たとえば日本が、日本国内にある米軍基地に攻撃を加えれば、それは侵略行為であって、米軍が応戦すれば、それは自己防衛行為です。
同様にChinaにある日本軍の基地が、Chineseによって軍事的攻撃を受けたなら、それは侵略行為であって、日本の立場はどこまでも「正当な自己防衛行動」です。
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画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)盧溝橋事件から第二次上海事変までの近代史概略を述べてみたいと思います。
結構、目からウロコだと思います。
先に年表をお示しします。
すべて昭和12(1937)年の出来事です。
いまから81年前に、このように緊迫した時代があったのです。
【時系列】
7月 7日、盧溝橋事件 現在この日は人民解放軍の抗日戦争記念日に指定
7月13日、大紅門事件 China兵が北平(北京)大紅門で移動中の日本軍トラック2台に、突然手榴弾を投げ込んで日本兵4人を死亡させた事件。
7月14日、China兵が日本の騎馬兵を惨殺
7月16日、事件を収拾させようとする宋哲元に対して、蒋介石は「日本の策謀に乗じるな、戦備を整えよ」と打電。
7月19日、蒋介石がラジオで『生死関頭』演説を行い戦争の決意を表明
7月25日 廊坊事件、日本軍が国民党から一方的に攻撃を受ける。
7月26日、広安門事件、日本軍が国民党から一方的に攻撃を受ける
7月29日、通州事件 日本人居留民約260名が人類史上最悪といえる残虐さで虐殺される
8月 9日、大山中尉惨殺事件
8月13日、第二次上海事変勃発
8月14日、China軍が上海市街のキャセイホテルやパレスホテルなどを爆撃。
Chinaはこれを日本軍の仕業だと世界中に宣伝。
8月15日、松井石根大将を司令官とする上海派遣軍を編成
8月23日、国民党軍が上海のデパートを爆撃。日本軍の仕業と世界中に宣伝
盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)に入る前に、この事件に至る背景を申し上げたいと思います。
1911年の辛亥革命によって大清帝国を倒した国民党は、中華民国という新たな政権を打ち立てようとしました。
この中華民国の誕生時には、後にChina共産党を組織する毛沢東も、一緒にその誕生を祝っていました。
ところが1917年にロシア革命が起こり、1922年にスターリンがロシア共産党の書記長に就任すると、同年12月にはソビエト社会主義共和国連邦(略称ソ連)が樹立されます。
そのソ連は、世界を共産主義にすることを旗印とし、China共産党を裏から援助してChina国内の混乱に乗じて中華民国政権を打倒し、Chinaに共産党政権がもたらされるように仕向けました。
世界の先進諸国は、共産主義の行う人命軽視をことごとく警戒したし、中華民国にとっても、中華民国の打倒を図ろうとするChina共産党は政権転覆を狙う破壊集団として警戒すべき対象となります。
そこで蒋介石は、China国内にいる共産主義者を徹底的に弾圧しはじめました。
弾圧されれば当然、共産主義者たちも抵抗します。
そのリーダーとなっていた毛沢東は、共産主義者たちを組織して革命軍として八路軍を組織し、これによって蒋介石率いる国民党と、八路軍が正面衝突するようになりました。
共産党軍である八路軍は各地で敗退を重ねて次第に追い詰められ、ついには西安近郊にわずかばかりの兵力を残すのみという状況に至ります。
ところがここに、もうひとつの軸がありました。
清国は、清国皇帝が北京を離れて、聖地である満洲に、1932年、新たに満洲国を建国するのですが、実はそれ以前に、満洲あたりを牛耳っていた軍閥の張作霖が、満洲エリアの王を名乗って、国中から収奪の限りをつくしていたのです。
その張作霖が1928年に爆殺されると、息子の張学良が跡目を継ぐのですが、結局、暴政がたたって張学良は満洲を追い出されるのです。
権力を取り戻したい張学良は、西安に軍事視察にやってきた蒋介石を拉致し、八路軍に引き立てます。
この西安事件で、蒋介石と毛沢東は裏で手を握ることになるのですが、ここで活躍するのが蒋介石の◯の◯◯◯と、張学良、毛沢東らです。
実は彼らは同じ一族の生まれだといわれています。
そしてこの一族は英国がChinaに阿片で進出する際に手足に使った一族でもありました。
いわゆる植民地支配といっても、欧米人には東洋人や黒人の言語はわかりません。
ですから現地の言葉のわかる通訳が必要になるわけで、多くの場合、これをその地域に住む少数民族にやらせます。
つまり現地国の社会から排斥されている少数民族に何らかの特権を与えて、これを手足に使う。
これを植民地支配のための間接統治などと言います。
少数民族の側は、宗主国の言うことを聞いている限り、宗主国のバックを得て当該国内の特権層となってあらゆる私的利益を享受することができるのですが、特権階級になるということは当該国内で蛇蝎のごとく嫌われるということですから、宗主国から嫌われて見捨てられれば、残るのは死のみということになります。
まさにアメとムチなのですが、日本でも米国がGHQ体制を敷いたときに、同様の特権民族が生まれました。
もっとも日本では、当該少数民族はあまりにもレベルが低くて、米軍の将校の妻女にまで手を出すようになり、結局GHQからも見放されてしまったのですが、幸か不幸か日本人は民度が高く、彼らを一様に否定することはせず、なんとかして日本社会に温かく迎え入れようとしてきました。
結果が、良かったのかどうかは、なんともいえませんが・・・。
さて、Chinaにおいて英国から特権を得た少数民族は、英国製阿片の人気もあいまって、China全土の裏社会を牛耳っていきます。
つまり、昭和初期の頃のChinaは、政治的には国民党と共産党が政権を争って激しく戦っている一方で、その両方に阿片を売り渡して巨富を得ていた一家がいたわけです。
当時のChinaには、北京議定書に従って、列強各国が軍を駐屯させていましたが、どの国も阿片売買に関しては、カネと酒と女で籠絡して買収できたのに対し、日本軍が治安を預かっているところでは、一切の買収が効かない。
民間の治安確保のために、密売業者は排除されます。
つまり、当該一家にとっては、まさに日本軍は侵略者そのものであったわけです。
悪得集団にとっては、善意ある集団は極めて邪魔なものです。
斜めの人たちからは、真っ直ぐなものが斜めに見える。
それと同じことです。
そして当該一家から見れば、真面目でしっかりしている日本軍は、まさに邪悪そのものに見えたわけです。
こうして一家は、むしろ共産党と国民党を結ばせて、日本軍に当たらせる、という選択をします。
頽勢だった共産党にとってはこれは大歓迎だし、国民党にとっては、それまでのドイツからの支援ではなく、米英の支援を得るチャンスとなりました。
China社会というのは、誰もが「自分さえ良ければ」という社会です。
自分と自分を取り巻く限られたごく少数の家族だけが潤えば良いのであって、他の人々がどうなろうと知ったことではないというのが根底にあります。
その潤いというのがカネであって、要するにどうすればカネを得ることができるかが、彼らの行動の一番の物差しになります。
こうして裏社会で密かに日本軍排斥が決まり、盧溝橋事件へと発展していくわけです。
日本では、軍はどこまでも「たける(竹る)」ための存在です。
日本人なら軍人も民間人も、誰もがそのように考えるし、軍人はそうした期待に応えようと日頃から身を律して働きます。
これは武士の時代どころか、もっとはるかに古い防人の時代から、日本ではずっとあたりまえの常識とされてきたことです。
ところがChinaでは、軍とヤクザと暴徒は同じものです。
暴徒たちを利用して、上に立つ者が個人およびその周辺にいる限られたごく少数の家族の利得を図るというのが、彼らの流儀だし、その暴徒達の中にも、細かな上下関係があり、収奪関係があります。
人は一切信用できず、自分に利益をもたらすか、もたらさないかだけが判断の物差しとなります。
盧溝橋事件は、突然の発砲事件によって始まりました。
最近の教科書などには、
「この事件が日中戦争のきっかけとなった」と書いているものがありますが、これは2つの点で歴史認識として成り立ちません。
第一に日中戦争という用語の嘘です。
日本語に「日中戦争」という用語はもともとありません。
支 那事変か日華事変というのが正式名称です。
大東亜戦争という用語は、昭和16年12月12日に内閣決議で決議された用語で、さらに翌昭和17年2月17日には、法で定められていた「支 那事変」の呼称も、「大東亜戦争」に含めると閣議決定されています。
ここでいう「支 那事変」は、昭和12年(1937年)9月2日の「事変呼称ニ関スル件」という閣議決定で、「今回ノ事変ハ之ヲ支 那事変ト称ス」と定められたことによります。
それ以外の呼称はありません。
ちなみに大東亜戦争について、戦後は英語の「The Pacific War」を邦訳した太平洋戦争という用語が普及しましたが、日本政府がこの名称をその後に正式採用したという事実はありません。
そもそも、当時の大日本帝国の戦いは、何も太平洋に限ったことではなくて、China満洲から東南アジア諸国にまで広がる広大なエリアで戦いを繰り広げていました。
ですから英国の教科書では、この戦いについて「War with Japan(対日戦争)」という用語が用いられていますし、英国の歴史学者クリストファー・ソーンは、「むしろ『極東戦争』と呼ぶべきである」と提唱しています。
では、日中戦争という用語は、どこが使っているのかというと、中共政府です。
中共政府は、この戦争のことを「中日戦争」と呼んでいます。
これを日本を主語にひっくり返したのが「日中戦争」で、ですから「日中戦争」の語を用いる人は、中共政府から賄賂をもらって抱き込まれたか、その抱き込まれた人の影響下にある人たち、ということになります。
なぜなら日本政府が正式に決定した名称を故意に用いないからです。
ちなみに戦争や、軍事衝突を意味する事変について、名称を付けるということは、開始時期をいつと特定するかということと相まって、実はとても重要なことです。
単なる歴史用語だなどという、単純な問題ではありません。
軍は政府の命令で動きます。
従って、国が何年何月何日の何時何分から開始となったと規定すると、それ以降の軍人の給与は、特別手当の対象となり、事件中の戦死者や戦傷病者は、保障の対象となります。
これは政府による事件の終結宣言の日まで続きます。
夫を戦地で失った妻や子、あるいは戦傷によって子や夫が障害者となって帰還した家族にとって、政府がいつの時点からを保障の対象とするのかは、ある意味生活に直結した重大事なのです。
そして手当や恩給の支給には、どの戦いで戦死したのか、あるいは戦傷を負ったのかが、やはり重要な事項となります。
逆に言えば、戦争や事変の名前を勝手に変えたり、戦いの始期や終期について、いい加減なことを並べたてて日本を貶める人たちというのは、戦死者や戦傷病者への愛情のカケラもない人たちだといえます。
実際、大東亜戦争で日本が降伏してGHQの支配下に入っていた6年8ヶ月の間、戦死者、線病傷者への恩給は、すべて打ち切られていました。
これによって夫を失った妻女たちがどれだけ戦後に苦労をしたのか、また足や手や視覚、聴覚を失った戦傷病者たちがどれだけ、その間、食うために苦労を重ねたか。
すくなくとも、どんな言い訳さえも、障害者や戦死者に対するこの期間のGHQの態度は人道的なものではなかったということができると思います。
付け加えますと、日本はChinaにおける戦いを、正式に「支 那事変」と命名していますが、ここで「事変」と「戦争」の用語の違いについても明確化しておきます。
「事変」は、警察力で鎮(しず)めることができない規模の事件や騒動です。
「戦争」は、国家が自己の目的を達成するために行う軍事による国家間の闘争です。
そして支 那事変(以下日華事変と呼びます)の勃発の昭和12年(1937年)当時、Chinaには正式に国際社会で認められた公式な政府はありません。
当時のChinaには、日本が支援する南京政府、米英が支援する国民党政府、ソ連がバックについた共産党政府の3つ以外にも、冀東防共自治政府をはじめ、各地に自治政府が混在していました。
つまり統一国家の体をなしていません。
この時期のChinaは、群雄割拠の内乱状態にあって、認知された統一国家でないのですから、国家間の武力闘争を意味する「戦争」という用語を用いている時点で、すでに歴史捏造でしかないことになります。
このように申しあげると、米国内でかつて起こった南北戦争だって内戦なのに戦争と呼んでいるではないかという方がおいでになりますが、南北戦争は「アメリカ合衆国(北軍)と、南部11洲によって構成される「アメリカ共和国(南軍)」との戦争です。
つまり、国家対国家の国際戦争です。
日本においても、西南戦争とか戊辰戦争といった言葉がありますが、この当時は、各地の藩のことを「クニ」と呼び、日本全国のことは「天子様の下(もと)」という意味で「天下」と言い表すのが普通でした。
ですから戊辰戦争も西南戦争も、クニ対クニの戦いですから、戦争です。
ちなみに昔の日本語では、「役」「乱」「変」が区別されていて、
「役」は、他国との戦争(文永・弘安の役、文禄慶長の役など)、もしくは辺境のでの戦争(前九年の役、後三年の役など)
「乱」は、現政権に対する反乱(壬申の乱、応仁の乱など)
「変」は、政権に対する陰謀や襲撃(本能寺の変、桜田門外の変など)を意味していました。
従って、この用語の使い分けに従えば、大東亜戦争は、大東亜の役ということになります。
江戸時代までは、このように言葉の定義が明確だったのですが、幕末から明治にかけて、翻訳語が大量に生まれたために、定義があいまいとなり、厳密な用語の区別がなくなって、文字のイメージが優先するというおかしな事態になりました。
たとえば「レボリューション(Revolution)」の翻訳語は「革命」ですが、Chinaの易姓革命と、西洋のリボルビング、つまり復古運動(Revolve)を意味する「レボリューション」とは、もともと意味が違いすぎます。
また、日本における「いつくしき・のり」の漢訳語である「憲法」は、決して変えてはいけない万古不易の真実の法を意味しますが、これは英語の「コンチシューション(constitution)=共同体のための定め」とはまったく語彙が異なります。
また、日華事変の発端を言うなら、これは歴史の流れを見れば、1937年盧溝橋事件がきっかけというよりも、1936年の西安事件の裏合意こそがきっかけであることは明白です。
むしろ盧溝橋事件は、現地で早々に停戦がなされており、事件は現場レベルでいち早く解決してしまっているのです。
また、世界の常識として、「挑発(provocation)」を受けて「戦闘(Attack)」を行うことは、侵略ではありません。完全かつ正統な「自己防衛行動」です。
これは、軍事活動が、敵地で行われたか、自国の領土内で行われたかには一切、関係ありません。
たとえば日本が、日本国内にある米軍基地に攻撃を加えれば、それは侵略行為であって、米軍が応戦すれば、それは自己防衛行為です。
同様にChinaにある日本軍の基地が、Chineseによって軍事的攻撃を受けたなら、それは侵略行為であって、日本の立場はどこまでも「正当な自己防衛行動」です。
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スギモト
大清帝国を終わらせたのは、袁世凱です。辛亥革命の勃発を受けて清朝において軍・政の全権を手に入れた袁世凱は、清国皇帝の退位と引き換えに自身が中華民国臨時大総統になるという取り引きを革命側と行ったのでした。
孫文は袁世凱に妥協して臨時大総統の地位を委譲しても、その臨時大総統の大前提である中華民国は臨時約法で国会開設を定めているので、言論で対決・牽制することにしました。この国会に備え、袁世凱側のものも含めて100以上もの政党が設立されます。そもそも清朝政府でも国会開設が予定されており、議会政治に対する機運が高まっている時期だったのです。
孫文らは国会で多数派を形成するため、最大派閥・中国革命同盟会を中心に小党を糾合して1912年8月に「国民党」が結成します。理事は9名で理事長は孫文、理事長代理は宋教仁。中国同盟会では孫文の存在感が大きかったのですが、国民党では宋教仁が実権を握りました。
1913年3月の国会議員選挙で国民党は第一党になりますが、これに危機感を覚えた袁世凱は宋教仁を上海で暗殺(なお宋教仁の盟友・北一輝は暗殺の首謀者は孫文だと書き残している)。これに怒った孫文ら急進派は7月から第二革命を起すも失敗します。
第二革命に参加しなかった国民党の穏健派は北京で議会活動を続けるも、1913年11月に袁世凱から解散命令が出され、議員資格も剥奪されて国民党は消滅した。捕縛・処刑された者もいたと言います。さらに袁世凱は1914年1月に国会を廃止しました。
第二革命に失敗した孫文は、1914年7月に亡命先の東京で中華革命党を創設。これは議会制を否定する革命結社でした。これを改組する形で1919年10月10日に結成されたのが中国国民党。現在、台湾野党になっている国民党はここに始まりました。この段階の中国国民党は革命に大衆運動を取り込むことを意図した大衆政党を目指していました。
それに前後して孫文は広州で革命政府を作っては潰しを繰り返しますが、この過程で武力による政権獲得に傾き、1924年1月の中国国民党一全大会(中国国民党の第1回全国代表大会)で武力による北京政府の打倒を表明しています。この大会では中国共産党との統一戦線(第1次国共合作)を打ち出しています。
2018/07/14 URL 編集
ポッポ
>また、日華事変の発端を言うなら、これは歴史の流れを見れば、1937年盧溝橋事件がきっかけというよりも、1936年の西安事件の裏合意こそがきっかけであることは明白です。
これは、明晰な判断だと思います。
西安事件はその後に大きい影響を残しています。
蒋介石が張学良に誘拐され、毛沢東に引き立てました。
この後、どう考えても毛沢東は蒋介石より優位な立場となって、蒋介石は大軍を率いていても、毛沢東に指示されていたとか思えないのです。
証拠は全くないのですが、蒋介石の周囲には毛沢東の暗殺者がいても不思議のない立場であったと思います。
こう考えると、その後の対日軍事作戦において、被害の出そうなときは蒋介石の国民党軍が前面に出て被害を重ね、八路軍は被害を出さず兵力を温存しました。
そして終戦後、八路軍はソ連軍から日本の兵器の協力を受け、満州もソ連軍とともに占領しました。(このとき、満州帝国軍の吸収したのではないでしょうか)
その頃、蒋介石の国民党軍は、米軍が厭戦気分で武器の補給を止めたから、増強された八路軍と尻すぼみの国民党軍の戦争になって、これが勝敗を決したと思います。
元に戻りますが、西安事件によって毛沢東は蒋介石の首根っこを押さえたことで、蒋介石は勝てなくなったと思います。
2018/07/14 URL 編集