戦後、地縁社会が薄れてしまい、近年では趣味や思想的傾向などを中心としてコミュニティ社会になりつつあるといいますが、日本は天然の災害が多い国です。
いざというときに助け合いをして頼りになるのは、やはり地元のご近所さんたちです。
災害は、日本全国いつ襲ってくるのかわからないのですから、日本全体をひとつの大きな家族、おおきな地縁コミュニティと考え、いまいちど、住んでいる土地の地元のコミュニティを見直していきたいものです。
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)「おみこし」について書いてみたいと思います。
「おみこし」には、大きく別けると二つの種類があります。
ひとつが「神輿(みこし・しんよ)」、もうひとつが「御輿(みこし)」です。
前者が神社系、後者が仏教のお寺系です。
「輿(こし)」は、貴人が乗って人々が持ち上げて運ぶ乗り物のことで、屋根の頭頂部に鳳凰(ほうおう)の付いたものは、特に鳳輦(ほうれん)と呼ばれて、天皇の座乗するものとされていました。
我が国において天皇は天照大御神以来の直系の血族であり、神のお血筋=神にもっとも近い存在であり、そこから神社におわしたり、天上界におわす神様の御神霊にご座乗いただき、町内を移動したり、御旅行される際の輿も、頭部に鳳凰が付けられるようになりました。
神様にご座乗いただいて運ぶ輿だから、特別な輿だということで、これを特に「神輿(みこし)」と呼ぶようになったわけです。
我が国の仏教界ではこれを模倣して、神社の神輿とは別に「御輿(みこし)」と呼びならわすようになりました。
輿は、もともと人が担いだり、手で下げたりして持ち上げて運ぶ乗り物だったのですが、車を付けて引くタイプのものも生まれ、これが屋台と呼ばれて、祇園祭やダンジリ祭り、浜松まつりなどでも用いられるようになりましたが、意味は神輿と同じです。
また運び方も、静々と運ぶ方法もあれば、暴れ神輿のように、担ぎ手が激しくゆすって運ぶものもあります。
激しく揺するのは神様にあえてお願いして五穀豊穣を祈るためのものなどといわれています。
神輿が文献上に初めて登場するのは、九州の宇佐八幡宮の『八幡宇佐宮御託宣集』で、百人一首でも有名な大伴旅人が征隼人持節大将軍となって薩摩大隅の隼人の反乱の鎮圧に赴いた際に、朝廷が豊前の国司の宇努首男人(うぬのおびとをひと)に命じて八幡神がご座乗される神輿を作らせたという記述があります。
奈良時代の元正天皇の治世、養老4年(720)のことです。
実際の神輿の歴史は、実は、それよりもさらにもっと古くて、もともとは稲作が始まるよりも前の時代から続くものといわれています。
人々は農耕をするようになってから、いわゆる定住生活をするようになるのですが、定住しているから特定の場所に神様にお鎮(しず)まりいただくための神様のお社(やしろ)としての神社が生まれるわけです。
ではそれ以前の、狩猟採集生活の時代にはどうだったかというと、人々は獲物を求めて移動生活を行っていたわけですから、収穫祭のお祝いや、何らかの御神託をいただきたいなどの必要なときに、祭壇を作ってそこに神様に降りてきていただいていたわけです。
ところが稲作などの農耕が始まると、定住する期間がそれまでとは比べ物にならないくらい長くなります。
するとムラに神様に常駐していただくための祭壇、つまり神様のお社(やしろ)ができあがる。
そのお社は、食料を求めてムラが移動するときには、当然のことながら祭壇の神様にもご一緒に移動していただくことになるわけです。
このときに作られていたのが、まさに神輿で、神様を大切に輿に乗せて、移動していただいた、というわけです。
我が国の稲作は、約6400年前の縄文時代前期のものが岡山県岡山市の朝寝鼻貝塚から見つかっています。
ということは、半農半採の時代、つまり狩猟採集生活から農耕中心の社会へと移行したのは、およそ6千年前頃のことになる、ということです。
整理すると、
狩猟採集時代= 必要なときに祭壇に神様に降りてきていただく。
祭壇は、必要なときに作る。
半農半採時代= 固定的な祭壇ができあがる。
ムラが移住するとき、神様には神輿でご一緒に移動していただく。
農耕時代 = 神社が土地に固定される。
神輿で祝い事をする→お祭り。
ということになります。
つまり、神輿の歴史は半農半採時代に遡るわけで、それはおよそ6千年以上もの昔ということになるわけです。
従って、現代において、祭りで神輿を担ぐという風習が、いつ始まったのか、そもそも最初に行われたのはどこなのかなどを知ることはできません。
知ることができないほど何千年もの古い昔から行われている、としかいいようがないのです。
日本は、それだけ歴史の古いクニである、ということです。
その神輿は、氏子(うじこ)さんたちが担ぎ手になります。
「氏(うじ)」というのは、祖先を同じくする同族集団のことです。
ある男女が特定の土地に土着して子をもうけ、その子が孫を生んでと、だんだんに一族の人数が増えて行くと、数百から数千人の規模のムラができあがります。
ムラは、もともと一組のカップルから誕生しているわけですから、そのムラの名前が、仮に江戸さんであれば、そのムラに住む一族は、江戸という氏(うじ)を持った氏族(しぞく)となります。
つまり「江戸氏」です。
ところが、ムラに住む数百の人々の名字が全員江戸しかないということになると、個人の識別がやっかいです。
そこでたとえば、江戸ムラの北側に住んでいる家族を北さん、南側に住んでいる一家を南さんなどと、個々のイエ毎に名字(姓)を付けます。
これによって、江戸ムラ(氏族)に住んでいる、北さん(姓)のイエの太郎ちゃん、というように識別が容易になるわけです。
こうして生まれたのが、姓です
氏族の長のことを「氏上(うじのかみ)」と言います。
構成員となるムラ人が「氏人(うじひと)」です。
そしてムラの御祭神が「氏神(うじがみ)」です。
氏神からみたら、氏上も氏人も等しく我が子ですから、これを「氏子(うじこ)」と言います。
氏神様の乗り物である神輿(みこし)ですから、氏子さんたちが神輿を担ぎます。
こうして、我が国のお祭りは、いつの時代に始まったかわからないほど古い時代から、ずっと継承され続けてきました。
戦後、地縁社会が薄れてしまい、近年では趣味や思想的傾向などを中心としてコミュニティ社会になりつつあるといいますが、日本は天然の災害が多い国です。
いざというときに助け合いをして頼りになるのは、やはり地元のご近所さんたちです。
災害は、日本全国いつ襲ってくるのかわからないのですから、日本全体をひとつの大きな家族、おおきな地縁コミュニティと考え、いまいちど、住んでいる土地の地元のコミュニティを見直していきたいものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
松さん
年末年始や四季折々の祭事には、近郷近在からの人出で賑わいます。
大人の神輿や山車が出揃う夜は祭りも最高潮になります。
担ぎ手や曳き手は若い衆に譲りましたが、昔は「喧嘩祭り」と呼ばれ、物凄く荒々しかったです。
とても危ない祭りでしたが、逆に懐かしいです。
(神輿乗りは禁止になってます)
しかし、新興住宅が増えた近年は、地縁が薄くなったと感じます。
昼間、子供用の神輿や山車を引き回して寄進を募っても『宗派が違う』とか『氏子では無い』などと断る家が多くなりました。
(そんな方々も屋台が並ぶと家族で楽しんでますけどね)
そして今年。
感染症禍が長引いたので主要祭事は中止になり、氏子総代と神職のみで静な祈りが本殿で行われました。
祭好きにとっては残念無念です。
2020/07/06 URL 編集