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昨今では、曽我物語を知る人も少なくなりました。
しかし昭和天皇は、終戦の御詔勅で「志操を堅固に保て」とおっしゃられました。
古事記にありますが、いつの時代にあっても、混沌を正すのは「建(たけ)る」力です。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)かつて日本三大仇討ち物語とされたものが、次の3つです。
1 赤穂浪士物語
2 曽我兄弟物語
3 伊賀越え物語
赤穂浪士は、いまでもたいていの方がご存知と思いますが、曽我兄弟と伊賀越えは、ほとんど聞かなくなってしまいました。
ところがなかでも曽我兄弟は、江戸時代から人形浄瑠璃や歌舞伎、神楽、義太夫、村芝居の定番で、たいへんな人気があったのです。
ちなみに人形浄瑠璃で使う人形ですが、実はこれがすごい!
いわゆる操り人形で、操り人形自体は世界中にあるものなので、なんら珍しいものではないのですが、日本の操り人形は、達人の手にかかると、まるで息をしているかのように、生々しく動くのです。
たとえば西洋式の操り人形の場合、頭を吊る糸は後頭部に付けられていて、それで首を前後に振ることができるようになっているのですが、日本の操り人形は、その糸が額(ひたい)と、耳のところに付けられています。
これによって人形に頭部を実に複雑に動きをさせることができるようになっています。
もちろん、糸の数が多いだけに、動かすには熟練の業が必要で、だいたい最低10年の修業が必要なのだそうです。
音止めの滝

さて静岡県富士宮市に「音止めの滝(おとどめのたき)」という滝があります(上の写真)。
日本の滝百選のひとつです。
落差約25メートルの名瀑で、豪快で雄雄しく、男滝とされています。
実はその名前の「音止め」というのが、実は曽我物語からきています。
時は、平安末期、東国では地方豪族たちの領地争いが絶えず、伊豆では工藤祐経と伊東祐親が、長年の争いを繰り返していました。
そんなある日、工藤祐経が伊東祐親の暗殺を企てました。
家来に命じて、狩りをしていた伊東祐親にめがけて弓を射たのです。
放たれた矢は伊東祐親をかすめて、脇に立っていた息子の河津三郎(かわづさぶろう)に命中しました。
三郎は即死でした。
悲報は三郎の妻と二人の息子に伝わりました。
亡骸と対面した妻は泣きながら息子に言いました。
「よくお聞き。
父君は工藤祐経に殺されました。
お前たちはまだ幼くてわからないでしょうが、
お前たちが大きくなったら、
母は、お前たちに父君の仇を
取ってもらいたいのです」
三歳の弟にはまだ理解できないことでした。
五歳の兄は、目の前に横たわる父の顔をじっと見つめて言いました、
「母君、必ずお父さんの仇を取ります。」
その後、母は曽我氏と再婚し、兄弟も曽我姓になりました。
兄は、曽我十郎祐成(すけなり)。
弟は、曽我五郎時致(ときむね)。
厳しくも愛情あふれる義父のもと、二人は弓に剣術に学問に、優秀な若者に育ちました。
ある日、野で遊ぶ二人の上に、五羽の雁(かり)が飛びました。
兄は言いました。
「雁が一列になって飛んでいる。
2羽は親で、3羽は子供だろう。
私たちにも親がいる。
しかし今の父は本当の父ではない。
本当の父は工藤祐経に殺された。
血のつながった父はもういない」
「兄者、工藤祐経に会ったら、
俺が弓で射て首を刎ねてやる」と弟。
「大声を出してはならぬ。
このことは誰にも話してはならぬ。
仇討は、二人だけの秘密だ」
1192年、源氏の棟梁の源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、そのお祝いにと翌年、富士の裾野で大掛かりな狩の大会が開催されました。
(これこそ亡き父の仇を取る絶好の機会)
と兄弟は逸(はや)りましたが、工藤祐経はいつも大勢に囲まれていて近づくことすらできません。
二人は頼朝の家臣団にもぐりこんで、その晩の工藤祐経の宿所を突き止めました。
兄弟は岩陰に身を隠しながら、祐経の宿所に如何に近づくか相談しました。
しかし、ひそひそと話す兄弟の耳に、近くにある滝がゴーゴーと鳴り響いて、互いの声が聞き取れません。
兄がふと「心なしの滝だなぁ」と、ためいきをつきました。
するとあら不思議。
激しい滝の音がぴたりと止んだのです。
そして兄弟の相談がすむと、再びゴーゴーという滝の音があたりに響きました。
「俺たちには、神仏のご加護がある!」
この音止めの滝の話も、昔は超有名なお話でした。
そしてここから、神々はそれに賛同するとき、必ず何かの瑞兆を見せてくださるものだされました。
地震・水害等の場合はその逆張りで、神仏を軽んじ、民を軽んじて世を乱す者がその地域の政権を取ると、必ず神仏は、何からの大きなペナルティを与えられる。
神々とは、私達の共通の遠いご祖先のことであり、そうしたすでに亡くなられて御魂となり、あるいは神となられた方々と、いまを生きている者とが一体となってこの世を動かしているというのが、古くからの日本人の思考です。
その夜、月が雲間よりしばし顔を出したとき、兄弟は工藤祐経の宿所の前までやってきました。
そして月が雲間に隠れると、たちまち豪雨があたりを包みました。
雨音は、二人の侵入の足音を消します。
「起きろ祐経!
河津三郎の息子、十郎なり」
「同じく弟、五郎なり。
亡き父の積年の怨みを晴らしに参上!」
祐経の手が刀に届こうとした、その寸前、
兄は、工藤祐経の左肩から右わきの下にかけて袈裟に斬り下ろしました。
弟は、刀で工藤祐経の腰を貫いてとどめを刺しました。
兄弟は勝利の雄叫び(おたけび)をあげました。
「遠からん者は音にも聞け!
近くば寄って目にも見よ!
我こそは、河津三郎が子、十郎祐成、
同じく五郎時致なり。
たった今、父河津三郎の仇、
工藤祐経討ち取ったり。
我ら宿願を果たし候~~!!」
兄弟は、すぐに工藤祐経の家来に取り囲まれました。
兄弟は、勇猛果敢に戦うのだけれど、兄は斬り合いの最中に殺され、弟は囚われの身となります。
このあたり、テレビの時代劇なら、大将が殺された時点で兄弟がヒーローになるのでしょうが、日本社会ではそうはなりません。
暗殺という非合法手段に打って出たものの、工藤祐経もまた、部下から尊敬を集めた立派な源氏の御家人なのです。
こうしたものの見方はとても大切です。
勝者と敗者という二項対立な見方で、片方を正義、片方を悪と決めつけるのではなく、どちらにも正義があり、どちらにも非があると考える。
大切なことは、対立ではなく、その中間にある中道なのだというのが、日本人の大昔からの考え方なのです。
翌日、弟は、将軍頼朝の前に引き出されました。
工藤祐経は将軍頼朝の寵臣であった人物です。
見事、父の仇を討ったとはいえ、死罪は免れません。
そう覚悟の定まった弟・五郎は、恐れ気もなく堂々と頼朝に、父が射殺されたことを述べました。
そして、自分たち兄弟の18年の艱難辛苦の日々を語りました。
将軍、頼朝も、若き日々、政治犯の息子として流刑にあい、辛い日々を過ごした過去を持ちます。
そして頼朝のみならず同席の誰もが、親を思う子の気持ちに痛く感動します。
頼朝は寛大に処理しようとしました。
しかし工藤祐経の遺児・犬吠丸は、父殺害の「五郎に死罪を」と嘆願を取り下げませんでした。
ここも実に日本的なところで、たとえ最高権力者の将軍といえども、騒動は事実であり、遺族の歎願の前に、自分を殺して罪は罪として裁かなければならない。
将軍の鶴の一声で、罪人が無罪になることもない。
もし、これがChinaやKoreaなら、皇帝や国王や両班(やんばん)の贔屓次第で、どうにでもなってしまうのです。
どこかのアマチュアボクシングの判定と同じです。
日本は、そういうものは通用しないのです。
一時的にそういう人が天下をとっても、必ずそれは砂上の楼閣となっていきます。
なぜなら日本は、上下とも、誰もが正義を追求する社会だからです。
裁決を聞いたとき、五郎は言いました、
「本望なり。
死は覚悟の上のこと。
あの世とやらで
亡き父や兄と、
とく(早く)対面いたしたし。」
享年。兄・十郎22歳、弟・五郎20歳でした。
「曽我物語」は、鎌倉時代に書かれた物語ですが、その後の時代を通じて、この物語は愛され続けました。
それは、単に儒教的な親への「孝」だからということではありません。
登場人物の誰もが、真面目であり、真剣であり、誠実であるからだといわれています。
このあたり、すこしわかりやすく例えると、1978年公開のアニメ映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』と、2010年公開の実写版『SPACE BATTLESHIP ヤマト』の違いに似ています。
40年前の『さらば・・』では、主人公の古代君も森雪も真田さんも島君も沖田艦長も司令長官も、誰もがみんな、くさいくらいに真面目でひたむきなのです。
ところが実写版の方は、リアルな映像に、キムタクや黒木メイサさんなどの人気俳優を配しながら、要するに才能あふれるわがままな不良が勝利するという、実社会ではありえない、あるいはあってはならないストーリー展開となっていました。
そして『さらば・・』は大ヒット映画となり、実写版は鳴かず飛ばずで終わりました。
真面目だから共感を呼ぶのです。
ただかっこつけているだけの不良では、戦いに勝てないことは誰もが知っているからです。
私は日本女子バレーのファンですが、日本の選手たちは点が入るたびにみんなでよろこび合い、点を取られると、みんなで励まし合います。
それを本当に一生懸命に、しかも笑顔でやっている。
どこかの国の女子バレーチームは、ひとりの超強力とされるいかにも不良の選手がいて、その選手だけをささえるチームになっています。
そしてその選手が点を入れれば、その選手一人が「どんなもんだい」と傲慢な顔や態度をし、点を取られたら、あたかもそれが他の選手のせいだといわんばかりに、露骨に嫌な顔をします。
日本人には、そういう軽薄や傲慢は受け入れられないのです。
そうではなくて、みんなが誠実で一生懸命でひたむきで、必死だから、同じものに共感するのです。
時代は変わり、昨今では、曽我物語を知る人も少なくなりました。
しかし昭和天皇は、終戦の御詔勅で「志操を堅固に保て」とおっしゃられました。
古事記にありますが、いつの時代にあっても、混沌を正すのは「建(たけ)る」力です。
※この記事は2009年8月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
くすのきのこ
復讐の連鎖を避けるためには、公による判断に関係者全員が従うべし
という事でしょう。乱闘時に犠牲になった者達もいたはずですし。
公平とは・・関係者各自が主張をした上で、一番妥当な判断を下す事
であると。であれば、死罪であっても酷いやり方ではなく、尊厳を保
つやり方であったろうと推測します。多分、墓も造られたのでは?
死罪にも格というものがあった時代です。現代のようにしねば終わり
などという認識ではあり得ません。だから物語も綴られる。復讐の連
鎖を止めるためではないでしょうか?
クソ真面目なだけでは人生辛いwだから妥協点を探すのは公に任せる
のも一手だという・・裁判劇のような感じでもありますね。無理やり
復讐をした者が許される事はない。主張を公に申し出た犬吠丸のやり
方は吠えるだけかもしれないが、登場人物の中で一番現実的かつ妥当
であると。・・あるいは一番庶民的w
2018/08/13 URL 編集
チー
2018/08/12 URL 編集
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2018/08/12 URL 編集