四カ月半後の1186年(文治2年)7月29日、静御前は男の子を出産します。
そしてその日のうちに頼朝の命を受けた安達清常が、静御前のもとにやって来ます。
静御前は子を衣にまとい抱き伏して、かたくなに引き渡すことを拒みました。
武者数名がかりで取り上げようとしたけれど、静御前は、断固として子を手放しません。
数刻のやり取りのあと、安達清常らはあきらめて、いったん引きあげました。
安心した静御前は疲れて寝入ってしまう。
そりゃそうです。
初産を終えたばかりです。
体力も限界だったことでしょう。
御前が寝入ったすきに、母親の磯禅尼が赤ちゃんを取り上げて、使いに渡します。
子を受け取った安達清常らは、その日のうちにその子を由比ヶ浜の海に浸けて、殺してしまった・・・・。
というのが室町時代初期に書かれた『義経記』にある物語です。
ここまではねずブロでも何度も取り上げさせていただいていますし、本にも書きました(ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人 第二巻)。
まことに涙を誘う物語です。
今回ご紹介するのは、実はこの後の物語です。
静御前は、1186年(文治2年)9月16日に母の磯禅尼とともに、鎌倉を去っています。
このとき子を失ったことを憐れんだ北条政子と大姫が、二人に多くの重宝を持たせたと伝えられています。
ところが、その後の静御前の消息は不明なのです。
そして不思議なことに、静御前のその後のゆかりの地というのは、全国いたるところにあります。
さて、ここで同じ時期の義経に視点を動かしてみます。
1185年(文治元年)11月に吉野の山で義経と静御前は別れているのですが、山伏姿となって1187年(文治3年)2月に、奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せています。
つまり静御前が鎌倉から解放された頃は、義経は伊勢・美濃を経て奥州に向かっていた頃にあたり、その時期には義経の郎党であった佐藤忠信や伊勢義盛、河越重頼らも、頼朝の命令で次々と逮捕され殺害されていた頃にあたります。
とてもではないですが、義経に静御前を迎えに行けるだけの余裕はありません。
そしてようやく平泉に到着した義経を、藤原秀衡は朝廷に働きかけて、鎌倉の頼朝ではなく平泉の義経を征夷大将軍にしようと図りますが、その夢を実現できぬ間に、8ヶ月後の1187年(文治3年)10月29日に病没してしまいます。
義経は兵をまとめて、翌1188年(文治4年)2月には出羽国で頼朝の軍勢と戦い、さらに再三にわたって朝廷への工作を行いますが、結果1189年(文治5年)4月30日に衣川の戦いで、持仏堂で自害したことになっています。
さて、話を戻します。
静御前は、義経の子を由比ヶ浜に沈めて殺されたことになっています。
しかしこの話は、おかしな話です。
まず、子を取りあげたのは磯禅尼ですが、これは静御前の実母です。
当代一の白拍子にまでなった娘を、母親が可愛くないはずはありませんし、生まれてきた赤ん坊は、磯禅尼にとっては初孫です。これまた可愛くないはずもない。
まして、敵対する相手に赤子を求められたからといって、普通ならおいそれと引き渡す筈もありません。
一方、引き渡しを求めてきた鎌倉方の安達清常は、堂々たる鎌倉御家人です。
武門の柱として、刃向かう者には容赦はしないけれど、生まれたての赤子を殺せるような鎌倉武士は、悪いけれど誰一人いるはずもないし、そのようなことをすれば、仮にそれが頼朝の命令であったとしても、安達の家名に泥を塗り、末代までの恥さらしとなります。
武士が名誉を重んずることは、江戸時代よりも鎌倉時代はもっとすごみがあった時代です。
つまり何を言いたいかというと、安達清常は、赤子を殺さなかったであろうということです。
その意味では、由比ヶ浜に浸けて殺したという表現もおかしなものです。
赤子を殺すには、首を締めても良いし、刀で刺すこともできるのです。
それをわざわざ由比ヶ浜というのは、これは「謎掛け」だということです。
海に沈めて殺したとなれば、遺体は海に流されて見つかりません。
つまりこの話は、「殺したことにした」というだけのことであると読むことができるのです。
「殺した」というのは、「○○だったと日記には書いておこう」というのと同じ建前です。
もちろん静御前にそのように話すことなどできません。
話したところで御前が生まれたばかりの赤ちゃんを手放すはずもない。
そこで安達清常は、静御前の母に、
「ワシが責任をもって赤ん坊の面倒をみる。
そして後日、必ず赤子を静御前に引き渡そう」と、自身の名誉にかけて誓い、赤ん坊を引き渡してもらったのであろうと思います。
噛んで含めて赤子を引き渡させ、海に沈めたことにして、乳母を雇って赤ん坊を育てたのでしょう。
一方、静御前は、北条政子らから黄金をもらって鎌倉を解放されたとはいっても、自分が眠っている間に大事な赤ちゃんは拉致され、由比ヶ浜で殺されたという。
しかも引き渡したのは、自分の母だというわけです。
もうそうなれば人間不信でしょう。
愛する義経には二度と会えない。
二人の大切な子は、いわば母によって殺されたとあっては、この先いったい誰を信じて生きて行けばよいのか。
産後の肥立ちの弱った体に、激しい悲しみが追い打ちをかけたのです。
おそらくは、もはや生きる気力をまったく失って、生ける屍のような状態になっていたことでしょう。
そのような抜け殻になってしまった静御前を、鎌倉方がいつまでも養っておく理由はありません。
ですから財宝を与えて、母の磯禅尼とともに鎌倉を放逐します。
「京に帰りなさい」というわけです。
母とともに街道を歩いても、静御前にしてみれば自分を裏切った人と歩いているようなものです。
この世でもっとも憎む相手が自分の母親だなんて、考えただけでもつらい話です。
母を殺して自分も死ぬか。
けれど親殺しはこの世で最も重い重罪です。
そんな乱れる心で街道をたどって、ようやく鎌倉を抜けたとき、街道に馬を降りた安達清常が立っています。
安達清常は、静御前母子に真顔で近づきます。
普通なら、静御前にとって安達清常は憎んでも憎み足りない敵(かたき)となるところです。
けれど我が子を失い、すでに心が死の淵に行ってしまっている静御前にとって、もはや目の前にいる安達清常は、ただの物体でしかありません。
その安達清常が言います。
「静殿、お待ちしておりました、。
母君の磯禅尼殿に、ほだされましてな。
『武士が赤子を殺すのか!』というわけです。
それで委細を承知つかまり、
由比ヶ浜で海に漬けたことにして、
こうしてひそかにお育てしてまいりました。」見れば、安達清常の後ろに立っている女性が赤子を抱いています。
(生きていれば私の子も、この子くらいだったかもしれない)静御前には、まだ事態が飲み込めません。
安達清常は、女性が抱いている赤子を静御前に抱かせます。
「ほら。若君ですよ。
大切にお育てしてまいりました。
ささ、お顔をよくご覧ください。
若君。
ホラ、母君だよ・・・。」腕に抱いた赤子の重み。
母というのは不思議なものです。
どんなにたくさんの赤ちゃんがいても、そのなかからひと目で我が子を見つけます。
このときの静御前もそうでした。
そのとき、静御前の胸の中で、すべてがつながりました。
母は知っていながら、心を殺してまでしてそのことを自分に黙っていた。
娘が傷つき、心が死の淵をさまよう状況にまで至っても、それでも自分を信じていてくれた。
鬼と思っていた安達清常も、こうしてみれば、真っ直ぐそうな良いお男です。
そしてこれまで乳母をしてくれていた女性の笑顔。
静御前の目からは、滂沱の涙がこぼれ落ちます。
私は、これが実際にあった出来事であろうと思っています。
頼朝にしても人の子です。
弟の赤子を殺したとあれば、死ぬまで後悔します。
けれど政治の事情で、そのように決断しなければならなかったし、将軍の決断は、そのまま実行に移されなければなりません。
しかしそこが政治なのです。
静御前の赤子を取りあげに誰を行かせるか。
ちゃんと事情を飲み込んで対処できて、しかも口にチャックを締めて誰にも言わずにいれる男。
だから安達清常を静御前のもとに向かわせたのです。
安達清常というのは、御家人ではありません。
御家人というのは、いま風に言えば、領土を持った地元の名士たちです。
けれども安達清常は、一般の庶民の出で、京の都で元暦年間から頼朝に仕えた、武士階級の出ではない頼朝の側近(近習)です。
しかし同時に安達清常は、頼朝の気持ちを察して行動できる信頼できる優秀な男でもありました。
そしてこの安達清常によって、土地持ちの御家人でなくても、才覚と努力で武士となる道が開かれています。
そしてその要件は、ただ上司の言うことだけを聞く男ではなく、近習として上司の考えを察して責任を持って行動できる男とされていったのです。
ただ赤子を殺すだけなら、小物を派遣すれば足りるのです。
けれども、頼朝の近習の中の近習、信頼できる安達清常を派遣したのは、
「安達清常なら、この問題をきちんと処理してくれる」という期待が頼朝にあったからです。
そしてそういう人材こそが、幕府の官吏としてふさわしいとされ、そうであればなおのこと、御家人たちは、さらにもっと深く察して行動できる力量が求められるようになっていったのです。
ここが他所の国と日本の武士文化の異なる大事なところです。
命令されたからと言って、何の感情もなく、ただ人を殺せるような痴れ者は、鎌倉武士の中にはひとりもいない。
そう断言できるだけの武士文化を、頼朝は構築したのです。
だからこそ、江戸時代に至っても、武士の戦慄する姿の模範は、常に鎌倉武士に求められたのです。
頼朝の側近であるが御家人より身分は低く、苗字を持たない庶民出身から幕府吏僚となる道を開いた人物である安達清常。
さて、その後の静御前たちがどうなったのか。
日本全国、いたるところに静御前ゆかりの地があります。
さて、そこにどのような物語があるのか。
そのお話は、また今度。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
takechiyo1949
「ねずブロ」にそんなコメントを残してから丁度一年です。
この間…色々な出来事がありました。
人様を騙す…悲しませる…そういうことだけはするまい。
今も変えられない生きざまではありますが、そんなのが通用しないこともある浮き世の流れはあります。
職を失いました。
「綺麗事の結果は自業自得だ」
そんなふうに言われてます。
その通り!
なのでグウの音も出ません。
良かれと察してばかりだと、人種や国籍や老若男女など関係無く、足元を掬う者共がウジャウジャ寄ってきます。
それも察するべきでした。
この一年間…いい歳をして実に重たい経験をさせていただきました。
2019/08/10 URL 編集
ナラチ
本日のお話を読むうちに、徳川家康の将、服部半蔵の逸話を思い出しました。
家康公の嫡男、松平信康が織田信長に叛心を疑われ切腹を命じられ、その介錯として、服部半蔵が命じられましたが、涙ながらに「出来ませぬ」と申したそうです。
恐らく、家康公の心情を汲んだのではないでしょうか。家康公は益々半蔵に信を置いた、されています。
真偽は分かりません。ですが、言われた事を鵜呑み丸呑みの考え無しでは信を得られる事はないと思います。
十数年前に放送された大河ドラマ「義経」のラストで滝沢秀明演じる源義経が自刃した際に源頼朝を演じる中井貴一のセリフ「わしを恨め…」はとても印象的でした。
2018/08/03 URL 編集
一有権者
でも私は源氏に良いイメージはないんですね。源氏はどうも親兄弟の間で争い殺し合う武家というイメージがあります。
義経が奥州藤原氏と上手く連携を保ち平泉の滅亡を防いでいたらもしかしたら京都と並ぶ大都市平泉が現代に存在していたかもしれません。
歴史にifはないと言われますが想像してみるのも楽しいものです。
2018/08/02 URL 編集
にっぽんじん
それは神を創った「人間」が決めることであって神が決めることではありません。
先日ユーチューブ動画で「3大宗教」の動画を見ました。
ユダヤ教が3大宗教の一つかどうかは知らないが「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の「誕生」の話でした。
エジプトで奴隷となっていたユダヤ人の「脱エジプト」が話の始まりでした。モーゼに助けられたユダヤ人たちがエジプトを脱出して「ユダヤ教」が生まれたようです。
動画の話は「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」の関係を説明するものだったが興味深かったのはこの3宗教の共通点でした。
3宗教に共通することは
1.「前世、現世、来世」があること
2.死後の世界には「天国」と「地獄」があること
3.死後は神の審判を受けること
それぞれの宗教の特徴を説明していたが「旧約聖書」「新約聖書」に書かれた経典の解釈(宗教学者、法学者など)の教えが重視されるということです。
カトリックから分派した「プロテスタント」あるいはイスラムの預言者が創った「シーア派」と「スンニ派」など、元は一緒でありながら解釈で対立するという不思議な宗教の世界です。
イスラム教の教えは、改宗すれば受入れ、改宗しなければ奴隷にするそうです。IS国は実践しています。
1神教の教えは厳格です。妥協のない宗教争いは人類が滅亡するまで無くならないような気がします。結局「神は人間が創ったものです」
クリスマスにはキリストの誕生を祝い、年末にはお寺で除夜の鐘を聞き、年が明ければ神社に参拝する。
日本の八百万の神が一番良い神様かも知れないなと思いながら「3大宗教」の話を聞きました。
2018/08/02 URL 編集
takechiyo1949
しかし、ラフプレーを実行して「言われたからやった」は通用しません。
下命する者も受忍する者も、互いの心を察する…ねずさんの想定通りであろうと思います。
2018/08/02 URL 編集