薙刀(なぎなた)と娘子隊

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20181012 中野竹子
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


この記事は、つい先日Facebookの「学ぶ会」で、過去記事(2010年1月の記事)をご紹介いただきましたが、すこし加筆して再掲します。
戦いの中で、娘を愛するあまり、娘の命さえも奪おうとした姉。
その姉が敵弾によって倒れたとき、その姉の首を、自分の命より大事と持ち帰った妹。
戦いというのは、悲惨なものです。
しかし悲惨だからこそ、そこにあわれにも似た美しい愛が光ります。
そして、だからこそ戦争だけは絶対に避けなければいけないのです。



すこし前に「あさひなぐ」という女子高生の薙刀(なぎなた)を扱った映画が公開されました。
いまはレンタルのDVDでも観ることができますが、とても素晴らしい映画で、大感動して二度も観てしまいました。

いま高校で薙刀部のある学校は、限られたごくわずかしかありませんが、江戸の昔は武家の娘なら、薙刀は常識で、誰もが学ばなければならないとされたものでしたし、娘たちは進んで薙刀を習いました。
なぜかというと、薙刀といえば静御前、静御前といえば、薙刀の名手として名高かったからです。

そして実は、薙刀と刀では、薙刀のほうが武器として圧倒的に強い。
薙刀の女子と、剣術の男子が試合をする場合、最低でも男性の側が二段以上上でないと、勝負にならないとまでされたものです。
実はそれほどまでに薙刀は強い武器で、その、いわば最強の武具である薙刀を、武士たちは女性に持たせていたわけです。

家に帰れば、表札だけは武士の名前になっていますが、家計のすべては奥方が取り仕切っています。
俸禄や知行石も、家に支払われましたから、これまた奥方の管理下にあります。
その奥方は、薙刀を常に鴨居に掛けています。
ですから武家では、旦那が浮気でもして帰ろうものなら大変です。
奥方に薙刀で追い払われる。
ホウキで追われるくらいなら、まだ可愛いものだったのです(笑)。

さて、慶応4(1868)年8月23日、会津藩若松城下に新政府軍がやってきました。
その数なんと7万5千の大軍です。
迎え撃つ会津の武士たちは、正規兵が約3500人、客員兵と呼ばれる幕軍崩れの参加兵が1800名、合計わずか5300名です。
しかも会津藩正規兵の主力は、いまだ国境にいます。

城下に残っているのは、少年で構成される白虎隊だけです。
銃を持った者は百名たらず、兵糧米と弾薬はまったく備蓄がありません。
激しい雨が降る中、城下に敵襲来を知らせる激しい半鐘が鳴り響きました。
城下にいる武士の家族や町民たちに避難を知らせる早鐘です。

大隊ひとつ繰り出せば早々に城を落とせる状況にあった新政府軍は、若松城下に殺到したばかりで、城下の状況がまだつかめません。
そこで城に向けて砲撃をはじめました。

このとき若松城に駆けつけた女性たちがいました。
中野竹子(22歳)以下、6名の娘たちです。
彼女たちは、城下にある薙刀(なぎなた)道場、田母神塾の門下生です。
田母神俊雄先生のご先祖の道場です。

彼女たちは混乱する城下において、髪を切り、男装して婦女隊となって、城主松平容保の2歳年上の義姉、照姫様をお守りしよう駆けつけたのです。
けれど彼女たちが城に駆けつけたとき、すでに城門は固く閉ざされていました。
彼女たちは入城させてもらえません。

同じ道場の仲間たちも集まってきました。
人数も二十余名になります。
日ごろ鍛錬を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。

中野竹子らは、娘たちだけでその門前で「娘子隊(じょうしたい)」を結成し、お揃いの白羽二重で鉢巻きを頭に巻きました。
このときの中野竹子の着物は、青みがかった縮緬です。
妹の中野優子(16歳)の着物は、紫の縮緬です。
依田まき子は、浅黄の着物、
妹の依田菊子は、縦縞の入った小豆色の縮緬、
岡村すま子は、鼠がかった黒の着物でした。
そしてそれぞれ袴(はかま)を穿き、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。

集まった娘子隊に、藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされました。
「照姫様をお守りしなければ!」
と、娘子隊二十余名は、砲弾の雷鳴が響く中、会津坂下の法界寺に向かいました。
ようやく寺に着きました。
けれど照姫様がいない。

彼女たち一行は、やむなくこの日、法界寺に宿泊しました。
そして翌日朝、会津坂下の涙橋と呼ばれる城近くの橋付近の守備隊長である萱野権兵衛に「従軍したい」と申し出ました。

いくら薙刀の遣い手といっても、うら若い乙女たちです。
敵(新政府軍)は銃で武装している。
萱野権兵衛は、
「ならん!、絶対にならん!、
 お前たちは城へ帰れ!」
と彼女たちの申し出を拒否しました。

けれど中野竹子らは、去ろうとしません。
「参戦のご許可がいただけないのであれば、
 この場で自刃します」
というのです。

敵を目の前にして困りきった萱野権兵衛は、とりあえず一晩寝かせて、翌日帰宅させようと、彼女達をいったん涙橋にいる衝鋒隊に配属しました。
ところがその翌日(8月25日)娘子隊がいる涙橋に、新政府軍(長州藩・大垣藩兵)が殺到してきたのです。

近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は刀と槍(やり)で必死の突撃を繰り返しました。
戦いは白刃を交えた白兵戦となりました。
敵は圧倒的多数です。
最後尾に配属されたはずの娘子隊も、いつしか前線に出て戦っていました。

薙刀を振り回して善戦する彼女たちに、新政府軍の兵たちが次々に倒されます。
けれど、いかに袴を穿いて男装しているといっても、彼女たちはどこからみても女です。
これに気付いた新政府軍の攻撃隊長が、部下に「生け捕れ!生け捕れ!」と命じました。

ちなみに、この場面について、本によっては「新政府軍は娘子隊の女性たちを強姦するために、生け捕れと命じた」と書いているものがありますが、馬鹿にするなといいたい。
どこの国の歴史を書いているのだ!と、怒鳴りつけたくなります。

そうではなくて、勇敢な娘たちだからこそ、なんとか殺さずに生け捕ろうとしたのです。
だいたい白刃のさなかに、呑気に強姦などできるわけがない。あたりまえのことです。
それに新政府軍の近接戦用の武装は、銃剣と刀です。
薙刀と正面から戦えば、明らかに不利です。

だから離れて遠巻きにして、ハシゴなどを使って身動きを封じようとしたのです。
それを短い言葉で指揮すれば「生け捕れ!」になります。
斬りあいではなく、生け捕りなら、兵たちは離れて囲みます。
指揮が、「離れろ!」とか「離れて囲め」では、相手は女性たちです。士気に関わる。
「生け捕れ」なら、士気はそのままに、娘たちの動きを封じることができます。
それが戦いの指揮というものです。

一方娘子隊は、敵にに生け捕りにされようなどとは、露ほども思わない。
遠巻きに囲まれては大変と、積極的に敵に近づき、次々と敵を倒して行きます。
なかでも隊長の中野竹子は、会津城下において、美しい才女として誰もが羨む女性でした。
当時の風呂は、家風呂以外はどこも混浴で、竹子は1、2度、銭湯にいったことがあり、その美貌と美しいふくよかな体が、男たちの目を釘付けにしたといいます。

その美しい竹子が乱戦の中、額に一発の銃弾を受けて、ドウと倒れました。
額の血が、草を真っ赤に染めました。
息も絶え絶えに竹子は、それでも気丈に妹の優子を呼びました。
そして、
「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」
と、妹に介錯を頼みました。

妹の優子は、まだ数え年16歳です。
いまの年齢勘定なら15歳、中学3年生です。
その優子が、気丈に姉の首を打ち落としました。
そして姉の首を小袖に包み、坂下まで落ち延びて法界寺に向かいました。

首というのは、たいへんに重たいものです。
途中で農家の人が、首を代わりに持ってくれました。

その後、娘子隊一行は兵たちの看護のため、若松城に入りました。
場内には「八重の桜」で有名になった新島八重がいました。
八重は娘子隊に、鉄砲をもたせました。
姉の中野竹子の命を奪ったのも鉄砲です。
妹の優子も、八重とともに鉄砲で戦いました。

優子は、戦いのあとを生きのびました。
そして当時を回想して次のように述べています。
「わらわ共の戦場は、よく判りません。
 実際あの時は子供心にも
 少しは殺気立って居ましたし、
 にっくき敵兵と思ふ一念のみで、
 敵にばかり気をとられ、
 何処にどんな地物があって、
 どんな地形であったかなどといふ事は
 少しも念頭に残って居りません。
 ただ柳土堤に敵多勢居って
 さかんに鉄砲を撃ち、
 味方も之に向ってしきりに撃ち合ひましたが、
 なかなからちあかないので、
 一同まっしぐらに斬込んだ事は覚えて居ります。
 其時俄然砲声が敵の後方に起ると、
 敵は浮足立ちて動揺を始めたので、
 このときだと味方は一層猛烈に斬込み、
 婦人方もこの中に交って戦ひました。
 わらわは母の近くにて少しは敵を斬ったと思ひますが、
 姉がヤラレタといふので、
 母と共に敵を薙ぎ払いつつ
 漸く姉に近づき介錯をしましたが、
 うるさき敵兵ども、
 喧々囂々とますます群がりたかるので
 母と共に漸く一方を斬り開き、
 戦線外に出ました。
 この時農兵の人がわらわと共に一緒に戦って
 坂下に帰る途中は首を持って呉れたと記憶して居ます。
 さかんに斬合った場所は、
 乾田で橋の東北方六丁位離れ
 湯川によった所の様に思はれます」

優子は長生きしました。
そして昭和6年に79歳でお亡くなりになりました。
墓所は八戸にあります。

実はその優子を、娘子隊の母と姉の竹子は、戦いの前夜、亡き者にしようと相談していました。
妹の優子は、とても美しい乙女だったのです。
依田菊子の回想にあります。
「その夜の夜半のこと、
 ひそひそ話が聞こえますので耳をすませますと、
 中野竹子様と御母様が優子様を殺そうという
 相談をしておられるのでありました。
 中野の3人とも、世にすぐれて美しい方々でありましたが、
 ことに優子様は、
 お歳も一番若いうえに、いっそう美くして
 美人であられましたので、
 もし敵に押えられては恥辱だから、
 いっそ今夜のうちに殺してしまおうという御相談でしたので、
 私どもと姉(まき子)とが飛び起きまして、
 御二人にお話して、殺さないでもと申して
 しばらく思いとどまっていただきました。」

また別の談話にも、
「考子(竹子、優子の母)さんは、
 そばに寝ている優子さんを呼び起こし、
 自刃させるべきか、いや、それよりはかくしようと、
 太刀を抜いてまさに優子さんの
 寝首を掻こうとしましたので、
 これは大変と、すぐ飛びついて
 その手をおさえ訳を聴きますと、
 御両人は異口同音に、
 優子が居ては、思う存分に働けませんし
 皆さんの御邪魔にもなりますから、
 冥土に先立たした方がよろしいかと思います」
とあります。

おそらく事実だったのでしょう。
娘を思うからこそ、辱めを受けたり辛い思いをさせるくらいなら、いっそのこと、我が手で殺そうと思う。
けれど、周囲から停められてそれができなかったのは、娘が可愛くてしかたがない母の思いというものであったろうと思います。

娘子隊が激しく戦い散った彼女の戦死地、涙橋のたもとには「中野竹子殉節の碑」と、薙刀を構える竹子の白い像が建てられています。

 武士(もののふ)の
 猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
 数にも入らぬ我が身ながらも

姉の中野竹子の辞世の歌です。
「数にも入らぬ」と謙遜しながら、男性顔負けの壮絶な戦いをして散っていきました。
何のために?
自分たちが所属するよろこびあふれる楽しいクニを守るためです。
そのために、まめなる心をつくすことが日本人にとっての忠です。
まめなる心を尽くすというのは、自分の持っているすべてで戦うということです。
そしてそのために、男女を問わず日頃から自らを鍛え、日々を誠実に生きる。

戦いの中で、娘を愛するあまり、娘の命さえも奪おうとした姉。
その姉が敵弾によって倒れたとき、その姉の首を、自分の命より大事と持ち帰った妹。
戦いというのは、悲惨なものです。
しかし悲惨だからこそ、そこにあわれにも似た美しい愛が光ります。
そして、だからこそ戦争だけは絶対に避けなければいけないのです。

しかし戦争は、必ず相手があって起きるものです。
コチラがいくら戦争を放棄したといっても、相手も同じだとは限りません。
「国境なんてなくなれば」とおっしゃる方もおいでになりますが、それは理想であったとしても、現実には国境があり、一切自らの責任を取ることをしない人が、自らの利益のために権力で他人を使役して戦争に駆り立てる。
すくなくとも歴史時代以降の世界は、そうした戦乱の歴史です。

だからこそ日頃から備えることが大事です。
ひとりひとりが、いったん緩急あれば、義勇公に奉じるという精神を持ち、国をあげて戦いに備え、絶対に負けない強靭で最強の軍備を整える。
また、いつ戦いが始まったとしてもいいように、あらゆるインフラを整備する。
それはとても大切なことです。
そして同時に、全力を挙げて戦いを避ける。

戦前の日本がそうでした。
日本は第二次世界大戦が始まっても、まる2年3ヶ月もの間、戦いを避けるためにありとあらゆる手を尽くしていました。
一方、無責任なメディアは、ひたすら鬼畜米英と、対立を煽っていました。
その一方で多くの国民は、戦いがないことを望んでいました。

いざとなれば、男も女も老若を問わず死力を尽くして戦うのが日本人です。
そのことは、今も昔も何も変わっていません。
それはとても良いことです。
しかし、だからこそ、戦争は避けなければならないと思うのです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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natural9

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小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
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執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
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動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「明治150年真の日本の姿」、「日本と台湾の絆」、「奇跡の将軍樋口季一郎」、「南京事件は4度あった」、などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。
日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
《著書》
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』
『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』
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