生麦事件から薩英戦争までの歴史を考える



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戦後の歴史では、薩英戦争は薩摩藩が英国に一方的に負けたと教えます。
しかし、
英国艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻。死傷者63人。
薩摩側の損害は、一般市民の死者が5~8人、負傷者18人。
どうみても圧倒的な薩摩藩の勝利です。


20180904 薩英戦争
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12月6日(木)18:00 第32回 百人一首塾 301会議室
12月24日(月)13:30 第57回 倭塾 研修室
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
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12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
<国内研修>
12月16日(日)~17日(月) 一泊二日 神話を体感する会
11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。


生麦事件というのは、江戸時代末期の文久2(1862)年8月21日に、生麦村(現在の横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件です。
江戸から京都に向かう薩摩藩の行列に、前方を横浜在住の英国人4人が無礼にも乗馬のまま横切り、これを制止しようとした薩摩藩士がついには抜刀して、1人を死亡、2人を負傷させました。

この事件でイギリスは薩摩藩に関係者の処罰と賠償を要求しました。
けれど薩摩藩はこれを拒否する。
藩の行列の前を下馬もしないで横断する方がどうかしているのです。
薩摩藩の処置は当然のことです。

ところが当時の英国人からみれば、有色人種は猿と同じで人以下の存在です。
猿に殺されて黙って引き下がるわけに行かない。
また、実は当時の有色人種国は、どの国でも下位の者が起こした外国人といざこざについて、王や国が何らかの賠償責任を負うとは考えられていませんでした。
あくまで下位の者同士の喧嘩は両成敗であって、一方の当事者に国が賠償することなどありえない。

このことはいまでも、東亜の某国の人が、わざわざ日本にやってきて、我が国の最も静謐な施設のひとつであり英霊を祀る靖国神社に爆弾を仕掛け、これを爆破しても、
「それは当事者である犯人の責に帰すべきことであって、
 国家の賠償に値することではない」
と、堂々とのたまう国があるくらいですから、いまだに理解できていないようです。

すでに時代は21世紀になっていますが、15世紀の西欧諸国の水準にすら、民度も政府もいまだ追いついていないことを、はからずも露呈しているわけです。

これに対し当時の欧米諸国(いまなら世界中の国々)は、国民が起こした問題は、その国の政府が賠償の責を負うという考え方です。
ですから日本人が外国で犯罪を犯せば、日本はちゃんとその被害についての賠償をするし、もし民間ベースでの賠償が間に合わないのであれば、国がその賠償の責を負います。

昔の王国であれば国民は王の所有物ですし、民主国家であれば政府は国民共同体の代表なのです。
会社で対外的な不祥事があれば、その会社の社長なり役員が責任を負うでしょう?
それと同じです。

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欧米列強が有色人種の諸国を植民地支配した理由のひとつがこれです。
いくら国家を自称しても、他国に対して責任をとれないのであれば、そのような政府を認めるわけに行かない。
だから先進諸国である欧米列強が宗主国となって面倒をみたのです。
そしてそれを「植民地統治」と呼んだのです。

植民地は、英語でいえば「コロニー(Colony)」です。
これはラテン語の「耕す地」が語源となっています。
要するにコロニーの支配者となるのです。
これを宗主国といいます。
このようにすることで、たとえばフランス領インドシナで、英国人が原住民に暴行を受けたり、財産となる地所に被害を受けたときには、フランス政府が英国に対して賠償責任を負うことができるようにしたのです。
そうしなければ、獣の集団の中で生活するようなものだからです。
それは「保険なしで危険な海外旅行に出かける」ようなものです。

現地の人からの賠償をいくら待ったところで、まるで相手にされないのですから、そういう意味では、有色人種諸国が植民地化されたのも、ある意味、無理からぬところだったのです。
英国にせよフランスにせよ米国にせよ、自国民が当該国で乱暴狼藉にあえば、すかさずその国に賠償を求め、それに応じないなら、その国の政府そのものを否定し、力によってその国の王侯や政府を蹴散らして、直接支配に切り替えて、宗主国となりました。
当時の欧米にはそれだけの力があったし、それが当時の西洋社会の常識だったのです。

ところが生麦事件に関していえば、これはどうみても英国の側が無謀です。
その国の風俗伝統を無視して、大名行列の間に馬で制止を振り払って乗り付けたのです。
仮にもし、英国の貴族の行列に英国人が馬上で乱入したら、これは即時射殺されても仕方がない。
それだけの事件を、生麦事件では英国人の側がしでかしたわけです。

ところが英国は、そんな事件当事者である薩摩藩に、賠償を求めました。
薩摩藩は、当然これを拒否しました。
するとすかさず、翌年に英国は、旗艦ユーライアラスを先頭に、7隻の艦隊で薩摩湾に侵攻しました。
これが世にいう薩英戦争の始まりです。

7月2日未明、英国艦隊は、薩摩藩の汽船3隻を無断で拿捕しました。
仮にも一国に大砲を向け、その国の船を武力で拿捕したのです。
薩摩藩はこれを宣戦布告と受け取り、正午、湾内各所に設置した陸上砲台80門で英国艦隊を一斉に砲撃しました。

英国艦隊はこれに対し、艦上から21門の新型砲であるアームストロング砲を含む100門の砲で、陸上砲台を砲撃しました。
ところがこのアームストロング砲、炸裂弾を発射することができるという、当時の世界にあって鳴り物入りの新型砲で、英国海軍が真っ先に艦隊に装備したものであったのですが、砲を発射すると自爆してしまうのです。

薩摩藩の持つ大砲は、オリンピックの砲丸投げと同じで、単なる鉄の玉を発射して、敵艦に被害を与えるものです。
ところが薩摩藩が鉄球の大砲を放つと、沖合で英国艦が爆発するのです。
「なんともろい船だ。
 鉄の玉で爆発するとは!」
と薩摩では驚いたそうです。
実はアームストロング砲が自爆していたのです。

英国艦隊にしてみれば、これでは戦争にもなりません。
そこで英国艦隊司令長官のクーパー提督は、腹いせに拿捕した薩摩の蒸気船3艦を海上で焼却します。
そしてまだ使えるアームストロング砲と、旧式の鉄球を発射する方の大砲で、薩摩の砲台だけでなく、鹿児島城や城下町に対して砲撃を加えました。
これによって城下では大規模な火災が発生します。
そもそも戦争は、彼らお得意の戦時国際公法では、一般市民を巻き込まないことが基本原則なのですが、その禁を破って一般市民への砲撃を行ったわけです。

このような次第で、互いの砲撃が終わってみれば、
英国艦隊の損害は、大破1隻・中破2隻。死傷者63人。
薩摩側の損害は、一般市民の死者が5~8人、負傷者18人。
どうみても圧倒的な薩摩藩の勝利です。
ちなみに英国は、この戦いの後、アームストロング砲の注文を全部キャンセルしています。

ただし薩摩藩では、鹿児島城内の櫓や門などが損壊し、集成館、鋳銭局に火災が発生し、また民家350余戸が焼け、藩士屋敷160余戸、藩汽船3隻、民間船5隻が焼失しました。
しかし戦時国際法(当時の国際公法)では、戦いは軍人同士が行うものであって、民間への攻撃行動は明らかな法律違反です。
従ってこれらは英国側の戦果とはいえないものです。
もちろん薩摩藩にとっては被害以外の何物でもありませんが。

この戦い以降、英国は薩摩藩の軍事力を高く評価するようになり、フランスに対抗する政治的理由からも、従来の徳川幕府支持の方針を転換、薩摩藩との連携を深めて行きました。

ただし英国艦隊は、艦に被害を負っているわけです。
艦の修復のためには、費用がかかる。
そこでどうしたかというと、艦隊の船速を活かしてすぐに江戸に向かい、徳川幕府に
「薩摩藩に砲撃を受けて、
 このように艦に被害を負った。
 ついてはその損害を賠償すべし」
と迫りました。
請求額は10万ポンドです。
しかもすぐに払えという。

いまの為替レートなら1400万ですが、物価の違いがありますからいまのお金なら24億円くらいになります。
普通ならここで幕府は、
「では薩摩の情況を調べてからお答え申す」
ということになるのですが、幸か不幸か、このときたまたま幕府が国内で回収したクズ銀と呼ばれる補助通貨が多量に余っていました。

クズ銀は民間で勝手に精製の悪い銀の塊を代用通貨みたいにして使っていたものです。
こういう者が出回ると、国内経済がおかしくなりますから、幕府は全国的にこのクズ銀の回収をしていたのです。
問題は、クズ銀は、回収するには相応の対価を支払って幕府が買い取ってあげなければならないのですが、これをあらためて精錬し直して、ちゃんとした通貨にして市場に出そうとすると、コスト割れを起こしてしまうのです。
つまり、たとえばクズ銀を10万円分回収したとして、それを精錬して12万円の値打ちの通貨にするなら、幕府だって文句はありません。
あるいは精錬費用に2万円かかったとしても、仕入れが10万円ですから、別に問題にならない。

ところがこのクズ銀は、精錬し直して遺物を除去し、その遺物を廃棄するのに、3万円かかってしまうわけです。
そしてようやく市場に出したとしても、8万円程度の値打ちにしかならない。
そうすると、仕入れが10万円、工賃が3万円、で売価が8万円です。
誰がどう見ても、処分のしようがないのです。
といって捨てるわけにも行かない。

それで困りきっていたところに、英国がなんでもいいから金をくれ、と言ってきたわけです。
幕府にしてみれば、これはゴミを引き取ってくれるという願ってもないありがたい話です。
それで10万ポンドを即金(即銀)で全額すぐに支払いました。

ところがこれは3つの意味で英国からすればありえないことでした。
ひとつは、まさかすぐに幕府がお金を出すとは思ってもみなかった。
そもそも西欧諸国がアメリカ大陸やアフリカからアジア諸国へと植民地支配を伸ばしていく過程で、これほどの大金を苦もなくすぐに支払うような国はこれまで見たことも聞いたこともない。

ふたつめには、西欧諸国にとって常識である「国民の為したことは他国に対して政府が責任を負う」というあたりまえの常識」が、ちゃんと日本には通用した。
これは、これまで有色人種は野蛮人であって、人ですらないという西欧の常識をくつがえすものでした。

みっつめには、日本がそれだけの大金を、苦もなく即金で支払うということは、日本が底知れない金持ち国であるということが証明されたということです。
日本よりも先に入植を開始しているChinaには、蓬莱山という伝説がありました。
蓬莱山では、木々に金がなり、人々は温和で誰もが大金持ちであり、そこは西洋でいうところの、まさに天国だとされていました。
そしてその蓬莱山は、Chinaの東の海の中にある。
別名が「ジパング」です。

いまにしてみれば、ジパングは「jitu-pongu」つまり、日本という漢字をChina読みしたものとわかるのですが、当時はそういうことはわからない。
そして言われてみれば日本では、一般の庶民が黄金でできた小判を持っている。
まさに日本は、黄金の国ジパングであり、東洋諸国の言う蓬莱山であると、英国はここで気付くわけです。
情報は速い。
英国と幕府の交渉結果は、またたくまに米仏の知れるところとなります。

このことがきっかけとなって、欧米列強の戦略は、日本からいかにして金銀を吸い取るかに変化していくのです。

戦後の歴史では、薩英戦争は薩摩藩が英国に一方的に負けたと教えます。
そして欧米列強の絶対的海軍力に屈した幕府が、薩長に倒されたといいます。

しかし戊辰戦争を振り返ってみれば、薩英戦争の後、英国はなぜか敵対していた薩摩に接近しています。
そして戊辰戦争で使われた官軍、幕府両軍の装備は、いずれも米国の南北戦争の中古品です。
薩長には英国、幕府には仏国が付きましたが、その戦いのための装備は、ともに米国から英仏が仕入れて日本に販売しています。
実に巧妙に日本は内戦に引き込まれ、富を吐き出すことになったのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

えっちゃん

No title
今日もありがとうございます。ブログに転載させて頂きました。
お金持ちと知られてしまった日本は、それから以後、現在に至るまで、富を吐き出され、収奪されているのですね。勤勉、協力しあうなどの日本人の資質も、富を生んでいるのも知らず。


bon

net
2010年代「最近の若者は妙に悟っていて考えが分からない」

1980年代「最近の若者は新人類みたいで考えが分からない」

1910年代「最近の若者はボンボン三代目みたいで考えが分からない」(大正の青年と帝国の前途)

1330年代「最近の若者は何でもキラキラネームで考えが分からない」(徒然草116段)

岡 義雄

No title
おはようございます!今日も拝読させていただきました。
シェアさせていただきました。ありがとうございます。
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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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