場した概念を、日本は古代の記紀において確立しているのです。
そのことの値打ちと凄みこそ、我が国の誇りとすべきものであると、私は思うのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
heguri
シェアさせていただきます。
2018/04/02 URL 編集
Kaminari
チャイナの歴史は本当に同じことの繰り返しで最後は嫌になってしまいます。(笑)
2018/04/02 URL 編集