この歌が詠まれたのは、斉明七(661)年正月、朝鮮半島の百済(くだら)救援のために、およそ5万の大軍が編成され、そのうちの第一波の約1万の軍勢が、いざ出陣というときです。
これから海を渡って朝鮮半島に向かうのです。
外洋航海ですし、大軍を送るのですから、そのためには大きな船を用いたことでしょう。
ところがこの時代、大型の外洋船舶を着けられる港はありません。
大型船は沖合に停泊させ、そこに小さな和船で乗り込みました。
小型の和船と、大型の外洋船では、あたりまえのことですが舷側の高さが違います。
安全に乗り込むためには、海が凪(な)いでいなければなりません。
海は、朝と晩の二回、凪ぎます。
夜の航海は流木などに衝突する危険があるので、昼間に航海するために、乗船は明け方、まだ薄暗い時間帯に行われたことでしょう。
そうなると大型船への乗り込みには、月明かりが頼りです。
ですからそれは満月の晩が選ばれたことでしょう。
空にはちょうどいい加減の満月、海は真っ平らの朝凪。
「さあ、出発だ!」というわけです。
問題は、小型の和船に「どこから乗り込んだか」です。
出発する兵数は、約一万ですが、ひとつの和船に乗れるのは、せいぜい十人程度です。
とすれば、延べ一千艘の和船が必要になります。
少なく見積もっても百艘以上の和船が用意されたことでしょう。
そうなると大きな川の岸辺だけでは、乗り込む場所が十分ではありません。
ではどうしたかといえば、当時もいまも平野部には水田があり、そこに用水路がありますから、その田んぼの用水路を利用して、和船に分乗したわけです。
そして用水路、河川、海へと進み、大型船舶に乗り込んだのです。
その用水路に臨時に設置された船着き場が「田津」です。
「田んぼの津」です。
そしてあたりがまだ薄暗い時間帯ですから、そこでは赤々と篝火が焚かれていました。
その篝火が「熟」です。
想像してみてください。
夜明け前の薄明かり、空には満月、田んぼのほとりには赤々と焚(た)かれた篝火(かがりび)の列。
そこには戦支度の大勢の人がガヤガヤといて、号令や点呼をとる人の大声が聞こえます。
見送りの人たちの話し声、別れを惜しんで手を握り合う姿、鎧(よろい)のガチャガチャという物音。
そういう喧噪(けんそう)の中に、額田王も中大兄皇子を見送るために来ているわけです。
けれど皇子は、総大将に近い立場の人です。
テントの中にいて、まだ出発前の打ち合わせ中なのでしょうか。
なかなかテントから出てきません。
けれど、月が出てきました。
潮も凪いできました。
いよいよ出発の時間です。
「きっと船に乗り込むために、
皇子さまが出て来られるに違いない」
「船乗りせむと月待てば」は、ただ月を待っているのではありません。
愛する人の姿をひと目見ようと待っていることをも掛けています。
そして「潮もかなひぬ」、潮もちょうどよい加減になってきました。
篝火と喧噪の中で、「今はこぎいでな」、愛する人がテントから出てくるのを、出発前にひと目見ようと、いまかいまかと待っている......。
そんな額田王の姿が、まるで目に浮かぶようではありませんか。
そして、出てくる男性は、これから海を渡って外国に戦をしに出かけるのです。
生きて帰れる保証はありません。もうこれきり、二度と会えないかもしれないのです。
けれど、これから出征というときに、涙を見せることは禁物です。
気をたしかに持って笑顔で見送ろう。
でも、ほんとうの気持ちをいえば、心配で心配でたまらないし、どんなことがあっても、必ず生きて帰ってきてほしい。
だから、「船乗りせむと月待てば」は、単にこれから出発する君を待っているという意味だけではなくて、
「生きて帰ってきてほしい」
「その日を、ずっと待っています」という「待つ」にも掛けられています。
すこし考えれば分かることです。
生きて帰れる保証などない愛する人をわざわざ見送りに行って、「月を待っている」だけのわけなどありません。
ほんのちょっと思いやりの心をもってこの歌を見れば、そのときの額田王のせつない思いを感じ取れるのではないでしょうか。そしてこういう歌だからこそ、千年の時を超えて、今も多くの日本人に愛されているのではないでしょうか。
▼「日本」という国号に込められた思い
せっかくここまで書きましたので、ではなぜ、日本がこのとき朝鮮半島に兵を送ろうとしたのかについて、すこし触れておこうと思います。
この歌が詠まれた当時、百済も新羅も、日本に朝貢している国でした。
史料には両国の国王が日本に後継ぎの王子を人質に出していたと書かれています。
もっとも、人質というとなにやら聞こえが悪いのですが、実際には留学です。次の国王になる王子が、優れた技術を持つ日本にやって来て、日本の文物や習慣を学ぶ。
そしてその経験を、王になったときに国の治政に生かそうとしていたのです。
ところが斉明六(660)年、新羅は五万の軍勢で百済を攻め、百済王都を占領してしまったのです。
百済の義慈王は、熊津に逃れますが、間もなく降伏し、この年の六月七日、百済国は滅亡してしまいました。
滅ぼされた百済の遺臣たちは、鬼室福信、黒歯常之らを中心として百済復興の兵を挙げました。
そして日本に滞在していた百済王の太子豊璋王(ほうしょうおう)を擁立し、百済の復興を企図したのです。
そして日本に救援を要請しました。
中大兄皇子はこれを承諾し、当時六十七歳だった斉明天皇に働きかけて、朝鮮半島出兵の裁可を得たのです。
出兵した倭国・百済連合軍の兵力は、第一波1万、第二波が2万7千、第三波が1万の合計4万7千という陣容でした。
兵力では新羅とほぼ互角です。
兵力が互角なら、故郷を取り返したいと強く願っている百済兵と、いざとなれば強靭な力を発揮する精鋭の倭国兵です。
強制徴用されていて、単に脅かされて兵に仕立て上げられている新羅兵とは、強さのレベルがケタ違いです。
ですからこの百済奪回作戦は、十分に戦えるし、勝てるはずでした。
ところが新羅は、あろうことか唐に援軍を頼んだのです。その唐が新羅に派遣した兵力は、13万の大軍でした。新羅の兵力と合わせると、なんと十八万の大軍団となったのです。倭国・百済連合軍の約四倍です。
古代の戦(いくさ)は、兵力勝負です。武器は基本的に弓矢と手にした刀剣類ですから、単純に兵力の大きいほうが勝ちます。兵力に劣る倭国・百済連合軍は、あきらかに不利な中で、それでも三年あまりを戦い抜きました。
この戦いのとき、斉明天皇も中大兄皇子らとともに九州に渡り、筑紫国の朝倉宮(現、朝倉市宮野)を行在所(あんざいしょ)に定め、そこに大本営を設置しました。これが我が国の大本営のはじまりです。
大本営という語は、なにも大東亜戦争のときだけのものではなく、千三百年以上もの昔から、我が国で使われていた臨時の政庁を指す言葉であったわけです。
戦いは衆寡敵せず、最後は白村江で敗れ、倭国と百済遺民軍は日本に引き揚げました。
そして日本は朝鮮半島での権益を喪失し、さらに自国の兵力に数倍する唐軍への対応のために、国防体制、政治体制の抜本的変革を余儀なくされました。
そのために出されたのが近江令(おほみりょう)法令群や飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)です。
そしてこのときに倭国は「日本」と、国号を変更しました。
国号の変更は、もちろん中国がつけた「倭」の文字を嫌ったということもあったことでしょう。
けれどもしかすると、百済難民を区別・差別するのではなく、百済難民も在来の倭人も、日本というひとつ屋根の下でともに仲良く暮らしていこうという思いがあったのかもしれません。
▼不義により半島を統一した新羅
さてそれでは、新羅のその後はどうなったのでしょうか。
もともと唐が新羅と手を組んだのは、いまでいう北朝鮮のあたりにあった高句麗を滅ぼすためです。
唐は、高句麗の向こう側に位置する新羅と手を組むことで、高句麗という脅威を取り除こうとしたのです。
唐は新羅と手を組み、666年には高句麗へ侵攻し、その二年後に高句麗を滅ぼしています。
ところが新羅は、自分たちを助けに来てくれていた唐軍に対して、さまざまな嫌がらせを行い、あからさまに追い返そうとしました。その一方で新羅は、唐本国に対しては、ひたすら土下座の降伏外交をしていました。
つまり二枚舌、ダブルスタンダードをしていたわけです。
新羅は、かつての三韓時代においても、日本の朝廷に恭順しながらも、一方では百済を攻め、任那を攻めていました。
そして百済や任那が滅んだあとは、唐と一方で組みながら、一方で唐軍に対して嫌がらせを続け、ついに675年、新羅は「唐の冊封国(属国)」となることで、朝鮮半島を統一しています。
朝鮮半島の統一は、これが史上最初の出来事ですが、ここで朝鮮半島にとって不幸だったのは、常に裏切りと不実、二枚舌を駆使する王朝が半島の主人となったことです。
七世紀という、世界中で国家が形成されていく時期に、こうした不義を是とする政権が国の基礎をなしたことが、その後の朝鮮半島の歴史にたいへん暗い影を落としているのだと思います。
▼半島出征(しゅっせい)の時代背景
古代における国の定義は、たいへん難しいものです。
もともと朝鮮半島には、国らしいものがありません。
史料によると紀元前二世紀頃に、中国との国境のあたりに「衛氏朝鮮(えいしちょうせん)」があったとされています。
ただしこの衛氏朝鮮というのは、国というよりも、衛を名乗る強盗団でした。
つまり、遼東半島あたりに陣取り、旅人を襲っていた盗賊です。
中国は、この衛を滅ぼし、いまの平壌のあたりに「楽浪郡」という郡庁を置きました。
そのしばらく後には、いまのソウルのあたりに「帯方郡」という城塞の郡庁を置きました。
当時の中国は漢の時代ですが、なぜ中国は、平壌やソウルのあたりに郡庁を置いたのでしょうか。
これら郡庁のあった地域で発掘された遺物や遺構から、そこでたいへん高い文化が栄えていたことが分かっています。
ところが不思議なことに、それだけ高い文化文明が、郡庁の周辺に「伝播(でんぱ)したことを示す痕跡」がまるでありません。
さらにいうと、当時、朝鮮半島に住んでいた民族を、古代の中国の人たちは「濊族(わいぞく)」と呼んでいました。
だいたい古代中国では、日本にも背が低い人という意味の「倭」という漢字を充てたように、周辺民族に対してはろくな漢字を充てていません。
これは「華夷秩序」といって、周辺国を蔑視する彼ら特有の文化です。
中華が世界の中心ということの裏返しです。ただ、充てる漢字は、なんとなくその国の人々をイメージしやすい字で、しかもあまり意味の良からぬ漢字を充てました。
けれど、そうした中にあっても、「濊(わい)」というのは異常です。
なぜかというと、この字は「汚穢(おわい)」を意味する字だからです。
汚穢というのは、糞尿のことです。
いろいろある周辺民族の呼称のなかで、これほど汚い文字を与えられた民族は、ほかに例がありません。
しかも汚穢の「穢」の字を、わざわざサンズイにするというご丁寧さです。
この「濊族」は、たびたび楽浪郡や帯方郡などの郡庁を攻めてきたとありますが、実際には、統制のとれた戦いがあったわけではなく、泥棒や強盗をしに襲ってきていたようです。
さらにいえば、郡庁の文物が、周辺に伝播していないということは、「濊族」は、完全に撃退され続けていたということです。
では、どうして、当時の漢帝国は、そんな「濊族」のいるエリアに、郡庁などを置いたのでしょうか。
そこでひとつ考えられるのが、倭国の存在です。
当時の日本は、黒曜石(こくようせき)や漆(うるし)などを産し、高い技術と文化を持っている国でした。
漢代よりも古い時代に、日本はヒスイでできた勾玉(まがたま)を魏の王様に献上していますが、ヒスイという石は、鉄より硬いのです。
まだ鉄器さえなかった時代に、鉄より硬いヒスイを、日本人は丁寧に加工し、勾玉という宝石に仕立てていたのです。
その倭国の領域は、九州からいまの韓国の南半分のあたりまで及んでいました。
このことは古墳や土器など、さまざまな遺物で確認され、証明されています。
そのあたり一帯、いまの韓国の南部一帯は、加羅と呼ばれました。
そこは倭国の一部であり、広い水田で農耕が営まれていたわけです。
その加羅にあった郡庁が任那日本府です。
こうなると、古代の中国が、楽浪郡や帯方郡に城塞を築いていた理由も、おのずと明らかなものになります。
つまり、倭国との交易のためだった、ということです。
不思議なことに、朝鮮半島の人たちは、自分たちの民族のことを「ハン」または「カラ」と呼びます。
「ハン」は、漢字では「韓」と書きますが、音は「漢」と同じです。いまでも、ソウルに流れる川は漢江(ハンガン)と呼ばれています。
一方、「カラ」を示す国や土地は、いまではまったくありません。
ありませんが、彼らは自分たちのことを「カラ」とも呼びます。
その後の朝鮮半島は、裏切りと収奪が渦巻く歴史を刻みますが、彼らが自分たちのことを「カ
ラ(加羅)」と呼ぶのは、もしかすると、加羅の時代こそ彼らの理想郷であり、彼らはそのことを、いまだに本能として懐かしがっているからなのかもしれません。
倭国の一部であった加羅は、農耕が栄え、豊かでのどかで、争い事を好まない国だったことでしょう。
その加羅の地の北側にあった小さな部族が、倭の文化を取り入れてつくった国、それが百済と新羅です。
その新羅が唐と手を結んで、百済を滅ぼしてしまったのです。
こうして起きたのが、古代における倭国の朝鮮半島出征だったわけです。
そんな背景のもとで、出征する愛する人を送るときに詠まれたのが、額田王の歌でした。
いいかえれば、この歌は「出征兵士を送る歌」です。
世界中、どこの国でも、出征兵士を送る歌というのは、勇ましく、勇壮で、血なまぐさいものが多いです。
それを国歌にしている国もたくさんあります。
けれど出征にあたり「月待てば」と歌った額田王と、その歌を愛した日本人──。
その心は、とても大切なものだと思います。
※このお話は『
ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人! 第二巻: 「和」と「結い」の心と対等意識』に掲載したお話です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
岡 義雄
今日も拝読させていただきました。シェアさせていただきました。
ありがとうございます。
額田王は以前井上靖の小説で読みました。内容はすっかり忘れてしまいましたので、また読み返してみようと思います。
それにしても、美しい歌ですね!
2018/11/19 URL 編集