伊東祐亨はそれだけ「イイ男」だったわけですが、おもしろいのは、この時代にモテた薩摩男児というのは、いまでいう「イケメン」ではありません。
良い顔をしているとか、背が高いだとか、高学歴とか、親がお金持ちとか、そういう「外見」だけの男では、絶対にモテなかったし、女性たちに相手にされません。
学問ができ、腕も立ち、思いやりがあって、内面から発する凛とした清々しさがある。
それでいて決して高ピーにならず、常に謙虚であり、しかも堂々としている。
そういう男でなければ「飯焦がし」とは呼ばれませんでした。
少年時代に和漢の書籍に通じ、書も極めた伊東は、薩摩藩の開成所に学ぶようになりました。
この学校、黒船来航で刺激を受けた薩摩藩が英語学校として薩摩に築いた学校で、藩内からとびきりの英才が集められた学校です。
そのとびきりの英才のひとりが、若き日の伊東祐亨だったわけです。
文久3(1863)年、伊東が20歳のとき、薩摩藩を震撼させた薩英戦争が起こりました。
実はこのとき藩公の島津久光の発案で、大山巌、西郷従道、伊東祐亨、樺山資紀、黒田清隆、仁礼景範(にれ かげのり)らが選ばれ、敵の英国艦に乗り込んで、これを奪いとろうという決死隊が組織されています。
これがまたおもしろいのですが、なんとスイカ売りに化けて小舟で敵・英国艦に近づき、敵が油断したところを軍艦に乗り込んで奪取するという計略だったそうです。
それでどうして伊東が選ばれたかというと、彼は英語ができる。
相手が英国人なので、スイカ売りの口上も、英語でなきゃならんだろう、というわけです。
伊東らは予定通り小船にスイカや野菜や鶏を満載して敵艦に近付き、英語で遠くから
「スイカはいらんかね~」とやりました。
けれどこの時代、一般の庶民が英語でスイカ売りなど、するわけがありません。
不審に思った英国艦に、ぎゃくに集中砲火を浴びせられ、あわてて逃げかえっています。
いまにして思えば無茶な作戦ですが、とにかくなんとしてもあの強力な大英帝国戦艦を奪取してしまおう、という豪胆さは、すごいものです。
ところがこのときの体験が、実はその後の伊東の人生に大きな影響を与えています。
当時の日本がもっていた大砲は、オリンピック競技の砲丸投げの弾のような鉄の塊りを、大砲の「先っちょ」から詰めて、ズドンと撃つという、250年も前の戦国時代のままのものでした。
ところが英国艦隊の砲は、火薬も玉も、後ろから詰めてズドンと放つ様式です。
しかも放たれた砲弾は炸裂弾(火薬が仕込んであって爆発する弾)です。
そんな大砲が船にたくさん積んであって、ズドン、ズドンと撃ってくる。
砲弾が着弾したところで、大爆発が起こるわけです。
しかも船は、見たこともないような、鉄でできた巨大戦艦です。
彼我の戦力の違いを間近に見た伊東は、
「よしっ!それならワイが戦艦造って操舵しちゃる!」と決意したわけです。
彼は幕府の海軍操練所の生徒に応募しました。
この幕府の海軍操練所というのは勝海舟が神戸に開いたものです。
坂本竜馬が塾頭でした。
竜馬は船の操艦と万国公法を教えてくれました。
勝海舟は「国」という概念を教えてくれました。
竜馬は、この海軍操練所の塾頭だった時代に、すでに万国公法(国際法)に通じていたことがわかります。
後年、竜馬は海援隊を組織し、海援隊が初めて入手した船で大阪に向かう途中、瀬戸内海で紀州藩の船と衝突した。
紀州藩の船の方が、圧倒的に大型です。
幕末とはいえ、幕府の権威はまだまだ存分に存在していた時代です。
紀州藩といえば、徳川御三家の名門、竜馬は一介の浪人者にすぎません。
けれど竜馬は、まさに万国公法を盾にとり、紀州藩と正面からやりあいました。
交渉は暗礁に乗り上げ、途中で交渉役を土佐藩の岩崎弥太郎に代わってもらったけれど、これによって、一介の浪人者が、紀州藩から巨額の賠償金をふんだくる、という前代未聞の出来事が起きています。
要するに法が権威に勝利したわけです。
一方勝海舟は、徳川幕府の直参旗本でありながら、すでに徳川幕藩体制という枠組みを一歩出て「日本国」という概念を明確に持った人であったことから、伊東に「藩ではなく、日本国こそが「公」であり、幕府や藩は「私」なのだ」と説きました。
これが後年の伊東の基本的な思考となりました。
後年、西南戦争が起きた時、伊東は西郷を心から慕いながらも、日本国海軍に残留しました。
伊東は「私」より「公」を優先する決断をしたのです。
明治元(1868)年に、海軍局に所属となった伊東は、明治4(1871)年には28歳の若さで「第一丁卯」の艦長に就任しました。
その後も「春日」「扶桑」「浪速」などの艦長を歴任し、最も豊富な艦長経験者として、海軍内で圧倒的な存在感を示すようになりました。
そして明治27(1894)年、51歳になっていた伊東は、日本とChina(清国)との関係が冷え込む中で、初代聯合艦隊司令長官に就任したわけです。
ちなみに日清戦争では、開戦前の同年7月25日に、豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)が起きています。
このとき先に挑発し、大砲を撃ってきたのは清国軍艦でした。
巨大戦艦を誇る清国海軍は、小船の日本海軍を馬鹿にして、砲撃を加えてきたのです。
ところが日本海軍は、これを徹底的に打ち破ってしまいました。
これが日本海軍が、対外戦ではじめて勝利した海戦です。
そして8月1日、明治天皇から宣戦布告の詔勅が発せられました。
6日後、聯合艦隊が組成されました。
ここで大事なポイントは、日本が宣戦布告したから日清戦争になったわけではない、という点です。
すこし話を戻します。
清国側から攻撃を受けて、日本はやむなく豊島沖海戦を戦いました。
そして事実上の戦争状態になったということで、なるほど宣戦布告をしていますが、それでも戦闘行為をすぐにするのではなくて、あくまで話し合いによる解決の糸口を探し続けていたのです。
けれど、日本を軽く見る清国は、何度も何度も日本に対して挑発行為を繰り返しました。
そしてやむなく、清国の主力艦隊である北洋艦隊と、聯合艦隊が、ついに衝突に到ったのが9月16日の黄海海戦です。
要するに、宣戦布告から事実上の戦闘にいたるまでに、一ヶ月半もかかっているのです。
日本が国として、いかに戦争を回避しようと努力していたかがわかります。
黄海海戦のときの清国北洋艦隊は、戦艦2、巡洋艦10を含む合計16隻の大艦隊でした。
対する日本海軍聯合艦隊は、巡洋艦からなる10隻です。
イメージからすれば、16台の大型トラックと砂利トラの軍団に、たった10台の軽自動車と原付バイクで挑むようなものです。
互いに敵の存在を知った両艦隊は、戦闘隊形をとりました。
北洋艦隊は、横一直線に並んだ鶴翼の陣です。
対する日本海軍は単縦陣です。
ちょっとイメージしてみると、滑走路のような広いところで、横一列に並んだ16台の大型トラックに、5台の軽自動車と5台のバイクが縦一列で大決戦を挑んだようなものです。
当時の軍艦というのは、後年の軍艦と異なり、砲が舷側(船の横)についています。
つまり、北洋艦隊は、片側の全砲門を開いて、日本海軍を待ち受けたわけです。
そして最終的には、数の少ない日本艦隊を取り囲み、最強の砲火である十字砲火を浴びせようとしたわけです。
これに対して、伊東が指揮する聯合艦隊は、まさに薩摩示現流そのものです。
敵に向かって一直線に突き進み、一刀のもとに敵を斬る。
12時50分。
横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5cm砲が火をふきました。
両軍の距離は、このとき6千メートルです。
「定遠」は、鋼鉄で装甲した巨大戦艦です。
所持する砲もバカでかい。
バカでかいから、弾を遠くまで飛ばすことができ、しかも当たれば敵艦に大きな損傷を与えます。
これに対し、日本海軍の艦は小型艦で、持っている砲も小型です。
速射は利くけれど、弾は近くまで行かなければ届かない。
一直線に単縦陣で距離を詰める日本艦隊。
これを、近づく前に沈めようと、巨大な砲を全艦から打ちまくる清国・北洋艦隊。
日本艦隊の船は、小型です。
大型の敵弾が当たり、全艦被弾します。
それでも日本艦隊は、一直線に並んだまま、どんどん距離を詰めていく。
そして距離が詰まったところで、小型砲を速射します。
北洋艦隊は、聯合艦隊の6倍以上被弾し、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没、6隻が中大破、2隻が座礁して動けなくなりました。
日本側は、旗艦「松島」など4隻が中破しただけで、沈没、大破、座礁ともなし。
こうして黄海海戦は、日本艦隊の圧倒的大勝利に終わりました。
この戦闘のとき、伊東の乗る旗艦「松島」は、戦い早々に左舷に砲弾が命中しました。
一瞬にして28人が絶命、68人が負傷してしまいました。
伊東は即座に艦橋から現場に向かいました。
そこに重傷を負って瀕死の状態の水兵が、全身の力をふりしぼって、伊東長官の足元に這い寄ってきました。
そして伊東に手を差しのばし、
「長官、ご無事でありましたか」と言いました。
伊東は、血まみれになったその手をしっかり握り、
「伊東はこの通り大丈夫じゃ、安心せよ」と彼に答えました。
そしてその場で足を2度、3度と踏み鳴らしました。
水兵は「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!!」と言いながら、伊東の腕の中で息絶えました。
伊東は目を潤ませながら、その手をしばらく離すことができなかったといいます。
激戦の最中です。
その激戦の最中に、聯合艦隊司令長官が、被弾して多くのけが人が出たその現場に、直接自分の足で、検分に出かけているのです。
そういう伊東の、末端の部下を案じる姿勢、それに答えようと、死力を振り絞って司令長官を気遣う水兵。
水兵は、自分が瀕死の重傷を負っているのに、伊東の身を案じているのです。
伊東が日頃からどのように部下と接していたのかが、わかろうというものです。
たとえばいまどきの学校で、何か大きな事故や災害があったときに、死を前にした生徒や教師が、「校長さえご無事なら本校は安泰です、万歳!」と叫んで息絶えるでしょうか。
あるいは、会社が不慮の災難に襲われた時、「社長さえ(部長さえ)ご無事なら、我が社は安泰です!」と叫んで息絶えるでしょうか。
そうでないなら、私たちは、教育や会社組織のあり方を、もしかしたら抜本的に考え直さなければならないところまできているといえるかもしれません。
日本はもともと「家族国家」です。
日本国民みんなが、ひとつ屋根の下で暮らし、生きる家族となろうとした国です。
そして、様々な国内の組織もまた、それぞれが家族でした。
当時の伊東聯合艦隊司令長官のもとに一致団結した日本海軍は、まさに日本海軍という名の大家族だったのです。
だから「長官さえご無事なら」という言葉は、そのまま「オヤジさえ無事なら、一家は安泰なんだ!万歳!万歳!」という声でもあるのです。
ですから伊東の側から見れば、何千人いようが、部下の水兵たちは、ひとりひとりが伊東の家族であり、子供たちでもあったのです。
だからこそ、伊東は「松島」が被弾したとき、いの一番に被弾した部下たちのもとに飛んだし、伊東の姿を見つけた水兵も、全身血まみれになりながらも、伊東の傍まで寄ってきています。
そして家族を守るために、家族の一員として戦うのだから、他にも敵弾で腹部が裂けて内臓がはみ出す重傷を負いながらも、戦い続けるからと、治療室に運ばれるのを拒否して息絶えた兵士や、紅蓮の炎で全身黒こげになりながらも、消火につとめ、鎮火を見て、息絶えた兵士など、伊東の腕の中で息絶えた兵士同様、彼らのひとりひとりが、持ち場持ち場で、必死になって戦っています。
日本は、もともとは、そういう国だったし、いまも人々の心の奥底にある感情は、まったく変わっていません。
ところが清国北洋艦隊の状況はというと、上司は部下を命令によって「支配」し、部下は上司に「支配」されている関係です。
黄海海戦で、北洋艦隊の艦隊責任者である丁汝昌(ていじょしょ)提督は、座乗する旗艦「定遠」に200発近い命中弾を受け、甲板は穴だらけとなり、提督自身も顔や手足に大火傷を負い、左足も負傷しました。
海戦の最中には、一直線に並んでぐんぐん近づいてくる日本・聯合艦隊に、水兵だけでなく、一部の艦長までが怖じ気づいて、敵前逃亡を図る始末でした。
生き残った船は、なんとか本拠地である威海衛(中国山東半島北東部)に逃げこんだけれど、港の入口は、すでに日本艦隊に囲まれていました。
丁汝昌提督は、港の入口をふさぐ日本海軍に挑み、脱出作戦を展開しようとしました。
ところがこれに応じようとする艦さえ、いない。
なぜかというと、水兵たちが逆切れして、艦長らを剣で脅しあげて、出港させないように仕向けたのです。
伊東は、丁汝昌に、見事な達筆で、降伏をすすめる文書を送りました。
開戦前に二人は2度ほど会っていて、これは万国共通なのだけれど、どうも海の男たちというのは、平素は、すぐに打ち解けます。
伊東は、老朽化した清国を立て直さんとするとき、必ず清国は丁提督を必要とするから、しばらく日本に亡命して、その時まで待ってはどうか。亡命に関しては、日本武士の名誉心に誓って、これを請け合う、と手紙にしたためました。
丁汝昌提督も海の男です。
書信を読んで深く感動しました。
そして書信を受けた十数日後、ついに降伏を決意した丁汝昌提督は、自らの祖国よりも、伊東を信頼する返信をしています。
そこには、
「兵士と人民を許して、
彼らをその郷里に
帰らせてもらいたい」
としたためてありました。
伊東はその条件を受け入れる旨の書簡を書いたあと、使者にこう質問しました。
「丁閣下にはお変わりありませんか」
そして体調のすぐれない丁を慰めるため、ブドウ酒とシャンペン、それと干し柿を贈りました。
丁汝昌は、伊東の変わらぬ友情に涙し、
「もはや思い残すことはない」
と、北京の方向を拝して毒をあおって自決しています。
丁提督は、きっと嬉しかったのだろうと思います。
なぜ嬉しかったか。
彼は、清国海軍の中にあっても、ただの駒でした。
彼の部下たちも、ただの駒でした。
駒は人ではありません。
ただの道具です。
そういう道具であることが、ある意味、あたりまえとなっていた提督を、伊東は人として遇したのです。
「人として扱ってもらえる」
実は、人として生まれた人間にとって、こんなあたりまえのことがあたりまえでなくなっているのが、実は、Chinaなどにおける上下社会というものです。
けれど、伊東の応対に、丁提督は、駒や道具としての自分ではなく、人としての自分になることができました。
だから彼は、死を選んだのです。
「士は己を知る者の為に死す」という言葉があります。
これは史記の刺客伝に出てくる言葉です。
伊東も、丁提督の姿に武士を見ました。
丁提督も、伊東に武士を見ました。
丁を失った北洋艦隊は降伏しました。
ところが清国側は丁汝昌以下死者の遺体を、ジャンク船で送ろうとしました。
これを知った伊東は激怒しました。
たとえ敗戦の将とはいえ、国に殉じた提督の遺体をジャンク船ごときで送るとは何事か!
伊東は、没収する予定になっていた運送船「康済号」を没収リストからはずすと、これに遺体を乗せて送るよう、使者である牛将軍に伝えました。
このとき丁提督を心から尊敬していた牛将軍は、伊東の配慮に感きわまって、その場で泣き崩れたそうです。
伊東は涙ながらに次のように述べています。
「俺が同じような立場になっていたら、
お前たちはこの俺がボートで
送り届けられてもよいのか。
責任は俺が取る。
万一お咎めがあったときは、
俺が死をもってお詫びいたすだけのことだ」
丁の遺体を乗せた「康済号」が威海衛から出港する日、聯合艦隊の各艦は、半旗を掲げて、一列に整列して見送りました。
伊東は「松島」の甲板に立ち、前をすすむ「康済号」に敬礼を送りました。
「松島」からは弔砲(弔意の礼砲)がはなたれました。
戦う男たちの姿がそこにありました。
けれど北洋艦隊敗北知らせを聞いた清国の光緒帝は、すぐに丁汝昌の財産を没収し、葬儀をも許しませんでした。
立派に戦った提督に対する、伊東が示した武士道と、清国皇帝の姿勢。
この日本文化こそ、私達は大切にしたいと考えています。
そしてこの事件は、日本が世界から称賛され、日本が世界的な信用を得る出来事となっています。
日清日露との戦勝に勝ち抜いた伊東は、晩年元帥の称号を与えられました。
けれど、伊東は戦いの中で多くの部下を死なせたことを生涯気にかけていました。
伊東の歌です。
諸共に
たてし勲を おのれのみ
世に誉れある
名こそつらけれ
戦勝の名聞名利は、明治大帝以下、みんなが力を合わせて戦った結果です。
だから、自分が世に誉れる身とされるのは、かえってつらい、と詠んだのです。
大正3(1914)年1月16日、伊東祐亨は、逝去されました。
71歳でした。
※この記事は2011年3月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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