陛下のお言葉について、「過去を顧み深い反省」というお言葉があることから、一部の保守系の方々から不満の声があがったと聞きました。
十七条憲法の第三条に「承詔必謹」という言葉があります。
「詔(みことのり)を承(う)けては必ず謹(つつし)め」と読み下します。
陛下のお言葉への一切の反論は赦(ゆる)されないことです。
それが日本人が日本人である所以(ゆえん)です。
陛下の大御心と、その陛下から下賜されたお言葉は、我が国においては憲法以上に最も尊重されるべきものであり、たとえどのような理屈や立場があったとしても、これを批判するなどもってのほかです。
陛下のお言葉は、私達日本人にとっては、もっとずっと重いものなのです。
・・・・と前置きしたうえで、すこし掘り下げてみます。
陛下は過去の大戦について、「苦難に満ちた往時」と述べられました。
戦争は勝っても負けても、多くの犠牲を伴います。
ですから戦争は、勝敗に関わらず、常に「苦難に満ちた往時」です。
しかも先の大戦によって、戦争によって民衆が、家を失い、命を奪われ、強姦され、子供たちが餓えて死んだのです。
このことは、このうえもない苦難です。
なぜなら誰もが平和で豊かで安心して安全に暮らせる社会であり続けることが大事だからです。
そのために私達は国をあげて過去の戦争を深く反省しなければなりません。
二度と戦争が起きないように、戦争による惨禍が起きないように、真剣になって国の護りを、国家の繁栄を、そして世界の平和を希求していかなければなりません。
昭和天皇は、我が国における核の開発と使用を厳しく咎められ制止されました。
日本も原爆を作れたのです。
米国も原爆を開発しました。
そしてそれを用いました。
では日本が報復に、原爆を用いたらどうなっていたでしょうか。
戦争の勝敗はわかりません。
もしかしたら日本が勝ったかもしれない。
勝機を得たかもしれない。
しかし日本が原爆を開発した当時、米国もまた原爆を開発していました。
ということは、おそらく両国は原爆の撃ち合いとなったことでしょう。
ソ連も参戦してきました。
米ソも核の撃ち合いになったかもしれない。
China国民党とChina共産党も、核の撃ち合いになったかもしれない。
だから昭和天皇は、原爆の開発も使用も勅命をもって禁じられました。
戦争とは、戦時国際法によれば、軍服を着用して武器を手にした者同士が戦うものとされています。
しかし原爆は、無辜の民衆を対象にした大殺戮です。
つまり戦争が、戦時国際法というルールのある、いわば「リングの中での命がけの戦い」なら、原爆の使用は、すでにそれが「ルールを無視した場外乱闘」に至ったということです。
我が国が行ったのはルールのある戦争です。
場外乱闘は、すでに戦争ではりません。
ただの殺し合いです。
しかもそのために核が使われだし、現実に二発も放たれたのです。
昭和天皇が望まれたのは、戦(いくさ)の勝敗よりも、人類社会の平和です。
そしてそのために、これ以上の悲惨が起きないようにと、我が国が自主的に矛をおさめたのが昭和20年8月15日です。
我が国は誇りを持って矛をおさめたのです。
ここは大事なことです。
誇りをもって矛を収めるのか。
誇りを捨てて、ただ勝てば良いと、悲惨を継続するのか。
国を護るために散っていかれた英霊の方々が護ろうとしたもの。
それは世界の平和であり、人種差別のない、誰もが人として対等に生きることができる人類社会であり、我が国の平和であり、世界の平和と安定であり、誰もが豊かに安全に安心して暮らし、人生において愛とよろこびと幸せと美しさを実現できる社会です。
それは我が国の神々の願いでもあります。
だからこそ深い反省が必要なのです。
なぜなら今後「戦争の惨禍が再び繰り返されぬ」ためです。
そしてそのために「全国民と共に戦陣に散り戦禍に倒れた人々に、心から追悼の意を表する」のです。
このブログで、毎年原爆の話や、拉孟の戦い、沖縄の戦い、硫黄島の戦い、インパールの戦い、小町園の悲劇など、数々の戦争の話を連載しているのも、そのためです。
それは、戦争を礼賛するものでもなければ、英雄信仰でもありません。
いたずらに戦争反対を叫ぶものでもありません。
戦わなければならないときというのは、実際にあるからです。
だから良かった悪かったのだ等と議論する気はありません。
戦わなければならなかったのも事実です。
悲惨があったことも事実です。
だからこそ、二度と戦争などしなくても済むように、必死に考え、どこでどうして戦争になったのか、しっかりと過去の現実と向き合い、豊かで平和で誰もが安心して安全に暮らせる日本を築いていく。
それが大人としての反省です。
ChinaやKoreaでは、「大人が反省」は、イコール謝罪を意味し、謝罪はすなわち金銭による賠償を意味します。
彼らの思考には、上下関係と下からの収奪しかないからです。
しかしここは日本です。
日本には、残念ながら、そのような謝罪文化も、賠償文化もありません。
三跪九叩頭する国とは違うのです。
日本における反省は、事実に基づき、しっかりと過去に向き合い、そこから学びを得て現在に活かし、未来を築く石杖とするために行われます。
それは賠償や謝罪という、目先の利害とは、全然違うものです。
「敵を知れ己を知れば百戦して危うからず」は孫子の兵法ですが、我が国の文化をしっかりと学ばず、いたずらに近隣国の、ただひたすらに「どっちが上か、どっちが勝ったのか、勝ったら負けた側から好き放題にむしり取ることができる」という文化ばかり見ているから、そこにかぶれて影響されてしまうのです。
日本には日本の文化があります。
その日本文化に立脚して、陛下のお言葉があります。
陛下のお言葉は、たいへんに重いお言葉なのです。
もっと日本人として、日本精神に誇りを持とうではありませんか。
そしてその誇りのもとに、承詔必謹です。
それが日本人の道です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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