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この婉子のお話は、昭和13年発行の『女子鑑』で紹介されているお話をもとに書かせていただいたのですけれど、昔の人は、このような話と、そうした先人たちが、なぜそのような人生を選んだかを、歴史の当事者として、教師とともに一緒に考えるという教育を受けていました。
それこそが教育のいちばん大切なところであると思います。野中婉子は以前岩下志麻さんが主演で映画化もされました。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)以前、土佐藩の
野中兼山のことをご紹介したことがあります。
土佐藩の総奉行として大活躍をした人です。
彼の功績によって、いまでも高知は毎度台風が直撃するのに被害が少なくて済んでいます。
坂本龍馬で有名な「郷士」という制度を考案したのも野中兼山です。
幕末に土佐藩が活躍できたのも、もとをたどれば江戸のはじめに、この野中兼山が行った産業政策によってもたらされた土佐の冨の蓄積によります。
ところが大きな功績を残すということは、それまでにあった枠組みを変えるということです。
すると必ず既得利権者がワリを食います。
そして功労者は嫉妬され恨まれます。
Chinaの歴史などを見ると、この嫉妬や恨みを潰すために、反対者は皆殺しにされてきました。
ですから易姓革命のたびに、Chinaでは人口のおよそ三分の一が失われてきました。
ところが日本では、もともとが全民衆が「おおみたから」です。
この建前があるため、明らかな不条理者であっても保護されます。
多くの場合、世の中に大きな功績を残した人は、叩かれ、地位を追われ、酷い仕打ちに遭います。
正義の人は、どこまでも正しい道を歩もうとしますが、嫉妬の人は自己満足のためなら、相手をどこまで追い詰めても平気なのです。
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野中兼山の場合も同じです。
彼は正義の人であり、辣腕をふるって偉大な功績を残した人です。
だからこそ既得権者である古参家老たちから疎まれ、藩主が代わったタイミングを悪用されて地位を追われ、蟄居を命ぜられ、蟄居後、日を置かずに病死したと公式記録に書かれています。
ここが日本史を読むときの大事なところなのですが、唯物史観論者は、書いてあることだけを信用します。
ところが日本は建前の国です。
この場合も、兼山は、本当は腹を切ったのだといわれています。
しかし兼山の名誉を奪いたい人たちは、兼山の武士としての覚悟の切腹を、単なる「病死」としてしまったというのです。
真実はどちらだったのかわかりません。
証拠もありません。
しかし私はおそらく後者であろうと思っています。
ひどいのは、それだけではありません。
兼山の没後、兼山の家族全員、一か所に集めて幽閉されました。
どのくらい幽閉されていたのかというと、それがなんと40年です。
40年後に幽閉を解かれた理由は、
「兼山の子の男子が絶え、
兼山の血筋が絶えたから」
です。
そこまで貶められるのです。
世の中を大きく変えるということは、そこまでの反発を受けるということです。
逆にいえば、そこまでの仕打ちを受けることを覚悟した者でなければ、世の中を変えることはできないのです。
そして我が国では、その覚悟を持った人が、歴史の節目毎に登場し、都度、日本のゆがみを正してきました。
こうして兼山の家族が幽閉を解かれたとき、出てきたのは女子ばかりでした。
娘の名を婉子(わかこ)と言います。
幽閉されたときには4歳でした。
幽閉を解かれたとき、婉子はすでに44歳になっていました。
幽閉中は、どこにも行けません。
ですから婉子は、屋敷内で毎日学問だけが楽しみだったそうです。
元禄14年、婉子は幽閉を解かれ、高知城下の西朝倉で医院を始めました。
医院は治療がとても巧みで、しかもあの大恩ある野中兼山の息女だということで世間の評判も良く、またたく間に名医として患者が常に列をなすようになりました。
婉子は、治療費の払えない貧しい者たちも別け隔てなく治療するし、高額な薬も無償で貧しい患者たちに提供しました。
このため繁盛しているのに、婉子の医院はまるで赤貧状態だったそうです。
やむなく婉子は処方箋の万能薬を売薬にして、糊口をしのぎました。
噂を聞きつけて藩の重役やその家族が、お忍びで婉子の医院に治療にやってくることもありました。
彼らは野中兼山を追いやった側、もしくは追いやった人に仕える人たちです。
ですから表向いて婉子の医院に来ることができません。
婉子もそのことは理解していて、彼らの治療は別室で、他の患者と顔を合わせることがないように配慮して治療してくれたそうです。
婉子の売薬は、よく効くとこれもまた評判でした。
実は藩主まで、この薬の世話になりました。
病気の治った藩主は、これを喜び、婉子に8人扶持を与えようと申し出ました。
多くの人の治療に役立つならとこれをありがたく承諾した婉子でしたが、藩主はさらに、お金持ちの商人との縁談を世話するという話をもちかけてきました。
藩主からの内々の縁談です。
ありがたいことと婉子が受けると思いきや、
「わらわは
いまは不幸にして
落魄の身の上といえども
いやしくも
前の執政の娘でございます。
どうして志を屈し
身を辱しめて商人の妻となり
あえて飽食暖衣を得ましょうか」
と、ついに従わなかったそうです。
婉子はずっと独身です。
独身ですから、お歯黒を付けることもなく、眉も剃らず、振り袖で生涯を過ごしました。
このため婉子は齢60歳になっても、なおその若さと美貌を失ないませんでした。(*1)
(*1) 飛鳥時代から江戸、明治にかけて多くの女性に愛用された白粉(おしろい)は、大量の鉛を含むものでした。このため長年使用すると、肌が黒ずみ、深刻な鉛中毒を起こすことがありました。鉛を含む白粉が製造禁止になったのは、なんと昭和9年のことです。婉子が60歳を過ぎても若さと美貌を失わなかったのは、幽閉生活で白粉を付けることもなく、また幽閉解禁後も医師として白粉を付けることがなかったことがひとつの原因ともいわれています。
婉子は常に、父・兼山の尊厳と威信を損なわないことを自分に課していました。
しかしそのことは、一家の断絶を図った藩の重役たちから、常に命を狙われる危険を伴うことでもありました。
このため婉子は、用があって市中を出歩くときには、男性の武士と同様に、腰に太刀を佩(は)いていました。
ある日のことです。
所用のために市内の観音堂に至ったときに、国家老(くにがろう)の山内監物の息子が馬に乗ってやってくるところと出くわしました。
道は細く、どちらかが道を譲らなければなりません。
家老の息子は婉子に
「道を開けよ」
といいました。婉子は答えました。
「わらわは前執政・野中兼山の娘なり。
いかにや道を開ける必要やある!」
そう言うと婉子はそのまま道の真中を押し通りました。
その迫力に、馬を引いていた駕夫(がふ)が思わず道を開け、馬上の家老の息子も、何も言えずに、婉子を見送るしかなかったといいます。
婉子は、祖先の祠(ほこら)を香美郡野地村に建て、父と連座して処刑された忠臣たちをそこに合祀しました。
さらに祭田として5反歩を村に寄贈し、さらに潮江にも父・兼山の石碑を建てました。
婉子が幽閉を解かれた時点で、兼山の家系は男子は一切断絶しています。
婉子は、せめて父の墓標を建てることで、父の偉業を、功績を、志を、後世に伝えようとしたのです。
婉子は、生涯、日課として学問に励んで精神的な楽しみを取る他は、人事の栄達や安楽を一切望みませんでした。
こうして享保13(1728)年12月、婉子は66歳でこの世を去りました。
師匠の谷泰山は、婉子を評して「健婦、果して大丈夫に勝る」と述べました。
マスラオにも勝る女性であった、という意味です。
婉子は、生涯を独身で過ごしました。
藩主からの縁談さえも断わりましたが、おそらく彼女は、父・兼山の血が絶えるまで幽閉を続けた藩の国家老一派に対して、
「我が家の血筋を絶やすというのなら、
女の私も血を絶やしましょう。
その代わり誰よりも立派に生きて、
本当に正しかったのは誰なのか、
それを歴史に刻みましょう」
という心でいたのではないかと思います。
悲しいまでの覚悟の人生。
この婉子のお話は、昭和13年発行の『女子鑑』で紹介されているお話をもとに書かせていただいたのですけれど、昔の人は、このような話と、そうした先人たちが、なぜそのような人生を選んだかを、歴史の当事者として、教師とともに一緒に考えるという教育を受けていました。
それこそが教育のいちばん大切なところであると思います。
<追記>
冒頭にありますように、婉子は、岩下志麻さん主演、今井正監督で映画化されました。
岩下志麻さんの婉子は、まさにピッタリのキャスティングだったのですが、脚本が悪いのか、監督が悪いのか(監督は左系監督)、せっかくの婉子の物語が、女性の肉欲を描くアダルト映画に仕上がってしまっていたのは、とても残念でした。
もちろん映画は興業ですから、エロ要素も採り入れなければ企画が実現しなかったり、あるいはお客さんが入らなかったりといった側面があることはその通りと思います。
しかしそれでも誇り高い婉子の物語だけに、とても残念に思いました。
こんなところにも戦後という時代の、日本の文化を否定してエロやポルノに押し込めようとしたお粗末な戦後文化の一端を感じます。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2016年9月の記事のリニューアルです。

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コメント
one
千年以上、鉛を体内に吸収する文化が続いていたというのが、意外でした。現在も、食添や電磁波、気象兵器の被害等、体を悪くするものが多いですが、先人たちの過ちは知りませんでした。
量子のお話で出てきます、婚の字も納得できます。
正しくは結魂、と言われますと、ことの重さを感じてしまいます。私は婚の方が気楽で、のんびりしていて好きですが、神の立法というものは、厳として存在するのかもしれません。
2018/12/13 URL 編集
webtonakai
いつもいいお話をありがとうございます。
元気をもらっています。
こういった現在に埋もれてしまっている
心のこもったお話を、今後とも
ご引き続きご紹介いただいきたいと願っております。
2018/12/08 URL 編集
岡 義雄
今日も拝読させていただきました。ありがとうございます。
日本人の覚悟の一つなんですね。凄いことだと思います。
2018/12/02 URL 編集