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眼の前に猫がいれば、その猫と自分は、三次元の時空間では異なる存在です。
けれども高次元の空間においては、猫の内部にある高次元と、自分の中に内在する高次元は互いにつながります。
すべてがつながっているのですから、一部のたとえば人間だけが動植物に対して支配的になるといった考え方は否定されます。
そうではなく、人も動植物もモノも、過去も現在も未来も、すべてにわたって互いの和が大切だし、互いに尊重しなければなりません。
なぜならすべては高次元においてつながっているからです。
四次元世界というと、「なにやわけのわからない高次元」というのが多くの人の実感だと思います。
そこで簡単に説明すると、
「0次元」というのは「点」です。点は無数にありますが、点から点への移動はできません。
ところが「1次元」になりますと、点と点を結ぶ「線」になりますから、点から点への2点間の直線的移動が可能になります。ただの直線ですから面はありません。
これが「2次元」になりますと、「平面」となり、直線そのものの移動が可能になります。ただし、線がt1からt2へと移動したとき、t2から、もといたt1を見ることはできません。
「3次元」になりますと、縦横高さの3つの軸で形成されようになりますから、t2点もt1点も同時に見ることができます。私達が住んでいる世界が、その3次元世界です。
しかし3次元世界では、東京にいる人が、同時にリアルに大阪を見ることはできません。映像の話ではありません。リアルに、です。
あるいは北極にいながら、同時にエジプトの景色を見ることもできません。なぜならxyz軸に縛られているからです。
これが「4次元」になりますと、3次元はxyzの3軸に、w軸が加わります。すると北極もエジプトも東京も大阪も同時に見ることができるようになります。
ただし時間軸の移動はできません。
「5次元」になりますと、xyzw軸に、さらにv軸が加わります。これによって過去も未来も自在に俯瞰できるようになります。
我々は源頼朝や織田信長といった過去の人に直接会うことができませんが、5次元ですと、いつでも気楽に彼らと会って食事をともにすることができるわけです。
(※4次元、5次元で時間軸をどのように扱うかには異説あり)
量子論では、さらに6次元以上の多次元空間までが、すべてこの世に折り畳まれて存在していると解きます。
つまり私達の中に、4次元も5次元も、あるいはもっと高次元も折り畳まれて、実は同時に存在しているというわけです。
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なんだかわからないけれど、妙に心惹かれる人がいたり、その反対の人がいたりするのは、そうした高次元体が私達の内部に包含されていて、その高次元の何かが、対象となる相手を感じ取っているのかもしれません。
過去世の記憶などともいいますが、もしかすると、それは未来の記憶かもしれない。
私達には、3次元の肉体や物体しか視認することができませんが、私達の内部にある高次元体は、時間をも超越して対象を見ることができるわけです。
それを私達は第六感とか、感じると表現したりしています。
私達日本人の祖先は、そうした自分自身の中に折り畳まれて内包されている高次元の存在を「魂」と呼びました。
魂は、時空間を超えて、過去にも未来にも、同時に複数の場所にも存在することができます。
同時に複数の場所に存在できるのですから、A夫君とB子さんの魂は、内包する高次元でつながることもできます。
これが我が国における結婚の儀で、本来は結婚の儀は、魂を結ぶ「結魂」の儀というのが正解です。
ちなみに「婚」という字は、オンナ編に「昏」と書きますが、「昏」という字は、氏(=人々)の足元に太陽(日)が落ちた象形で、日暮れを意味します。
要するに夜に女性と(または女性が)結ばれるわけで、「結魂」と比べると、「結婚」の方がちょっと淫らな表現になります。
本来は「結魂」なのです。
ですから昔は、一度神様の前で婚礼の儀を執り行うと、神様の前で御霊を結んだわけですから、もはややり直しはありません。
平安中期の和泉式部は、最初に結婚した旦那が和泉守であったため和泉式部と呼ばれるようになりましたが、その後再婚しても、名前は和泉式部のままです。
要するに神様の前で誓いをしたわけですから、その修正はないとされたのです。
我が国の国歌でもある「君が代」は、男性を意味する「き」と、女性を意味する「み」の世は「千代に八千代に」と詠まれています。
御魂は永遠の存在ですから、男女の御魂が結ばれることは、まさに「千代、八千代」の結びを意味します。
つまり、時空を超越した御魂の結びです。
また「きみ」は大君、つまり天皇を意味しますから、我々日本人と天皇との結びもまた、時空を超越した結びになることを「君が代」は見事に歌い上げているわけです。
魂と肉体では、魂の方が多次元にわたる機能を持ちます。
したがって魂は、肉体以上にとうとい存在です。
肉体は老い、死によって滅びますが、魂は肉体を超える存在だからです。
従って古来日本では、肉体の健康も大事ですが、それ以上に魂が大切にされてきました。
「乞食したって、この魂だけは穢すものか」
という言葉は、我々日本人の一般庶民にとって、これこそが最低限の誇りとされてきたのです。
仏教では、その魂のことを、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)と表現しました。
眼、耳、鼻、舌、身、意識という自覚できる六つの識(しき)の奥に、末那識と呼ばれる深い自我があり、その奥にある、自覚できない自我意識が阿頼耶識です。
その阿頼耶識さえも超越することが解脱(げだつ)で、そうなることが無我行であり、無我の境地に至ることで、自我を超えた大宇宙の生命のようなもの(つまり神)と、真につながることができ、そのために行うのが修行であると説かれているのだそうです。
ところが最近の量子論でわかってきたことは、体内に折り畳まれている多次元というのは、実は三次元のものだけでなく、1次元から高次元のものまで、実は多岐にわたるということです。
つまり、実はすべての人も猫も犬などの動物も植物も有機物も無機物も、実は内部に高次元が内在していて、その高次元において、全部つながっている。
このことがいま、最先端の量子学で解明されるようになってきたのです。
そしてその最先端科学がようやく証明できたことを、なんと、我々の日本に古くからある古事記に、実は同じことが書かれています。
それが「隠身」です。
「隠身」は、このように書いて「身に隠しましき」と読み下します。
最初の根源神である天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)から豊雲野神(とよくもののかみ)に至る創生の7柱の神々は、お成りになられるとすぐに、その存在のすべてを胎内に大切に覆い隠したというのが、古事記の記述です。
つまり我々が住む三次元の時空間のすべては、実は三次元+7(つまり10次元)プラス、天之御中主之神そのもの(つまり11次元)の中に内在している。逆にいえば、我々の住む世界のすべては、過去から未来に至るまで、より高次元の神々の一部であり、神々の胎内にある我々の時空間のすべては、神々と直結していると、古事記は書いているのです。
このことはこじつけでも何でもなくて、古事記は冒頭の創生の神々のところで、その「隠身」という語を、三度も繰り返して書いています。
漢文は、同じ言葉の繰り返しを嫌い、二度繰り返していたら、相当な強調を意味し、三度繰り返していたら、それはとても重要語であることを意味します。
この「隠身」については、古来「身を隠しましき」と読み下すことが慣例とされてきましたが、「身を隠した」では、創生の神々が成られるとすぐに隠れてしまったことになり、これでは意味が通りません。
ですから読み下しは「身に隠しましき」が正解で、これは母親が胎内に子を宿しているように、神々の胎内にすべての世界を入れたという意味になります。
そして母親と胎児は一体のものです。
つまり、我々の住む時空間のすべてと神々は一体だと古事記は書いていることになるのです。
眼の前に猫がいれば、その猫と自分は、三次元の時空間では異なる存在です。
けれども高次元の空間においては、猫の内部にある高次元と、自分の中に内在する高次元は互いにつながります。
すべてがつながっているのですから、一部のたとえば人間だけが動植物に対して支配的になるといった考え方は否定されます。
そうではなく、人も動植物もモノも、過去も現在も未来も、すべてにわたって互いの和が大切だし、互いに尊重しなければなりません。
なぜならすべては高次元においてつながっているからです。
これが1300年前の古事記の知恵です。
そしてその古事記は、さらにもっと古い時代から続く神語を文字にして記録したものです。
私達日本人は、そういう重くて深い哲学に裏打ちされた日本に住んでいます。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
ネコ太郎
幼い頃から自分にとっての命題は「魂の存在」でした。
高次元のことを考えれば、魂も神も当然の存在ですね。(もっとも存在という言葉自体三次元のものですが)
先祖の位牌に手を合わせれば、一瞬のうちに祖霊と会うことができ、伊勢神宮に参拝すれば(あるいは御札に礼をすれば)瞬時に天照大神に会うことができる。高次元のことを思えば何ら不思議ではありません。
祖霊の存在、これが日本人の信仰の根本だと思います。
高次元の理論から言えば納得できます。
まだ、天之御中主まで想像は至っていませんが。
2019/01/09 URL 編集
はる
神代の記述は、内容が象徴的に書かれており、超自然的で理解し難いため、あまり注意して見ていませんでした。
私は漢字の成り立ちや、語源などを調べたりしていく中で、古代の人々の智恵に思いを馳せたりしております。「思う」の思はなぜ田に心なのかなど、そこに深い意味があるという説もあるらしいですね。
その中で日本古来からあると言われる神代文字にも注目し始めてます。長い間、カタカムナ以外は、神代文字は後世の創作の嘘っぱちのデタラメだと決めつけていたのですが、どうやらそうではないらしい・・・ものもあるという記事を見つけまひた。
古事記に関するところを引用します。これについてご意見を伺いたいです。
記事はタイトル忘れましたが、90年代の高橋良典氏の著書を参考に書かれています。これは独自の新説を展開している面白い本だと思います。
高橋氏は神代文字推しの主張をしてますが、私は漢文も神代文字もどちらもかなりの歴史があるので、別にどっち推しでもありませんし、日常使ってる漢字の方が当然親しみがあり、旧漢字も好きですので、誤解なきよう。
~以下引用~https://www.google.co.jp/amp/s/gamp.ameblo.jp/tsukioto2011/entry-11391175392.html
「さて、稗田阿礼が〝誦み〟、それを太安万侶が漢字で書きとめてつくられたといわれる『古
事記』だが、私はなんらかの圧力(たとえばそれ以前にあった日本の古代文字の記録を漢字に
改めるようかかった圧力)と、日本の解体を憂慮した天武天皇の意思とが相乗されて撰録され
たと考えている。
「古事記』には、稗田阿礼が神代文字で書かれた記録を〝読んだ〟ものを、安
万侶が漢字に改めていったという意味合いのことがはっきり書かれている。たとえば、安万侶
自身が『古事記』序文でこう述べている。
そこで天皇(天武天皇のこと)は阿礼に命じて、帝皇の日継及び先代旧辞を誦み習わせ
たり……。
ここに天皇(持統天皇のこと)は、帝紀及び旧辞の違いを正そうとして、臣、安万侶に
命じて、阿礼が誦むところの先帝(天武天皇)の御命令になられた旧辞の類を撰録して差
し出すようにと仰せられた……。
つまり、安万侶は「阿礼が誦む(=読む)ところの帝紀・旧辞」を手がかりとして、『古事
記』を編纂したのである。もし帝紀や旧辞が漢字で書かれたものであるなら、漢文の達人だっ
た安万侶がそれを自分で読めばすむことで、わざわざ阿礼の口を借りる必要はないはずだ。
これはどういうことを意味するのか。そうだ、『古事記』の元になった『帝紀』や『旧辞』
(注12)は、阿礼には読めても安万侶には読めない文字、つまり日本の古代文字で書かれてい
たのだ。そして、阿礼は神代文字で書かれた記録と漢文の橋渡し役、いわば通訳として安万侶
のために働いた、ということではないか」
2018/12/02 URL 編集
岡 義雄
今日も拝読させていただきました。シェアさせていただきました。ありがとうございます。
古事記はというか、神代から続く我が国のかたちは本当に素晴らしいですね! 昨今不良民が多く蔓延り、退治が難しい状況ですけど、一人でも多くの方が目覚めていただければ、少しずつではありますが、前に進んで行けると思います。
2018/11/30 URL 編集