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過去にご紹介したことがあっても、機会を見ては繰り返しご紹介していきたいのが、涙の杉坂峠の石黒小右衛門のお話です。
この物語は江戸時代に大洪水後の復興のためにと、幕府の命令よりも民を重んじて自ら腹を斬った代官の物語です。
武士の忠義とはなにか。
現代日本では、武士の忠義を、単にお上に使える、上に従順であることだと履き違えている人が多いです。
しかしここは民をこそ「おほみたから」とする日本なのです。
そのことをはっきりと示しているのが、この石黒小右衛門の物語です。杉坂峠

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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)◆
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4月15日(日)13:30
チャンネルAJER「古事記に学ぶ日本型経営学」4月22日(日)13:30
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第27回 百人一首塾 公開講座6月30日(土)13:30〜
第52回 倭塾 公開講座石黒小右衛門は、元禄2年(1689)年、美濃国(岐阜県)で生まれた人です。
長じて京都町奉行所の与力となりました。
時代劇などで、江戸時代の町奉行所には奉行、与力、同心がいたことは、みなさまよくご存知のことと思います。
与力は、禄高二百石、拝領屋敷が200~300坪。
同心は与力の配下で、30俵2人扶持で、拝領屋敷が100坪でした。
必殺仕掛人シリーズに登場する中村主水(藤田まこと)は、同心ですから、与力の部下ということになります。
さて石黒小右衛門は、たいへんまじめで有能な男でした。
そこで京都所司代の土岐丹後守頼稔(ときたんごのかみよりとし)は、延享元(1744)年に石黒小右衛門を勘定吟味方に出世させています。
これは与力の中の最重要職です。
寛政2(1749)年、60歳になった石黒小右衛門は、長年勤めた勘定吟味役を離れて、美作国・鹿田(現・岡山県真庭市落合町鹿田)の4代目の代官に就任しました。
これもまた長年の石黒小右衛門の裏表ない勤務態度に、上司の京都所司代が推挙して抜擢してくれたおかげでした。
ところが代官に赴任して7年目の宝暦5(1755)年9月、石黒小右衛門67歳のときのことです。
大雨で旭川が増水し、堤防が決壊して各地に大水害をもたらしたのです。
なかでも向津矢村(むかつやむら)の被害は深刻で、37戸のうち2戸を残しただけで、あとは全部家屋が水に流され、収穫間近だった田畑も全滅してしまいました。
もちろん、村人も、家畜も、たくさんの命が失われてしまっています。
石黒小右衛門は代官として、自分の足で各所の被災状況を視察して回りました。
そして自ら陣頭指揮をとるとともに、各所の非常用の備蓄米を各村に分けて、村々の復旧に努めました。
しかし壊滅的な被害となった向津矢村だけは、どうにもなりません。
とにもかくにも、何もかもが流されてしまっていて、今日明日の食はおろか、次の収穫の見込みも立たないのです。
代官所で所轄する備蓄米にも限界があります。
やむなく石黒小右衛門は、幕府に救いを求めようと、江戸表に使いを送りました。
ところが一日千秋の思いで待っても、幕府からの返事がありません。
何度めかの催促のあと、ようやく幕府から出た指示は、
「向津矢村の復興はあきらめて、村民全員を遠く離れた日本原へ移住させよ」というものでした。
しかし村民たちにしてみれば、たとえ洪水で流されたとはいえ、先祖が眠り、長い間耕し守り続けてきた土地なのです。
なんとしてでも、村の復興を優先させたい。
しかし近隣の村々からの救援物資も、すでに底をつきかけているのです。
「それでも」と迫る村民たちの並々ならぬ思いを前にした石黒小右衛門は、向津矢村の復興を決断しました。
彼は向津矢村の結神社(むすびじんじゃ)に村民たちを集め、代官所が全責任を持って向津矢村の復興を成しとげ、その目処がつくまで、租税を半分免除すると言い渡しました。
彼は言いました。
「働くことは、
一村一家を、
もう一度立て直すための
原動力である。
真に家業に精を出せば
神々は必ず守ってくださる。」
そして一首の和歌を村人たちに与えました。
心だに誠の道に叶ひなば
祈らずとても神や守らん
お代官様の石黒小右衛門のこの決意に、村人たちは感激しました。
人の気持ちというのは、強いものです。
災害に打ちひしがれていた村人たちは、そのお代官様の言葉を前に、一致団結して、その日から昼夜を問わず復旧作業に取り組みはじめたのです。
それは食べるものも決して十分ではない中での復興工事でした。
お腹は空きます。
誰もがガリガリにやせ細りました。
それでも、村人たちは、未来への希望に胸を燃やして、頑張り続けたのです。
村人たちの必死の努力は見事に実りました。
およそ一年後には、土砂に埋まった農地も、ほぼ災害前の姿を取り戻すようになったのです。
しかし石黒代官の行動は、幕府の許可なしに行ったものです。
村人たちの復興を見届けた石黒小右衛門は、事情を幕府に報告して改めて向津矢村での生活の許可を受けるために、江戸に向かいました。
ところが幕府の下した裁定は、
「命令違背、越権行為」
というものでした。
江戸からの帰り道、石黒小右衛門を乗せた駕籠(かご)が、ちょうど杉坂峠に差し掛かったとき、一台の急ぎ駕籠(かご)が追い抜こうとしてきました。
当時の習慣では、武家の乗った駕籠は、みだりに追い越すものではりません。
みだりに追い越せば、斬り捨て御免もやむなしです。
石黒小右衛門は、追いついてきた駕籠を停めて行き先と用件を尋ねました。
それは石黒小右衛門への「代官罷免」の上意を告げる早駕籠(はやかご)でした。
「罷免(ひめん)」となれば、当時のしきたりによれば、その咎(とが)めは、石黒小右衛門ひとりにとどまらず、石黒小右衛門を代官に推挙してくれた京都所司代の土岐丹後守様にも及びます。
さらにそれだけでなく、後任の代官は、当初の幕府の命令の実行をしなければならず、それはせっかく村人たちの努力で復旧させた向津矢村の村人たちが、日本原へ強制移住させなければなりません。
そんなことになったら、せっかくこれまでのまる1年、お腹を空かせながらも村の復旧工事を続けてきた村人たちの努力さえも水の泡です。
「かくなるうえは、
自分の一死をもって
全責任を負う他はない」
石黒小右衛門は、駕籠の中で腹を斬りました。
血で駕籠を汚さぬよう、腹にはきつくサラシを巻きました。
人間、腹を斬っても、そう易々とは死にません。
だから普通なら、長く苦しめることがないように、介錯人がいて途中で首を刎ねるのです。
しかし彼は、広い世間にたったひとつ遺された、駕籠の中という狭い空間の中で、ひとり腹を斬り、そのまま駕籠に揺られ続けました。
代官所に駕籠が着き、お呼びしても代官様が降りてこない。
不思議に思って駕籠の戸を開けたら、そこにはすでに息絶えた石黒代官の変わり果てた姿がありました。
石黒代官の亡きがらは、鹿田村の太平寺に葬られました。
知らせを聞いた向津矢村の村民たちは、石黒代官の厚い恩に報いるべく結神社の境内に末社(神社に付属する小さい神社)を建て、そこを石黒神社と名付けました。
それから三百年。
村人たちが参拝を欠かさなかった結神社は、明治42(1909)年に垂水神社に統合されました。
けれども向津矢村の人々は、いまでも村祭の鹿田踊りで石黒小右衛門のことを語り継ぎ、その遺徳を讃えているのです。
石黒小右衛門は、幕府の命令よりも村人たちの意思を尊重するという行動を取りました。
そのことは、江戸時代において、民こそが天子様の「おほみたから」であり、領主や代官は、その「おほみたから」を預かっている立場にある、という日本古来の意識に基づきます。
さりとて、幕府という組織にあって、その組織を十分に説得できなかった責任は、代官その人にあります。
だからこそ石黒小右衛門は、自らの腹と引き換えに、筋を通したのです。
武士の忠義とは、どこまでも民百姓たちが豊かに安心して安全に暮らせるようにしていくことにあります。
そのための幕府であり、そのための大名であり、そのための代官なのです。
しかし組織であれば、必ずしもその真意が伝わるとばかりは限りません。
ならば、その責任は誰がとるのかといえば、それは代官自身がとる以外にないのです。
なぜなら代官は、その所轄地域で起きたすべての出来事に責任を負う立場だからです。
そのために所轄地域内で起きる出来事について、すべての権限を与えられているのです。
権限と責任は、ときに相克します。
そのときは、代官自身が腹を斬る。
その覚悟のある人物と見込んだから、土岐丹後守は石黒小右衛門を代官に推挙しました。
その覚悟のある男であったから、石黒小右衛門は、向津矢村の復興を決断しました。
そして決断した以上、その責任を一身に負いました。
これが日本の「武士」と名のつく、「たける人」の生き様なのです。
「たける」とは、竹のように真っ直ぐにする役目を持った人のことを言うのです。
【追伸】
トップの画像は、石黒小右衛門が腹を斬った杉坂峠です。
江戸時代の街道というと、道幅の広い道路を想像するかもしれませんが、幕府は政策的にそのような広い道を作りませんでした。
ですから五街道と言われるような代表的な街道であっても、道幅は1.5メートルほどしかないところがほとんどでした。
そして、もともとは杉の木が茂る峠だったこの杉坂峠が、石黒小右衛門の死後、なぜか「竹」の茂る峠となりました。
我が国の「武」とは、神語りの昔から「たける(竹る)」ものです。
なんだかいまも残るこの杉坂峠に、神々の御意思が働いているような気がしてならないのです。
(参考)真庭市落合地域デジタルミュージアム資料
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コメント
くすのきのこ
・・人の死を~・・というコメがありますね。
60歳を過ぎて自死を選んだのであれば、その御方の信条を考える
べきです。教条的に”人の死を有難がるのは問題だ”と捉えるのは
どうでしょうか?全キリスト教徒たちを敵にまわしますか~?ww
この御仁には果たすべき責務と義理があり、自らの死をもってそれ
がかなえられる社会システムであったのでは?
・・とはいえこの御仁の問題点は、いかに状況が悪く悲惨であり
絶望的であっても、まず民衆の気持ちに飛び込まなかった事では?
まず幕府に助けを求めたのが拙かった。どうせ腹を切る羽目になる
のを覚悟であれば、最初から民衆に対し幕府からの援助は無いと白
を切り、民衆にヤられてもいいという気持ちで復興作業に向かう方
が建設的だったのでは?民衆側にしてみれば、幕府に働きかけもし
ないで・・と憎しみの的になったかも・・しれません・・そうなっ
たら悪代官として名が残ったかも・・。人はつらい時程憎しみの対
象を求めたりしますし。けれど復興は成ったかとw
例えばフクイチ。原発事故の後・・お上の復興作業は?いつまでヤ
バイものを入れた袋を積み上げておくのでしょうか?
結局は郷土を諦めず捨てない意志のみが、問題解決へと漸進してい
く基になるのでは?
ニホンには検索すれば様々な研究技術が転がっています。イスカン
ダル バイオ プロジェクトなどはもっと知名度が上がってもいい
はずなんですが・・他にも放線菌の研究もありますが・・。そして
そういう復興への努力にはかな~り時間がかかり、その間に人の命
も失われる可能性がありますが、そう腹を括らなければ成就できな
い事業ですね。犠牲があれば、それをお祀りする。これが日本の歴
史ですし・・人は皆、先達の屍の上に生まれ、いずれ後代のための
屍になるのだと・・教えてくれている。
2018/04/12 URL 編集
通りすがり
しかしながら、切腹は、また現代でも時折聞く責任を取っての自殺も、やはり間違っています。
よく考えれば解りますが、自身が、それしかないと思い実行したとします。誰しもそれを聞いて、心を打たれるかもしれません。ここに落とし穴があります。
再度、よく考えてください。この一連の流れは、その気持ちだけで十分なのです。切腹をした人に感謝はすれど、本当にそれを有り難がる事は正しい事でしょうか。そんな事を有り難がることなど気持ち悪いとしか言いようがありません。
人の死を有り難がる、生贄の制度と似たり寄ったりです。
大事なのは、命の限り正しき道を歩む事です。当時の彼を取り巻く環境などを鑑みれば、今の我々が彼の行いをとやかくいう筋合いはありません。
ですが、現在、そして未来に、彼の行いを繋げるのならば、我々は彼の行いから今、そして未来をどうすれば良いのかを考え繋げていくのが筋です。
死を持って償うなどという愚かな行為が、まかり通る様な世の中を変えていくのが、また死ななければならないような世の中を変えていくのが、先人から学び、今を生き、未来に繋げる事ができる我々が心得ておく事だと思います。
ちなみに、死についての記事なので、これだけ見ると死刑反対ととられそうなので、書いておきますが、死刑は必要ですが、死刑を実行することがない世の中も創ろうと思えば創れる、です。
死刑が必要な理由は、死を恐れるという枷がなければ、死以外を恐れないものからすれば、枷がなくなるからです。
以上、です。
2018/04/10 URL 編集
heguri
ありがとうございました。
シェアさせていただきます。
2018/04/10 URL 編集