▼新潟の米作り
新潟県内には縄文時代の遺跡が多数あります。
なかでも新潟といえば火焔土器が有名です。
古くからこの地に人が暮らしていました。
時代が下って大宝律令の頃には、米ではなく絹織物などによる年貢の納品も認められていたのですが、江戸期になると、納税は、すべて米になりました。
その江戸時代というのは、気象環境が非常に厳しかった寒冷期です。
寒冷地での稲作がどれほどたいへんなものか。
加えて江戸時代後期には、天明3年(1783)と、天保7年(1836)に大飢饉が起きています。
新潟県中部では、大秋山・矢櫃村、甘酒村・高野山村が飢饉のため、村自体が全滅しているのです。
天明3年といえば、いまからたったの235年前のことです。
なぜ飢饉になったかというと、この年の7月に群馬の浅間山が噴火したのです。
噴煙が空を覆いつくし、記録によると昼間でも提灯(ちょうちん)を持って歩かなければならなかったほどだったそうです。
このため冷夏になります。
冷夏は、田畑の作物に影響を与え、収穫が激減してしまったのです。
新潟は冬は雪に閉ざされます。
夏場しか田畑を営めないのです。
そこを冷夏が襲えばどうなるか。
魚沼地方ではこのとき、木の根や雑草を食べて露命をつないだそうです。
それでも秋山郷では、大秋山村と矢櫃村で、村人が一人残らず飢え死にしてしています。
いったいそのどこが、米処で豊かだったのでしょうか。
それから53年後、ふたたび飢饉が襲いました。
それが天保7年(1836)の大飢饉です。
この年は5月に大雨と洪水、9月には大雪が降りました。
このため田畑の作物がまったく獲れなくなってしまったのです。
食う者がなくて体力が落ちた人々を、さらに伝染病が襲いました。
飢えと病気で、新潟の甘酒村・高野山村が全滅しています。
半世紀前の悪夢の再来でした。
庄屋さんに福原新左衛門さんという方がいました。
当時の庄屋さんというのは、いまでいったら農場の経営者です。
福原新左衛門は、村々を回って飢饉の被害情況を克明に調べています。
それはあまりに酷い惨状でした。
見かねた福原新左衛門は、小千谷片貝村で造り酒屋をしていた佐藤佐平治を尋ねました。
佐藤佐平治は「忍冬酒」「粟盛酒」という薬用酒を開発し、江戸時代の健康ブームに乗って江戸に出荷して大儲けをしていたのです。
ちなみにこの佐藤家は、大店でありながら、飢饉のたびに飢えに苦しむ人々を救っています。
なかでも第21代の佐藤佐平治は、天保の大飢饉のときに、自宅で酒を造る大釜を使って、お粥や雑炊の炊き出しをして多くの人を救っています。
近くの村はもちろん、遠くからも人々がつめかけ、月に千人以上の人々に毎日の食事を与えていたというからすごいです。
その佐藤佐平治を、庄屋の福原新左衛門が訪ねたのです。
そして秋山郷の飢饉の惨状を詳しく話し、村への支援を要請しました。
佐平治は、こころよく、これに応じてくれました。
庄屋の福原新左衛門は、魚沼に帰って、村人たちにそのニュースを伝えます。
そして村から選抜された30人の若者が、食糧を受け取るために出発しました。
魚沼郡から、片貝まで、片道60キロの道のりです。
いまの暦だと12月ごろのことです。
この地方は、いまでも吹雪になると一時間ほどで自動車がすっぽりと雪に埋まってしまうほどの豪雪地帯です。
しかも当時はいまよりもっと気温が低かった時代です。
片貝村に着いた人々は佐藤家で一泊し、翌日、受け取った米や稗(ひえ)の俵を一人一俵ずつ背負い、帰路につきました。
俵は一俵が60キロの重量があります。
それを背負って往復4日の道のりです。
このとき、米の運搬は、佐藤家で受け取った米や稗を背負って秋山郷まで、交代しながら七回にわたって行われたそうです。
のべ二百人以上の人が救援の食糧を運びました。
気の毒なことですが、当初に運搬をした農家の若者たちは、みんな裸足だったそうです。
片貝村の近くの真人村の庄屋だった福原太郎左衛門は、村の道を重い俵を背負って通っていく人たちが、雪の積もった道をはだしで歩くと聞き、「冷たかろうに」と、村人たちに言って大急ぎでわらじを作らせています。
やがて、できあがったわらじが秋山郷の人たちに届けられた。
わらじは千足あったそうです。
どんなにうれしかったことか。
こうして佐藤佐平治から送られた米や稗によって、秋山郷の人たちは露命をつないでいます。
救援を頼んだ庄屋の福原新左衛門は、その後も米や稗の運搬や配分などについて寝食を忘れて取り組んでいます。
しかし、ただでさえ栄養事情が悪かったことに加え、寒風の中で無理を重ねた福原新左衛門は、過労が重なってとうとう病気になっています。
すでに妻は他界しており、新左衛門の娘が一生懸命看病したそうですが、栄養失調と寒さと過労のために、新左衛門の死後、まもなくその娘も一緒に亡くなっています。
新左衛門、このときまだ43歳だったそうです。
このとき佐藤家が住民のためにと供出した支援物資は、籾と稗が1200表(1080石)、昆布1万把、さらに御救方手金10両、さらに協力金50両だったそうです。
さらに佐藤佐平治は、その50両を、自分が結東村から借り受けたことにして、利息7分(3両2分)を毎年村に払い続けてくれます。
なんとこの支払いは昭和42(1967)年まで続きました。
昭和42年ですよ。
実に135年間も佐藤佐平治の好意は続けられたのです。
その佐藤佐平治の志を継いで、この地をなんとかして救いたいと願った農林省の技官がいます。
高橋浩之といいます。
時は戦時中です。
戦況は日に日に悪化するし、全国的に食料事情がひっ迫していた時期です。
ただでさえ痩せた農地で、しかも冬場に農業ができない新潟です。
このままでは、いつまた飢饉になるかわからない。
すこしでも多くの米が収穫できるようにするためにはどうすればよいか。
そのためには、米の品種を改良し、痩せた土地でもたくさんのおいしいお米が獲れるようにする以外にない。
新潟県農事試験所に主任技師として赴任した高橋浩之は、晩生(おくて)種の「農林22号」と、早稲(わせ)種の「農林1号」をかけ合わせて、すこしでも稔りの多い品種を作ろうとしました。
田植え作業には、県農試付属の農業技術員養成所の生徒の手を借りました。
除草作業には、長岡市内の女学校に手伝ってもらっています。
当時を知る元新潟県農業専門技術員の村山錬太郎氏は、当時を振り返って次のような手記を残しています。
「高橋さんのような高官の主任技師が、
素足で真っ先に田んぼに入っていく。
そんな人はいままで誰もいませんでした。
あのころ、夕方遅くなっても、
圃場(ほじょう=耕地区画のこと)に
独特の麦わら帽子をかぶった
高橋さんの姿が見え、
ああ、今日もまた高橋さんは頑張って
働いているなあと思ったものでした。」
新潟という過酷な自然環境の中で、すこしでも多くの稲穂をつけ、収穫の多い米を作る。
そのために彼は、毎日何回となく、水田に入りました。
ときには過労のために、めまいがして、田んぼの畦(あぜ)にしゃがみ込んだりしていたたこともあったそうです。
そして昭和20年(1945)、戦争激化のため育種事業は全面中止になってしまいます。
それでも「せっかく作った新種の米を、絶対になくしてはならない」と、稲のモミをガラスケースに入れて、良好な乾燥状態を保ちながら、大切に保管しました。
そして8月1日、新潟が空襲されました。
高橋さんの家は全焼。大切に付け続けた育種に関する資料も全部焼けてしまいました。
田んぼもめちゃめちゃです。
研究室も灰燼になりました。
このとき高橋さんが防空壕に持って行ったのは、通帳でも印鑑でも着替えでも手回り品でもなく、壊れやすいガラスのケースにはいった種モミだけでした。
戦争が終わりました。
高橋さんは、春の訪れを待って、昭和21年(1946)から、再び研究を再開しました。
そしてこの年の秋、農林22号と農林1号をかけ合わせた品種の第一号がようやく収穫になりました。
しかしそのときすでに高橋さんの身体はボロボロでした。
やむなく農水省は、彼を埼玉県・鴻巣の農業試験地へ転勤させています。
けれど省の先輩の思いもむなしく、彼は53歳でこの世を去ってしまいました。
原因は、過労でした。
高橋さんと入れ替わりに新潟の農業試験場にやってきたのが、外地から復員してきた池隆肆(いけ たかし)でした。
池さんは昭和19年に出征し、終戦後一年経ってようやく復員できた人でした。
高橋さんの志を継いだ池さんは、「農林22号X農林1号」の第2世代の生育に取り組みました。
そしてようやく刈り取りの季節を迎えたのですが、新種の「農林22号X農林1号」は、大量の稲穂をつけた分、稲穂が重いのです。
そのため多くの稲が収穫前に倒れてしまう。
当時、農林省稲担当企画官だった松尾孝嶺が、育種関係の農林省内の会議で、
「新設される福井実験所へ回す
育種材料を出してくれ。
捨てるものがあったら、
福井へ送ってくれ」
と言いました。
こうして、高橋さんが開発した「農林22号X農林1号」は、「捨てるもの」として、研究を福井に移されてしまいます。
ところが翌、昭和23年(1948)6月28日、福井を大地震が襲いました。
試験田にある稲は、水が抜けたり土砂が噴出したりして、栽培していたほとんどが壊滅してしまいました。
そんな中で高橋さんが開発した「農林22号X農林1号」だけは、「捨てる品種」として、水はけの悪い湿田に、いささか早めに植えられていたのですが、これが元気に生き残るのです。
この事件を通じて昭和25年には「農林22号X農林1号」の評価が高まり、福井農業試験場では、「農林22号X農林1号」に、「ホウセンワセ」という名前をつけ、全国20の府県で適応性試験のための生育をすることになりました。
ところが評価が芳しくない。
やはり稲穂が重すぎて、収穫前に、多くの稲がべったり倒れてしまうことが問題とされたのです。
この新潟生まれの「ホウセンワセ」をふたたび新潟に取り戻したのは、当時、新潟県農業試験場長の所長だった杉谷文之さんでした。
彼は、昭和31年(1956)に「ホウセンワセ」を正式品種にするよう、農林省に申請し、たまたま順番で、この「ホウセンワセ」に、「農林100号」というキリの良い名前をもらいました。
気をよくした杉谷さんは、この新種に、未来への夢を込めて「越の国、光り輝く=コシヒカリ」と命名しました。
そしてコシヒカリを定着させようと、農林省への申請を続け、昭和34年には「有望品種」としての表彰をもらいます。
ところがコシヒカリは、いっこうに農家に定着しない。
当時はまだ米は「配給米」の時代です。
うまい米もまずい米も、政府の買い入れ価格は同一です。
農家としては品質向上よりも安心して収穫できる品種を育てたい。
いくら味が良いと言っても、倒れやすくて、イモチ病に罹りやすいコシヒカリでは、経済的メリットが少なかったのです。
このため杉谷所長は、農林部参事に左遷されてしまいます。
そして昭和37年12月には依願免職になってしまう。
彼は失意のうちに故郷の富山に帰っていきます。
しかし、高橋、池、杉谷の意思を継いだ新潟農業試験場のスタッフたちは、その後もコシヒカリの研究を続けました。
そして弱点である、稲穂の倒れやすさと、イモチ病への抵抗に対して、収穫前の稲の色によって、肥料を抑制する方法で克服できることを発見するのです。
この「農薬の使用を抑制する」ことは、同時に「農薬による味の劣化がない」というメリットもありました。
しかも豪雪地帯だから水が良い。
日本海型気候だから夏の日照時間が長い。
なかでも魚沼は、盆地だから気温の日較差が大きい。
おかげでイネの消耗が少なくて、大粒で糖度が高く、デンプンをたくさん含む味の良い米ができる。
かつて飢饉に苦しんだ、新潟県・魚沼という特殊な土壌が、そのまま素晴らしい米の収穫に適したものへと変化したのです。
所員たちは、そのお米に
「魚沼産コシヒカリ」
と命名しました。
魚沼産コシヒカリといえば、日本穀物検定協会の米食味ランキングで、、平成元(1989)年から、なんと28年連続で「特A」の認定を受けている国内最高評価のお米です。
値段も高いけれど、味もおいしい。
湯気のたった真っ白なご飯。
独特の甘み。
お米ってこんなにおいしいものかと、感動できるのが「魚沼産コシヒカリ」です。
つらく貧しい痩せた豪雪地帯で、何度も飢饉に遭いながら、それでも人と人とが互いに支え合い、助けあって生きてきた。
百年以上にもわたって、村との約束を守り、村の援助をしてきた人がいた。
その人の心を受けて、なんとしてでも、それこそ石にかじりついてでも、地元に適した良いお米を作ろうと努力をした人がいた。
そのために過労死さえした人がいた。
そういう先輩たちの、血の滲むような努力が、もしかすると天の神を動かし、高橋浩之という天才技官を新潟に派遣し、そして日本一どころか、世界一美味しい魚沼産コシヒカリを生んだのです。
では、どうして新潟は、江戸時代、いやそれよりももっと古くから人口が多かったのでしょうか。
▼日本海交易の拠点として
江戸時代の物流は、河川や海を用いて重量物を運ぶというものでした。
トラックや貨物列車のなかった時代、陸上を大八車に物を乗せて運ぶよりも、海や川を船を使って物を運んだほうが、はるかに高率が良かったのです。
たとえば大阪から江戸に商品を運ぶ場合、紀伊半島を回って太平洋に出れば、黒潮に乗って簡単に江戸まで北上できそうに思えますが、その途中には熊野灘、遠州灘といった波の荒い難所があります。
加えて冬場はその黒潮が沖合へと去りますから、船は江戸に着かず、強い潮流で太平洋に流されてしまうのです。
これでは安全に物を運ぶことができません。
ではどうするかというと、大阪を出港した船は、瀬戸内の穏やかな波間を進んで、下関のある関門海峡に向かいます。
関門海峡は、源平合戦の壇ノ浦の戦いで有名な通り、時間帯によって潮の流れが変化します。
これを上手に使って、船は一気に日本海側へと出ます。
日本海側に出ますと、朝鮮海峡を通り抜けた潮流が、ものすごい速さで日本海の日本側の沿岸に沿って北上しています。
これが日本海流で、この潮の流れに乗ると、船はほとんど苦もなく北上することができます。
そのまま船に乗っていると、船は樺太まで行ってしまいますから、青森のあたりで津軽海峡を抜けて太平洋側に出ます。
すると太平洋側には、親潮といって寒流が日本列島に沿って南下しています。
とりわけ夏場は、この親潮が千葉県房総半島沖まで下っていますから、この潮の流れに乗って、最後には江戸湾に入って、物を江戸に届けたのです。
これですと航海が極めて安全で安心なものとなります。
なにせ、物を満載した船は、重いし、安全に物を届けるためにはこのルートが最も安心だったのです。
江戸から大阪への帰りの船は、荷物が少ないので、代わりに人を乗せて、太平洋側を大阪まで航海しました。
この船便は、お伊勢参りや金毘羅参りに活用され、大人気でした。
行きは船旅、帰りは陸路です。
こうした日本海ルートの船便の歴史は古くて、7〜10世紀に満洲あたりで栄えた渤海国と日本の間では、さかんな交易が行われていました。
これは日本海流に乗って樺太まで北上し、そこからリマン海流と呼ばれる北極海から流れ込む寒流に乗って大陸側を南下し、最後には朝鮮半島の東側を通って日本に帰ってくるという航路です。
渤海の中心地となったのが、いまのウラジオストクで、ここが龍原府と呼ばれ、交易の中心地として栄えました。
そしてこの時代、シルクロード終点が、まさにこのウラジオストクでした。
中東のシルクロード商人たちは、荷物をラクダに乗せて、はるばるウラジオストクまでやってきました。
そのウラジオストクには、日本から金(gold)が運ばれ、その金と品物が物々交換されました。
だいたい、シルクロード商人たちは、儲かると思うから、はるばるシルクロードをやってくるわけで、その意味では金(Gold)のあるところまでやってくるのは、当然のことであったわけです。
この日本海交易によって日本に運ばれた物産は、若狭湾から琵琶湖ルートで京都に運ばれるか、関門海峡を経由して瀬戸内を通って都に運ばれました。
そして空になった船は、越後に向かい、そこで金を積んで、また渤海へと向かったわけです。
(ちなみにこの時代の金は、主に東北地方で産出した金です。佐渡の金山の発見は17世紀の始め頃、つまりずっと後の時代です)
紫式部の父親は、最後は越後の国司を務めていますが、当時の越後は、国内最大の黄金の国で、もっとも国司としての実入りが多い国でした。
つまり国司の中でも越後の国司になるということは、それだけで莫大な財を得ることができる任官とされていたのです。
お米が取れないのに豊かだったのは、海上交易の中継地として大発展していたからで、ここからたとえば金物細工といえば、越後の名物とされていました。
いまでもたとえば燕三条の金物細工は、日本一どころか、世界一とされています。
なかでも仏教建築物などに用いられる様々な金細工は、越後産のものが最高とされ、このため全国の寺社の黄金に彩られた本土の金細工のほとんどは、日本海側の加賀から越後にかけての産でした。
お金になる産業が発達すれば、そこに人・物・金が集まるのは世の常で、おかげで越後は農業面では、苦しい状況ではあったけれど、産業の育成によって、日本最大級の人口を誇る国となっていたのです。
歴史は、ちゃんと学んでいただきたいものですね。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
ねず先生はゲコですけど、私は少しだけ嗜みます。
スンマセン(汗)
さて、どんな米でも日本酒は造れますが、上質の酒は「酒造好適米」から造るのが常識だったそうですね。
ハイグレードな清酒造りに「食用米」は不向き?
その理由は?
『食用米は小粒で心白が無い。タンパク質と脂肪が多く、吸水率も低いからダメだ』
そんな固着観念に固執してる酒杜氏ばかりではありません。
食べて美味しい地元の米で、何としても飲んで旨い酒を醸す!
研究の甲斐あって、人気の高い有名な食用米の殆どから、上質の酒が次々と誕生しました。
今では、食用米100%専門の醸造元もあります。
私も「左利き」の端くれとして愛飲してます。
金箔入りもいいですね。
お米という素晴らしい食糧!
感謝感激雨霰です。
2020/05/08 URL 編集
takechiyo1949
お米を作るってホントに大変だな~と思ったものです。
手伝うと必ず新米が1俵届きます。
楽な暮らしぶりではありませんでしたから、お米を頂いて母も助かっていたと思います。
2019/04/28 URL 編集
くすのきのこ
旧石器時代に使われた黒曜石の中でも上質な、伊豆諸島・神津島の黒
曜石は、27000年前には本州に運ばれていたそうです。太平洋の海路。
また日本列島産の黒曜石は、沿海州・樺太・アムール川流域・シベリ
アでも見つかっているそうです。日本海海路・陸路を通り、たぶん何
人もの人々の手を経て黒曜石は運ばれたのでしょう。
そして縄文・弥生時代に宝玉とされた翡翠は、長野県北部~新潟県西
部を流れる姫川から産出され、北海道から九州まで各地に運ばれてい
ます。これには日本海ルートが使われたでしょう。
日本列島は一時大陸と陸路で繋がっていたと。でもそれもひと時の事。
石器時代の遺跡は海底に沈んでしまったものも多いはずです。縄文海
進の時には海岸線が上がってしまいました。こんな海と付き合いなが
ら、日本列島に住む人々は2万年以上前から海上運送を営んできたと。
日本列島には出アフリカのY染色体の三大グループから出た3系統が
分布しているそうです。欧州、インド、中国も2系統しか分布してな
いそうで・・。日本の面積と人口を考えると珍しい現象だそうです。
旧石器時代から黒曜石の分布から見るに各地の交流があったわりには
・・国土の7割が山ですから僻地も多いし、島も多いですが・・争い
もあったでしょうが、なんとな~く共存共栄の流れが続いて、なんと
な~く混じりあってきたんでしょうねw日本語の語彙の8割近くがオ
ーストロネシア系言語・南方海洋系で、文法がツングース系・北方大
陸系なのも、なんとな~く混じり合った結果かとw日本列島の八百万
の神々の御気持ちかもしれませんね。
2018/04/25 URL 編集
ラベンダー
素敵なコメントをありがとうございました(^-^)
これからも、いろいろ教えてください♪
コメント欄が楽しみになりました♡
子どもを守るための、日本人の祈り。
美しいですね。
2018/04/24 URL 編集
Kaminari
2018/04/24 URL 編集
ラベンダー
美味しい魚沼産コシヒカリができるまでの人々の努力や、愛の深さで生み出されたことなどが良くわかりました。
魚沼産コシヒカリをネット検索した方が、こちらのブログにヒットすると良いですね。
また倭塾等の講演会で、地図を使って昔の貿易の仕組みを説明していただけると、よりわかりやすくなると思います。
春日部には、「牛島の藤」という樹齢1200余年の藤があります。
その長い時の流れには、魚沼産コシヒカリと同じような感動の歴史がたくさんあるはずなのですが、ネット検索では、あまり情報がないのです。
またいつか、こちらの事も書いていただけると嬉しいです。
2018/04/24 URL 編集
ステディベア
仰るとおりです。
背守:子供の着物の背中に着けた魔除けのお守り。大人の着物の背中には反物を縫い合わせたために生ずる縫い目が縦に通る。この縫い目に霊力が宿り、背後から忍び寄る魔物を防ぐとされた。しかし、身幅の狭い一つ身の子供の着物には背縫いがない。そこでわざわざ縫い目を施して魔除けとする風習が生まれた。
病や不慮の事故で子供が命を落とすことが今よりはるかに多かった時代、健やかな成長を祈って、母親が針を運んだ手仕事には我が子を慈しむ温もりが溢れている。(「背守り」LIXIL出版)
江戸時代から、明治、大正昭和初期まで日本には貧しくも実に多彩で豊かな風土と温かい慣習が存在していました。大東亜戦争が悪かったという誤った教育により日本のタガがすっかり外されてしまいました。
「年寄りはもう口を挟むな、黙って隠居しておけ」、と言われようとも、こうして発言を続けていきとうございます。
2018/04/24 URL 編集
しょうちゃんのつぶやき
しかし、ねずさんのブログでは庶民の中に多くの立派な人達が自分達の郷土のために自分の人生をかけて貢献している人々が如何に多かったのかを教えてくれます。庶民みんなを歴史や道徳の本で紹介しなければと感じるほどです。
それにしても現代そして今の国会議員の皆さんで国のことを第一義に考えて行動している人は何人いるのでしょうか?少なくとも10%も行かないのではないでしょうか?
学歴(暗記能力)優先の世の中を変えて行く必要があるようです。国民から選ばれた議員の指示命令に寄らずして官僚は何をすると言うのでしょう。
今の議員さんたちの行動には事実に基づく反省も何もありません。理由も無く相手を攻撃する資質は日本人・武士道にはないDNAです。
東大法学部卒の元エリート官僚、山尾しおり、小西洋之、豊田真由子、玉木雄一郎さん等々本学を学ばず、実学のみで如何に自分だけがうまく立ち回るかで行動してきた政治家の姿をご覧下さい。まさに本末転倒なのです。
今一度前川次官に代表される文科省から教育行政を取り戻さねばなりませんね。
2018/04/24 URL 編集
heguri
シェア・リブログさせていただきます。
ありがとうございます。
2018/04/24 URL 編集