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日本に入寇(にゅうこう・他国が攻めくること)したのは、元寇(げんこう)だけではありません。
元寇の260年前にも「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と呼ばれる事件がありました。藤原理忠(ふじわらのまさただ)の墓

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4月15日(日)13:30
チャンネルAJER「古事記に学ぶ日本型経営学」4月22日(日)13:30
第50回記念 倭塾公開講座5月5日(土)18:30〜
第26回百人一首塾(公開講座)5月19日(土)18:30
第51回倭塾(公開講座)6月9日(土)18:30〜
第27回 百人一首塾 公開講座6月30日(土)13:30〜
第52回 倭塾 公開講座平安時代、寛仁(かんにん)3年3月27日(1019年5月10日)のことです。
突然、壱岐(いき)島に50隻あまりの船がやってきました。
ひとつの船はだいたい15メートルくらいです。
その船に約60人ずつが分乗していました。
彼らは壱岐島に上陸しました。
上陸した彼らは、百人くらいで一隊をつくりました。
先頭にいるの20~30人が斬り込み隊でした。
後ろの70~80人は弓や盾を持っていました。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmと短いものでした。
その弓矢は小型でも楯(たて)を射通すほど貫通力のあるものでした。
上陸した彼らは、その場にあった民家に襲いかかりました。
抵抗する男を殺し女性を殺し、老人や子供を殺し、牛馬を殺しました。
そして生き残った者たちを船に拉致(らち)していきました。
記録には彼らが、
「牛馬を切っては食い、
また犬を屠殺(とさつ)してむさぼり食らう」
と書かれています。
ようやく生き残った人達は船上に拉致され、その中から病人や子供は簀巻(すまき)にして海に投げ入れて殺しました。
略奪後の民家はすべて焼き払われました。
保存してあった穀物(こくもつ)もすべて奪われました。
「暴徒上陸!」
知らせを受けた壱岐の国守(こくしゅ)の藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて上陸地点に向かいました。
しかし敵は3000人の大部隊です。
衆寡(しゅうか)敵せず、玉砕してしまいました。
理忠(まさただ)を打ち破った賊徒は、次に壱岐の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)まで攻め込みました。
寺では、常覚和尚(じょうかくおしょう)の指揮の元、僧侶と地元住民で応戦しました。
そして賊徒(ぞくと)を三回まで撃退しました。
しかし賊徒たちは猛攻をあきらめませんでした。
やむなく和尚は島を脱出し、事の次第を九州の大宰府(だざいふ)に報告に向かいました。
和尚の脱出を助けるために、残された僧侶たちは必死で戦いました。
そして最後は全員死んでしまい、嶋分寺は全焼させられてしまいました。
戦いが終わったとき、壱岐では女子239人、男子若干名が捕虜(ほりょ)として連れ去られました。
壱岐島で生き残った島民は、わずか35人だけでした。
4月7日、対馬からも大宰府に対馬の危急(ききゅう)の知らせが届きました。
対馬守からの報告は次のものでした。
「対馬に五十隻あまりの船でやってきた。
彼らは殺人・放火を行った。
彼らは隼のように迅速で数が多く
とても対抗できない。
壱岐は壱岐守理忠が殺害され、
ほとんど全滅した。
彼らは博多警固所の
目と鼻の先の能古島まできている」
知らせを受けた大宰権帥(だいざいのごんのそつ)の藤原隆家(ふじわらのたかいえ)は、すぐに京都に緊急事態を伝える急使(きゅうし)を飛ばしました。
同時に応戦のために九州の豪族や武士たちに非常招集(ひじょうしょうしゅう)をかけました。
しかし敵は翌8日には筑前の怡土郡(いとぐん・福岡県西部)に上陸してきました。
賊徒(ぞくと)はまたたくまに山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せてしまいました。
そして数知れない米穀類を略奪していきました。
賊徒は圧倒的多数です。
それでも藤原隆家は、少ない精鋭を率いて個別撃破を行い、敵の不意をつく戦法で応戦しました。
賊徒は崩れて、この日の夕方には海に逃れて能古島(のこのしま)に去りました。
体勢を立て直した賊徒は、翌9日の朝、大宰府の警固所(けいごしょ)に来襲し、しきりに火矢を射掛けました。
藤原隆家軍の本拠を焼き討ちしようという作戦です。
しかし藤原隆家の果敢な応酬の前に、逆に賊徒の側が追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に去りました。
そして神風が吹きました。
10日、波風が強くなり、船が足止めとなったのです。
賊徒たちは能古島で身動きできない。
この隙に、隆家は、軍勢を揃えました。
11日午前6時頃、族が、再び大宰府に上陸してきたとき、藤原隆家は、上陸した賊を皆殺しにし、敵の生き残り二人を捕縛しました。
一人は傷ついた男、一人は女でした。
13日、賊徒は肥前国松浦郡(ひぜんのくにまつらぐん)に至り、村里に攻めてきました。
ここでは、源知(みなもとのさとし)という武将が待ち構え、族を皆殺しにしました。
そして賊徒の一人を捕縛(ほばく)しました。
残った賊徒たちは、恐れをなして半島に逃げ帰りました。
その賊徒たちを、高麗国(こうらいこく)が待ち伏せ、戦力の減った残りの賊を全滅させました。
そして日本人の捕虜270人を助けて、日本に送り返しました。
この一連の事件を「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」と言います。
激しい戦いが繰り広げられましたが、この事件で日本側は何者が攻めてきたのか、まったく分からない状況でした。
そこで捕縛した3人の賊徒を取り調べました。
3人とも高麗人(半島人)でした。
彼らは口をそろえて、
「自分たちは高麗を襲った刀伊に捕らえられ、むりやり兵にさせられた被害者だ」と号泣しながら口々に申し立てました。
それが本当かどうかはわかりません。
ただ、暴行傷害窃盗強盗強姦の現行犯で逮捕されても、捕まると「自分はやっていない」とか「自分は無理やりやらされていた」と、号泣しながら被害者を装うのは、刀伊の入寇のあった999年前(来年でちょうど千年になります)も今も変わらぬ半島人の特徴です。
この事件による被害は、記録されただけでも、
殺害された者365名、
拉致された者1289名、
牛馬380匹殺害
家屋45棟以上焼失
です。とくに女子供の被害が目立っていました。
ちなみに、拉致された1289名のうち、高麗によって保護され、帰国できたのは270名です。
残りの千余名は、船上で殺されています。
これは強姦致死ならびに、彼らの食料にされたためだと言われています。
捕まった賊徒は、自分たちは刀伊(とい)によって強制されたのだと言いました。
しかし、
「刀伊というのは、夷狄 (いてき) を意味する半島語」です。
要するに自分たちは、蛮族によって強盗を強制させられていたのだと主張したわけで、刀伊(とい)という種族がいたわけではありません。
刀伊とは女真族のことであるという説もありますが、その女真族が築いた渤海国(ぼっかいこく)は、刀伊の入寇の百年ほど前に滅んでいます。
渤海国は、満洲あたりにあった巨大帝国で、いまのウラジオストックのあたりが東京龍原府(とうきょうりゅうげんふ)と呼ばれて、陸路のシルクロードの終着点となっていた国です。
東京龍原府には、はるか中東から、アラビアの交易商人によって様々な品が持ち込まれ、日本から輸出された大量の金(Gold)と物々交換されていました。
この商業取引を通じて渤海国はたいへんな経済大国となって行ったのですが、金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、経済中心になると軍事がおろそかになるのが世の常です。
渤海国の後背地には遊牧民の契丹国(きったん)があり、貧しい彼らにとって、渤海国の富は垂涎(すいぜん)の的(まと)となりました。
こうして契丹は渤海に攻め込みました。
となりに儲けていて良い暮らしをしている人たちがいるなら、そこに参加して一緒になって儲けたらいいと考えるのは日本人的思考です。
世界はそうではなくて、となりに儲けて良い暮らしをしている人たちがいるなら、その人達を殺して富を奪えばいい、と考えるのが世界です。
こうして交易国家で財を成した渤海は滅びました。
それが西暦926年のことです。
滅んだ側の渤海の人々は、その後、契丹によってさかんに収奪が行われ、もとの渤海は、馬賊(ばぞく)・匪賊(ひぞく)と呼ばれる連中が跋扈(ばっこ)する時代となっていました。
この馬賊や匪賊が用いた武器が、短くて強力な弓矢です。
刀伊の入寇の際に用いられたものと同じものです。
馬賊や匪賊は、自分達で農耕をする習慣を持たず、村々を襲い、人を拉致して食べていた連中です。
その一部が、馬ではなく船を用いる半島の一族と組んで形成した海賊団が、刀伊の入寇を行った連中の正体ではないでしょうか。
繰り返しますが、刀伊という種族がいたわけではなくて、刀伊というのは、半島の言葉で蛮族を意味する言葉にすぎないのです。
要するに、捕まったら「悪さをしたのは蛮族たちであって、自分は被害者だ」と言いはったわけです。
刀伊の入寇の260年後に元寇がありましたが、このとき壱岐対馬を襲った彼らは、船の舷側に島民たちを吊るしました。
これは近年では「矢避けにしたのだ」と解釈されているようですが、死体は矢避けになりません。
そうではなく干し肉にしていたのです。
これは当時の大陸や半島の戦いの常識です。
元寇のあと、我が国に入寇する人たちは、幕末までいませんでした。
どうしてですって?
当然です。
日本が強かったからです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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