山川健次郎

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。)慶応4(1868)年8月22日、官軍によって国境の母成峠が破られました。
いよいよ城下での決戦と知った健次郎の親友の家では、母、祖母、兄嫁、姉、妹の5人が、互いの首を刺して命を絶ちました。
他の家でも、母や妻ら女性たち全員が、刀で喉を突いて絶命しました。
城内に集った武士たちは、ですから皆、年とった父母や妻子を刺し殺して城に集まった武士たちでした。
いまよりも、もっとずっと父母の孝が大事にされた時代です。
どれほどの決意と覚悟があったのか、推して知るべしです。
城主の松平容保は、覚悟の武士たちを従えて滝沢峠に向かいました。
白虎隊も滝沢口まで行きました。
ところがここで、白虎隊の中で15歳以下の年少組は待機を命ぜられました。
ひとつ上の年齢の白虎隊は、出陣しました。
滝沢村での戦いは激戦となりました。
白虎隊の面々は戻る途中の飯守山(いいもりやま)で、城が黒煙を上げているのを見ました。
「城が落ちた。
もはやこれまで」と、
少年たちは互いの喉を刀で突き刺しました。
20人中19名がその場で絶命しました。
たまたま通りがかった老婆に、ひとりだけが助けられました。
本当は、このときまだ城は落ちていませんでした。
少年たちは思い違いで自決しています。
このことが城中に伝えられたとき、城内の者は皆、絶句しました。
亡くなった少年たちは、健次郎が兄と慕った先輩たちでした。
学問を教えてくれ、武道の修行を教えてくれた先輩たちでした。
このとき健次郎は、死んでいったひとりひとりの顔を思い浮かべて滂沱の涙を流したそうです。
会津の悲劇を心に刻み、一生忘れまいと心に誓いました。
戦いに敗れた会津藩は、下北半島に移封になりました。
会津藩士秋月悌次郎は、長州藩の参謀奥平謙輔に会って、会津の少年2名を書生に使ってほしいと頼み込みました。
このなかのひとりが健次郎でした。
それは会津の再建を次の世代に託そうとした心からでした。
激しい戦いのあと、従軍し生き残った若者たちが、友が死んで自分だけが生き残ったことへの理不尽感から、捨て鉢になってしまって、今日を限りの命とばかりに乱暴狼藉を働くようになるということは、これはどこの国でもあることです。
しかし我が国では、戊辰戦争のときもそうでしたし、先の大戦のときもそうでしたが、むしろ復興のために全力を出して、十代の若者なら学問に精を出し、成人者なら仕事に打ち込んでいます。
なかでもとりわけ優秀だった健次郎は、明治4年(1871)北海道開拓使の次官・黒田清隆が汽船「じゃぱん号」に乗って渡米する際に、同行を命ぜられています。
そしてこのことが健次郎の未来を変えていきました。
船が太平洋の真ん中を航海中のことです。
船内に張り紙が掲示されました。
「明日朝、
本船は日本に向かって航海する
太平洋郵便会社の船に出会う。
日本に手紙を出したい者は
用意するように」
翌朝、ふたつの船は出会い、郵便が交換されました。
このとき健次郎は、西洋の科学技術の凄味を実感したといいます。
一行はサンフランシスコに到着したあと、列車で大陸を横断しました。
見たこともない、煙を吐く巨大な機関車に、またもや健次郎は仰天しました。
健次郎は思ったそうです。
「会津藩は漢学による道徳教育に
偏り過ぎていたのかもしれない。
科学技術を軽視したために
自分たちは負けたといえる。」
このように考えた健次郎は、米国内で科学技術を徹底的に学ぼうと決意しました。
健次郎は、名門エール大学への進学を目指しました。
しかしそのためには、米国人と同等以上の語学力、会話力、読解力、知識が必要となります。
健次郎は語学力を身につけるため、日本人のいないところに住むことを決意します。
こうして健次郎は、エール大学から北に45キロほど行ったノールリッチという人口1万人の小さな町で下宿することになりました。
そして不眠不休で猛勉強しました。
そうは言っても人間です。
ときには勉強に身が入らない日もありました。
健次郎は、そいうときには会津を思い浮かべました。
会津の人々の期待を一身に担って渡米したのです。
死んでいった先輩たちのためにも、これからの会津の人達のためにも、自分がここでくじけるわけにいかない。
この当時、会津藩は、青森の下北半島と岩手県の県境あたりに移封になっています。
そこは極寒の地です。
土地はやせ、米もとれない。
壮健な男達の多くは戊辰戦争で失われています。
ですから多くは、未亡人と子供たちと老夫婦しかいない。
飢えと寒さで、藩士やその家族が次々と死んでいきました。
そこに健次郎の家族もいました。
健次郎は手紙で、このことを知りました。
健次郎は声を出して泣いたそうです。
会津の人々の苦境。
それを思ったら、自分は負けたり逃げたりするわけにいかない。
猛勉強の結果、健次郎は念願のエール大学に一発合格しました。
健次郎は、日本と米国との国力の差は、日本人の科学軽視にあると感じ、物理学を専攻しました。
ところが日本国内では、明治新政府の財政が逼迫し、国庫が破産の危機に見舞われました。
このとき各藩が競って送りだした留学生への国費支出があまりにも高額に上るとの問題が浮上しました。
こうして健次郎にも帰国命令が出されました。
健次郎はあと一年半で卒業というところでした。
健次郎は帰朝命令を一日伸ばしにして無視しようとしました。
しかし経済的な問題は避けて通れない。
このとき健次郎の友人ロバート・モリスの伯母のハルドマン夫人が、学資援助を申し出てくれました。
ただし条件をひとつ出されました。
それは、
「あなたが大学を卒業して帰国したら、
もっぱら国のために尽すこと」
というものでした。
健次郎は終生、ハルドマン夫人の写真を居室に飾っていたそうです。
4年半の留学を終え、21歳になった健次郎は、エール大学で物理学の学位を取得して帰国の途につきました。
健次郎は、エール大学を3年の最短期間で卒業しています。
ものすごいことです。
健次郎の努力がしのばれます。
日本に帰国した健次郎は、東京大学の前身である東京開成学校の教授補に就職しました。
そして明治12年、彼は、日本人として最初の物理学教授となりました。
明治19(1886)年、帝国大学令が発布され、東京大学は東京帝国大学と名称を変更しました。
東京帝国大学は、文科、理科、医科、工科、法科の5つの単科大学で構成されました。
健次郎は明治26年、40歳の若さで理科大学長に就任しました。
健次郎の教授時代の逸話があります。
健次郎は、自分の研究で成果がでると、その成果を惜しげもなく弟子たちに譲ったのだそうです。
そのため、いつのまにか弟子のほうが有名になることがよくありました。
しかし健次郎は、そのことをいつも喜んでくれていました。
自分のために研究をしているのなら、成果は自分のものにしたいと思うのはあたりまえのことですし、そうでなければならないものです。
しかしどこまでもお国のために自分の力も命さえも捧げているのなら、手柄など誰のものであっても良い。
むしろ自分の研究成果がその人の成功体験となり、物理学の普及促進に拍車がかかるようになるなら、そっちのほうがはるかに望ましい。
こうして彼の弟子として田中館愛橘、長岡半太郎などの物理学者、そしてその弟子にはノーベル賞を受賞した湯川秀樹、朝永振一郎などが陸続と輩出されるようになるのです。
明治34(1901)年、健次郎は48歳で東京帝国大学総長に就任しました。
薩長政権下において、朝敵となった会津藩から最高学府の総長が就任したのです。
まさに異例のことです。
旧会津藩の関係者たちは、健次郎の就任に涙を流して喜んでくれました。
日露戦争のあと、東京帝国大学の教授処分をめぐって、文部省と帝大が衝突するという事件が起こりました。
それが「七博士事件」です。
東京帝大教授戸水寛水をリ一ダーとする七博士が、時の宰相桂太郎に、対露即時開戦論を建議し、奉天戦後には、ロシアに対してバイカル湖以東の割譲を要求しろと主張したのです。
当時のメディアは、戸水教授らをバイカル博士と褒めあげて喝采しました。
しかし実際にはこのとき日本軍は疲弊しきって、戦闘を継続するだけの余力は残っていませんでした。
政府は文部省を通じて東大に7教授の処分を求めました。
この頃には世論もようやく「対露強硬論」がいかに空論にすぎなかったかを理解していました。
七博士の言論は、勇ましいけれど中身がない空理空論にすぎないものであったことが世間にも知れていました。
東大総長であった健次郎も、戸水教授ら7博士の意見に反対でした。
しかし学問の自由を守ることと、意見の対立は別な問題です。
健次郎は、城を大学に、刀を信念に置き替えて文部省を相手に戦い、一歩も引かず、ついに7博士の処分を聞き入れませんでした。
そして事件解決後、健次郎はすべての責任をとって東大総長を辞任しました。
教授、学生などは、東大の全学をあげて、健次郎を慰留したそうです。
総長としての健次郎の勇気ある行動に、誰もが共感したのです。
しかし東大教授ともあろう者が、軽々に世論の誘導に乗って国運を衰亡させることなど、あってはならないことです。
だから健次郎は、東大総長として一切の責任をとったのです。
東大総長を辞任した健次郎に、貴族院議会から声がかかりました。
こうして健次郎は51歳で貴族院議員となりました。
そして58歳で九州帝国大学初代総長、60歳で再び東京帝国大学総長に就任しています。
このときも、九州帝大の学生たちが総立ちになって健次郎の慰留をしたといいます。
彼が信望を集めたのは、彼の教育への情熱ばかりではなく、彼の持つ厳しさ、清貧、学生たちへのやさしさにあったといいます。
健次郎の娘は、彼を評して
「それは厳しく神にも等しい人でした」
と語っています。
健次郎は、その後61歳で京都帝国大学総長を兼任、62歳の大正4(1915)年に男爵となり、昭和6(1931)年6月、恩師である長州の奥平謙輔の書が飾ってある自宅で、永眠しました。享年77歳でした。
ひとりの人間の成長には、多くの人の支えと、歴史があります。
人はひとりで生きているわけではない。
それぞれの家や郷土、故国の歴史の中に生き、友や仲間に支えられて生きています。
そしてそういう自覚こそ人を育てるものであると思います。
※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
日本を愛する日本人から一言・・・
一度CGSで日本人シリーズで紹介されると良いと思いました。今日の他のブログでシバキ隊のボスが亡くなった旨、紹介がありました。彼も元は保守系の活動家だったのにお金の面でパヨクに偏向したとの事でした。
若いときに多くの立派な人の機微に触れておくと人生を生きていく上での滋養になるのではと思いました。
2018/05/27 URL 編集
KI
2018/05/27 URL 編集
ラベンダー
日大ラグビーのように、学校や監督が生徒を守らないショッキングなニュースが連日流れています。
今日のお話を、教育者、学会は良く学び、山川健次郎先生を見習って欲しいと思いました。
それにしても会津藩の国家老だった山川重固のお子さんは、大山捨松さん、山川大蔵さんといい素晴らしいですね。
本日も素晴らしいブログを、ありがとうございました。
2018/05/27 URL 編集