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戦後は、よるとさわると「自分のために、自分のためだから」という言い方がされます。
自分のために勇気を振り絞って戦える人など、そうそうは世の中にいません。
みんな愛するもののために、誰かのために戦っているのです。
そうすることで、そうあることで、人は苦しさにも辛さにも耐えて、頑張り抜くことができるのです。
こうして勇敢に戦ってくれたのは、若き日の私達の父や祖父たちです。
血のつながった、私達の先輩たちです。
その先輩たちを、決して私達自身が貶めることがあってはならないと思います。
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【お知らせ】◆
<東京・倭塾、百人一首塾他>8月15日(水)
ねずさんと靖国昇殿参拝8月26日(日)14:00
チャンネルAJER主催・誰も言わないねずさんの世界一誇れる国日本9月15日(土)18:30
百人一首塾 第29回9月23日(日)13:30
第54回 倭塾・東京 第54回<関西・倭塾>8月10日(金)19:00
倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)9月9日(日)14:00
倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)10月19日(金)19:00
倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)11月9日(金)19:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)12月8日(土)14:00
倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)<国内研修>12月16日(日)~17日(月) 一泊二日
神話を体感する会11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。「岸壁の母」という曲があります。
昭和29年(1954)に菊池章子が歌って100万枚を越える大ヒットとなった歌です。
菊池章子さんというのは、「こんな女に誰がした」と歌う昭和22(1947)年に大ヒットした「星の流れに」を歌った大歌手です。
この歌は、満洲に駐屯していた息子の帰りを待って、舞鶴の港に立つ母の心を歌った曲で、歌の途中にセリフが入ります。
(セリフ)
また引揚船が帰って来たに、
今度もあの子は帰らない……
この岸壁で待っている
わしの姿が見えんのか……
港の名前は舞鶴なのに
何故飛んで来てはくれぬのじゃ……。
帰れないなら大きな声で……
お願い……
せめて、せめて一言……
菊池章子さんのレコーディングのとき、当時はプロの歌手というのは、どんなときでも同じように歌えることが歌手としての誇りとされた時代だったのですが、歌い出すと泣けてしまってどうにもならない。
それで何度も録音をやり直して、ようやくレコーディングできたというエピソードがあります。
菊池章子さんはこのことについて次のように語っています。
「事前に発表される復員名簿に
名前が無くても、
『もしやもしやにひかされて』
という歌詞の通り、
生死不明のわが子が
生きて帰ってくると信じて、
東京から
遠く舞鶴まで通い続けた
母の悲劇を想ったら、
涙がこぼれます。」
ねずさんの新刊
「岸壁の母」はその後、昭和47(1972)年に、こんどは二葉百合子の浪曲調の歌として再度レコーディングされました。このときも再びミリオンセラーの大ヒット。LPレコード、シングル、テープを合わせてなんと250万枚という空前のヒット曲となっています。
曲のあまりのヒットから、昭和51(1976)年には、中村玉緒主演で映画化され、昭和52(1977)年には、市原悦子主演でドラマ化もされました。
さて、この曲のモデルは実在の人物です。
「端野いせ」さんというお母さんで、その方が、たまたま舞鶴港で当時のラジオの取材に応じたのがきっかけでした。
端野いせさんは、明治32(1899)年のお生まれで、石川県志賀町のご出身です。
函館の青函連絡船乗組員の端野清松さんと結ばれて娘が生まれますが、昭和5(1930)年、夫と娘が相次いで他界してしまいます。
そこで家主で函館の資産家であった橋本さんから、新二少年を養子に迎え、昭和6(1931)年に上京して東京の大森に住んだのです。
その養子の新二君は、立教大学を中退し、軍人を志して昭和19(1944)年に満洲国に渡りました。
そこで北満にあった関東軍の「石頭(せきとう)予備士官学校」に入学したのです。
石頭予備士官学校は、生徒数3600名、教官は半数が尉官か見習い士官という陸軍の予備士官学校です。
ちなみに関東軍というのは、東京や埼玉、千葉の関東地方とはなんの関係もない名称です。
日本がChinaから租借した遼東半島のあたりが、その昔、Chinaで関東州と呼ばれていたことから、この地方の守備隊が関東軍と呼ばれるようになりました。
さて、昭和20(1945)年8月9日未明、終戦を眼の前にして、突然、一方的に日ソ中立条約を破ったソ連軍が、満洲地方になだれ込みました。
この日、石頭予備士官学校にも、早朝から、けたたましく非常呼集のラッパが鳴り響きました。
その非常呼集のラッパについて、あるご年配の方がこんなことを言っておられました。
「最近、スマホの地震警報が突然鳴ることがあるわな。
ビービービーってけたたましく、
あっちでもこっちでも、一斉に鳴るから
電車の中なんかだと、
一瞬で車内に緊張が走る。
ワシらの若い頃の非常呼集のラッパも
あんな感じの緊張があったな」
生徒たちは全員、身支度をすばやく整えて、校庭に全員整列しました。
そして校長から、
「本日未明、
ソ連軍来襲、
目下交戦中」
と非常事態が伝達されました。
そしてすぐに3600名の生徒は2組に分けられました。
歩兵砲機関銃隊1600名は、荒木連隊長が指揮。
残りの1600名は学校長小松大佐が指揮。
そして両部隊は東京(とんきん)城に布陣しました。
対する敵のソ連軍は、投下兵力50万人の大部隊です。
兵力は2つに分けられ、第一極東戦線は、メレンコフ元帥が直接率いました。
第一極東戦線だけで、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊も所属していました。
このときの戦闘の模様が、石頭予備士官学校の生徒であった高崎弥生氏の『実録 遥かなる回想』にありますので、すこし転載します。
「ついに候補生にも出撃命令が下った。
いまこそ祖国のために
一命を捧げる時が来たのだ。
かねて覚悟はしていたとはいえ、
悲壮な思いがひしと胸に迫り、
完全武装を急ぐ手が震えた。
一瞬、故郷の父や母の顔が瞼をかすめた。
『長い間お世話になりました。
国のため先立つ不孝をお許しください』
おそらくこれが今生の別れとなろう。
こみあげる熱い思いをぐっとこらえ、
私はひそかにわかれを告げた。
『悠久の大義に生きるを本分とすべし』
死ぬことだけを教えられた日々・・・
今こそ祖国のために一命を捧げるのだ。
東京(とんきん)城方面へ行軍中、
避難の在留邦人達がトラックに満載され
『お願いしま~す』
『頑張ってくださ~い』
悲痛な声で叫びながら、
祈るようなまなざしで
次々と通り過ぎて行った。
軍隊を唯一の頼みに、
すがりつかんばかりの必死の叫びに、
胸をしめつけられるような、
全身に激しい闘志と責務に奮い立った。
夜を徹して駆け足行軍が続き、
翌未明、「隘路口(あいろくち)」到着。
敵戦車を迎え撃つべく、一文字山峡に布陣。
正午ごろ山麓の川辺で大休止となり、
石頭出発以来満足に食っていなかった私達は、
やっと米にありつき、
久しぶりにハンゴウ炊きをしながら、
熱くてたまらず、
一緒に水浴びをしていた。
そこへ突如、
山陰から飛来したソ連機が攻撃してきた。
爆弾が落下、
大地を揺るがす轟音とともに
砂塵が吹きあがった。
いましも湯気のあがるハンゴウに敵弾が命中。
川面に機銃掃射のしぶきがあがり、
静かだった山峡はたちまち戦場と化した。
軍服をまとう暇もなく慌てて身を伏せた。
重機関銃の傍らにいた私は、
対空射撃の命令とともに、
素裸のまま機関銃発射の握把をとった。
真っ先に狙われる重機関銃。
しかも初陣に素っ裸とは・・・。
死ぬにも死ねない気持ちが先に立ち、
不思議と怖さはなかった。
乏しい弾薬とみて、
おもいきり低空へ降下してきた敵機から、
乗りだすような敵兵めがけて夢中で発射。
『小癪な!撃たれる前に撃ち落とせ!』
体内の血が逆流し、
炎のような闘志が全身に煮えたぎった。
『敵弾よ、それまでは当たるな!』
必死に祈りながら、
ただもう懸命に撃ち続けた。
武器弾薬欠乏と思いこんで
思いもよらぬ対空射撃にに驚いた敵機が
山蔭にかくれた隙に、
ただちに部隊は出発。
この戦闘で、青木中尉他、
多数の死傷者が出た。」
重機関銃というのは、重さが50kgもあります。
その重機関銃を、担いで駆け足するのです。
ちなみに、昨今ホームセンターで売られている砕石の袋が、だいたい20kg、コンクリートの袋が25kgです。
ずっしりとした重さがありますが、一昔前までは、砕石袋もコンクリートの袋も、倍のそれぞれ40kg、50kgでした。
誰もがそれを普通に何十袋も担いで往復したものです。
当時の日本人男性の平均身長は155cmと小柄でしたが、現代人よりも本当にタフだったと思います。
当時の関東軍は、必要な武器弾薬兵器を南方戦線にことごとく送っていて、いわば案山子(かかし)軍団状態でした。
そのなかでわずかに残った重機関銃で、弾薬も僅かしかありません。
こうした状況をはっきりと掴んだ上で、ソ連軍は158万の大軍を投下してきています。
続けて引用します。
「事態は急変した。
敵が近くまで迫ってきたのだ。
支給された爆薬は
ランドセルくらいの大きさで、
中にはダイナマイトがびっしり詰まり、
30cmくらいの導火線がついていた。
いわゆる「急造爆雷」である。
その先にマッチ棒を3本、
木綿糸でしっかりとくくりつけた。
敵戦車が接近したら、
マッチ棒をすって点火させてから、
爆薬を抱えたまま
全力疾走で突っ込む作戦である。
点火後、3~4秒で爆発する。
これを『対戦車肉迫攻撃』といい、
略して「肉攻」と呼んだ。
敵は明朝になれば必ず攻めてくる。
来ればどうなるかは、
もう誰もがわかっていることだ。
あと数十時間の生命である。
蛸壺のなかに寝転んで
暮れゆく空を見上げていると、
なぜか故郷のこと、
母のこと、
兄弟のこと、
幼いころのこと等が
次々思い出されてくる。
8月13日、
代馬溝陣地を突破したソ連重戦車が、
ついに磨刀石にその姿を現した。
地面を揺るがせながら、
道路を一列になって
ゆっくりと我が陣地内に侵入してきた。
この道路の両側には、
草や小枝で擬装した蛸壺の中に
急造爆雷を抱いた候補生が潜んでいた。
戦車が近づくと次々と
『先にゆくぞ』と叫んで、
敵戦車に突入して行った。
戦車には自動小銃を構えた歩兵が随伴していて、
蛸壺を見つけたら、
中に潜む肉攻手を狙い撃ちするので、
飛び込むまでにやられる者もあれば、
同時に爆薬が炸裂し、
敵もろとも吹き飛ぶ
壮絶凄惨な戦闘が始まった。
味方の重機関銃も猛然と射撃を開始し、
小型迫撃砲も一斉に発射された。
この重機関銃陣地をつぶそうと、
敵の戦車砲、機関銃が
集中砲火を浴びせてくる。
後方の高台に布陣をしている
友軍砲兵が援護射撃を開始し、
榴散弾(りゅうさんだん、弾の中に多数の散弾がつめてあり、炸裂して人馬を殺傷する)を浴びせかける。
敵は炎上する戦車を
道路下に突き落として、
次々と進撃してくる。
蛸壺の中では爆薬を抱えた
数百名の候補生が
息を殺して潜んでいる。
やがて肉攻壕の土が、
ボコボコと戦車の地響きで崩れ始める。
耳を聾するキャタピラの音、
重油の焼け焦げる匂いが胸をつく。
敵の随伴歩兵がトラックから降りて、
自動小銃を構えて、
戦車の周りに見え隠れして
続々と向かってくる。
ソ連兵の自動小銃が肉攻壕を狙えば、
肉攻手は即座に自爆だ。
重機関銃隊が銃の偽装の小枝をそっと払った。
たちまち味方の重機関銃がうなった。
榴弾筒部隊も発射した。
二十数名のソ連兵がぶっ倒れた。
ひるんだ敵の歩兵が戦車から退いて行った。
肉攻手が爆弾を抱えて踊り出た。
ひとりの肉攻候補生が蛸壺を飛び出すと、
爆雷を道路に置いて伏せた。
ソ連戦車は急ブレーキをかけて
爆雷の3M手前で停まった。
候補生は、ほふく前進して
爆雷を戦車の下に押し入れようとした。
戦車の直前で爆雷は轟音を発し、
半身は高さ20Mまでも
白煙とともに砕きあがり、
鮮血を撒き散らしながら
ぐるぐると回転して、
またもとの位置に落下した。
東満洲の軍都牡丹江の防衛最前線として
磨刀石に布陣した石頭予備士官学校候補生の、
ソ連戦車体当たり戦法は、
こうして開始された。
またひとり、
小さな体で四角い爆薬の
包みをかかえて飛び出していく。
一瞬ものすごい閃光がひらめき、
白焔が戦車をつつむ。
そして、またひとり・・・
突然、戦車の砲頭の下から吐き出す
紅蓮の火炎に巻き込まれ、
すさまじい轟音とともに自爆した。
肉攻陣地があることを察知したのか、
敵戦車はしばらく前進を躊躇(ちゅうちょ)したが、
こんどは火炎放射機で
周囲の肉攻壕を焼き払いながら、
その上に乗っかってグルグルと回転しはじめ、
敵の歩兵も散開して肉攻壕に
自動小銃をを撃ち込んで進んでくる。
味方の重機関銃が
銃身も裂けんばかりに撃った。
敵戦車の砲身や機銃が、
一斉に味方の重機関銃小隊に集中した。
第一分隊の銃手、即死。
重戦車の巨砲が向きを変え、
味方の陣地に向かって
水平射撃の位置に砲身を構えた。
五体を揺るがすような炸裂が
山野をゆるがした。
体は壕に叩きつけられ、
舞い上がった土砂で半分ほど埋まった。
陣地における指揮連絡はまったく寸断され、
日が暮れて生き残った者同士が、
負傷者をかばいながら引き揚げてくるが、
集合場所さえ定まらない乱戦となった。
川上哲次候補生は手記にてこのように報告している。
『道路上に3~40両の敵戦車が
轟音をあげてあらわれた。
まるで動く岩のようであった。
またひとりの肉攻手が、
爆薬をかかえておどりでた。
戦車はとまらない。
肉攻手の姿が一瞬見えなくなった。
次の瞬間肉攻手は、
戦車のキャタピラに腕を挟まれ、
逆さ宙づりになった。
おもわず息をのむ。
そのとき爆薬が炸裂した。
ピカッ、グワーン!
閃光が走り、
ものすごい煙に包まれ、
敵戦車は立ち往生した。
恐ろしくなったのであろう。
ソ連兵は戦車から飛び出し逃げ出した。
勇敢な肉攻手が2~3名、
壕から飛び出し、
敵の戦車に躍りあがり、
掩蓋(えんがい)から中にはいる。
戦車の砲塔が、ぐるりと後ろを向いた。
ズドーン!
すぐそばまできていた後続の戦車めがけて、
ぶっ放したのである。
『やった!』と壕の中では歓声があがった。
続いて戦車めがけて一発!
そしてまた一発!
分捕り戦車は猛然と火を吐いた。
痛快極まるとはこのことか。
たちまち5~6両の敵戦車を粉砕してしまったのである。
後続の敵戦車群は大混乱となり、後退した。
そのときの勇士は、
鈴木秀美候補生、一之瀬候補生、和泉伍長の3名である。
鈴木候補生は敵戦車の構造をよく知らず
発砲の折、砲座で顔面を強打し、
大腿部も負傷していた。
彼は戦車から外に出て中隊長や戦友に向かい、
『自分は負傷してこれ以上戦えない。
速射砲の分隊長として、
砲と運命を共にする責任がありながら、
砲は射撃不能となった。
自分はここで砲とともに自爆する。
天皇陛下万歳!』
そう叫ぶと、
10キロの爆弾を抱きしめ、
壮絶な爆死を遂げた。
猪俣大隊長は戦車砲撃の直撃を受け、
一片の肉も留めぬ壮烈な戦死を遂げられた。
代わって大隊の指揮は、
梅津眞吾中尉がとられ、
敵戦車に果敢な奇襲攻撃をかけられたが、
ついに陣地は敵戦車に蹂躙され、
死傷者続出の事態となった。
梅津中尉はもはや組織的な戦闘は不能と判断し、
生存者を集めて後方の山中に入り、脱出した。
8月15日、掖河(えきか)の本体にたどり着いたときは、
磨刀石出撃時に750名いた猪俣大隊の候補生は、
わずかに105名になっていた。」
戦いの直前まで、日本は満洲のインフラ整備のためのダムや道路、鉄道線路の敷設などの民生のための工事をしています。
ダイナマイトは、軍用ではなく、その民生用のものでした。
そしてこの戦いで、「岸壁の母」で歌われた端野いせさんの息子、端野新二候補生も消息を絶ちました。
終戦後端野いせさんは、東京都大森に居住しながら、新二さんの生存と復員を信じて、昭和25(1950)年1月の第一回引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港するたびに舞鶴の岸壁に立って息子の帰りを待ちわびたのだそうです。
ひとついえることは、石頭予備士官学校の生徒たちには、十分な装備も武器もなかったということです。
戦えるだけの武器も弾薬もなく、あるのは少量の火器と民生用ダイナマイトくらいでした。
しかも多勢に無勢。
圧倒的な兵力差でした。
それでも彼らは戦いました。
自分たちがここで一日でも、一時間でも、一分でも多く敵を釘づけにすることで、牡丹江に向かって続々と避難している在留邦人たちが、すこしでも早く、すこしでも遠くまで安全に逃げ伸びて日本に帰還できるように戦ったのです。
もちろん軍人ですから、命令があれば戦います。
しかし彼らがそこまでして戦ったのは、誰かのために、人のために役立つためです。
命令はそのきっかけにすぎません。
人間、自分のために命がけで戦える人など、そうそうはいません。
けれども「誰かのために」と思うとき、まさに火事場のクソ力を発揮して、果敢に挑むことができるものです。
戦後は、よるとさわると「自分のために、自分のためだから」という言い方がされます。
自分のために勇気を振り絞って戦える人など、そうそうは世の中にいません。
みんな愛するもののために、誰かのために戦っているのです。
そうすることで、そうあることで、人は苦しさにも辛さにも耐えて、頑張り抜くことができるのです。
こうして勇敢に戦ってくれたのは、若き日の私達の父や祖父たちです。
血のつながった、私達の先輩たちです。
その先輩たちを、決して私達自身が貶めることがあってはならないと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
アシオ
「CD作ってくれ」
と僕に依頼した曲の中に、いつも岸壁の母がありました。
CDを作った当時は...10年前は、その曲の意味など考えたこともありませんでした。
しかし、ネズさんのブログを読んで、その意味がようやく分かりました。
またCDでも作って帰省しようかなと思いましたよ^-^;
2018/08/13 URL 編集