ところが人間は火を使います。
そして火を使うために、森の樹々を伐採します。
木を燃やすのは一瞬です。
しかし一度切り倒されて禿山にされた土地は、自然の力だけでもとの肥沃な緑の大地に戻るには、最低5千年の歳月がかかるといわれています。
その間、ずっと砂漠になってしまうのです。
そのいわゆる四大文明発祥の地とされている砂漠地帯は、いまから7〜4千年前に文明が栄えたところです。
ところが緑が失われてしまい、文明が滅んでからすでに4〜3千年経過しているにもかかわらず、いまだにそこは砂漠のままです。
ところが日本は、3万年前にはすでに神話の時代が始まり、1万7千年前には縄文時代という、華やかな文化が開花しています。
つまり、いわゆる世界四大文明発祥の地とされているところよりも、はるかに古い歴史を持ちながら、日本列島は砂漠化していません。
それどころか、いまでも日本は国土の7割が緑に覆われた緑豊かな列島です。
もっともそんな日本でも、大東亜戦争が終わったとき、森林の3割を失ったことがあります。
戦争によって石油の入手が困難だったために、森の木を伐り倒して燃料にしたためです。
森は、いちど死にはじめると、復活は困難です。
ところが、いまでは、日本の森林は、元通りに戻りました。
なぜ70年もしないうちに元に戻ったかというと、植林したからです。
大東亜戦争が終わったとき、昭和天皇は全国を行幸して廻られました。
それは国民に、ふたたび立ち上がるための勇気を与えるためですが、もうひとつ、陛下は全国の行幸の先々で植樹をされました。
陛下が、手づから植林されるのです。
地元の人たちは、これを黙って見ているわけにはいきません。
そこで戦時中に失われた森、禿げ山になっていた山々に、村中みんなで植林を行いました。
その結果、日本の森は、短期間でもとの広さに戻っています。
《参考記事:昭和天皇行幸》
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1322.html朝鮮半島では、日韓併合のあと、日本が設置した朝鮮総督府が半島内で5億9千万本の植林を行いました。
これは当時の朝鮮人ひとりあたり25本という、とうほうもない数です。
他にも民間ベースの植林が行われました。
結局、日本統治時代に植林された数は、およそ10億本です。
なぜそのようなことをしたのかといえば、それまでの李氏朝鮮時代には植林などまったく行われず、結果として、国土のほとんどの山が禿山だったのです。
下にある写真は、1880年代のソウルの南大門大通りの様子です。
遠くに見える山々に木がまばらにしか生えていない様子が見て取れます。
1880年代のソウルの南大門大通りの様子

緑がないから、ほこりっぽい。
ほこりっぽいから清潔な暮らしを求めない。
国が荒れ、国民の精神が荒れる。
結果、過激な行動に走りやすい土壌ができあがる。
そこへ加えて、食べ物が不足している。
だから常に人々は奪い合いをするようになる。
こうしたことは、最近の社会科学でも、町のトンネルなどの公共施設に落書きが多いと、街に不良があふれて治安が悪化するということで証明されているのは皆様御存知の通りです。
だから緑を増やし、埃っぽさを消し、すこしでもうるおいのある国風を日本はつくろうとしたのです。
それはだいぶ成功したかにみえたのですが、日本が戦争に負けて半島から撤退すると、半島ではすぐに内戦が始まってせっかくの美しい街並みがまたたくまに破壊され、山の緑は勝手な伐採によってその多くが失われてしまいました。
人は生活のために火を使いますが、そのために木を伐ります。
木は、伐ったあと、ちゃんと植林してあげない限り、すぐには生えてくれない。
人々が文化性を失うと、そんな簡単なことにさえも気付かなくなります。
森に木々がなくなると、そこに小動物もいなくなり、果実もなくなり、貯水能力を失った山は、大雨が降る度に、平野部に土砂を流します。
つまり平野部での農業などもできなくなります。
貯水能力というのは、地下水をつくる力のことです。
その地下水ができなくなるということは、清潔でおいしい水も失われるということです。
半島のことばかりを言ってもいられません。
日本でも特に高度成長以後、日本的文化性が急速に失われ都市部によって森がものすごい勢いで失われて行っています。
我々が少年時代をすごした雑木林は、いまではそのほとんどが宅地になっています。
政策的に核家族化がすすみ、子が成長すると親元を離れて結婚してマイホームを建てることが、戦後のひとつの価値となっていますが、はたしてそれは国土全体を考えたときに、神々からお預かりしているこの国土に対して、本当に良い選択と言えるかは甚だ疑問です。
すくなくとも、いま第一種住居専用区域になっているところは、あと50年経ったら、空き家街になってしまうのです。
東京・渋谷で「明治神宮の森」となっているところは、かつて練兵場があったところです。
ちなみに当時はそこは四谷区でした。
練兵場が閉鎖されたとき、日本はどうしたかというと、そこを森にしました。
だからいまは「神宮の森」になっています。
明治神宮の森に植林した当時は、日本国内では早成する杉や松が盛んに植えられた時期でした。
けれど神宮の森には、杉や松、檜(ひのき)などの針葉樹ではなく、椎(しい)や樫(かし)、くすの木などが植えられました。
なぜだかわかりますでしょうか。
杉や松のような針葉樹は、亜硫酸ガスに敏感だから、都会で育てるのは可哀相だと考えたからです。
だから広葉樹を植えました。
広葉樹というのは、背の高い針葉樹林の下に生えます。
森では、針葉樹が上空を覆い尽くしますので、地上低くには日光があまり届きません。
そのなかで少しでも光合成を行ないたいから、葉が広い。
ですから広葉樹は、針葉樹の陰にならない、直接日のあたるところなら、少々空気が悪くても元気にに育つのです。
大昔から、木や森と仲良しだった日本人ならではの発想です。
植樹をするということになったとき、当時まだ日本領土であった樺太や台湾、朝鮮半島からも、13万本もの苗木が寄せられました。
こういうときに、ChinaやKoreaがよくやるのが強制徴発です。
上からの命令で、およそ考えられないような無茶苦茶な強制徴発が起こる。
ところが日本では、そのようなことは起こりません。
民衆がキチンと教育を受け、明治神宮への日頃の感謝の思いから、自発的に苗木や、大木を寄進したのです。
ちなみに本当の善意で集まるものと、強制徴発によってデタラメに集められるもの。数だけ見てたら、その違いに気が付くことはありません。
けれど人の善意と後始末を見たら、そこには天地ほどの違いがあります。
集められた苗木は、一本一本、全部手植えされました。
それがいまの神宮の森です。
もともと神宮の森のあたりに自生していたのは、椎や、樫、楠などの広葉落葉樹ではありません。
椿(つばき)や榊(さかき)などの常緑小高樹でした。
実は、これら椿や榊が、戦後73年経ったいま、ようやく樹々の下に自然にもどってきました。
木は、何もない地面がむき出しの状態のところに、いきなり繁殖したりしません。
このことは、造成した後に空き地になったところなどに、何年かして草がボウボウに生えても、なかなか木が生えないことを見ても、あきらかです。
何も植物の生えてない荒れ地を裸地といいますが、そこに最初に生えるのは、背の低い一年生の雑草たちです。
それが何年か続くと、だんだん背の高い草が生えるようになり、最後にはススキなどの根のしっかりした草が生えるようになります。
それが何代も(つまり何年も)繰り返されると、だんだん地味が肥えてきて、ようやく木が生育できる環境が整います。
木は、はじめに低木林が自生をはじめ、次いで松や白樺などの背の高い陽樹林が生育します。
陽樹林は、草たちよりも深く根を下ろしますから、土壌が深く厚くなります。
そして森ができることによって、小動物達もそこで生活を始めます。
そして陽樹林が育つと、森の内部は上空を樹々がおおい、地上近くには日光が届きにくくなります。
そして地表は湿気を帯びてきます。
そうなると、陽のあまり届かない暗い地表でも繁殖できる種類の樹木が育ちはじめます。
これが陰樹(いんじゅ)で、クスノキ、カシノキ、ブナ、シイ、ツガなどがその代表とされています。
これらの樹々の特徴は、葉が広い。
先ほども申し上げたように、太陽の光が届きにくいから、すこしでも太陽の光を吸収しようとして、葉が広くなっているわけです。
こうして、しばらくは、松やスギなどの陽樹と、クスノキやブナなどの陰樹が交じった森になります。
けれど、地表が湿り気を帯びた地層だと、陽樹は新たに生育できにくくなるため、森は次第に陰樹林となっていきます。
陰樹林内でも、陰樹は生育できるからです。
これが森の極相(クライマックス)です。
そして広葉樹は、落葉しますから、落ち葉をバクテリアが食べ、そこに腐葉土ができあがり、森の貯水力も高まり、土壌が豊かになり、地上には森林性の草本も生えるようになるわけです。
植物遷移の図

上の図では、極相林となるのに、200年以上としてあります。これが林の場合です。
広大なエリアの野山全体が森となるためには、自然だけの力では、4〜5千年の時が必要です。
イスラエルも、荒涼とした砂漠地帯です。
けれど、先般ご紹介したマサダ砦のあたりも、戦いのあった2000年前は、緑の大地でした。
《参考記事:マサダ砦の戦いと尖閣問題》
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1021.htmlそのイスラエルは、まだまだ砂漠地帯の多い国土です。
けれど彼らは国をあげて農業に取り組み、いまではイスラエルは中東唯一の緑の大地であり、なんと、農業輸出国です。
日本も見習うべきだと思います。
戦国時代の日本は、実は世界の鉄砲総数の約半分を保有する鉄砲大国でした。
鉄砲は鉄でできています。
作るためには大量の火力が必要です。
そのためには、大量の森林資源を伐採なければなりません。
けれど戦国大名たちは、決して禿山(はげやま)を作りませんでした。
同時に植林をしたのです。
戦国大名たちは、そういう土木林業の育成も同時に行ったのです。
もちろん、日本が高温多湿であり、山間部の土地の栄養価が高く、森林の生育に適した環境にあるという一面もあります。
けれど、日本の山間部の土地の栄養価が高いのは、それだけ長い期間、日本人が森を大切に守り通してきたからに他成りません。
いくら高温多湿な温帯地方であると言っても、森は植林し、ちゃんと面倒をみてあげなければ、なってしまうのです。
そうやって森を大事にしてきた日本は、かつては自然と共生し、樹々への感謝を忘れない国だったのです。
だから日本は、世界最古の文明を持っていながら、それでいていまもなお緑が豊富なのです。
ところが、日本の緑は、終戦時に3割が失われ、その後に植林をすることで昭和50年代にはもとの緑が戻るのですが、ちょうどこの頃から「開発」と称する緑を敵対視する思想が蔓延して、再び緑が減少に転じました。
一説によれば、いまや終戦時を上回る緑の4割が失われているといいます。
いまの日本の体たらくのままで、果たして千年万年どころか、百年後二百年後、日本の国土はどのようになっているのでしょうか。
国家百年の大計といいます。
国の政治は、短くて百年単位、長いものなら千年、二千年といった単位での体系に基づかなければなりません。
目先のもりかけ問題など、井戸端会議のレベルでしか無いと思う。
日本は、政治に真面目さを取り戻すべきです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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