発足したばかりの新政府にとっても緊急事態です。
そもそも薩長の後ろ盾は英国軍です。(幕府側はフランス軍)
その英国と、事を荒立てる事態が起きたのです。
なんとかしなきゃなんない。
けれども、当時の世相にあって、武士の道も外すわけにいかない。
新政府は、島津修理太夫、毛利長門守、細川越中守、浅野安芸守、松平大蔵大輔、それに山内容堂などの連署で、朝廷に建議し、各国公使あてに詫書を出すことにしました。
陸奥陽之助(後の陸奥宗光)が、これを英国領事パークスに届けました。
書面には次の内容が記載されていました。
「朝廷新政のみぎり、
不行き届きのあるは申し訳ない。
今後双方から信義を守って相交わるについて、
このような妄動がないようにきっと申し渡す。
今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。
このたびの儀については、
備前家家老・日置帯刀に謹慎を申し付け、
下手人である滝善三郎には
切腹を申し付けた。
このことを各国公使に告げるよう
勅命によってご連絡する次第である」
けれども英国領事のバークスは、こんな書面ひとつではおさまりません。
バークスは、
「切腹は日本武士の名誉であると聞く。
本件は犯罪である。
名誉の死であってはならない。
今後の戒めとなるよう、
厳罰に処されたい」
と抗議をしてきました。
兵庫の永福寺での処刑の日、パークスはふたりの書記官を処刑に立ち会わせました。
日本側は、伊藤俊介、他一名の立ち会いです。
処刑は、バークスの意に反して、作法通りの「切腹」でした。
下手人とされた滝善三郎は、実に堂々とした態度で、従容として腹を切ったのです。
そのあまりの荘厳さと、滝善三郎の堂々としたふるまいに、英国の立会人の書記官は、完全に気圧されました。
そしてその模様を詳細にバークスに報告しました。
バークスの心は動きました。
そしてこれまでの事実関係の動きを振り返り、備前藩と新政府の迅速かつ筋道を立てた誠意ある対応と、武士の名誉を守る(切腹)態度に、新政府を全面的に支援する決断を下したのです。
もちろんその決断の背景には、フランスが幕府を後ろ押しし、英国が薩長新政府を後押しすることで、米国南北戦争の中古品武器を上手に日本に売り込むチャンス・・・つまり大儲けのチャンスを棒に降りたくないという英国側の都合も影響したことでしょう。
というよりも、これだけ大きな商談に、バークスの立場からしてみれば、むしろ自国の水兵の命など、どちらでもよかったのかもしれません。
そもそも、大名行列の前を横切るという行為については、それ以前にも生麦事件で英国には前があるのです。
そのときは斬った薩摩藩に英国は軍艦を差し向けて、薩英戦争が起きています。
この薩英戦争では、英国が勝利したのだ、などとバカげた妄想を書いている人がいますが、実は薩摩藩の勝利です。
理由は当時英国海軍が世界に先駆けて採用し搭載した艦載砲のアームストロング砲で、これは炸裂弾を発射するという当時の最新兵器だったのですが、肝心の炸裂が、目標への着弾時ではなく、発射時の艦上で起こってしまったのです。
英国はこの戦いの後、アームストロング砲の注文を全部キャンセルしています。
薩摩との戦いで敗北した英国は、その船速を活かしてすぐに江戸に戻り、幕府に談判して賠償金を受け取っています。
このとき幕府はあっさりと、英国の要求する10万ポンド(いまのお金でおよそ30億円)の賠償金を支払いました。
当時、東洋の諸国のみならず、有色人種国では、王や政府があっても、国民が外国人に対して加害行為をしたときに、王やその国の政府が加害者に代わって賠償金を支払うなどということは、まったく考えられないことでした。
「あれは誰それが勝手にやったことで、どうして王が責任をとらなきゃならないんだ」というわけです。
いまでもそんな国はあります。
だからこそ欧米諸国は、有色人種諸国にそれぞれ担当を決めて保護国とし、たとえば英国人がフランス領の国で加害行為を受ければ、その責任はフランス政府が取る、ということをせざるをえなかったのです。
植民地支配を受けてヒドイというばかりではなく、支配を受けることになった側にも問題があったわけです。
ところが東洋の端にある日本では、幕府があまりにもあっさりと国民の行った不祥事への賠償支払いに応じました。
これはおよそ欧米人が見てきた東洋社会では、ありえないことであったわけです。
同時に、日本の持つ財力にも欧米諸国は驚きました。
その前に、金相場をいじって、数千兆円規模の金塊を日本から奪い取っているのです。
さらに南北戦争の使い古しの武器や装備を日本に買わせています。
普通の政府なら、とっくに破産しそうなところなのに、まだお金がある。
もっとも幕府にしてみれば、支払った賠償金は、全部「クズ銀」でした。
これは当時、国内に補助通貨として出回っていたものを回収したもので、純度も低いし、幕府としてはその処分に困っていたのです。
そこで、英国の請求に対して、ちょうどゴミ(クズ銀)の処分にちょうど良いからということで、英国に渡したわけです。
そんなわけで、薩英戦争で薩摩が負けたというのは史実ではありません。
薩英戦争で勝手に自爆した英国が、船足を生かして、あたかも勝ったように幕府を騙して賠償金を請求し、幕府としては事を荒立てたくないこと、ちょうどクズ銀の始末に困っていたことから、請求に応じたというのが歴史の実際の流れです。
幕府から賠償金をもぎ取った英国は、その後、薩摩との交流を深めて、米国南北戦争の南軍からの回収品の中古装備を薩長の新政府に売りつけます。
幕府にはフランスが同じことをしました。
米国がどちらかに付いて売るなら、幕府側か、薩長側か、どちらか片方の軍にしか、中古品を売れません。
英仏をかませることで、両方に売れる。
英仏が儲ける分、米の利ざやが多少減っても、米にとっては大儲けです。
そして英にとっては、三宮事件における英国人水兵の乱行は、薩長新政府との商談を有利に進める上でのチャンスにもなったわけです。
すでに生麦事件で彼らは日本人の大名行列の前に出たら殺されることを学んでいます。
日本の武士は、それこそ命がけで行列を守ろうとするのです。
そのような危険な行列の前に立ちはだかり、しかもナイフまで抜いたとあれば、結果は見えています。
そしてこの場合の非は、英国人の側にあることも、彼らはちゃんと承知しているわけです。
にもかかわらずバークスの主張は、「本件は犯罪だ」というのです。
つまり、行列への妨害という行為を差し置いて、これをただの殺人事件にすり替えているわけです。
すでに戊辰戦争が始まっています。
武器弾薬は、以後、どれだけ必要になるかわからない。
そして薩長新政府に武器を提供しているのは、英国人パークスです。
バークスがヘソを曲げれば、武器弾薬の補給が途切れる可能性さえもある。
つまり、この交渉は、新政府側にとっては、きわめて不利な状況、英国側に何を言われても、従うしかないという状況にあったわけです。
そしてそのパークスが要求したのが、斬った武士の名誉の切腹を拒否するというものでした。
ところが、日本側がここでどうしたのかというと、堂々と名誉の切腹をしているわけです。
もちろん、正しいことをして切腹に至る無念はありましょう。
しかし、ここで斬首のような形をとる・・・つまり英国の言いなりになることは、我が国の文化を否定することになります。
たとえ相手が町人であったとしても、人を斬ったら、斬った者が腹を斬る。
これは武士として当然の振る舞いです。
そのために武士は大小日本の刀を常時腰に差しています。
大刀は、不条理を働く者を斬って、世を正しくささえるため。
小刀は、人を斬ったあと、その責任をとってみずからの腹を斬るためのものです。
ですから腹を斬ることは、平時からの覚悟です。
けれど、ここでパークスの言いなりになって、斬首としたなら、英国は次々と要求を釣り上げてくることでしょう。
ところが、日本側には、選択肢が残っているのです。
英国が武器弾薬を売らないというのなら、ではフランスから買う、あるいは米国から買う。
米国は、英国経由で日本に売る分、利ざやが減っています。
それが直接取引になれば、米国の利益は倍増します。
またフランスにしても、それならウチにも商談させろということになる。
日本にしてみれば、英国ばかりが取引相手ではないのです。
つまり、このことは英国にとっては弱み、日本にとっては強みです。
いつの時代でも、売る側より、買う側の方が強いのです。
だからこそ、新政府側は、堂々と、名誉の切腹を命じています。
これにはさしものパークスも、納得せざるを得ませんでした。
政治も商売も、綺麗事ばかりではありません。
そこには様々な駆け引きがあり、相手の強みを弱みに見立て、こちらの弱みを逆に強みに仕立てて、丁々発止を繰り広げるのが、政治であり商売です。
この事件で切腹して果てた滝善三郎の辞世の句です。
きのふみし 夢は今更引かへて
神戸が宇良に 名をやあげなむ
「昨日見た夢のことは、もう申しさず、私は神戸で名をあげます」という歌です。
この名をあげるということは、今風に言うなら、歴史に名を留めるということです。
実際、この時代に生きた備前藩士は多数いたことでしょうけれど、まさに滝善三郎は、歴史に名を残しています。
先進国、列強と言いながら、まるで商売人のような損得勘定や駆け引きで、兎にも角にも自己の利益をあげることに汲々としなければならなかった米英仏。
それとやり合わなければならなかった新政府。
一方で、一介の武士でありながら、堂々と武士の一分を通して歴史に名を留めた滝善三郎。
考え方はいろいろあろうと思います。
しかし、自己の利益のために、駆け引きを繰り返さなければならない世界と、天子様から預かった「おほみたから」を護り、世の秩序を保つために人生を捧げることができた時代を長く続けることができた日本。
いま、日本は、あらためて自国の持つ文化を見直し、誇りを持つべき時代が来ています。
※この記事は2009年7月の記事を、別な角度からリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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