悪の葉っぱに斧を向ける人は千人いても、
根っこに斧を向けるものは一人しかいない
ヘンリー・D・ソロー
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倭塾・東京 第53回7月28日(土)18:00
百人一首塾 第28回8月15日(水)
ねずさんと靖国昇殿参拝9月15日(土)18:30
百人一首塾 第29回9月23日(日)13:30
第54回 倭塾・東京 第54回<関西・倭塾>8月10日(金)19:00
倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)9月9日(日)14:00
倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)10月19日(金)19:00
倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)11月11日(日)14:00
倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)12月8日(土)14:00
倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)自分の所属する国家に起きていることは、他人事ではありません。
自分たちの未来に直接関わってくることです。
日本を取り戻すことは、私達自身のよろこびあふれる生活を取り戻すことです。
手塚治虫がマンガ『火の鳥』で、たいへん不思議で面白い言葉を遺しています。
「過去はすでに起きた未来。
未来はこれから起きる過去』
歴史は繰り返すといいますが、昨日のNorth Koreaのジュネーブ軍縮会議での「日本は関わりのないことに首を突っ込むべきではない」や、平壌放送の「日本反動らは今日まで自らの過去の犯罪を謝罪し賠償するどころか、逆に誰それのありもしない拉致問題を騒々しくわめき立て、自分たちを『拉致被害国』に化けさせようと破廉恥に策動している」といった、およそ普通の日本人ならあまりに破廉恥すぎて思いもつかないような馬鹿げた主張を平然と行う。
驚いた方も多いかと思います、考えてみると4〜5世紀頃の半島の様子を描いて石碑にした広開土王碑にも、「新羅百済はもともと高句麗の属民であったが、倭が臣民にしてしまった」と、これまた馬鹿げた大嘘が掘ってあります。
彼らに関心があるのは、相手の国がどう思うかではなくて、自国の民衆をいかに騙すかだけです。
このことはSouth Koreaも同じで、剣道や華道、茶道、あげくはカラオケまでMade in Koreaだと厚かましい主張をするのは、いかに自分の国がすごくて、それを統治している上にある人々が素晴らしいかと国民を騙せれば良いのであって、世界がどう見るかなど関係ない。
オリンピックでのあの破廉恥な振る舞いも、要するに自国民に向けてのパフォーマンスであり、買収工作なのであって、それを世界の人々がどう見るかなど、まったく関係ないわけです。
そういう態度が、石碑に彫られた記録に現れている5世紀、つまりいまから1500年以上もの昔から、現代にいたるまで、まるで変わらず、都度、我が国は迷惑をかけられ続けています。
要するに歴史は繰り返すであり、過去はすでに起きた未来なのです。
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さて、昨日述べた、古事記の冒頭にある言葉の「隠身」は、とても大切な言葉です。
要約すると、一般にはこの言葉は、創生の神々が「身をお隠しになられた」といった程度にしか訳されません。
しかし創生の神々というのは、神界も人間界も、あの世もこの世も、過去現在未来も、とにかくありとあらゆるすべてのはじまりの神様なのであって、その神様が「お隠れになられた」のでは、すべてが「ない」ものになってしまいます。
けれど私達は実在しているし、現にこの世で悩んだり苦しんだり、喜んだり愛し合ったりしているわけです。
ということは「隠身」というのは、もっと別な何かを言い表しているわけです。
しかも古事記は「隠身」という言葉を冒頭で三度も繰り返しています。
つまり「重要な概念」であるということです。
そこで「隠」と「身」という漢字の成り立ちを調べてみると、実は「隠身」には、単に身を隠したという以上に、非常に重要なメッセージが含まれていることに気付きます。
どういうことかというと、
「隠」は心臓を道具を用いて覆う象形、
「身」は子を胎内においた妊婦の象形です。
つまり「隠身」は、胎児のように胎内に抱いて、それを大切に覆(おお)ったという意味です。
覆ったのは天地神界を含む時空間のすべてを意味する天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)です。
その天之御中主神が、高い産巣日(むすび)の神(高御産巣日神)と、神の産巣日(むすび=結び)の神(神産巣日神)とともに、そのすべてを胎内に入れて覆(おお)ったのです。
胎児と母体は一体です。
神も人もあの世もこの世も過去も未来も、すべて一体だということです。
空も陸も海も宇宙も、過去現在未来も、草木の一本一本も、あらゆる動物も昆虫も、それらすべては神々の中にある、ということが古事記の理解です。
万物に神聖が宿るというのは、このことを言うのです。
昨日に引き続き原文を示すと次のように書かれています。
<原文>
天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神訓高下天、云阿麻。下効此、
次高御産巣日神、次神産巣日神。
此三柱神者、並独神成坐而、隠身也。
次、国稚如浮脂而久羅下那州多陀用幣流之時流字以上十字以音、如葦牙、因萌騰之物而成神名、宇摩志阿斯訶備比古遅神此神名以音、
次天之常立神。訓常云登許、訓立云多知。
此二柱神亦、並独神成坐而、隠身也。
上件五柱神者、別天神。
次成神名、国之常立神訓常立亦如上、
次豊雲上野神。
此二柱神亦、独神成坐而、隠身也。最初に天之御中主神がお生まれなられて、高次元の神々との結び(高御産巣日神、神産巣日神)を行ないます。
この3柱の神々は、独り神であって、隠身したとあります。
つまり胎内にすべてを入れて結びを行ったわけです。
すると胎児が急激に成長します。
その成長にあわせて母体も巨大に成長していきます。
それはまるで二葉だった葦が急激に成長して天高くそびえるような成長(ウマシアシカビヒコヂ神)で天空に確固として立たれ(天之常立神)るわけです。
そしてここまでの5柱の神を、古事記は「別天神」だと書いています。
その「別天神」がどういう意味なのかは、ここには書きません。
30日の倭塾でお話します。どうぞお楽しみに^^
人間の体には37兆個の細胞があるとされています。
(※かつては60兆個と言われていましたが、イタリアのボローニャ大学のEva Bianconi教授らが論文で37兆個という試算結果を発表されました。)
37兆個というのはものすごい数で、1秒に3個の割合で24時間ぶっ通しで数えていっても、数え終わるのに40万年かかります。
それほどたくさんの細胞で私達の体は構成されえているわけですが、その37兆個のひとつひとつの細胞がどれも明るく溌剌と生きているなら、その体は健康体です。
そして健康体であればその体の持ち主は明るく楽しく前向きに生きていくことができます。
ところがそのなかのいくつかの細胞が、自分さえ良ければと、周囲の細胞を殺し、その栄養分を奪い、自分だけの繁栄を図ることがあります。
私達は、そういう細胞のことを癌細胞と呼びます。
そしてそんな癌細胞が体中にできれば、その人は死んでしまいます。
つまり神々の胎内にあるたいせつな赤子を、一部の癌細胞の暴走が殺すことになるのです。
だから自己中は神々の敵です。
身勝手も神々の敵です。
支配も収奪も神々の敵です。
私達は、神々のものである「すべて」と共生を図らなければならないというのが、縄文以来(あるいはもっと古くから)万年の単位での思索の結果としての古事記に書かれた神語(かむかたり)です。
これはものすごい知恵です。
神様と我々は、一体だというのです。
そしてその神様の胎内にある細胞のひとつが、人となって生まれてきます。
そして人としての一生を送りながら、そこで様々な経験をして、成長していきます。
苦しいときもある。
悲しいときもある。
だけどくじけずに生きていく。
このことは、スポーツに例えることができます。
たとえばサッカーをする人ならば、苦しい練習に耐えながら、一生懸命になって体をつくり、技術を磨き、心を磨いて試合を戦います。
負けたときは悔しいです。
涙を流して悔しがり、次には勝つぞと決意します。
そして勝ったときは、まさに喜びと輝きに満ち溢れます。
そのサッカーをしている自分は、同時にサッカーをしていないときの自分でもあります。
サッカーはその人にとって、サッカーをしているときは、まさに人生のすべてです。
けれどサッカーをしていないときの自分もまた自分なのです。
そして試合に勝てば、サッカー少年の自分も嬉しいし、サッカーをしていない自分も嬉しい。
つまり魂と体は一体です。
その魂は、神々の一部です。
だから魂のよろこびは、神々のよろこびです。
ただしそのよろこびは、身勝手な喜びであってはならない。
なぜなら身勝手になった瞬間、その喜びは癌細胞の喜びになるからです。
それが古事記の知恵です。
現代を生きる知恵として、近現代史を学ぶことは生活に直結することだけれど、神話を学ぶことの意味がわからないという人もいます。
しかし神話を学ぶことは、あらゆることに通じる原点を学ぶことです。
同じ事柄であっても、原点が異なると、まったく違ったものになります。
たとえば銀行のATMは、もともと世界で活躍する米国人が24時間の金融サービスを得ることができるようにと作られました。
なぜなら米国が深夜でも、地球の反対側では昼間だからです。
ところが日本の銀行は、このATMを、銀行の窓口業務の簡素化による人件費の縮減のために導入されました。
ですから導入当初は、銀行の窓口と同じで平日の午後3時までしか使えず、土日祝祭日はもちろんATMは使えませんでした。
コンビニが24時間サービスをするようになってから、コンビニのATMは24時間作動していますが、それでも銀行のATMは、深夜はいまだにお休みです。
使っているATMは同じATMであり、システムも同じシステムで作動しています。
しかし導入の原点(これをパラダイムといいます)が異なると、結果は大きく異なってしまうのです。
パラダイムというのは、その時代に人々の中で支配的な常識や前提のことをいいます。
その支配的な常識や前提が行き詰まったとき、いくら目先の手段方法を変えても、良い結果を得られないことがあります。
そういうときは、パラダイムそのものを変えてみる。
米国の思想家のヘンリー・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)は、
「悪の葉っぱに斧を向ける人は千人いても、
根っこに斧を向けるものは一人しかいない」
という有名な言葉を残しました。
私達が未来を拓こうとするならば、葉っぱばかりに目を向けるのではなく、すべての問題を通底する本質に目を向けなければ、おそらく何も変わらない。
そのすべての問題に通底する本質というのが、実は、我が国であれば、神話にあり、その神話を7世紀の終わりから8世紀の初頭にかけて、まる30年の歳月をかけて取りまとめた古事記に書かれているのです。
そうであれば、古事記をただウサギがサメを騙した物語と、軽んじるのではなく、大人ならば、大人らしい古事記の読み方をしなければならないのだと思います。
そこには、我が国の古代からの知恵が凝縮しているのですから。
お読みいただき、ありがとうございました。

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