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蠅にわからなかった金冠の値打ちも、敵将の家康にはちゃんと伝わった。ちゃんとわかった。
世の中というのは、そんなものだと思います。
わかる人にはわかる。
わからない人には、永遠にわからない。
わからなくても、きっと明日は晴れるし、きっとお天道様がまた昇ります。
そして、わかる人もわからない人も、一緒に向かっている先が明日です。木村長門守重成

落語、浪曲、講談といえば、我が国の三大話芸です。
落語は皆様お馴染みだと思います。
浪曲は、話芸に三味線と歌謡を付けた話芸で、広沢虎造などが有名です。
講談といえば、近年では一龍斎貞水師匠の怪談話などが有名ですが、実は講談は、様々な歴史物語として、かつてはたいへんに親しまれたものでした。
まだテレビや映画の時代劇などなかった時代、庶民の娯楽といえば、まさにこうした話芸だったわけですが、実はこの3つにはおもしろい違いがあります。
落語は、落語家がどんどん客席に降りていく・・・といっても実際に体を客席に移動させるのではなくて、観客の気持ちの中に入り込んで、観客と心をひとつにするわけです。
ですから落語を聴きますと、たとえば古典落語でも、いきなり物語が始まるのではなくて、高座に座った落語家は、世間話などをしながら、観客の気持ちの中にまずは入り込みます。
そして客席との一体感が生じたところで、「オイ、熊さんや」と本題の落語が始まるわけです。
これに対して浪曲は、三味線が入って、まずは歌から始まります。
つまり物語の始まりを、音物で演出するわけです。
一方講談はといいますと、高座に立った講談師は、四方山話をしながら、まず観客の意識を高めます。
落語は「話す」ですが、講談は「読む」と言いまして、特別演台に本を置くわけではないのですが、いわば読み物を語り聞かせるわけで、客席が聞こうという気分になるように、観客を引き上げるという手法が使われます。
その上で演題に入っていくわけです。
近年では、テレビに進出した落語はともかく、浪曲、講談は非常に営業が厳しくて、浪曲家、講談師とも、たいへんに数が少なくなっています。
昭和40年代にテレビが普及する前までは、浪曲師、講談師といえば、一席で百万長者になると言われるくらい、人気があったのですが、テレビに押されてしまっているわけです。
また近年では、残る落語家、講談師も、女性が多く、男性の渋い喉の若手がなかなかいない。
そんな中で、私が贔屓にしている講談師が、神田山緑師匠で、今年、めでたく真打に昇進されました。
いまやその講談の話芸も、まさに名人芸の域です。
師匠の演目は、200席ほどもあるのだそうですが、その中からひとつ、木村重成の「蝿(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず」というお話のあらましをご紹介します。
実際の講談のお話は、もっと色気がつくのですが、主題がそこにあるわけではないので、物語のあらましをご紹介し、多少の意見を述べさせていただこうと思います。
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木村重成は、宮崎県宮崎市のあたりにかつてあった佐土原藩の出身で、豊臣秀頼の重臣です。
イメージ的には、戦国時代のキムタクといった感じかもしれません。
色白でもの静か、誰からも好かれる好青年で、たいへんに品格のある武将です。
だから大坂城内でも、たいへんに人気がありました。
ただ、豊臣秀頼の時代の若い武将ですから、戦場での実践経験がない。
人柄が立派で、美男子、だけれども実戦経験がないということで、中には妬(ねた)む者もいます。
要するに、男のヤキモチというやつです。
大坂城にいた、山添良寛(やまぞえりょうかん)という茶坊主もそのひとりでした。
良寛は、茶坊主とはいっても、腕っ節が強く五人力の力自慢です。
常々から「まだ初陣の経験もない優男(やさおとこ)の木村重成なんぞ、ワシの手にかかれば、一発でのしてやる」と鼻息が荒い。
ある日、たまたま大坂城内の廊下で木村重成に出会った良寛は、わざと手にしたお茶を木村重成のハカマにひっかけた良寛、
「オイ、気をつけろい!」
と重成をにらみつけました。
良寛にしてみれば、喧嘩になればしめたものです。
人気者の木村重成を殴り倒せば、自分にハクがつくとでも考えたのでしょう。
ところが木村重成、少しも慌(あわ)てず、
「これは大切なお茶を運ぼうとしているところを
失礼いたしましました。
お詫びいたします」
と静かに頭をさげてしまいました。
これでは喧嘩になりません。そこで良寛、
「そんな態度では謝ったことになりませぬ。
土下座して謝っていただこう!」
と迫りました。
相手を怒らせて、先に手を出させればしめたものです。
城内で喧嘩刃傷沙汰になれば、木村重成は、身分を失って失脚です。
大坂城を追われるだけでなく、場合によっては切腹になるかもしれません。
一方良寛は、地位などない茶坊主です。
失脚すれば「ざまあみやがれ!」というわけです。
ところが木村重成、どうしたかというと、
「それは気がつきませなんだ」
と、膝を折ると、床に膝をついて、深々と頭を下げて、
「申し訳ございませんでした」
と頭を下げる。
すっかり気をよくした良寛、勝ち誇った気になって、
「木村重成は喧嘩もできない腰抜けだ。
ワシに土下座までして謝った。
だいたい能力もないのに日頃から偉そうなんだ」
と、あることないこと木村重成の悪口を大坂城内で触れて回りました。
日頃から、お女中衆にまでたいへんな人気のある重成です。
誰に対してもやさしいし、剣の腕は超一流、武将としても凛としてたくましい風情です。
ですから認知不協和です。
良寛のまき散らしたウワサは、たちまち大阪城内に広がりました。
「認知不協和」というのは、たとえば立派だと思われている人を、こき下ろすような情報に接したとき、人は自分が思っているイメージと、ウワサとの落差から、自分の中でその情報を消化できなくなり、不安になって、その不安を埋めようとして、かえってその情報を強く認識してしまうこといいます。
たとえば、かっこいいウルトラマンをCMに登場させ、失恋させたり、欲しいものを誰かに横取りされたりなどのシーンで、ウルトラマンを徹底的にこき下ろす。
すると人は、自分の中で、「あのかっこいいウルトラマンが、失恋? えっ?何?どうしたの?」となって、何の話か興味を引かれるわけです。
一生懸命真面目に努力し、実績も実力もある政治家について、あることないことでっちあげて、失言問題などで大騒ぎする。
すると、日本人なら誰でも、「自分の不徳が招いたことだから」と、「皆様にご心配をおかけして申し訳ない」と謝る。
謝ると、「それみたことか。うしろめたいことがあるから、謝ったんだ」などと、筋違いのゴタクを並べた挙げ句、「謝った、謝った」と大騒ぎするのも、「認知不協和」を悪用した手口です。
ましてや相手がちょっとイケメンだったり、しっかり者だったり、なまじ世間の評判の良い人だと、こうした
「実はあの人は・・・」というウワサ話は広がりやすい。
ウワサ話というのは、とにかく次元が低ければ低いほど、大きく広がりやすいのです。
木村重成も、なまじ日頃から評判の良いしっかり者です。
茶坊主に土下座したという貫禄のなさは、大坂城内の、まさに笑い草となって広がっていったのです。
この時代、まだ戦国の世の中です。
大阪の豊臣方と徳川家の確執が、いつ大きな戦になるかわからないという時代にあたります。
木村重成も戦国武将のひとりです。
常に武威を貼らなければ、敵からも味方からも舐められてしまいます。
舐められれば、それは武将としての沽券(こけん)関わるのです。
ウワサ話は、当然、重成の耳にもはいってきました。
登城すると周囲から冷たい視線が重成に刺さりました。
心配して周囲の人が、
「よからぬウワサが立っていますよ」
と重成に忠告もしてくれました。
けれど重成は、まったく取り合いませんでした。
そしてついに、ウワサは重成の妻の父親の耳にも入りました。
実はこの父親、とんでもない大物です。
重成の妻は青柳(あおやぎ)という名のたいへんな美人です。
その青柳の父は、大野定長(さだなが)といって、豊臣秀頼の側近中の側近の大野治長(はるなが)の父親で、数々の戦いで多くの武功を立てた戦国武将の猛者です。
「娘の旦那が腰抜け呼ばわりされているとあれば、
大野の家名に傷がつく。
ヨシ、わしが重成のもとに行き、
直接詮議をしてくれよう。
ことと次第によっては、その場で重成を斬り捨てるか、
嫁にやった青柳に荷物をまとめさせて、
そのまま家に連れて帰って来てやるわ!」
とばかり、真っ赤に怒って重成を尋ねました。
父「重成殿、かくかくしかじかのウワサが立っているが、
茶坊主風情に馬鹿にされるとは何事か。
なぜその場で斬って捨てなかった。
貴殿が腕に自身がなくて斬れないというのなら、
ワシが代わりに斬り捨ててくれる。
何があったか説明せよ。
さもなくば今日を限りに、
娘の青柳を連れ帰る!」
重成「お義父様、
ご心配をおかけして申し訳ありませぬ。
ただ、お言葉を返すわけではございませぬが、
剣の腕なら私にもいささか覚えがございます。
けれどお義父様、
たかが茶坊主の不始末に、
城内を血で穢したとあっては、
私もただでは済みますまい。
場合によっては腹を斬らねばなりませぬ。
いやいや、腹を斬るくらい、
いつでもその覚悟はできておりますが、
仮にも私は、千人の兵を預かる武将にございます。
ひとつしかない命。
どうせ死ぬなら秀頼様のため、
戦場でこの命を散らせとうございます」
そう前置きしたうえで、
「父君、
『蠅(はえ)は金冠(きんかん)を選ばず』と申します。
蠅には金冠の値打ちなどわかりませぬ。
たかが城内の蠅一匹、
打ち捨てておいてかまわぬものと心得まする」
と、こう申し上げました。
蠅は、クサイものにたかります。
クサイものにたかる蠅には糞便も金冠も区別がつきません。
そのような蠅など、うるさいだけで相手にする値打ちもないというわけです。
これを聞いた大野定長、
「うん!なるほど!」
と膝を打ちました。
そしてたいそう気を良くした大野定長は、帰宅すると、周囲の者に、
「ウチの娘の旦那はたいしたものじゃ。
『蠅は金冠を選ばず』と申しての、
たかが茶坊主の蠅一匹、
相手にするまでもないものじゃわ」
と婿自慢をはじめました。
日頃から生意気な茶坊主の良寛です。
これを聞いた定長の近習が、あちこちでこの話をしたものだから、あっという間に「蠅坊主」の名が、大坂城内に広まりました。
挙げ句の果てに良寛は、城内の武将や侍たちから、
「オイッ!そこな蠅坊主、
いやいや良寛、お主のことじゃ!
そういえばお主の顔は、
どことなく蠅にも見えるの。
蠅じゃ蠅じゃ、蠅坊主じゃ!」
と、さんざんからかわれる始末です。
実力がないのに、自己顕示欲と自尊心だけは一人前の山添良寛です。
「蠅坊主」などと茶化されて黙っていられるわけもありません。
「かくなるうえは、俺様の腕っ節で、
あの生意気な重成殿を皆の見ている前で、
たたきのめしてやろう」
と、機会をうかがいました。
機会は、すぐにやってきました。
ある日、大坂城の大浴場の湯けむりの中で、良寛は、体を洗っている重成を見つけたのです。
いかに裸で、背中を洗っている最中とはいえ、相手は武将です。
正面切っての戦いを挑むほどの度胸もない。
良寛は、後ろからこっそりと近づくと、重成の頭をポカリと殴りつけました。
なにせ5人力の怪力です。
殴った拳の威力は大きい。
・・・・ところが、
「イテテテテ」と後頭部を押さえ込んだ男の声が違う。
重成ではありません。
人違いです。
頭を押さえているのは、なんと、天下の豪傑、後藤又兵衛です。
体を洗い終えた木村重成は、とうに洗い場から出て、先に湯につかっていたのです。
いきなり後ろから殴られた後藤又兵衛、真っ赤になって怒ると、脱衣場に大股で歩いて行き、大刀をスラリと抜き放ち、
「いま殴ったのは誰じゃ!
出て来いっ!タタッ斬ってやる!」
と、ものすごい剣幕で怒りはじめました。
風呂場にいた人たちは、みんな湯船からあがり、様子を固唾を飲んで見守っています。
残ったのは洗い場の隅で震えている良寛がひとり。
「さては先ほどワシの隣に木村殿がおったが、
そこな良寛!、
おぬし、人違えてワシを殴ったな!
何。返事もできぬとな。
ならばいたしかたあるまい。
ワシも武士、斬り捨てだけは勘弁してやろう。
じゃがワシはあいにく木村殿ほど人間ができておらぬ。
拳には拳でお返しするが良いか良寛。そこになおれ!」
と大声をあげるやいなや、拳をグッと握りしめました。
戦国武者で豪腕豪勇で名を馳せた後藤又兵衛です。
腕は丸太のように太いし、握った拳はまるで「つけもの石」のようです。
その大きな拳を振り上げると、良寛めがけて、ポカリと一発。
又兵衛にしてみれば、かなり手加減したつもりだったのだけれど、殴られた良寛は一発で気を失ってしまいました。
又兵衛も去り、他の者たちも去ったあとの湯船の中、ひとり残ってその様子を見ていた木村重成は、浴槽からあがると、倒れている良寛のもとへ行き、
「あわれな奴。
せっかくの自慢の五人力が泣くであろうに」
と、ひとことつぶやくと、「エイッ」とばかり良寛に活(かつ)を入れ、そのまま去って行きました。
気がついた良寛、痛む頬を押さえながら、
「イテテテて。
後藤又兵衛様では相手が悪かった。
次には必ず木村殿を仕留めてやる」
するとそばにいた同僚の茶坊主が言いました。
「良寛殿、
あなたに活を入れて起こしてくださったのは、
その木村重成様ですぞ」
これを聞いた良寛、はじめのうちは、なぜ自分のことを重成が助けてくれたのかわかりません。
(ただの弱虫と思っていたのに、ワシを助けてくれた? なぜじゃ?)
そしてハタと気がつきました。
(重成殿は、
ワシに十分に勝てるだけの腕を持ちながら、
城内という場所柄を考えて、
自分にも、重成殿にも火の粉が架からないよう、
アノ場でやさしく配慮をしてくれたのだ。
そうか。俺は間違っていた。
木村殿の心のわからなかった。
ワシが馬鹿だった」
良寛は後日、木村重成のもとに行き、一連の不心得を深く詫び、木村重成のもとで生涯働くと忠誠を誓いました。
この年、大坂夏の陣のとき、初陣でありながら、敵中深くまで押し入って大奮戦した木村重成のもとで、良寛は最後まで死力を尽くして戦い、重成とともに討死して果てました。
******この物語は、神田山緑さんの講談師の先輩が生前に昭和天皇の前で口演された演目で、昭和天皇がたいへん愛されたお話でもあるそうです。
人の上に立つもの、ある程度世間で知られる人、あるいは金冠となろう人は、必ず一部の人たちから、徹底的に酷評され、あることないこと言われ、馬鹿にされ、中傷されたりするものです。
けれど「蠅は金冠を選ばず」です。
正しいことをしようとするとき、真面目に何かをしようとするとき、口さがない蠅たちは、言いたい放題です。
無責任で、何の影響力もないから言いたい放題することができます。
とくに近年のネットでは、匿名で投稿できるし、そもそも日頃名乗っている名前自体が通名の人たちもいます。
そうした人たちは、まさに言いたい放題です。
一方、影響力があり責任がある者は、言いたいことの半分も言えない。
ウワサというのは、とかく良いウワサばかりではありませんし、あからさまな中傷や非難、あるいは名誉を毀損する振る舞いは、ときに重大な影響を、言われる側に及ぼすこともあります。
陛下の大御心は、私どものには、図りかねます。
ただ、陛下が愛された木村重成の上にご紹介したくだりの物語は、お察しするに、戦後、様々な中傷を浴び続けた陛下にとって、心が洗われる、そんなお話だったのではないか。
そのような気がします。
もっというなら、戦地で勇敢に戦い、散っていかれた帝国軍人のみなさんたちもまた、戦後、死んでしまっていることをいいことに、あらん限りの中傷を浴び続けました。
やれ赤ん坊を放り投げて銃剣で刺し殺しただの、女性を性奴隷にしただの、本人たちに聞いたら、目をまるくして驚くような野蛮人に、いつのまにか仕立てられてしまっていました。
まるで思いも着かないような蛮行の犯人に仕立て上げられ、馬鹿にされ、中傷され続けていたわけです。
しかも、すでにお亡くなりになられています。
一切の反論することもできない。
しかし他人に悪口を言われたからといって、同じように悪口で返したとしても、相手が変わることはありません。
上にご紹介した物語の茶坊主の山添良寛は、最後には改心して木村重成のために忠誠を誓っていますが、それは当時の人々の民度が高く、名誉を重んじて行動してた日本人社会であったればこその出来事です。
名誉よりも個人の欲得が先行し、ましてメディアやネットという匿名の世界の中で、自らの名前を出すこともなく、こそこそと匿名の影に隠れて、ただひたすら他人の誹謗中傷を繰り返します。
山添良寛のような改心など、見込めるはずもありません。
むしろ蠅を相手にしたら、自分も蠅の仲間入りです。
そういえば、木村重成は戦のときに兜(かぶと)に香を薫(た)きしめていたことでも有名です。
戦いに破れ、首を刎ねられたとき、その首が汗臭いのでは、相手の武将に申し訳ない。
だから香をたいて良い香りがするようにしていたのだそうです。
そんな重成が討死したとき、敵将の徳川家康は、
「大切な国の宝を失った」
と涙をこぼしたと伝えられています。
蠅にわからなかった金冠の値打ちも、敵将の家康にはちゃんと伝わった。ちゃんとわかった。
世の中というのは、そんなものだと思います。
わかる人にはわかる。
わからない人には、永遠にわからない。
わからなくても、きっと明日は晴れるし、きっとお天道様がまた昇ります。
そして、わかる人もわからない人も、一緒に向かっている先が明日です。
その明日をよい日にするのは、他の誰でもない。
私達自身です。
※この記事は2013年11月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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2018/11/11 URL 編集