明治のはじめ頃、その尼港は、夏場だけ人口が2000人ほどになる小さな寒村でした。
主な産業は鮭漁(しゃけりょう)です。
冬は川も海も凍りつくので、人はいません。
そこに海産物を求めて日本人が入植するようになったのが明治の中頃のことです。
日本人の入植によって、尼港の鮭(しゃけ)は、日本に輸出されるようになり、町の人口が増え始めました。
情況が変化したのは、第一次世界大戦です。
ロシアは戦争によって極度の食糧不足となり、尼港の海産物の需要が高まったのです。
この結果、尼港における日本人経営の海産物会社(島田商会)が大きく発展し、物流のために日本人やユダヤ系ロシア人などが尼港に移り住むようになりました。
とりわけ日本の天草から水商売の女性たちが入植するようになると、富と娯楽を求めて人口が急増し、人々は冬場も尼港で過ごすようになり、市内には学校や図書館、公民館、映画館なども建ち並び、大正時代頃には人口1万2000人の町としてを越える町に育って行ったのです。
その尼港を4300人という大集団の共産パルチザンが取り囲んだのが大正9年(1920)年3月のことでした。
3月といえば、まだ尼港は雪と氷に閉ざされています。
そして奸計を用いて市内に入り込んだパルチザンたちは、まずロシア系の人々を片端から殺し、ついには日本人までをも殺害するに至りました。
このとき尼港で殺された人の数は、なんと6,000人に及びます。
これは町の人口の半分にあたる数でした。
この蛮行をはたらいた共産パルチザンは、内訳が、
Russian 約3000人、
Korean 約1000人、
Chinese 約300人
です。
構成から見ても、どのような事態が起こるのか、察することができるかと思います。
一方、尼港の町の側の人口は次のとおりでした。
日本人 約 700名
白系Russian約 1万5000名
Chinese 約 1000名
Korean 約 500名
このうち日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名を含みます。
その他の日本人440名は軍属と婦女子です。
少し説明を補足します。
なぜ尼港のような辺鄙(へんぴ)なところに日本軍がいたかという理由です。
実は大正6年(1917)に、帝政ロシアでレーニンに指揮された「ロシア革命」が起こりました。
ロシア革命というと、なにやらただちにソビエト連邦共和国が成立したかのように錯覚する人が多いのですが、なるほどこの年にレーニンがロシア皇帝を倒して政権を奪ったものの、世界の諸国はそんな乱暴なレーニン政権など、どの国も認めなかったのです。
むしろ過激派のテロによる蛮行として警戒していました。
なにしろ当時のロシア共産主義者たちは、ロシア各地で無秩序と破壊と殺戮をもたらしていたのです。
とりわけ多数の囚人が送られていたシベリアでは、凶悪犯罪者らが牢から出されて、ロシア共産党から武器と資金を受け取り、これにChinese、Koreanのヤクザ者たちが合流して暴れまわっていました。
ちなみにパルチザン(Partisan、Partizan)という語は、もともとイタリア語の「partigiano」からきたフランス語で、土地の住民のなかから立ちあがって武器をとって戦う人たちを意味します。
その中でも、特に遊撃隊や別働隊のようなものを、正規軍の本体とは分けて、特にパルチザンという名で呼びます。
つまり正規の軍隊がやってくる前に、地域を混乱に陥れたり破壊活動を展開したりする遊撃隊です。
日本人の多くがここを誤解しやすいのですが、大陸では軍とヤクザと暴徒は同じものです。
ですから極端な話、先般Chinaで反日デモが行われ、そのデモ隊の人たちをおそらく軍隊と認識する人は日本人にはほとんどいないと思うのですが、大陸的考え方では、あれも軍の一部なのです。
要するにパルチザンというのは、いまふうに言えば、武装したテロリスト集団です。
キチ◯イに刃物といいますが、それどころかキチ◯イに銃です。
そのような暴徒たちに武器と資金を支給して暴れ回らせて、国家の秩序を破壊させ、人々の間に現政権に対する怨嗟の声を満ちさせる。
その上で、それら武装パルチザンを追い払った英雄としての正規軍がやってくる、という筋書きです。
実際には、その正規軍に、それら武装パルチザンが取り込まれて合体しているだけなのですが、世間に向けてはそのように仕向けるのです。
そして相次ぐ殺戮と虐殺によって、その地の財産関係をめちゃめちゃに破壊します。
つまり土地の所有者も、工場も、インフラ設備も、すべてそのオーナーにあたる人が殺されていない状況をつくりあげるわけです。
そのうえで、それらインフラ財産を、新政府の要人たちが摂取して自分の財産にする。
たとえば那覇や札幌の土地や建物の所有者や利用者を皆殺しにして、その後釜に座るわけです。
これが世にいう、共産主義革命です。
いまも日本に、左翼革命政権を望む者過激派がいますが、彼らの望む未来とは、そういうものだということを、私たちはしっかり学ぶ必要があると思います。
誤解のないようにはっきりと書いておきたいと思うのですが、我が国では軍隊というのは、はるか古代から「たける」ための存在とされてきました。
天皇という存在があり、民こそが「おほみたから」とされる我が国では、軍はその「おほみたから」が豊かに安全に安心して暮らすために、正道にただすことを目的とする存在です。
かつての衛士や防人もそうですし、武士もまた同じです。
世の歪みを竹のようにまっすぐに正す存在だから、武(たける)を行う健児(たけるもの)とされてきたのです。
ですから日本における武装した軍隊は、どこまでも世の混沌をおさめ、まっすぐに秩序を立てる。
その自覚が、個々の兵にも、また軍を率いる将官にも、政治にも、そしてなにより民意にも等しくあるから日本の武人軍人は立派なのです。
歴史が違うのです。
このようなことを書きますと、「そんなことはない。近衛兵のように立派な軍隊も諸国にあったではないか」という人もおいでのことと思います。
これもまた誤解です。
なるほど近衛兵は、どこの国でも、ひとめでそれとわかる立派な服装をしていました。
しかし彼らは王の周囲にいる貴族の跡取り息子たちです。
貴族を外地に出征させるときの人質として王の側に置かれていたのです。
服装が立派だからと、そこだけに目を奪われてはいけません。
外地にいる貴族の親が裏切れば、即刻処刑されたのです。
我が国でも明治以降、近衛隊が編成されましたが、それは家門を問うものではなく、本人の希望を優先して編成しています。
国の成り立ちが、軍の意味あいまで大きく変化させているのです。
さて、ロシア共産党から資金と武器の援助を得た共産パルチザンは、シベリア各地で地域を荒らし回り、またたく間に巨大な組織となっていきました。
そして各地で虐殺を繰り広げ、ロシアの秩序を破壊していきました。
この頃、シベリア方面を統括していたのが、保守派のロシア極東総督のロザノフ中将や、コルチャック提督などです。
彼らはロシア帝国の正規軍を指揮し、パルチザンたちと戦っていました。
すでに本国のロシア王朝は倒れています。
つまり彼らシベリアの正規軍には、中央からの補給がすでに途絶えていました。
このままでは秩序が崩壊する。多くの血が流れる。
そこで日英米の三国が、シベリアのロシア正規軍支援を目的として、大正7(1918)年8月に、シベリアに共同出兵しています。
つまり日本の派兵は、この三国の共同活動だったのです。
ところが翌年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの総督府が、パルチザンの攻撃によって倒されてしまいます。
ロシア総督府あればこそのシベリア出兵なのです。
身の危険を感じた米英両国は、さっさとシベリアから撤兵してしまいました。
ところが日本は、ロシアと国境を接しているし、シベリアにもたくさんの邦人がいるのです。
パルチザンが南下してくれば、シベリアの日本人が危険だし、さらに南下して当時日本だった樺太や、日本が強い影響力を持っていた満州に、あるいは北海道にまで、その無法者たちが進出してきたら、たいへんなことになります。
そこでやむなく日本は、シベリアに兵を留めました。
しかし留めたといっても、第12師団(約1万5000名)だけの派遣です。
広大なシベリアに、1万5000名は焼け石に水です。
師団は諸所に分散し、その結果、ニコラエフスクには、2個中隊260名しか駐屯できなかったのです。
そこにパルチザンがやってきたのが、大正9(1920)年1月29日のことでした。
ちなみにシベリアの1月といえば、まさに極寒の季節です。
かつて日本の軍人さんたちがシベリアに抑留されたとき、とにもかくにも寒くて寒くて、とても人が住めるところではないと実感したといいますが、それよりももっと北に住むロシア人たちにしてみれば、尼港は、魚も採れるし、暖かで住みよい土地なのです。
このあたりの人の感覚の違いは、推して知るべしです。
尼港 1900年

尼港を守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)の合計約350名でした。
つまり尼港は、街の守備隊の10倍以上もの暴徒が、街を取り囲んだわけです。
パルチザンたちは街を包囲すると、
「自分たちに敵意はない、
食料の補給に協力してほしいだけだ」
と使いを立ててきました。
馬鹿な話ですが、そんな言い分を真に受けたニコラエフスク市は、パルチザンたちが市内に入ることを認めました。
すると市内に入るやいなや、パルチザンたちはロシア白衛軍の将兵350名を急襲して、これを全員殺してしまったのです。
武装した軍さえ排除すれば、あとはやり放題です。
パルチザンたちは、一般市民(ロシア人、ユダヤ人)を虐殺し、家内の家財、財宝を奪い、婦女子は暴行して殺害しました。
男達は銃剣で突き刺して黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに放り込みました。
女たちは強姦の上、同じく穴から裸のまま凍る川に放り込んでいます。
こうしてたった一晩で、ロシア人とユダヤ人約2500人が殺されました。
翌朝、事実を知った石田副領事が、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行ないました。
けれど、共産パルチザンは聞く耳を持ちません。
当たり前です。抗議を受け入れるくらいなら最初から虐殺などしていないのです。
そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきました。
ここは大事なところです。
いまでも外国や外国人の非道に対して、「話し合って解決する」あるいは「遺憾の意を表する」などととぼけたことを言う評論家のセンセイがいます。
しかし現実を見てもらいたいと思うのです。
つい前日に、白人たちが虐殺されているのです。
日本兵が武装解除したら、そのあと日本人が何をされるのか。
それこそ火を見るより明らかです。
現地の日本軍は、日本の内地の本部に急を知らせる電文を打ちました。
けれど日本からの援軍は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期であるために、海面が凍結してすぐには動けません。
満州方面にいる他の部隊も、徒歩移動となるため、いちばん近い部隊でさえ、到着するのに40日かかる。
ニコラエフスクから日本人、ならびに日本軍駐屯隊が脱出しようにも、周囲は凍土です。
しかも街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されていたのです。
つまりニコラエフスクの駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。
白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募りました。
そして3月12日、日本軍110名で武装パルチザンの本拠を急襲したのです。
敵は、武装した4000人の大部隊です。
衆寡敵せず。
駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまいます。
このとき、義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避することになっていました。
けれども領事館に集まることができたのは、わずか250名だけでした。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかってしまったのです。
後日の調査記録によると、共産パルチザンたちは、この日、日本人の子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺しています。
こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約240名が犠牲となりました。
日本領事館では、襲ってくる共産パルチザンたちと、激しい戦闘が繰り広げられました。
戦闘はまる一昼夜続きました。
実際に傭兵として世界の戦場を点々とした経験を持つ方から聞いた話ですが、一般に、銃撃戦というのは、ほんの数分で決着がつくものなのだそうです。
銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ長かったねえ」などと、後々まで話題になるくらいです。
それだけ銃撃戦というのは、戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いるものなのです。
ところが尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いたのです。
立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃、領事館内の生存者は、わずか28名になっていました。
弾薬も底をつきてしまいました。
残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決しました。
こうして尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しないで、かつ生き残っていた民間人121名だけになりました。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄しました。
「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」と思ったそうです。
けれどもしも停戦命令に従わなかったことが、後日国際上の問題となったら取り返しがつきません。
軍は、あくまでも上官の命令によって動くものだからです。
本当に日本人は真面目すぎます。
こうして河本中尉は、命令を受け入れました。
河本中尉以下の121名は、全員、武装解除のうえ投獄されました。
そして食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出されました。
零下30度の極寒の中で凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれて殺されました。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。
そこで彼らは、地獄絵図を見ました。
そこは焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、
「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」
と記した共産パルチザンの声明書が残されていました。
そしてChineseの妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月24日までの100日余の尼港の模様が明らかになりました。
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、
5本の指をバラバラに切り落とされ、死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたまま、あごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られました。
女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺されました。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていました。
犠牲となってお亡くなりになった方々に、深く哀悼の意を捧げたいと思います。
そして私たちは決意する必要があります。
二度と日本人を犠牲にさせないと。
この共産パルチザンは、その後、通州事件等でも暗躍し、また先の大戦中も暗躍を続けて残酷な振る舞いを繰り返し、その残党が北朝鮮設立の一翼を担って済州島での虐殺事件を引き起こし、韓国の正規軍がやってくる前に日本に逃れ、以後、日本国内でKorea進駐軍を名乗って日本国内での数々の非合法活動に手を染めています。
歴史はつながっているのです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
蒼き男
だが我々はこの者たちと同じにはならない。
二度と日本人を犠牲にしない様、あらゆる手を尽くして行きましょう。排除しましょう。
道半ばで倒れた、烈士の意思を引き継いで行くのが我々です。
2018/05/26 URL 編集
名無し
神話と神語で、区別をしたように。
2018/05/25 URL 編集
花田良春
皆さん!
日本国憲法第9条を読み返しましょう。
第2章戦争の放棄
第9条戦争の放棄、戦力及び交戦権の放棄
①日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
②前項の目的を達するため、陸海空軍その他の武力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。
これが所謂”平和憲法”です。
座して死を待つか。立ち上がらなくていいのか?
力には力を!
立ち上がれ、日本!!!!!
2018/05/24 URL 編集