たとえば、戦後生まれの私達からすれば、横断歩道が赤信号なら、歩道の上で停まるというのは常識です。
最近では、高校卒業後、選り好みせず、お金さえ払えば、まるで遊園地にでも入るかのように大学に入れるという常識もあります。
しかし戦前戦中には、横断歩道の信号機なんてないし、まして戦地のジャングルに、そのようなものはありません。
また、大学は、圧倒的に数が少なくて入るのも一苦労だし、大卒なら学士様と呼ばれて、それだけで一定の矜持を持って生きることが周囲からも求められました。
いまなら、お金さえ払えば、スーパーでいくらでも食べ物を買うことが出来ますが、昔は食べ物は自分たちで作るものであって、買うものではなかったりもしました。
いまの時代は、「隣は何をする人ぞ」という時代ですが、戦前戦中までは、江戸時代の習慣が一部復活していて、向こう三軒両隣は、五人組として、何かあったら連帯責任を負いました。
隣の家の倅が悪さをして捕まれば、自分の家族も責任を負うのです。
加えて地縁血縁社会であり、各家の名誉を重んじるという感覚も、いまとは比べ物にならないくらい強かった時代です。
しかも、兵隊さんになって外地に向かう人は、徴兵検査で甲種合格者です。
男子の20人にひとりの、成績優秀、身体頑健、性格良好な若者しか合格しない。
その若者には、選ばれた男子という誇りがあったし、東アジアの開放という正義を胸にいだいていたし、実家や親戚、隣近所のおじちゃん、おばちゃん、クラスメイトの友人たちみんなの誇りを背負っているという自覚もありました。
加えて、日本社会の古くからの常識として、兵は竹る人、つまり武を担う者は、世の中をまっすぐに正しくすることを使命とするという神話に基づくアイデンティティとしての常識を共有していました。
ところが諸外国ではそうはいかない。
Chinaでは、軍とヤクザと暴徒は同じものですし、西洋においても軍というのはもともと傭兵で、傭兵というのは日本的な言い方をすれば武装暴力団です。
このことは、グリンメルスハウゼンの『阿呆物語』に詳しい。
昨今の日本では、日本の軍人が、あたかもそれら諸外国の軍に等しいものという前提に立った上でのみ、論説や記述が行われているかのようです。
それは、私などから見ると「いったいどこの国のことを言っているのだ?」と驚くようなことばかりです。
自分も戦後生まれです。
戦後教育に頭から染まって生きてきて、どうにもならない閉塞感を持ち、そこからあらためて歴史を振り返った時、今風の言い方をするなら、それまで聞いていた話、読んだ話と、事実があまりにもちがうことに愕然とすることばかりでした。
歴史は、当時の時代背景やその時代の気分といったものを抜きにして、現代の物差しで読んだら、絶対に読み間違えます。
その時代の一当事者となって事態を眺めたとき、まったく違う歴史が目の前に開けてきます。
以下のお話も、そのひとつです。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)**********
インパールの戦い
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▼あまりにも不自然な作戦▼
大東亜戦争の末期、昭和19年3月から6月にかけて、日本陸軍はビルマ(現、ミャンマー)からインド北東部の要衝、インパールを攻略しようとして作戦を発起し勇戦しました。
けれど補給の不備で攻略を果たせず、空と陸からイギリス軍の反攻を受けつつ退却しています。
この退却ルートで負傷し、飢えて衰弱した体でマラリアや赤痢に罹患した日本の軍人さんたちの大半は、途中で力つきてお亡くなりになりました。
沿道には延々と日本兵の腐乱死体や白骨が折り重なっていたことから、その街道は「白骨街道」と呼ばれています。
このとき生還した兵の記録に次のようなものがあります。
****
道端に腰掛けて休んでいる姿で小銃を肩にもたせかけている屍もある。
また、手榴弾を抱いたまま爆破し、腹わたが飛び散り、真っ赤な鮮血が流れ出たばかりのものもある。
そのかたわらに飯盒と水筒はたいてい置いてある。
また、ガスが充満し牛の腹のように膨れている屍も見た。
地獄とは、まさにこんなところか・・・。
その屍にも雨が降り注ぎ、私の心は冷たく震える。
そのような姿で屍は道標となり、後続のわれわれを案内してくれる。
それをたどって行けば、細い道でも迷わず先行部隊の行った方向が分かるのだ。
皆これを白骨街道と呼んだ。
この道標を頼りに歩いた。
(『ビルマ最前線』小田敦巳)
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イギリス軍はこの退路にもしばしば現れ、容赦なく銃弾を浴びせたそうです。
死体のみならず負傷し罹患して動けない日本兵まで、生死を問わずガソリンを掛けて焼きました。
こうした酸鼻な敗戦だから、作戦を指導した牟田口中将は戦後あらゆる非難、罵声を浴びせられました。
負ければ賊軍は世の習いです。
しかし、いくらそんな批判をしても、失われた生命は帰ってきません。
むしろ戦争を知らない世代である私たちにとっては、そうやって歴史を批判することよりも、そこから「何を学ぶ
か」が大切なことだと思います。
そういう姿勢でこの作戦を見ていくと、驚くべき事実や不思議な出来事が浮かび上がるように、はっきり見えてくるのです。
▼インド兵を温存せよ▼
昭和18年9月の御前会議で絶対国防圏として千島、小笠原、マリアナ、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを含む圏域を定め、この外郭線において敵の侵攻を食い止めようという戦略が決定されました。
インパール作戦は、その基本戦略に反しています。
なぜなら、国防圏の外側にあるインドに撃って出ようというのです。
どうしてこの時期にこういう作戦を立てたのでしょうか。
しかも、はじめは反対していた大本営も、当時日本に滞在していたチャンドラ・ボースの強い要請を受けて、作戦の実施を認めたといいます。
もしかしたらインドの独立に火をつけることで、退勢が濃くなってきた大東亜戦争の戦争目的を改めて世界に訴える意味が重視されたのかもしれません。
守るイギリス軍は15万です。
攻める日本軍は9万です。
亜熱帯のジャングルの中の陸戦ですから、大型の火砲は使えません。
ですから当時のジャングル戦は、なにより歩兵の数がものをいいました。
数で劣る日本軍は不利です。
ところが実は、ほかにインド国民軍4万5千がいたのです。
この兵力を加えれば日本の兵力はイギリスとほぼ並びます。
ところが日本軍はそのインド国民軍のうち、どうしてもという6千人だけを連れて行き、残りをまるごと温存したのです。
普通の国ならこうした場合、インド軍をむしろ前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくしようとするのが自然です。
これはインド独立のための戦いなのです。
インド国民軍を前に出して何も悪いことはありません。
ところが日本軍はそうしませんでした。
むしろ自分たちが戦いの先頭に立ったのです。
戦闘のプロである日本軍の幹部は、これがどれだけ困難な戦いになるかは分かっていたはずです。
だからインド兵を後ろに置き、自分たちが先頭に立ってインドを目指したのです。
日本軍の下級将校も、自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存しました。
こうした日本軍の心意気は必ずやインドに伝わり、インドの決起を促す。
下級将校クラスであれば、当然そのくらいのことは考えていたはずです。
末端の兵士はそこまで具体的には考えていなかったかもしれないけれど、アジアの人々が植民地支配のもとで虐げられ続けてきたことは承知しています。
果たして遠からずインドは独立しました。
その意味を知ればこそ、戦後の東京裁判に独立間近のインドは歴史の証人として、パール(パル)氏を判事として送り込んだのかもしれません。
▼インド解放のため死しても戦う▼
驚くことに、こういう惨烈な戦いであったにもかかわらず、終始日本兵の士気は高かったのです。
インパール作戦は補給を無視した無謀な戦いであったというのが、戦後の定説となっています。
しかし、日本軍は戦闘のプロです。作戦以前の問題として、第一線への補給が困難であることは当然、分かっていたことです。
ましてアラカン山脈に分け入る進撃です。
後方との連絡の細い山道は常に上空からの銃爆撃にさらされて、命令も情報も伝わってこなかったに違いありません。
その中を日本兵たちは、ほんの数人の塊となってイギリス軍と戦い続けたのです。
一人も降伏しない。
誰も勝手に退却しない。
敗戦となり軍の指揮命令系統が崩壊しても、ひとりひとりの日本兵は弾の入っていない歩兵銃に着剣して、後退命令が来るまで戦い抜いたのです。
そうした闘魂の積み重ねで、一時はインパールの入り口を塞ぐコヒマの占領まで果たしています。
前半戦は勝っていたのです。
食料乏しく、弾薬も尽き、医薬品は最初から不足し、マラリアやテング熱、赤痢も横行するなかを、日本軍は二カ月間も戦い抜いたのです。
有名なワーテルローの戦いだって、たった一日です。
戦いの2カ月というのはものすごく長い期間です。
相当高い士気がなければ、こんなことは不可能です。
▼世界最高の軍紀を誇った日本軍▼
日本軍の軍紀は称賛に値すべきものでした。
餓鬼や幽鬼のような姿で山中を引き揚げる日本の将兵たちのだれ一人、退却途中の村を襲っていないのです。
すでに何日も食べていない。
負傷もしている。
病気にも罹(かか)っている。
そんな状態にもかかわらず、退路に点在していたビルマ人の村や民家を襲うどころか、物を盗んだという話さえ、ただの一件も伝えられていないのです。
これは普通では考えられないことです。
銃を持った敗残兵が民家を襲い、食糧を略奪するなどの乱暴をはたらくのは、実は世界史をみれば常識です。
戦場になったビルマですが、現地の人たちは戦中も戦後も、日本軍に極めて好意的です。
それは日本の軍人が、そういう不祥事を起こさなかったからです。
戦後、実際にインパール作戦に従軍された方々によって、たくさんのインパール戦記が刊行されたけれども、驚くことは、民家を襲わなかったことを誇る記述を、誰一人として残しておられないということです。
戦争に関係のない民家を襲わないなんて「あたりまえ」のことだったからです。
むしろ、退却途中でビルマの人に助けてもらった、民家の人に食事を恵まれたと感謝を書いている例が多い。
それが日本人です。
そういう生き方が我々の祖父や父の若き日であったのです。
▼勝利を祝わなかったイギリス軍▼
この戦いはイギリス軍15万と日本軍9万の大会戦です。
有名なワーテルローの戦いはフランス軍12万、英蘭プロイセンの連合軍は14万だから、ほとんどそれに匹敵する歴史的規模の陸戦です。
にもかかわらず、不思議なことにイギリスは、このインパールの戦いの勝利を誇るということをしていません。
戦いのあとインドのデリーで、ゴマすりのインド人が戦勝記念式典を企画しました。
けれどイギリス軍の上層部は、これを差し止めたと伝えられています。
なぜでしょうか。
理由は判然としません。
しませんが、以上の戦いの回顧をして、私は何となく分かる気がするのです。
それは、
「第一線で戦ったイギリス軍は、
勝った気がしなかったのではないか」
ということです。
自分たちは野戦食としては満点の食事を取り、武器弾薬も豊富に持ち、必要な物資は次々と補給される。
そして植民地インドを取られないために、つまり自国の利益のために戦っている。
それなのに日本兵は、ガリガリに痩せ、誰しもどこか負傷し、そして弾の入っていない銃に着剣して、殺しても殺しても向かってくる。
それが何と自国のためではなく、インドの独立のため、アジアの自立のためです。
そんな戦いが六十日以上も続いたのです。
ようやく日本軍の力が尽き撤退したあとに、何万もの日本兵の屍が残りました。
それを見たときにイギリス人たちは、正義はいったいどちらにあるのか、自分たちがインドを治めていることが果たして正義なのかどうか・・・。
魂を揺さぶられる思いをしたのではないでしょうか。
実際、インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、当時の帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっています。
やる気がまるで感じられないのです。
ガンジーたちの非暴力の行進に対して、ほとんど発砲もしないで通しています。
以前のイギリス軍なら、デモ集団の真ん中に大砲を撃ち込むくらいのことは平気でした。
そして、戦後の東京裁判でイギリスは、インドがパール判事を送り、パールが日本擁護の判決付帯書を書くことについて口を出していません。
そこに私はインパール作戦が世界史に及ぼした大きな、真に大きな意義を感じるのです。
▼「分かる」ということ▼
唯物史観という言葉があります。
犯罪捜査と同様の手法で歴史を観ていく考え方で、すべては証拠に基づいて判断する、状況証拠は証拠にならない、というものです。
けれど、日本の歴史というのは、むしろ書いてあることは「・・・と日記には書いておこう」という程度のものが
多いのが実際です。
たてまえ建前上のことを文字にして残し、その実情や心は、分かる人には「分かる」ようにしておく。
それがあたりまえのように行われてきたのが、日本の歴史です。
血の通った人間が、悩み苦しみ、決断して行動し、時には死を賭して戦い、そういった人生がいくつも重なりあって歴史という大きなドラマは紡がれているのです。
多層織りなす歴史を単なる記録として扱ってしまえば、そこから学ぶものは血が通わない無機質な、実際には役に立たない知識ばかりになってしまいます。
「分かる」ということは、たんに書いてあることを覚える、知るということとは意味が違います。
歴史の奥に隠された先人の意志や心情にまで思いを馳せることで、歴史は色彩豊かな世界を私たちに見せてくれ、真に役立つ知識を授けてくれるのだと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
なおと
まだ時間はかかるかもしれませんが、いつか必ず 世界が日本を評価すると思われます。
ここまでして 白人至上主義からアジアを解放し植民地政策を終わらせようと死力を尽くして戦った先人方に心から敬意を表します。
インパール作戦で 犠牲者は数万人と聞いておりますが、決して無駄死にではありません。遺骨の収集もままならないようですが、必ず靖国神社に集っていると信じております。
機会があれば 参拝して 先人方に御礼に行きます。
2018/04/21 URL 編集
kouken
以前”タイ国チェンマイ県の国立バンガード高校敷地内にある英霊追悼の碑周辺に桜の木をと!”メールをしたものです。
私は2月にタイ国を訪れ、花見をしました。所々の街路樹にヒマラヤ種と思われる桜が満開になっていました。私はこの夏に宿泊先の農家の敷地内に試験的に木を植える予定です。
さて本題に入ります。村のお祭りであるおばあちゃんからの話なのですが、”ある日、日本の兵隊さんたちがサンパトーン町にみんなで米を引き取りにきた。みんなニコニコしていたよ。”と言っていました。
また、”赤ちゃんをおんぶしていたよ!”という話もあるようです。
夏に行った時は、もっとたくさんの証言を仕入れてくるつもりです。
最後にねずさんにお願いがあります。たぶんNPO慧燈を紹介されたと思いますが、メールの返信が滞っています。桜を植える際に遺族の方々と学校の許可など相談してことがあります。何卒力を貸していただきたと思っています。よろしくお願いします。
2018/04/19 URL 編集
Kaminari
2018/04/19 URL 編集
にっぽんじん
文大統領の新北政策で、南北が共同で「融和ムード」に世界を引っ張っています。こうなるとトランプ大統領も対応が難しくなります。
中露韓が手を取って北支援に動けば北への制裁は骨抜きになります。
安倍首相とトランプ大統領が会談を行いました。
最大圧力堅持の方針は変わらないでしょう。
打つ手は「韓国放棄」しかないと思います。
韓国は文大統領がいる限り日米を裏切ります。もうすでに裏切っています。
米朝会談でトランプ大統領は「完全な核放棄と拉致家族の帰国」と「米軍の韓国撤兵」を同時に行うことで交渉すれば北も動くかも知れません。
撤兵後は南北朝鮮で好きにさせればいいのです。
韓国のために自国兵の命を掛ける必要はないのです。
朝鮮半島には一切関与しないと断言すれば北も文も喜びます。
南の国民は嘆くかもしれないが、時間を掛けて交渉すべきものではないと思います。
そうなって欲しいと願うものです。
2018/04/19 URL 編集