どうせ流行に乗って長刀を差しているだけのヘナチョコ武士だろうくらいに思いながら、やがて追いついたふたりは道連れになりました。
大蔵は、
「長剣を帯びて尊皇攘夷を唱うる者は
天下の大丈夫といいますな。
どうでしょう、ここでひとつ、
貴殿の長刀を抜いて
みせてくださいませんか」
と軽く話しかけました。
要するに(そんなに長い長剣では、まともに抜くこともできないだろう)というわけです。
ところが、この土佐の若侍、気を悪くする風もなく、無邪気に「いいですよ」と明るく言ったかと思うと、気合一閃、電光石火の早技でその長刀を見事に抜き放ったのだそうです。
その見事な腕前に、大蔵は思わず「もう一度」と頼みますと、土佐の侍は、再びその見事な腕前を披露してくれました。
大蔵は名前も訊かずに別れてしまったのだけれど、どうにも気になる。
後年、土佐の人に、あれは誰だったのだろうかと尋ねたところ、すでにその若侍は亡くなっていたのだそうです。
それが坂本竜馬でした。
慶応2年(1866)、幕府は樺太境界協議のために外国奉行の小出大和守、目付石川利政をロシアに派遣しました。
会津藩からも随員を、ということで、大蔵が一行に同行しました。
まだ十代だった大蔵は、陪臣でもあり、要向きはもっぱら雑用ばかりです。
掃除をしろ、茶を持て、髪を結え、などと、雑役ばかりをさせられながら欧州に着いた大蔵は、そこで欧州各国と比べて、なんと我が国の兵制や民治が遅れていることかと思ったそうです。
このときの欧州視察団は、エジプトのピラミッドにも行っているのですが、このときのガイドがあまりに東洋人をさげすむ態度をとったことから、大蔵はそのガイドを殴っています。
腕っぷしも強かったのです。
帰国するとすぐに鳥羽伏見の戦いが始まりました。
慶応4年(1868)のことです。
大蔵は、林権助隊などの会津藩の敗兵をまとめて、大阪に撤退するという難しい役をこなしました。
しんがりというのは、とても苦しいもので、傷つき、疲れ果て、血と汗にまみれながらの撤退です。
大抵は、全員討ち死にします。
けれど大蔵は、兵たちを励まし、見事その撤退を成功させています。
ただ、欧州の繁栄を目の当たりにしたばかりの大蔵の目には、敗軍をまとめて京から大阪、大阪から江戸へと護送しながら、こんなことが許されるのか、という怒りと悲しみと同時に、こんなことではいけないという、近代化への強い欲求と、幕府が倒壊しても何があっても西軍に徹底抗戦するという決意がわいたそうです。
西軍に徹底抗戦するなら、会津の兵制を、旧制の武家集団から、いっきに洋式化するしかない。
実際に欧露の軍隊を眼の前にみている大蔵は、そのように決意します。
そんな大蔵のもとには、会津の若手侍たちが集まりました。
大蔵は藩主に建言して、幕府の軍事教官であったフランス士官のシャノアンを会津に招へいします。
そして合図の軍制を、洋式に改め、自らは会津藩の若年寄となりました。
このとき大蔵、まだ23歳の若さでした。
洋式と武家式では、走り方からして違います。
武士は腰の刀が抜けないように、急ぐ時でも腰を落として、すり足で小股で走ります。
洋式では、かかとを上まであげ、大股で走ります。
一部の武士からは、こんなものできるか!と反感を得たりもあったようです。
けれど大蔵は、その都度なぜそうするのかを合理的に証明してみせて、皆を納得させています。
よく会津戦争や白虎隊を扱ったドラマなどで、なみいる中高年の会津武士たちを前に、若い役席者らしき者が、声を大にして、またあちこち必死に走り回って、平和ボケした藩士たちに洋式訓練の優位性を実演してみせているシーンがあったりします。
その若い役席者が大蔵です。
実際に外国を見聞し、彼我の国力や軍制の違いを目の当たりにした大蔵の目には、いちにちも早く、日本の軍制を洋式化し、幕藩体制ではなく、天皇のもとに国内の諸藩を統一して国力と兵力を高めて夷敵を打ち払わなければならないという問題意識がありました。
これに対し西国諸藩は、まずは徳川政権を倒した後に、天皇のもとに国家を統一して夷敵を打ち払うという。
そのような内戦などしているヒマは日本にはないはずなのに、先に内戦をするというのです。
ところが多くの人々は、単に外国人を打ち払うことが攘夷だと思っています。
だからなかには攘夷なのに、なんで外人の服を着なきゃなんないんだと、そこから問題になる。
西軍も東軍も、「攘夷」ということでは一致しているのです。
しかし欧米列強の国力を考えれば、「攘夷」のためには、まずは日本の国力(経済力、軍事力)を挙国一致体制で構築しなければならない。
そのためには、国内で争っているヒマなどなく、将軍みずからが大政を奉還して、天皇のもとに挙国一致体制を築こうではないかというのが大蔵ら、佐幕派と呼ばれる人達の論です。
ところが挙国一致のためには、徳川幕藩体制では、あまりにも体制が様式化され形骸化している。
旧来の陋習や旧弊、因習があまりにも深くしみ込んだ日本で、本当の挙国体制を築くためには、国内の半分以上を勢力下におさめた徳川家を、まず武力で倒し、天下に響く武を打ち立ててこそ、挙国体制が築かれるというのが西軍側の立場です。
説はいろいろあります。
しかし現実は動いています。
戊辰戦争がはじまり、天皇の詔勅を盾に、薩長連合が諸藩を武力制圧にかかっています。
しかしそのことは、欧米列強との攘夷を前にした、国内の内紛であり、国力の消耗です。
大蔵は、必死で公家や西国諸藩に働きかけ、ともに新しい国づくりをしようではないかと呼びかけました。
しかし振り上げた拳の落とし所を探す新政府はこれを認めない。
ならば「武門の習い」として、一戦を交える他ない。
こうして会津藩は、「望まない」戦いへと突入していきます。
そしていよいよ西軍が江戸を北上し、会津藩に迫りました。
大蔵は、砲兵隊長として日光口の国境警備に就きました。
そこに幕府伝習隊の大部隊を率いた大鳥圭介がやってきて、合流しました。
両者は連合して、日光口方面国境警備軍を編制しました。
大蔵は、その副総督に就任します。
寄せ手の大将は、板垣退助と谷干城です。
その精鋭部隊を前に、大蔵は奮迅の戦いをして、ついに西軍のこの方面からの会津領突入を阻止しています。
当時のエピソードがあります。
谷干城が会津兵のあまり強さに驚き、
「ここの会津兵は妙に強い。
誰が指揮を執っているのだ?」
と配下の者に訊ねたのだそうです。
谷は、このとき聞いた山川大蔵の名を記憶にとどめ、後年、陸軍に大蔵を招待しています。
こうして二人は生涯の友となりました。
そういうものなのだと思います。
アメリカインデアンは、白人が来る前、北米大陸におよそ800万人いました。
いまは35万人で、全員白人との混血です。
インデアンたちの文化や風習、伝統、歴史、言語がいったいどのようなものであったのか。
いまでは歴史の闇の中です。
インデアンたちの文明も文化も滅びました。
けれど世界中の人々が「インデアン」の名は記憶にとどめています。
なぜでしょうか。
アパッチ族などが、勇敢に戦ったからです。
勇敢に最後まで戦うことで、敵方(白人方)の記憶に残ったのです。
大東亜戦争を、なぜあそこまでして日本が戦ったのか。
開戦前、日本には、戦わず降伏するという道もありました。
当時、世界最後の非植民地の有色人種国家だったのが日本です。
その日本が、無抵抗で白人の軍門に下っていたらどうなっていたか。
はるか太古の昔から脈々と受け継がれてきた日本文明は、完膚なまでに否定され、その痕跡すらとどめず、アメリカインデアンと同じなら、21世紀を生きる日本人の人口はわずか350万人程度に減少し、その全員が白人との混血となり、まさに少数民族として、貧困のどん底に落ちていたかもしれない。
すくなくともはっきりといえるのは、黒人、黄色人が住む地域に、独立国などいまだにひとつもなく、われわれ日本人も奴隷としてしか生きる道はない状態に陥っていたであろうことは、現実の問題として十分に想像できることです。
明治新政府において、旧会津藩の武士たちの多くが、明治のリーダーとしてあちこちで大活躍しています。
現代でもなお、会津ッポといえば、それなりに腹の据わった男女として認識される。
それは、とりもなおさず、会津藩が戊辰戦争で、最後の最後まで勇敢に戦ったことによってもたらされたのだということができるのかもしれません。
ちなみにいま、米軍において世界で最も信頼できる軍は、日本の自衛隊なのだそうです。
なぜか。
日本が勇敢に米軍と戦ったからです。
話が脱線しました。
日光口戦線が膠着したため、大鳥圭介とその麾下の伝習大隊は若松を経て母成口へと転進しました。
その母成口で、大鳥圭介が西軍の急襲を受けて潰走してしまいます。
この潰走で、西軍は、鶴ヶ城をめがけていっきになだれ込んできます。
会津藩兵は、文字通り門前でかろうじて防ぐけれど、押され、ついに鶴ヶ城に敵の砲弾が飛んでくるようになりました。
日光口にいた大蔵のもとに、8月24日、帰城命令が届きました。
翌日、田島に入った大蔵は、ここに南会津方面守備隊として軍事奉行小山田伝四郎の隊を残し、残りの部隊を率いて鶴ヶ城に向かいました。
帰城の途中、大蔵らの一隊は、はぐれていた白虎隊員数名と合流しています。
この白虎隊士は、荘田安鉄をはじめとした数人で、飯盛山で自刃した白虎士中二番隊の一員でした。
荘田らは、二番隊の一員として戸ノ口原の戦いで敗走後、強清水のあたりで、夜間敵の攻撃に遭い、篠田儀三郎らのいる本隊とはぐれてしまっていたのです。
はぐれた荘田ら数名は、相談の結果「山川隊に合流しよう」ということになり、二日二晩飲まず食わずで歩き続けて、ようやく山川隊と出会ったのです。
隊員たちも、よくぞ合流できた、よくぞ生き残ったと、彼らを暖かく迎え入れました。
ところが引見した大蔵は、
「死すべき時に死ねずにたずねてくるとは情けない連中だ。
誰か、粥でも与えてやれ」
と、厳しく言い放ちました。
ようやく生きて合流できて、安心したのに、この言葉は心外でした。
荘田らは驚き、歯を食いしばって悔しがりました。
ついに「山川様の面前で割腹しよう」とまで思いつめてしまう。
すると係の者が「今夜、敵に夜襲をかける」との命令を伝えてきました。
荘田らは、「ならば、夜襲の最先鋒にて打って出て、山川様の前で華々しく討死しよう」と相談し、夜襲への参加を申し入れました。
すると、今度は、
「命が惜しくて逃げてきた連中になにができるのか。
本気で死ぬ気があるなら、
他に死所を与えてやるから、
引っ込んどれっ!」
と大蔵は怒鳴りつけています。
これは悔しい。
年少とはいえ、自分たちも出陣しているのです。
荘田らは歯がみし、涙を流して悔しがりました。
「何故、我らは戸ノ口原で死ななかったのか!」
このとき彼らは噛み締めた唇が破れて血が滴ったといいますから、相当の心情だったのだろうと思います。
彼らの受けた心の痛手は、どんな重傷よりも痛かったかもしれない。
そしてついに、
「かくなるうえは、
山川様も驚く戦功を立て、
臆病者の汚名を晴らさぬうちは、
死んでも死にきれない!」
と闘志が、むらむらとわき起こりました。
もちろんこれは、大蔵の「気付け薬」です。
白虎隊の少年たちは、山川隊に合流できた安堵感で、緊張感の糸が切れていたのです。
不安と空腹の中で、呑まず食わずの二日間のあと、ようやく大人たちと合流できた少年たちです。
無理もない。
しかしここは戦場です。
大蔵は、少年たちにもう一度緊張感を持たせ、戦意を復活させるため、敢えて厳しいことを言っているのです。
「今夜は夜襲」という情報提供も、大蔵の差し図です。
ひどいことをすると思うかもしれないけれど、戦場での緊張の喪失は、即座に死を意味します。
本人の死だけではなく、隊全体も危険にさらすことになるのです。
ペリュリュー島の中川大佐もそうだけれど、いざというとき、こういう厳しさを出せるかどうかも、将としての器です。
近年は、甘いことばかりをいう上司がもてはやされるようになりました。
さらには、緊張感をもたせるために厳しいことを言うと、それを「額面通りに」しか受け止めることができない者まで出るようになりました。
荘田は、後年、当時のことを振り返って、次のように手記を残しています。
「日を経るに従い、
隊長の名将たりしことを、
つくづく感ずるに至れり。
冷酷なる取扱も、
実は我等を救はんが為にして、
夜襲といひしも、
元気をつけるための気付薬なりし」
謙虚にそう悟れる荘田もまた、優秀で素晴らしい日本男児です。
さて大蔵ら一行が鶴ヶ城に近づくと、すでに城は西軍が重囲していました。
敵が城を幾重にも囲んでいます。
城内に入れるような状況ではない。
しかし殿のもとに合流するために城に入らねばなりません。
ここで大蔵は一計を案じます。
村の青年団に頼んで、小松地方の伝統芸能である彼岸獅子の道具を借りると、その獅子舞を先頭に立て、にぎやかに笛や太鼓、お囃子を奏でながら、西軍が呆気にとられているなかを堂々と行軍して、一兵も損じる事なく入城を果たしたのです。
これが有名な「彼岸獅子入城」です。
この作戦がうまくいった背景には、西軍が、各藩寄せ集め連合軍で、装備や軍装がバラバラだったことや、互いの認知が低かったことなどがあげられます。
しかし、それでもかような一瞬の盲点を突いて、機知を働かせて敵中を無血で入場してしまうなど、よほどの胆力がなければできることではありません。
この「彼岸獅子入城」は、獅子踊りに、それとわかる少年も混じっていました。
もちろん荘田たち、白虎隊の生き残りです。
他の隊員たちもそうですが、少年達までも、敵の真っ只中で、お囃子や獅子踊りをしています。
その度胸は、まさに見上げたものですが、これもまた、隊長である大蔵へのよほどの信頼がなければできるものではなかったといえます。
大蔵の入城により、籠城中の将士達はおおいに士気を盛り返します。
藩主容保も、このとき涙を流して喜んだといいます。
入城後、容保は、大蔵を防衛総督に任じました。
彼は本丸にあって軍勢を総括しました。
こうして戦うこと1ヶ月。
ひとくちで1ヶ月の籠城戦といいますが、関ヶ原の頃の時代と異なり、大砲に炸裂弾が用いられた時代です。
どれほどまでにすさまじい戦いが行われたか、想像するに余りあります。
そして大蔵は、この籠城戦のさ中に、妻のトセを爆死で失っています。
長い長い籠城戦でしたが、ついに鶴ヶ城は落城します。
藩主の松平容保、家老の山川大蔵らは、西軍に拿捕され、猪苗代に謹慎させられました。
しばらくすると、処分のため、松平容保公以下、幽閉されていた会津の重臣たちに、東京出頭命令が届きました。
東京に護送された一行は、池田家の屋敷その他に、分離して幽閉されています。
そして徐々に藩士たちの謹慎先が決まっていきました。
この情況下で、大蔵は積極的に「お家再興」へ向けた活動を開始しています。
敗れたからといって、あきらめていないのです。
いまなら会社が倒産して、無一文の求職者になったようなものです。
その情況下で、ふたたび事業再開に向けて活動を開始しているのです。
新政府は、日増しに増幅する会津藩への同情論を牽制するために個々の会津藩士たちの戦争責任を追及しようとしました。
するとこれには藩公の松平容保が、頑強に抵抗しました。
「首謀者は余である、
余を処罰せよ」
と言い張るのです。
実はこれは新政府には、非常に困ることでした。
伝統と格式ある大名格の人を処分するとなると、ちゃんとした理屈が必要になるからです。
しかし、そもそもがデッチアゲの「朝敵」です。
「挙国一致し、内戦によって国力を消耗することなく、夷敵に備えるべし」
という論は、容保の論です。
そのために、容保以下の会津藩士は、必死の調整をしていたのです。
それを薩長の側が内戦で叩いたのです。
理屈でいえば新政府軍側に非があることになります。
加えて、合理的で正当な処分ができるかどうかは、列強が観ています。
意味もなくただ虐殺したり、横暴な軍事裁判でいたずらに敗れた側の将兵を処罰すれば、たちまちのうちに欧米列強は日本を「遅れた野蛮な国」とみなします。
勝ったからといって、横暴な処分をすれば、それは
「日本では力がすべて」
という論理が通ることを証明することになるのです。
日本においてその理屈がまかり通るならば、日本よりも強大な海軍力を持つ欧米列強(当時は米英仏)は、薩長政権をも滅ぼし、まさに力によって日本を支配することができることになります。
つまり薩長政権は、列強の手前、どこまでも力とか戦いに勝利したということではなく、正義を実現していかなければならないという立場をとる以外に、国を護る方法がなかったのです。
そこで薩長政権が、行った方法というのが、明治天皇による「勅旨」でした。
「容保の死一等を宥(ゆる)して首謀の臣を誅(とが)め、
以て非常の寛典(かんてん、寛大な恩典のこと)に処せん」
要するに、新政府誕生記念なので、理屈抜きで赦しますとしたのです。
天皇の詔勅が出た以上、もはや容保公も、それ以上言い張ることはできません。
そして藩の首謀の臣として、責任を一心に背負って家老の萱野権兵衛(かやのごんべい)が、
「従容自若顔色豪も変らず」
全責任を負って腹を切りました。
明治2年5月18日(新暦:1869年6月27日)のことです。
萱野権兵衛は、会津藩一刀流の相伝(免許皆伝)を受けた剣豪であり、藩校である日新館で兵学を教えた教授でもあった人です。
家老の席次からすれば、田中土佐、神保内蔵助らがいました。
しかし二人ともすでに自刃していました。
序列から権兵衛は、みずから「謹んで裁きを受ける」と申し出、会津戦争に関するすべての責任を一身で引き受けたのです。
切腹の日、権兵衛の身柄を預かる有馬家では、丁重な酒肴を用意してくれましたが、権兵衛は辞退し、自ら茶を立てて同室の人々に振る舞い、最後に自らも喫し、有馬家に厚く礼を述べて、切腹の場に指定された飯野藩保科屋敷に向かいました。
保科邸では、介錯を務めた保科家の剣客沢田武司に、「忠臣をもてなす道である」として、藩主から貞宗の名刀を用いるよう渡されていました。
権兵衛はそのことも感謝しつつ、従容として自刃しています。
明治2年(1869)6月3日、松平容保に長男が生まれました。
名を、慶三郎と名付けられます。
どん底状態にあった会津人士たちに、このことがどれだけうれしいニュースとなったことか。
そしてこの年の9月、太政官から、家名再興許可令が発せられ、会津松平家は復活することになりました。
10月には大蔵は梶原平馬とともに会津藩総代となり、生まれたばかりの慶三郎をもって松平家の家名を立てられるよう、正式に願い出ています。
ところが時を同じくして、新政府から「猪苗代または陸奥の北部にて3万石を賜る」旨の通知が出されました。
いよいよお家再興とはいえ、石高は23万石から、いきなり3万石です。
そして猪苗代か陸奥の北部かを選べという。
この場合、普通なら猪苗代を選びます。
なぜなら猪苗代は会津藩の旧領だし、祖先の墳墓の地にも近いのです。
しかも距離が近い分、藩士たちの引越費用も安く済みます。
ところが大蔵らは最北の地である陸奥北部を選びました。
なぜでしょうか。
このことについて、後年、義和団事件でコロネル・シバと呼ばれた柴五郎が、「ある明治人の記録」の中で、次のように記しています。
「会津落城後、経済、人心ともに荒廃し、
世直し一揆と称する大規模なる百姓一揆あり
権威失いたる藩首脳これを治むる自信なし」
明治2年(1869)11月、会津松平家は松平慶三郎をもって家名を立てることを許され、陸奥三郡に3万石、および北海道四郡の支配を命ぜられます。
「よって藩名を申し出よ」
ということで、大蔵らは「斗南(となみ)」という藩名を付けました。
「斗南」というのは、「北斗以南皆帝州」という中国の詩文から採ったものです。
私たちは北を守ります。私たちより南は、みな帝州です。私たちはは朝敵ではなく、同じ帝州の民なのです、といった意味です。
藩名で、恭順の意を表したのです。
明治3年(1870)、大蔵は斗南藩の大参事(家老職)に就任しました。
けれど会津藩23万石が、わずか表向き石高三万石、実収入は一万石にも満たない北限の地に閉じ込められたのです。
大蔵も妹咲子(後の大山捨松)を函館に口減らし同然に里子に出すなど、貧窮のどん底で苦労を重ねています。
結果として、藩の経営がうまくいかないまま、明治四(1871)年には、「廃藩置県」によって斗南藩は消滅します。
弘前藩と合県して青森県となったのです。
山川大蔵は、斗南に来てから名を「浩(ひろし)」と改め、しばらくは青森県庁に出仕し、その後上京しました。
母や妹たちと共に浅草の片隅に住み、絵に描いたような貧しい長屋暮らしをしています。
長屋の狭い家でしたが、居候(いそうろう)もいました。
若き日の柴五郎、のちのコロネル・シバです。
コロネル・シバについては↓
≪義和団事件と大陸出兵≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3274.htmlこの頃の大蔵は、生活苦から、ときに居候の柴五郎からも借金しなければならないほど家計は苦しかったそうです。
そんな大蔵を、必死で探しまわっていた人物がいました。
かつての戊辰の敵将、谷干城です。
谷は土佐の人です。
武智半平太と親交を結び、後藤正二郎や坂本竜馬らと攘夷のための運動をした人物でもあります。
この頃の谷は、兵部権大丞(ひょうぶごんのだいじょう)として、明治新政府の国を挙げた陸軍構築のため、人材を求めていました。
谷は、会津戦争のおり、日光口で散々に自分たちを苦しめた「山川大蔵」の名を覚えていました。
大蔵を「有為の人材」として陸軍に推挙してくれたのです。
谷の推挙によって陸軍に入った大蔵は、陸軍裁判所勤務を経て少佐となり、熊本鎮守府に転じました。
佐賀の乱に出兵して負傷し、しばらく療養するけれど、西南戦争では中佐として別働第二旅団の参謀として出動。熊本城に籠城する谷将軍救出の一番乗りをやってのけます。
明治13年に大佐に昇任した大蔵は、陸軍省の人事課長となり、さらに明治18年には文部大臣森有礼のたっての要望により、軍籍のまま東京高等師範学校長の任に就いています。
やがて陸軍少将になった大蔵は、貴族院議員になります。
これには山県有朋が、
「何故会津人を将軍にするのか!」
と激怒したため、わざわざ明治大帝が勅撰にしています。
貴族院議員となった大蔵は、筋の通らない政策には敢然と反対を表明します。
その潔さと正々堂々とした議論は、世人から「貴族院の3将軍」の一人と呼ばれ、政府高官たちを大いに畏れさせました。
この頃、東京牛込若松町三番地にあった山川邸は、馬小屋も備えた、当時としてもかなりの広さを持った屋敷だったそうです。
その屋敷には、年中誰かが来ていたそうです。
大蔵の人徳と、会津人の中心という彼の立場からすれば、当然といえば当然です。
そんな来訪者の中の一人に、藤田五郎の名があります。
藤田五郎、もとの名を斉藤一(さいとうはじめ)といいます。新選組三番隊組長だった斉藤一です。
斉藤一は、戊辰戦争では山口二郎の名で勇名をはせ、維新後は改名して藤田五郎と名乗っていました。
藤田は、土方歳三が会津を去った後も、残存の新選組を率いて会津で戦い続けたのです。そしてついに会津藩と命運を共にした。さらにその後も斗南から西南戦争と、ずっと大蔵と共にありました。
斉藤一は、山川大蔵という男に惚れ込んだのだろうと思います。
山川邸に出没していた頃は、警視庁をすでに退職し、大蔵が校長をしていた高等師範学校の事務員をしていた頃です。
藤田は、休みの日など、しじゅう山川邸に現われ、酒を飲んでは気焔をあげていたそうです。
「刀を抜いて戦う場合は、
剣術の場合のように
構えるようじゃだめだ。
大上段にふりかざして進めば、
敵はもう斃れているのだ」
「阿弥陀寺の会津戊辰戦死者之墓の傍らに、
俺は骨を埋めるのだ」
などと言っていました。
藤田にとって、大蔵の屋敷は、いちばん気の落ち着ける場所であったのでしょう。
現在、藤田五郎の霊は、彼の希望通り、七日町の阿弥陀寺にあります。
大蔵の家に寄宿していた柴五郎も、義和団事件で柴とともに戦い、壊れた兵から続々と入ってくる義和団を、日本刀一閃、次々に眠らせて英国人女性から絶賛を浴びた安藤大尉も、その戦いの奥義は、斉藤一からの直伝だったのかもしれません。
明治25年(1892)、大蔵は、男爵に叙せられ、華族に列しました。
しかしこの前年あたりから呼吸器系を患い、ついに明治31年(1898)3月、波瀾万丈の人生を終えました。
享年54歳でした。
※この記事は2010年5月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
Kaminari
このような人物の映画が全くないことに寂しさを覚えます。
国際的な賞を取る作品名が「万引き家族」ではひど過ぎます。
おそらく背乗りなど家族まで乗っ取ってしまうことが当たり前の
国のお話でしょう。
2018/05/28 URL 編集
にっぽんじん
しかし、技術の進歩によって、出所不明の文書が独り歩きする時代になりました。機密文書であっても「コピー」すれば個人のパソコンに入れられます。
更に厄介なのはその「コピー文書」を自由に書き換えることが出来ることです。悪用すれば「冤罪」をいつでも作れます。
愛媛県の新たな文書でまた国会の審議が足踏みをしています。
国会で取り上げる前に、その「新たな文書」の信憑性について提出者が明らかにすべきです。
「出せと言われたから出した」では無責任です。
新たな文書には日付がありません。また文書内にはフォントの異なる部分もあります。誰が作成したのかも分からない文書を国会で取り上げること自体異常です。
文書作成に関わった職員が「いつ」「誰から」聞き、作成した文書を「誰に報告し」「報告を受けた上司がその文書をどのように処理し」「文書の保管をどうしたのか」
まったく不明です。このようなやり取りは「一人対一人」ではないはずです。複数の人間がかかわるはずです。そうであれば関わった複数の人間がこの文書の存在を知っているはずです。
誰も知らない文書が突然出ることを不審に思わないことに驚きます。
科学の世界では、データで正しくてもその出所が不明なものは「データ」としての価値を認めません。
行政の世界でも同じではないでしょうか。
2018/05/28 URL 編集