刀伊の入寇(といのにゅうこう)に学ぶ戦争史とは



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戦後の日本人は、戦争は宣戦布告してから行うものだと刷り込まれています。
けれど世界の戦争史において、宣戦布告がきちんとなされていることの方がむしろ少数です。
実際には、食えなくなった暴徒たちを処理するために、一定の資金と武器を渡して、その者たちを他所の国に向かわせる。
そこでその国が混乱に陥ったら、その混乱に乗じて征服して、その国の富を簒奪てきたのが世界の歴史であり常識です。
このことは古代も近現代も何らかわりがないことです。


20180905 刀伊の入寇
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


【お知らせ】
<東京・倭塾、百人一首塾他>
9月15日(土)18:30 百人一首塾 第29回
9月23日(日)13:30 第54回 倭塾・東京 第54回
東京の倭塾・百人一首塾は10月から会場がタワーホール船堀に変更になります。
10月8日(月)13:30 第55回 倭塾 研修室 1330-160
10月27日(土)18:00 第30回 百人一首塾 407会議室
11月13日(火)18:00 第31回 百人一首塾 307会議室
11月25日(日)18:00 第56回 倭塾 研修室
12月6日(木)18:00 第32回 百人一首塾 301会議室
12月24日(月)13:30 第57回 倭塾 研修室
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月9日(金)19:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)
<国内研修>
12月16日(日)~17日(月) 一泊二日 神話を体感する会
11月の倭塾関西の日程が11月11日(日)から、11月9日(金)19時に変更になっていますのでご注意ください。


平安時代のことです。
突然、壱岐に50隻あまりの船がやってきました。
ひとつの船はだいたい15メートルくらい。
各船には、約60人ずつが分乗していました。
寛仁3年(1019年)3月27日のことです。

彼らは壱岐に上陸すると100人くらいずつの隊をつくりました。
先頭の20~30人が斬り込み隊、後ろの70~80人が弓や盾を持っていました。
彼らの持っていた矢は、長さ4~50cmと短いもので、楯も射通すほどの貫通力がありました。

彼らは上陸すると民家に襲いかかりました。
牛馬を殺し、抵抗する島民たちを片端から殺しました。
記録には、彼らが
「牛馬を切っては食い、
 また犬を屠殺して
 むさぼり食らう」
と書かれています。
そして略奪後の民家はすべて焼き払い、穀物も奪いました。

民家で生き残った者は船に拉致されました。
船上で病人や老人は簀巻きにして海に投げ入れて殺されました。

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「暴徒上陸!」
知らせを受けた国司の壱岐守藤原理忠(ふじわらのまさただ)は、ただちに147人の手勢を率いて征伐に向かいました。
しかし相手は3000人の暴徒です。
衆寡敵せず敗退してしまう。

理忠を打ち破った暴徒たちは、次に壱岐の真ん中にある、国分寺(嶋分寺)まで攻め込みました。
寺には常覚和尚(じょうかくおしょう)という立派なお坊さんがいました。
常覚和尚の指揮の元、僧侶と地元住民で応戦しました。
そして和尚は、なんと賊徒を三度(みたび)撃退しています。

けれど暴徒たちは、圧倒的な人数です。
猛攻をあきらめない。
常覚和尚は僧侶や村人たちに推されて、島を脱出して、事の次第を大宰府に報告に向かいます。
残った人々は、必死に戦ったけれど全滅し、嶋分寺も全焼させられてしまいます。

こうして島からは、女子239人、男子若干名が捕虜として連れ去られました。
壱岐島で生き残った者は、わずか35人だけでした。

4月7日、今度は対馬から大宰府に危急の知らせが届きました。
対馬守遠晴の報告です。

「対馬に刀伊国の者が
 五十隻あまりの船でやってきて、
 殺人・放火をはじめた。
 彼らは隼のように迅速で、
 数が多く、
 とても対抗できない。
 壱岐では壱岐守の藤原理忠が殺害され、
 ほとんど全滅状態となった。
 すでに刀伊は、
 博多警固所と目と鼻の先の
 能古島まできている。」

知らせを受けた大宰権帥の藤原隆家は、すぐに京都に緊急事態を伝える飛駅便を飛ばすとともに、応戦のために九州の豪族たちに非常招集をかけました。
しかし翌8日には、暴徒たちが筑前・怡土郡(福岡県西部)に上陸してきました。

彼らはまたたく間に山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食い、老人や子供を皆殺しにしたうえ、おびえる男女を追いかけて、4~500名を捕らえて船に乗せてしまいました。
また数知れない穀類が略奪されました。

まだ九州各地の豪族からの応援は到着していません。
それでも大宰権帥の藤原隆家は、わずかな兵を率いて、暴徒たちの不意をつく戦法で個別撃破を図ります。
賊徒と異なり、統制のとれた正規軍である藤原隆家の軍は強く、あちこちで賊徒を蹴散らしていきました。
賊は、この日の夕方には海に逃れて能古島に去ります。

翌9日の朝、賊は藤原隆家軍の本拠である大宰府警固所を焼こうと、全軍でやってきました。
しかし準備を整えた正規兵を前に、逆に刀伊の側が追い詰められ、生き残った者は、再び能古島に帰っています。

このあたりの倭人(日本人)の正規兵の強さというのは、古代においても11世紀のこの刀伊の入寇においても、また20世紀においても、そしておそらく21世紀となったこんにちにおいても、常に圧倒的です。
いまも昔も変わりません。

理由は簡単に説明がつきます。
戦いにおいて必要なことは、度胸ではなく、責任感です。
責任感の強い日本人は、どこまでも戦う。

大陸や半島人は、すこしでも戦況が不利となると、もともとが自分の欲か、上からの強制で戦っているのですから、すぐに逃げてしまう。
これは当然のことで、殺されたら元も子もないし、上に強制されているだけですから、上が倒されたらサッサと逃げます。

これに対し倭人(日本人)は、そもそも争ったり略奪したり、自分が欲をかくということをせず、戦うときは愛するものを護るために自らの意思で戦います。
だから責任感がある。
だから強い。

そして勇敢な藤原隆家の軍による抵抗の中、神風が吹いたのです。

10日、波風が強くなり、船が足止めとなりました。
族たちは身動きできなくなりました。
その間に、九州各所からの援軍が続々と到着しました。

11日午前6時頃、族が、再び大宰府に上陸してきました。
このとき隆家は、上陸した賊を皆殺しにしています。
圧倒的な隆家の軍の勝利でした。

そして敵の生き残りの二人を逮捕しました。
一人は傷ついた男、一人は女です。

13日、賊徒は肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきましたが、ここでは前肥前介と源知という武将が待ち構えていて、同じく族を殲滅しました。
そして敵の生存者一人を逮捕しています。
こうしてついに、賊は恐れをなして、半島に帰っていきました。

帰国途中、弱った賊を高麗が待ち伏せて、残りの賊を全滅させまして。
そして日本人の捕虜270人を助けて、日本に送り返しています。

当初日本側は何者が攻めてきたのかさえもわかりませんでした。
逮捕した三人の族の取り調べから、彼らが三人とも高麗人であることがわかりました。
そして彼らが口をそろえていうのには、
「自分たちは被害者である。
 刀伊がいきなり襲ってきて、
 自分たちは捕らえられて
 無理やり連れて来られたのだ」
というものでした。

本当かどうかは、わかりません。
古来、捕まると嘘八百を並べるのが半島人の特徴だからです。

この事件で記録された被害は、
 殺害された者  365名、
 拉致された者 1289名、
 牛馬380匹殺害
 家屋45棟以上焼失
というものです。
とくに女子供の被害が目立っていました。

拉致された1289名のうち、高麗によって保護されて帰国できたのは270名です。
残りの千余名は、船上で殺されています。

この事件は、犯人たちの申立に基づいて「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)と呼ばれるようになりました。
捕まったのが高麗人なのに、どうして「刀伊の入寇」と名付けられたかというと、隣国が高麗であり、高麗との関係悪化を防ぐこと、それと高麗に保護された日本人を無事に返してもらうためです。
なにせ名称が「高麗の入寇」とでもなれば、歴史にその名が刻まれることになります。
高麗にしてみれば、これは防ぎたい。

一方、刀伊という国は、この事件当時にはすでに消滅しています。
つまり消滅した国の名を事件名にしたとしても、どこからも苦情はないわけです。
要するに「刀伊の入寇」という名称は、「政治的な配慮から生まれた名称」であって、実態はKoreaの入寇であったといえるわけです。

ではそのKoreanがどうして壱岐を攻め、対馬を攻め、九州に上陸を図ったのでしょうか。
ひとつには、末端の人たちが圧政によって食えなくなり、結果として暴徒になったということが考えられます。
あるいは高麗が日本を攻めようとするのに際し、末端の暴徒を利用して先に日本を攻めさせて様子を見たということも考えられます。
高麗にしてみれば、一石二鳥なのです。
棄民の処理ができる。
うまく行けば、壱岐対馬、そして九州が手に入るかもしれない。

そもそも移動するには船が必要なのです。
その船は高価です。
滅んだ刀伊に船や武器を貸してやり、食えなくなった人たちをその船に乗せて壱岐対馬から日本を目指させる。
普通なら、そこで兵站のための食料の供給などが必要です。
戦いには巨費がかかるのです。

けれども、その食料は自前で調達させる。
武装の乏しい壱岐対馬に上陸して、島民たちを拿捕して食料にすれば良いわけです。
だから上陸したし、だから島民を拉致しています。

日本の大宰府の藤原隆家と、九州の諸豪族たちがものすごく強かったから、結果として彼らの目論見は不首尾に終わったけれど、もし彼らが九州上陸に成功していれば、大宰府が占領され、そこを拠点にさらに高麗から援軍が次々と送り込まれて、九州全体が激戦になっていたかもしれないし、もしかすると九州がKoreaの一部になっていたかもしれない。

これを防いだ藤原隆家と、九州の諸豪族は、本当に立派だったと思います。

戦後の日本人は、戦争は宣戦布告してから行うものだと刷り込まれています。
けれど世界の戦争史において、宣戦布告がきちんとなされていることの方がむしろ少数です。
実際には、食えなくなった暴徒たちを処理するために、一定の資金と武器を渡して、その者たちを他所の国に向かわせる。
そこでその国が混乱に陥ったら、その混乱に乗じて征服して、その国の富を簒奪てきたのが世界の歴史であり常識です。
このことは古代も近現代も何らかわりがないことです。

刀伊の入寇のご紹介と、その事件から見えてくる巷間言われていることと異なる「IF」を考えてみました。
誰もが豊かに安全に安心して暮らし、よろこびや楽しみを持って生きようとしています。
我が国の先人たちは、そのために戦いました。
そしてそれを脅かす上下と支配の世界の人たちがいました。

大正時代にモボ・モガと呼ばれて、新しいファッションを楽しんだ日本人は、わずかその10年後には、女性たちは全員モンペ姿に防空頭巾姿になりました。
平和と繁栄は、悪によって、いとも簡単に失われてしまうということを、私達は近代史の中で、しっかりと体験してきているわけです。

それだけに、これからの日本が、本当に豊かさや安全や安心を誇れる国になるよう、その安全は、戦災だけでなく、災害にも強い日本になっていく。
日本でそれをするのは、他の誰でもない。日本人です。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

神足

推古時代の鉄人入寇
刀伊の入寇が日本初の外国がらの侵略とあるのですが、推古天皇の頃、三韓より鉄人が8千人を率い来襲し、討伐を命じられた伊予国の小千(越智)益躬が明石でだまし討ちでこれを破ったとの言い伝え(稲爪神社)が明石にあるのですが本当でしょうか。日本書紀には記述はないようです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%88%AA%E7%A5%9E%E7%A4%BE

翠子

No title
「食えなくなった暴徒たちを処理するために一定の資金と武器を渡して、その者たちを他所の国に向かわせる」

そのまま、今現在の偽難民、移民ではありませんか。朝鮮人に限りません。
その上、南朝鮮は、国を挙げて学生を日本で就職させようとしています。
正に、上記のやり方で日本を浸食しようとしています。

岡 義雄

No title
おはようございます!今日も拝読させていただきました。
シェアさせていただきました。ありがとうございます。
過去も現在も迷惑でしか無い半島。
本当に困ったものですね!
非公開コメント

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

《動画》 「むすび大学シリーズ」、「ゆにわ塾シリーズ」「CGS目からウロコの日本の歴史シリーズ」、「明治150年 真の日本の姿シリーズ」、「優しい子を育てる小名木塾シリーズ」など多数。

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