人生の価値は、お金ばかりではない。
人々のためにもてる力を振り絞って戦いながら、みずからの魂を浄化していくこと。
船橋随庵は、その人生の努力の積み重ねの中で、最期の日を迎えたとき、お金以外のすべてを得て、あちらの世界に向かわれました。
考えてみると、どっちみち向こうの世界には、この世のお金は持ってはいけないわけです。
ということは、彼は、最高の人生を持って、旅立たれたといえるのかもしれません。
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神話を体感する会11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。船橋随庵(ふなばしずいあん)は江戸後期の人です。
寛政7年(1795)生まれで、明治5年(1872)に逝去しました。
関宿藩(いまの千葉県野田市関宿町)で150石の知行取りの武士で、藩の家老まで勤めています。
関宿は、利根川と江戸川が分岐するところにある藩です。
いまでは利根川は房総半島の付け根の銚子岬で海に接していますが、もともとは東京湾に注ぐ川だったのです。
ところがこの利根川、昔は大雨の度に氾濫しました。
あまりにも暴れるので、付いたあだ名が「坂東太郎」です。
そこで江戸幕府は、東京湾に流れ込む利根川を、人工的に銚子へ流すように河川工事を行いました。
こうしてできたのがいまの利根川の流れです。
同時に、江戸市中に水を引き込むために、人工河川としてできたのが、いまの江戸川です。
そして利根川と江戸川が分離する三角地帯にあるのが、川の関ということで「関宿藩」となり、幕府の直轄領となっていました。
この関宿出身の著名人としては、大東亜戦争を終結に導いた第42代内閣総理大臣の鈴木貫太郎、将棋の坂田三吉の立ち向かった将棋の関根金次郎名人などがいます。
また徳川家康の弟の墓地も、関宿にあります。
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利根川は、千葉の銚子に注ぎ、江戸川は江戸の町を抜けて江戸湾(東京湾)に注ぎ、両者は、関宿で接続しているわけです。
江戸時代の貨物輸送は、今の時代のようなトラックも、鉄道貨物もなかった時代ですから、大きな荷物、大量の荷物は、すべて河川を使って水上交通で行われていました。
そして、千葉の成田や印旛沼方面で採れる米や野菜や大豆、小麦などは、船で利根川を北上し、関宿で江戸川に入って、江戸市中に運び込まれたわけです。
いまでも、ターミナル駅は、人が多く集まりますが、同様に水上輸送が花形だった江戸の昔は、この関宿もたいへんな賑わいになっていたわけです。
ところが、もともと利根川は坂東太郎だし、江戸川もその利根川の影響下にありますから、大雨が降ると、必ずあたり一面が水浸しになりました。
実は、江戸時代の洪水対策というのは、大別して二種類のものがありました。
ひとつは関東方式、ひとつは関西方式です。
関東方式というのは、洪水の際に、江戸の町が水浸しにならないように、川の外側、つまりいまの埼玉方面に水を流してしまう。
つまり、埼玉を水浸しにしてしまうことで、江戸の町を護るという方式です。
これに対して関西方式は、兎にも角にも堤防を高く、河川を広くして、洪水にならないようにする、というものでした。
なぜこのような対策の違いがあるかというと、関東の河川の水量が、堤防を高くするだけでは、とてもまかないきれないほど、川の数も、水の量も多かったためです。
ですから、江戸川と利根川に挟まれた関宿藩などは、大雨の都度、水浸しになるところでした。
けれども、そうとわかっていても、平時はそこは広大な更地が広がっているわけです。
当然、人も住めば、田畑も営まれます。
そこで登場したのが「水塚」という個人施設で、各家ごとに縦横15メートルほどの地所に高さ4メートルくらの土を盛り、その上に小さな小屋を建てました。
そしてその小屋の中に、貴重品や食料、小舟などを保管し、いざ大雨のときは、そこに避難したわのです。
なにせ大水が出る度に、3〜4メートルの水没になるのです。
当然の、生活の知恵です。
水塚

もうひとつ言うと、関宿藩ではありませんが、同じく江戸川の河川地帯である埼玉県越谷市には下間久里、上間久里という町名が今でも残っています。
これは大水が出ると、女性たちが着物の裾をひざまでまくるから「しもまくり」、
モモまでまくりあげるから「かみまくり」という町名になったものです。
関宿の場合は、膝やモモどころか、家そのものが水没ました。
しかし、そうはいっても、そこで人々が生活していることは事実なのだし、関宿藩としては、なんとかして農家を護って行かなければならない。
そこで家老だった船橋随庵が考案したのが、堤防を超えて浸水した水を新たな水路を築いて流しだす、というものでした。
つまり、洪水になるのは仕方がないけれど、そこで出た水を、短期間で流し出してしまい、それによって、人々や田畑の被害を最小限に食い止めようとしたのです。
船橋随庵は、その水路に「悪水落堀」という名を付けました。
そしてその「悪水落堀」作りを開始するにあたって、彼は藩内の農民たちと繰り返し語り合い、全員の合意を取り付けて、藩内でみんなの力を合わせて、ついに嘉永3(1850)年に、この堀を完成しました。
できあがった堀に付いた名前が、公称「関宿落し」でしたが、誰もがその堀のことを「随庵堀」と呼びました。
どれだけ船橋随庵が、人々から慕われたかわかろうというものです。
こうして、船橋随庵は、それまでただの水腐地だった土地を、美しい田畑に変えました。
さらに随庵は、水害の心配から解放された長須沼、境町蓮沼、浅間沼、鵠戸沼などの沼地を干拓して、これを新田とし、新たに生まれた新田を、付近の農民たちに「平等に」分配しました。
ところが、世の中というのは不条理なものです。
この「平等な分配」が、藩内の重臣からの不興を買うのです。
藩の努力によって開墾したのだから、その権利は藩にあり、農民たちにくれてやる必要はない、というのです。
そして船橋随庵は、「受託収賄による農民たちへの不正な新田分配」の疑いで老中職を解任され、さらに獄舎に繋がれてしまいます。
けれど、いくら取り調べをしても、不正などどこにもない。
証拠のカケラもでてこない。
あたりまえです。
随庵は、貧しい農民から、ビタ一文もらっていなかったのです。
結局彼は、無罪となって、復職するのですが、このとき起こったのが、ペリー来航(1853年)です。
随庵は、ペリーの来航を受けて世の乱れを予測し、関宿藩内に、農兵による義勇兵を結成しました。
農民たちは、世話になった船橋随庵の頼みと聞いて、喜んでこれに応じてくれました。
そして義勇兵は、浪士などによる武力による威嚇や収奪を防ぐために、藩内の施設や田畑、民家等の警備にあたりました。
高杉晋作が奇兵隊を発足させたのが文久3年(1863年)のことですから、それよりも10年も前のことです。
こうした努力によって、関宿藩は戊辰戦争による被害にもほとんど遭わずに、幕末から明治維新を迎えます。
明治新政府により、関宿藩は解体となり、随庵は職を失います。
さらに愛する妻は、過労のために先立ち、跡継ぎの息子は徳川幕府派として戊辰の戦争で行方知れずとなってしまいました。
藩がなくなり、俸禄もなくなり、家族もバラバラになってしまったのです。
彼は極貧生活の中で、明治5年、78歳の生涯を閉じています。
人の一生を、「社会的経済的に恵まれた晩年を過ごすこと」に価値を置くなら、船橋随庵は、悲惨な末路をたどった人ということになることでしょう。
けれど、人の一生を「何かのために尽くすこと」、あるいは「自らの魂を民衆の幸福のために捧げること」に価値を見いだすなら、そのために捧げきった人生は、このうえもなく幸福で価値ある人生であったといえます。
日本には「死して名を残す」という概念があります。
人の生涯が、生きている今生だけのものでなく、輪廻転生して永遠の魂の浄化を求める人生、生死を超えた魂の連続性の中で価値ある人生を生きようとするならば、そのために奉仕し抜いた人生にこそ価値があるのであり、社会的経済的成功など、その価値の前にはなんら意味をなしません。
昭和天皇は、次のように述べられました。
昭和20年8月15日のことです。
「国をあげて、
各家庭でも子孫に語り伝え、
神国日本の不滅を信じ、
任務は重く道は遠いということを思い、
持てる力のすべてを未来への建設に傾け、
道義を重んじて、志操を堅固に保ち、
誓って国体の精髄と美質を発揮し、
世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ。
汝ら臣民、以上のことを朕が意志として体せよ。」
人生の価値は、お金ばかりではない。
人々のためにもてる力を振り絞って戦いながら、みずからの魂を浄化していくこと。
船橋随庵は、その人生の努力の積み重ねの中で、最期の日を迎えたとき、お金以外のすべてを得て、あちらの世界に向かわれました。
考えてみると、どっちみち向こうの世界には、この世のお金は持ってはいけないわけです。
ということは、彼は、最高の人生を持って、旅立たれたといえるのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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梅澤政博
2020/07/04 URL 編集