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日本人の愛と勤労と奉仕の心を証明する”あるもの”とは、一体何でしょうか。
それは1万年の歴史を持つ”あるもの”です。
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倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)12月8日(土)14:00
倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)勾玉の形は、写真で見たり、学校で習ったりしてご存知の方も多いと思います。曲玉とも書きます。
『古事記』では「曲玉」、『日本書紀』では「勾玉」です。
縄文時代の遺跡から多数出土しており、古いものになると一万年以上も昔の遺跡から出土しているものもあります。
また三千年前には、朝鮮半島へも伝播しています。
日本では長い歴史を持った品物ですが、もともとは縄文初期の頃の耳飾りが原型といわれています。
その後、古代日本の装身具か、祭祀に用いられたものとされています。
その勾玉について、こんな話を聞いたことがあります。
いまから2700年ほど前に神武天皇が初代天皇として日本を開国なさいましたが、天皇家は、それ以前に上方様(うわかたさま)と呼ばれた時代があって、これが約6千年続いたのだそうです。
その上方様の時代の天皇家は末子相続制で、子供たちの中でいちばん最後に生まれた男の子が、家を継ぐことになっていたのだそうです。
子だくさんの時代です。
たくさんいるお兄ちゃん、お姉ちゃんたちは、民間に降りて結婚し、一般の人々と血縁関係を結びました。
こうして人口が増えてくると、お兄ちゃん、お姉ちゃんたちの一部は、新しい土地を求めて土地を去って行きました。
そのときに、上方様の血族であるという証に、勾玉をもらっていったというのです。
勾玉は湾曲した石ですが、その湾曲した部分には、ご皇室の魂が宿るとされました。
去って行ったそれぞれの家族は、それを我が身の係累(けいるい)の「証(あかし)」として大事な折には身に
つけることを伝統とした、というのです。
そうして何世代か経(へ)ると、それぞれ他国の土地に定着したお兄ちゃん、お姉ちゃんたちが、はじめはひとりふたりだったものが、幾世代を経て、何百人かの集落となります。
こうなると、同じ先祖を持つ親戚同士(ムラ同士)でも何百年も交流がなくなることがあり、そういうムラ同士の間で、ある日、なんらかのトラブルが起きる。
争いが始まろうとするわけです。
ムラ同士の争い事ですから、これは一大事です。
村長さんは胸にご先祖伝来の勾玉をさげて、皆と一緒に出かけます。
そして敵の手勢と向かい合う。
するとなんと、相手の村長の胸にも、同じ勾玉が!
そこで、
「やあやあ、あなたも上方様のご一統ですか」
「ハイ、私は何代の○○様の時代にこの土地に来た者です」
「そうですか。私は何代の□□様の時代ですよ」
「それなら、お互い親戚ではありませんか。
ならば戦いなどやめにして、
一緒に酒でも酌み交わしましょう」
というわけで、争い事が避けられたのみならず、ムラ同士の交流が深まり、互いに発展することができたのです。
係累の「証」としての勾玉が、争い事を回避させ、村々の発展に寄与(きよ)したという話です。
私は、このお話を聞いたとき、なるほどなあと思いました。意外とそれが真実であったのかもしれない、そんな感じがしました。
記録もないはるか古代のお話ですし、その時代に生きていた当事者ではありませんから、実際にどうだったのかは分かりません。
しかし神武天皇以前から天皇家が日本を統べる皇家であったというお話は、むしろとてもリアルな感じがします。
歴史から学ぶ日本人らしさ▼
縄文時代初期の頃の日本の人口は、日本列島全体でおよそ二万人程度であったろうといわれています。
その人たちの血は現代にまで延々と続いて、私たち日本人に受け継がれているわけです。
大雑把な計算になりますが、一組のカップルから誕生した子孫は、約700年で1億2700万人になります。
ということは、縄文時代初期(約1万6500年前)からといわず、神武天皇の即位した約2700年前からだけでみても、日本人であれば、誰しもが共通のご先祖さまを何人も持っていることになります。
つまり生粋の日本人なら、何十世代という尺度でみれば、みんな血のつながった親戚です。
そして勾玉の物語は、私たち日本人はみんなどこかで血がつながっていて、争いを避け、お互いに協力しあって生きてきたことを思い出させ、日本人はどうあるべきかを私たちに教えてくれているような気がします。
あたりまえのことですが、人でも国でも団体でも、平和なときはみんないい人です。
どんな悪人だって、ニコニコと談笑しているときはいい人になります。
同様に、世界中どこの都市に行っても、普段は同じようにお店が並び、若者がデートし、家族連れがいて、ビジネスマンがいて、普通にいい街です。
大切なのは、そこに災害や事故のような大きなストレスが加わったときに、人々や集団がどうなるかです。
いざというときには、人間の本性が出てしまいます。残念なことに海外などでは、災害時に略奪などの非人道的な行為が発生するのは珍しくないそうです。
東日本大震災は、その「いざというとき」に互いを思いやり、協力しあう日本人の素晴らしさを、あますことなく発現してくれました。
では、その日本的美質や、日本人らしさというのは、どこから来たのでしょうか?
太古の昔、まだ文字がなかった時代。
大切なことは、みんな口伝で伝えられたことでしょう。
その大切なこととは何でしょうか。
そこでは、食べ物の得方(えかた)、料理の仕方、いざというときの治療の仕方、道具の作り方、木の切り倒し方など、生きるためのたくさんの知恵が伝えられたことでしょう。
けれど同時に、よりよく生きるための知恵として、
愛すること
働くこと
奉仕すること
の大切さも、伝えられたのではないでしょうか。
なぜなら人は、社会生活を営む生き物だからです。
勾玉に使われるヒスイは、硬度が6.5あります。
鉄が5.5ですから、鉄より堅いものです。
その原石を、どうやって、あの勾玉のような形にしたかというと、石英を微粉末にして、それで原石を磨いたのだそうです。
全部手作業です。
たったひとつの、小さな勾玉をつくるためには、大人が毎日ずっと原石を磨き続けて、およそ2年かかるそうです。
しかも、勾玉には穴までうがってあります。
つまり勾玉が出来た背景には、玉つくりを専業にして生きていくことができるだけの社会的分業がすでに確立した社会が営まれていたことを意味します。
そうであれば、ただ個人が生きる知恵だけではなく、集団の中で生きる社会生活上の知恵も、当然に伝えられていったものと思います。
勾玉が社会生活の象徴でもあるとするなら、勾玉が意味しているものは、まさに
「愛と勤労と奉仕の精神」です。
それが、1万年前からの日本人の常識です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
文字が一般化されていなかった時代の考証には、発掘された石器や陶磁
器、埋葬された副葬品、巨石遺跡、石板に刻まれているペトログリグ
(岩絵)などなどの研究が実証的かと思われます。日本列島には様々な
人種が渡来し土着しているのは遺伝子の研究により示唆されています。
人種の血縁を超えた結びつきがあり、他人種同士が共に切磋琢磨しなが
らじっくりと時間をかけ歴史を刻んで初めて民族というものが出来上が
る。日本列島の一地方に在った勢力が、やがて他の各地の勢力と結んで
郷から国へと社会が形成されていく。勾玉はその一地方の勢力の血縁の
象徴ではあったでしょうが、やがて血縁だけでは無く連合の象徴へと変
化していったのではないでしょうか?
文字が一般的では無かった超古代~古代の研究は、まだまだ~という所
です。参考までに・・松本健彦 著 列島創世記などいかがですか?w
そ~かな~と思う箇所もあるのが、古代に関する文献の魅力ですw
2018/04/29 URL 編集
大阪市民
垣見五郎兵衛は京極家用人ではなく
近衛家用人です。間違えて書き記し
申し訳ありません。失礼致しました。
2018/04/28 URL 編集
大阪市民
ねずさんのブログとは違う内容のコメントでごめんなさい。 長谷川一夫さんの忠臣蔵が好きで私は何回も観ています。観る度に感銘を受けます。ねず先生が四十七士は尊皇の心を示す為に仇討ちをされたとの事を仰っしゃていましたが、その視点から長谷川先生の忠臣蔵を観ると新たな感動が湧きあがってきます。 大石蔵之介が垣見五郎兵衛の偽名を何故使ったのか?本物の垣見五郎兵衛が自身が責めに合うのも省みず何故、大石に京極家の道中手形を与えたのか? それは京極家は皇室を重んじる家柄(公家)であり、天皇、皇室の序列を軽んじる徳川将軍、幕閣、吉良上野介に京極家臣一同は、内心は苦々しい想いを抱いていたからこそ、本物の垣見五郎兵衛は道中手形を蔵之介に与えたのです。 また、だからそこ山鹿素行直伝の尊皇の志をもつ大石蔵之介は京極家用人垣見五郎兵衛を名乗ったのだと今更ながらよく分かるのです。この話しは歌舞伎の演目から来てますが、その心証は四十七士の真実に最も近いと確信します。
東京に行った時には四十七士を偲び
高輪高泉岳寺に参詣させて頂きたいと想います。
2018/04/28 URL 編集