人と人との情の交流が大事にされた頃の会社は高度成長経済を生み、情が希薄になってきてからの日本企業は、失われた平成の30年を迎えました。
本当に大切なことは何なのか。
私達はもういちど考え直してみるべきときにきているように思います。
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倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。東京都千代田区北の丸公園内に、大山巌(おおやまいわお)元帥の銅像があります。
この銅像だけは、大東亜戦争直後のGHQによる全国の軍人さんの顕彰碑や銅像の一斉撤去に際して、まるで無傷で温存されました。
なぜかというとGHQの最高司令官だったマッカーサー自身が、自室に大山巌元帥の肖像画を飾るほど、大山巌ファンだったからなのだそうです。
大山巌元帥は、1842年、薩摩藩の鹿児島城下の生まれました。
父の大山彦八は、西郷隆盛の父の弟で、大山家には養子に入りました。
つまり西郷隆盛と大山巌は、従兄同士の関係にあたります。
大山巌は、6歳から薩摩の郷中と呼ばれる青少年団に入りました。
西郷隆盛は、大山巌より歳が15歳も上です。
そして大山巌が所属した郷中のリーダーであり、兄であり、父でもありました。
大山巌は、この郷中で、卑怯を嫌い、死を覚悟してことに臨む潔さを学びました。
そしてリーダーのあるべき姿は、西郷隆盛から学びました。
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32歳になった大山巌は、明治政府から下野した西郷を復帰させるために渡航先のヨーロッパから急きょ帰国しました。
3年ぶりに鹿児島に戻った大山は、その足で西郷隆盛のもとを訪れて、新政府に戻ってほしいと必死に説得しました。
けれど西郷隆盛は応じません。
ならば西郷を守るために命を捨てようと、大山巌は、西郷に、行動を共にさせてほしいと頼みました。
しかし西郷隆盛は、
「おはんは、これからの日本に必要な人材じゃ。
東京におって、天皇陛下のお役にば、
たたにゃなりもうさん。
おいの役にはたたんでも、よか」
と言いました。
それでも西郷と行動を伴にしたい大山は、重ねて
「おいの命ば、兄さぁにお預けしもす」
と頼み込みました。
すると西郷隆盛は突然立ち上がり、
「ならん!
断じてならん!
帰れっ!
東京に帰れっ!」
と、ものすごい剣幕で怒鳴りました。
西郷隆盛は、滅多に人を叱りつけることがなかった人でした。
その西郷が声を荒げて怒鳴ったのです。
しかし大山はこのとき、西郷の怒声の中に、彼の悲壮な決意を感じ取りました。
不平武士たちの側に身を置き、彼らと運命を共にする。
彼らと共に死ぬ。
誕生したばかりの政府を守るにはこれしかない。
それは西郷隆盛の明治政府への命を捨てての「ご奉公」でした。
だからこそ西郷隆盛は、その「ご奉公」に大山を巻き込みたくなかったのです。
その気持ちが、大山にも痛いほどわかる。
これが今生の別れになると思うと、大山は涙があふれて止まらなかったそうです。
大山は、西郷のもとを去り、実家にも寄らず、東京へ帰りました。
1877年、西南戦争が起こりました。
これは一般に、明治新政府への不満武士たちが西郷を擁立して暴発したのだと言われています。
すこし違うように思います。
強大な欧米列強の前に、欧風化を急がなければならないという新政府の意向はわかるのです。
そのために明治維新を成し遂げているのです。
しかしだからといって、日本の美風まで損ねることは、武士の道に反します。
我が国の政府は、その名称が朝廷であれ、幕府であれ、新政府であれ、どこまでも天子様の「おほみたから」である民が豊かに安全に安心して暮らせるようにしていくための存在です。
武士はそのためにこそ存在してきたのです。
ところが蓋を開けてみれば、一部の者が法外な利益をあげ、武士も農民もまったく豊かになっていない。
しかも列強の脅威は日増しに強くなる。
民の危険は日増しに強くなる。
幕府なら水害や干ばつに際しては、動きが遅いと言われたとしても、それなりに動いてくれた。
新政府は、その点、まったく動かない。
我が国において、「武」は「たける」ものです。
世の中の歪みや不条理を、まっすぐにただすのが「たける」の意味です。
そして「たける」ために先祖代々帯刀してきたのが武士です。
その武士を否定し、金持ちだけが贅沢三昧を手に入れて、日本的精神が破壊される。
このことに武士たちは怒り、決起したのです。
明治9年3月に、新政府は廃刀令と金禄公債証書発行条例(俸禄支給の打ち切り)を発布しています。
これに怒った士族たちの決起は、10月に熊本「神風連の乱」、同、福岡「秋月の乱」、同、山口「萩の乱」が起きています。
そして翌明治10年2月14日、西郷隆盛率いる3万の軍が鹿児島を出発しました。
これに対し明治新政府は、2月19日には、有栖川宮熾仁親王を逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官に山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命、さらに第1旅団(野津鎮雄少将)・第2旅団(三好重臣少将)・別働第1旅団(高島鞆之助大佐)・別働第2旅団(山田顕義少将)、川路利良少将兼大警視が率いる警視隊(後に別働第3旅団の主力)など、総勢7万の軍が出動開始しました。
大山巌は新政府軍の攻城砲隊司令官として、戦いに参加しました。
西南戦争は、実にたいへんな戦いでした。
激戦地となった熊本では、両軍の銃弾同士が空中で衝突して、二個の弾がくっついたものがいくつも発見されています。
どれだけすさまじい戦いであったかということです。
その激しい戦いが、倍の兵力と火力を持つ新政府軍相手に、なんと半年間も続けられました。
よく、
一匹の狼に率いられた100匹の羊
1匹の羊に率いられた100匹の狼
と例えられますが、西郷隆盛に指揮された薩摩軍が、圧倒的火力と倍の兵力を持った新政府軍に、それだけの期間、戦い続けることができたということは、なによりも指揮官であった西郷隆盛の凄みというべきことであるように思います。
戦いの最終決戦のときがやってきました。
非情にも、大山巌に西郷が立て籠もる城山への総攻撃の命令がくだされました。
攻撃は早朝4時に始まりました。
大山巌も、後年の彼の戦いが証明しているように、際立った才能を持った指揮官でした。
態勢は、明け方には決まりました。
そして西郷隆盛、自刃。
遺体は浄光寺に運ばれました。
葬儀のとき、大山は西郷夫人に弔慰金を渡そうとしました。
けれどそのお金は、夫人によって、ものも言わずに突き返されました。
大山巌の姉は、泣きながら
「なぜ西郷を殺したかっ!」と巌を責め立てました。
胸が張り裂けそうな辛い立場でした。
しかし大山巌は、いっさい弁解をしませんでした。
理解してもらえるとも思いませんでした。
「兄さぁだけがわかってくれれば、
それでいい」
西郷の新政府への「ご奉公」を見届けるのだ。
そんな思いだけが、彼の心をぎりぎりで支えていました。
これこそが武人の心でした。
西南戦争の翌年、明治天皇が北陸・東海地方を巡幸されたとき、大山巌は、その同行を命じられました。
明治天皇は、このとき大山に次のように語ったそうです。
「わたしは、西郷に育てられた。
いま西郷は『賊』の汚名を着せられ、
さぞ悔しかろうと思う。
わたしも悔しい。
西郷亡きあと、
わたしはその方を、
西郷の身代わりと思うぞ」
「もったいないお言葉でございます。
全身全霊を陛下に捧げる所存ございます」
すべてをわかっての明治天皇のお言葉です。
大山は、そう答えるのがやっとでした。
西郷を失って以来、大山は元気を失っていたのです。
何をするにも気合いが入りませんでした。
けれど、このときの陛下のお言葉で、西郷亡きあとの自分の生き方が見えてきました。
「自分は、兄さぁの代わりになろう」
それはつまり、西郷の人生を生きるということです。
大山の目からは、熱い涙がとめどなく流れつづけました。
1894年、日清戦争勃発。
第二軍の司令官となった大山は、出陣に際し、
「敵国民であろうとも、
仁愛をもって接すべし」
と訓示しました。
この訓示のときの大山の姿に、
「勇者は義に篤くなければならん」と常々語っていた西郷隆盛の姿を見た者は少なくなかったといいます。
そしてこの日清戦争において、敵兵からも称賛された日本軍の規律正しさは、後々の世まで語り草になっています。
1904年、日露戦争勃発。
満州軍司令官として着任した大山巌の存在感は、圧倒的でした。
大山巌の許可を得た作戦ならば、絶対に勝てる!。
そう思わせる、力、人徳が、大山にはあったのです。
「この戦争は、大山巌で決まる」
と語ったのは、参謀次長の児玉源太郎です。
陸軍の勝利は、この二人の二人三脚で決まりました。
大山は、児玉の作戦を全面的に信頼して任せ切りました。
任せた以上、口出ししない。
そして結果については、全面的に自分が責任を取る。
大山は、このスタイルを貫きました。
奉天戦で、秋山好古少将率いる騎兵第一旅団が、ロシア軍に包囲されたという報告が司令室に飛び込んできたときのことです。
秋山旅団が崩れれば、全軍が分断されます。
司令部に戦慄が走りました。
情報は錯綜しています。
児玉源太郎の怒声が飛びました。
ただごとではない空気が、大山の部屋にも伝わってきました。
大山は、このとき、
「おいが指揮を執るしかない」
と思ったそうです。
しかしと、とっさに思いました。
「もし、兄さぁ(西郷)だったら、
どうするだろうか」
そう思い返したとたん、大山は軍服を脱ぎ、わざと寝仕度をして、眠そうな眼でドアを開けていました。
そして、とぼけた調子で、
「はぁー、なんじゃ、
にぎやかじゃのぉ」
みんなあっけにとられて、寝まき姿の大山に目を向けました。
「さっきから、
大砲の音がしちょりますが、
今日はどこぞでいくさでもやってござるのか?」
大山の間の抜けた声に、ひとりが笑いだしました。
それが引き金となって、司令部の全員が笑いだしました。
司令部に漂っていた緊張感が一気に和らぎました。
司令部内に冷静さが戻りました。
的確な状況把握がされるようになりました。
大山巌流統率術の真髄であったといいます。
大山巌

日露戦争で勝利を飾った大山巌には、是非とも次期総理大臣にという声があがりました。
けれど大山は断固、これを拒否しました。
武士ではなく、軍人なのです。
軍人は政治に関与すべきでない。
大山の態度は一貫していました。
大山巌は、家人に対しても部下に対しても、およそ威張るところがありません。
人の悪口もいわない。
私心なく、海のように広い心を持ち、誰に対しても謙虚な態度でいました。
そんな大山の姿は、西郷隆盛そのものでした。
愛妻家で子煩悩も、大山の特徴のひとつです。
仕事を終えると、より道をせずに、まっすぐに家族のもとに帰りました。
芸者遊びを好まず、家族と過ごすときを大切にした人でした。
1916年、愛妻に看取られながら、大山巌は、74年の生涯を閉じました。
危篤状態となり、意識が朦朧とする中、大山はしきりに
「兄さぁ、兄さぁ」
とうわごとを言っていました。
妻の捨松は、
「やっと西郷さんと会えたのね」と、夫に語りかけました。
西郷隆盛もそうでしたが、大山巌の統率術も、薩摩の郷中教育に根を持つものです。
郷中では、頭で考える理屈や論理よりも、人と人との情のつながりが大切にされました。
先の大戦でもそうでしたし、戦後の日本はもっとその傾向が顕著ですが、
理屈が先行し、組織が縦割りになっています。
そして、どういうわけか
「上が命令したら、下は動く」と思いこんでいます。
実際には、上が命令したら、下は「なに言ってやがんだ」と反発するものです。
面従腹背です。
うわべだけ言うことを聞くけれど、身が入らない。
ところが郷中は、昔ながらの日本スタイルです。
お互いの情と、無条件の尊敬心が形成されています。
だから言わなくてもわかるし、言われてやるのではなく、誰もが上のために、みんなのために動くのです。
そしてその動きが、大将のもとに統合される。
一昔前までは、日本人のサラリーマンが、他社のサラリーマンと交流するとき、あるいは上司と部下が交流するとき、必ず、一緒に飲もうぜ、実家はどこだい? あぁ、そこなら知ってるよ。角にタバコ屋があって、あそこの婆さん元気かな。。。等々の会話が重ねられ、いつの間にか、人と人との間に、深い情の交流が築かれていました。
そういうことは、一見、無駄に見えることかもしれません。
けれど、明治以前の教育を受けてきた日本軍は、到底勝てないとされた日清日露を勝ち抜き、明治以降の教育を受けてきた日本軍は、地球の反対側からやってくる敵と戦って敗れました。
また企業は、人と人との情の交流が大事にされた頃の会社は高度成長経済を生み、情が希薄になってきてからの日本企業は、失われた平成の30年を迎えました。
本当に大切なことは何なのか。
私達はもういちど考え直してみるべきときにきているように思います。
※この記事は2009年7月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
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小学校の黒板の上には
「負けるな 嘘を言うな 弱い者をいじめるな」
と書かれた額がどの教室にも掛けてありました
郷中教育の教えを校訓とし、魂と呼んでいた小学校でした
2018/07/05 URL 編集
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けれど西郷南州公や大山巌大将、
東郷平八郎元帥のように情理に通達した者は稀にしかいない。日本はもう一度、情理を重んじる寺子屋教育を幼年期に与えるべきです。フィランドなども6歳~12歳までの幼児を一緒に教育していると聞いています。 画一的な年齢で教育を受けるのは情理に欠けた
無機質で、無気力な人間しか生まないのでないでしょうか。
2018/07/04 URL 編集