しかし兵力差は15倍です。
米軍は次々と上陸してきました。
やむなく日本側は、大隊の残存兵力を島の北西の洞窟に集結させました。
ここから先はゲリラ戦です。
上陸戦となってから3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負っています。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
味方に助けてもらおうにも、そこは敵陣のど真ん中でした。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂さんのもとに、ようやく軍医がやって来たそうです。
傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまいました。
「おまえはもう死んだのだ」と宣告されたようなものです。
「負けるもんかっ!」と舩坂さんは、思ったそうです。
そして近くにあった日章旗を包帯代わりにして足を縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。
着いた時には、死体が這ってきたような姿でした。
しかし少しでも動ける者は、銃を取って戦いました。
ですから舩坂軍曹も、翌日には、左足を引き摺りながら前線に出て戦いました。
舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負いました。
けれど不思議と翌日には回復し、ご本人は、
「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と書いておいでです。
しかしこのことは単に舩坂さんひとりにとどまらず、戦地にいた日本の軍人さんの誰もが、傷つき、およそ重症患者としてICUに入らなければならないほどの体で、戦い続けていたことを意味します。
だから舩坂軍曹も、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。
またあるときは、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ突き殺しています。まさに鬼神の如き奮戦です。
舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊です。
子供のころからきかん気のガキ大将でした。
長じては剣道と銃剣道の有段者となり、また中隊一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人でもありました。
しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相です。
舩坂軍曹自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなっていました。
ある日のこと、自分の腹部の傷が化膿して、ハエがたかって、蛆(ウジ)が湧いていることに気づきました。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意しました。
このときの舩坂軍曹の体調は、死の瀬戸際です。
もはや立って歩くこともできない。
極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えません。
それでも今生の別れです。
ですから彼は見えない目をこすりながら、遺書を書きました。
「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。
靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、
皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、
すでに満身創痍となりました。
天命を待たず敵を目前にして戦死するのはくやしいけれど、
すでに数百の敵を倒したので、
自分は満足しています。
七たび生まれ変わって国難を救わんと念願し、
いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
陸軍軍曹 舩坂弘」
【原文】
若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
自決を決意した舩坂軍曹は、手にした手榴弾を引き抜きました。
自爆しようとしたのです。
ところが手榴弾が爆発しません。
思いに反して手榴弾は不発でした。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせてもらえないのか。
このときばかりは深い絶望感を味わったそうです。
洞窟には絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましていました。
周囲には、傷の痛みに呻く声が満ちています。
壕内は、垢にまみれた体臭、傷口の膿みの臭い、糞尿の臭気が満ちていました。
さながら地獄絵図でした。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂軍曹は、絶望から気を取りなおし、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いようと米軍司令部への単身での斬り込みを決意しました。
そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に詰め込みました。
傷口は貫通創です。
腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いています。
そこに蛆がわいています。
舩坂軍曹は、傷口に火薬を詰め終わると、そこに火をつけました。
傷口の両側から炎が噴き出しました。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。
当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。
そのまっただ中に、舩坂軍曹は数夜かけて這いながら米軍前哨陣地を突破して、指揮所周辺さえも突破して、まる4日をかけて米軍指揮所のテントにあと20メートルの地点にまで到達しました。
舩坂軍曹は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めていました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まったのです。
舩坂軍曹は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出して立ち上がりました。
それは異様な光景でした。
絶対安全なはずの米軍の本部指揮所に、突然、まるでホームレスが武装したような、しかもガリガリにやせ細り、真っ黒に汚れた幽鬼のような日本兵が、いきなり茂みから姿をあらわしたのです。
そのあまりの異様な風体に、発見した見張りの米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。
実際、このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷に加え、連日の戦闘による火傷があり、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいました。
全身血まみれ、服はボロボロ。
人間に見えたら不思議なくらいだし、そもそも生きていること自体、ありえない状態でした。
米軍の動揺を尻目に、舩坂軍曹は司令部目掛けて渾身の力で20メートルを突進しました。
指揮所テントに到達しました。
そこで手榴弾の信管を叩こうとしました。
けれどその瞬間、首を撃たれて昏倒してしまいました。
倒れた舩坂軍曹のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断しました。
全身血まみれです。
首を撃たれています。
大量の出血があります。
生きていると思うほうがどうかしています。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断しました。
そして遺体は野戦病院の死体安置所に運ばれました。
このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、集まった米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。
日本のサムライだけができる
勇敢な死に方だ」
と言ったそうです。
ところが、死体置き場に3日間転がされていた舩坂軍曹は、そこで息を吹き返すのです。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍りました。
そして舩坂軍曹に銃口を向けました。
ところがその幽鬼は、向けた銃口にゆっくりと向かってきました。
そして銃口に自分の身体を押し付けると、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげました。
この不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。
米軍は、舩坂軍曹の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈りました。そして松坂軍曹は、米軍の中で伝説となりました。
元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を贈っています。
こうして一命を取りとめた舩坂軍曹は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復しました。
そして、となりにあるペリリュー島に送られました。
闘志の衰えない舩坂軍曹は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見ると、
「よし!あの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓いました。
ペリリュー島に送られた2日目のことです。
重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。
それは、ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことでした。
舩坂軍曹は、約千メートルをほふく前進し、途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、小銃弾を67発集め、火薬を抜きました。
そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけました。
火薬庫は大爆発を起こしました。
さらに別の棟へも爆発が移りました。
おかげで島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいます。
舩坂軍曹は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻りました。
米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせています。
収容3日目の夜、舩坂軍曹はこんどは歩哨を殺して銃を奪いました。
そして夜陰にまぎれてさらに別な歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートルに迫ったとき、突然背後から「ヘーイッ!」と声がかかり、いきなりタックルをくらいました。
軍曹は必死に抵抗したのですが、こちらは瀕死の重症患者、相手は元気な米兵の大男です。
舩坂軍曹はぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられてしまいました。
米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂軍曹に銃を向けました。
「銃殺される。これで楽になれる」
そう思って舩坂軍曹は、目を閉じました。
ところが舩坂さんの耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。
自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。
アナタハ神ノ子デス。
アナタノ生キルコト、死ヌコト、
神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂軍曹をそのままにしてテントを出て行きました。
翌日、縄を解かれて放置された舩坂軍曹は、懲りずにまた飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れました。
マッチがたまってきたある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。
今夜こそチャンス!
舩坂軍曹はその夜ひそかにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えました。
「よし、あとすこしだ。」
そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂軍曹は拳銃を突きつけられ、テントに戻されました。
「殺せ」という舩坂軍曹に、大男はこう言いました。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲタズネタコト、
私ニ連絡キマシタ。
アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、
私ハ仕事ノ途中ダケレド、
切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けました。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、
即座ニ射殺サレタコトデショウ。
私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。
無事デヨカッタデス」
さらに大男は、舩坂軍曹の無謀な行動を戒め、
「生きる希望を捨てるな」
「死に急ぐな」と説きました。
そして、
「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問いました。
舩坂軍曹は、
「わからない」と意地を張りました。
けれど舩坂軍曹の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみました。
舩坂軍曹ら捕虜は、ハワイへ送られることになりました。
一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきました。そして、
「軍曹、死ンデハイケナイ。
生キテ日本ニ帰リナサイ。
私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ
神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を軍曹に渡してくれました。
そこには彼の名前が記されていました。
舩坂軍曹はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまっています。
舩坂軍曹は、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国しました。
帰国した舩坂元軍曹は、栃木の実家に帰りました。
実家では、すでに戦死したものと思われていました。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日です。
昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。
ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれてありました。
「弘って字があるけど、
これ俺のこと?」
そんな舩坂元軍曹が、実家に帰って一番初めに行ったことは、「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことでした。
村の人々は、帰ってきた舩坂元軍曹が、あまりに傷だらけでボロボロであったために、これはきっと幽霊か魔物が化けたものに違いないと噂しました。
「もののけ」と思われたのです。
こうなると、せっかく帰ったのに、村にもいずらい。
舩坂元軍曹は、親戚を頼って焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前にあった養父の地所で、わずか一坪ばかりの書店を開きました。
後年、この書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展しています。
舩坂さんは、書店経営の傍ら、
「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「血風 二百三高地」
「ペリリュー島 玉砕戦」
「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」
「硫黄島‐ああ!栗林兵団」
「殉国の炎」
「聖書と刀‐太平洋の友情」
「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わしました。
また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っています。
この関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられました。
舩坂さんは、ペリュリューで世話になった大男に、何とか連絡を取りたいと考えました。
そして米軍関係者になんと110通もの手紙を出しました。
ようやく、Crenshaw伍長を見つけ出し、二人は生涯の友となりました。
舩坂さんは、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立しました。
以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立しました。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行いました。
さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行われています。
舩坂さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。
「尊い平和の礎のため、
勇敢に戦った
守備隊将兵の冥福を祈り、
永久に其の功績を伝承し、
感謝と敬仰の誠を
此処に捧げます。」
まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
日本には、こういう男がいたのです。
なぜ、舩坂さんは、ここまでして戦い、また戦後も亡くなられた戦友たちのために尽くされ、そしてまた渋谷で大きな書店を経営し、そしてさらに渋谷の街の健全化にも精力的に取り組むことができたのでしょうか。
アンガウルでの戦いのとき、すでに重傷を負い、指揮系統まで完全に崩れていた中で、舩坂さんは、自分の傷口を火薬で焼いてまで戦いに出ました。
何のためでしょうか。
諸外国の兵隊さんは、たとえば南京城の攻防戦の際に、いち早く便衣に着替えて南京から逃げ出した唐生智のたとえをもちだすまでもなく、あるいは尼港事件や通州事件のときのChineseたちを持ち出すまでもなく、自分たちが圧倒的に強い状態にあるときには、相手に対してありとあらゆる暴行を加え、残虐をしつくしますけれど、いったんヤバイとなったら、一目散に逃げ出します。
ところが、ここでご紹介した舩坂さんは、アンガウルにおいて、一介の軍曹でしかありません。
軍隊の序列からしたら、そうとう下の階級といっても良い位です。
にも関わらず、すでに部下まで失っていながら、舩坂さんは戦い続けました。
捕虜になってまで、重体の体をひきずって、米軍の火薬庫を大爆発までさせています。
なぜでしょうか。
そしてこのことは、実は、何も舩坂さんに限ったことではありません。
当時の日本の兵隊さんたちひとりひとりに、というより全員にみられたことです。
このことを考えるに、ひとつの参照としてナポレオンの軍隊があります。
ナポレオンの軍隊は、ヨーロッパにおいて、めちゃくちゃ強くて、またたく間にヨーロッパ全土を席巻しました。
なぜナポレオンが強かったかというと、彼の軍隊はひとりひとりの兵士が、フランスを愛するという気持ちで戦ったからです。
それまでのヨーロッパの王様たちの戦いは、王の私有財産のための戦いです。
そして戦いに赴く兵たちは、これまた王の私有財産のために雇われた傭兵です。
傭兵は、兵隊であることで給料をもらう人たちです。
死んでしまっては、元も子もありません。
ですから負けそうになったら、もう戦いません。
王も戦いは、適当なところで打ち切り、負けたら私有財産である領地の一部を相手国にくれてやって、撤収してました。
とことん戦って全滅したら、大損だからです。
ところがナポレオンの軍隊は、ひとりひとりがフランスを愛するという思いを共通させ、誰もがフランスのために戦いました。
ですから、どこまでも戦う。
ひとりひとりの兵士が、たとえ大けがをしてでも戦う。命の限り戦う。だから強かったのです。
兵が強いから、ナポレオンはヨーロッパを席巻しました。
このことに、ヨーロッパの王たちは驚愕しました。
そして生まれたのが、立憲君主制です。
つまり、王も国法にもとづく法的存在であり、国民や兵士と等しく国を愛する者としたわけです。
そうした変化が西欧で起きたのが、19世紀の出来事です。
ところが日本では、7世紀には、天皇は法的存在となっています。
天皇は人として国や民衆を私物化して支配する(これをウシハクといいます)君主ではなく、国や民衆の生活を守るための政治をする人を任命し、自身は政治権力を揮わない国家の最高権威というお立場であるとされました。
こうなることで、民衆はその国家最高権威の「おほみたから」という立場を与えられました。
つまり、西洋で19世紀になって行わわれたことが、実は日本では7世紀にすでに実現しているのです。
日本人は、ひとりひとりは争いを嫌い、平和を望み、愛と喜びと幸せと美しさを人生において実現しようと頑張って生きています。
だから電車のホームで整然と並ぶのはあたりまえ、さりとて順番を割り込んだ人がいても、それで喧嘩をすることもありません。
ですから一見すると、日本人は草食系でおとなしくて、すぐに言いなりになる扱いやすい人たちに見えるのだそうです。
ところが実際にはそうではない。
日本人は、ひとりひとりが自分の心にクニという城を持っています。
そのクニは、家庭であったり、学校や会社であったり、団体であったり、恋人と住む家であったりします。
そして日本人は、誰もがそのクニをよろこびあふれる楽しいクニにしたいと願い、そのために真剣に働きます。
口で何と言っているかは関係ないのです。
いざとなったら、その底力が出る。
そのことは、東日本大震災が見事に証明しています。
かつての大戦において、日本の兵士たち(それは私たちの若き日の父たちです)は、お国のために、東亜の平和のために真剣に戦いました。
どこまでも戦いました。
戦いは、もちろん国家の戦争なのだけれど、当時の人々の気持ちとしては、それは国の戦いというより、自分の戦いであり、みんなのための戦いでした。
だから私たちの父たちは戦いました。
どんなに苦しくても命の限り戦い続けました。
さらに魂魄となっても、その地にとどまり戦い続けました。
そのおかげで、いまの私たちの平和な暮らしがあります。
そのことのありがたさを、あらためて思い至りたいと思うのです。
※この記事は2009年11月28日の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
蒼き男
拝読させていただきました。リニューアルの記事との事ですが、日本人としての誇りを、再度考えさせられました。ありがとうございます。
2018/05/26 URL 編集
岡 義雄
今日も拝読させていただきました。ありがとうございます。
シェア・リブログさせていただきました。
2018/05/15 URL 編集