ミス・ビートル号とリンゴの心



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太平洋無着陸横断飛行のときの、三沢の村の人々の温かい心遣い、そして少女が贈ったリンゴ。
あたたかな心の連鎖が、わたしたちの食卓に並ぶ、おいしいリンゴのお話です。


ミス・ビードル号
20181206 ミス・ビードル号
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


12月といいながら、暖かい日が続いています。
そこでリンゴにまつわるお話をしてみたいと思います。

ひとくちにリンゴといっても、なんと7500種類もあるのだそうです。
食べ比べたらわかりますが、種類によって、味がぜんぜん違います。

国内で生産されるリンゴの50%が、青森産です。
国際的には、リンゴ生産量は、1位がChina、2位が米国、3位がフランスです。
米国はワシントン州にあるウェナッチ市が、リンゴの産地として有名です。
そのウェナッチ市は、実は青森県三沢市と姉妹都市です。
なぜ姉妹都市かというと、実は、飛行機がご縁です。

ライト兄弟が世界で初めて飛行機を飛ばしたのが明治36(1903)年のことです。
飛行機は瞬く間に世界に普及し、性能も向上し、昭和6年(1931)ごろには、500馬力近いエンジンの飛行機が開発され市販されるようになりました。
ている。科学技術の進歩とはすさまじいものです。

昭和2年(1927)に、チャールズ・リンドバーグが大西洋無着陸横断飛行を成功させたのは有名な話です。
この飛行は「翼よ、あれがパリの灯だ」という題名で映画化されて世界的に有名になりました。

リンドバーグが大西洋横断を実現すると、今度は世界の冒険飛行家たちの次の目標が太平洋にそそがれました。
しかしニューヨーク~パリ間の大西洋横断は約6千キロ、太平洋は約8千キロです。
3割も距離が長い。



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しかも通信技術がまだ追いついていない時代です。
通信はトンツートントンのモールス信号しかないし、途中でエンジンが不調になって海に不時着したら、まず助からない。
まさに命がけの大冒険だったのです。
実際、昭和7年に太平洋横断飛行に挑戦した日本機は、択捉島あたりで消息を絶って、そのまま行方不明になっています。

さらに大きな問題がありました。
飛行場がないのです。

飛行機を飛ばすためには長い滑走路が必要です。
しかし飛行機そのものが普及していなかった時代です。
そんな長い滑走路など、そうそうあるものではありません。

昭和6(1931)年、朝日新聞社は、太平洋無着陸横断飛行(本州とカナダのバンクーバーより南の間を飛行)の最初の成功者に、日本人であれば10万円、外国人であれば5万円の懸賞金を出すと発表しました。
この頃の朝日新聞社はまだまともな会社だったということではありません。
今も昔も朝日は、ただの流行通信です。

この飛行のための離陸場所に選ばれたのが、青森県の三沢村(現在の三沢市)にある淋代海岸(さびしろかいがん)です。
日本本土のなかで、北米大陸に最も距離が近く、南北に長い砂浜があって、その砂浜は砂に粘土と砂鉄が混じっていて、砂地が硬くてしまっている。
つまり、舗装しなくても滑走路に使えたのです。

三沢村の人たちは、自分たちの村が世界記録の挑戦の場所に選ばれたことに大喜びします。
しかし、それはそれでたいへんなことです。
なにしろ言葉の通じない飛行士の宿泊の世話をしなければならない。
砂浜の飛行場だけではなく、そこまで燃料を運ぶための道路も作らなければなりません。
滑走路を平坦にする作業も、たいへんな労力です。
加えて三沢は雪国です。冬場には飛行機は飛ばせない。
飛行機を飛ばせる春・夏は、地元の人たちにとっては、農繁期です。

最初の挑戦者は、アメリカ人の二人組が乗った「タコマ市号」という飛行機でした。
三沢村の人たちは、海岸に舞い降りる飛行機を見て、轟音とともに空から大きな鳥がやってきたと、びっくりしたそうです。

それでも三沢村の人たちは、三沢村の前村長小比類巻要人氏の指導のもと、自分たちの仕事を中断して、機体の保管、食事の世話などをしました。
滑走路も道路つくりも、全部、無報酬です。
みんなの心だけでそれだけの大事業が行われたのです。
こういうところが朝日のうまいところでもあります。

滑走路とミス・ビートル号
(ビートル号は複製)
滑走路とミス・ビートル号


なにせまだ燃費の悪かった当時のエンジンです。
太平洋を無着陸で横断するには、飛行機が飛び立てる重さの限界までの大量な燃料を積み込まなければなりません。
当然飛行機は重くなります。
重ければ離陸が難しくなります。
離陸を成功させるには、できるだけ平らで、加速を付けやすい滑走路が必要だったのです。
失敗したら命がありません。
外人であれ日本人であれ、命は大切です。
村人たちは、心から横断飛行の成功と飛行士の無事を祈り、みんなで協力しあった。

昭和5年9月14日、いよいよ第一号「タコマ市号」の出発の日がやってきました。
ハロルド・ブロムリー、ハロルド・ゲッティ の2名を乗せた飛行機は、村人たちが固唾を飲んで見守る中、飛行機は見事離陸に成功しました。
ところが「タコマ市号」は、排気管から漏れた有毒ガスが操縦席に充満したため、飛行を断念してカムチャッカ沖から霧の中を引返し、下北半島東通村尻労に不時着してしまいました。失敗です。


二番目の挑戦者は、アメリカ、トーマス・アッシュ中尉が乗った「パシフィック号」です。
しかし「パシフィック号」は、搭載したガソリンの重量で重い機体を浮上させることができず2千Mを滑走したが浮力がつかず停止してしまいます。


三番目の挑戦者は、若い二人のアメリカ人が乗った「クラシナマッジ号」でした。
離陸後にガソリン漏れを起こし、出発後数日で消息を絶ってしまいました。
そしてカムチャッカ東北端の無人島に不時着していたところをロシア船に救助されました。


昭和6年9月、ハバロフスクにいたアメリカ人の冒険飛行家、クライド・パングボーン(Clyde Pangborn)35歳とヒュー・ハーンドン(Hugh Herndon)26歳の二人が、この朝日新聞の企画を聞きつけました。

パングボーンとハーンドン
パングボーンとハーンドン


飛行機による世界1周を目論み、失敗して落胆していた二人は、この企画にとびつきました。
二人は東京・立川飛行場に、愛機「ミス・ビードル号」で飛んできます。
ところが急な予定変更なので、入国許可証がない。
スパイと間違われた二人は、日本の警察に機体と身柄を拘束されてしまいます。

このとき、二人の逮捕を聞いたリンドバークが、必死で米国大使館を通じてとりなしし、ようやく二人は、罰金だけで釈放となっています。

一方、朝日新聞社も、二人の情報を聞きつけ、日本に滞在していたアメリカ人たちに協力してもらって、立川飛行場に押収し保管されていた彼らの飛行機への改造を施しました。
燃料タンク増設し、800ガロン搭載のところを、950ガロンのガソリンを積めるようにしたのです。

また、燃料節約のために離陸後に車輪を落とせるように改造しました。
車輪のない「ミス・ビートル号」が、今度は胴体着陸できるようにするための補強材も装着しました。

そしていよいよ二人の乗った三沢村前村長小比類巻要人が三沢村にやってきました。
「こんどこそ成功させたい。」
小比類前村長を筆頭に、村の青年団は、機の不寝番をしたり、二人のための宿泊所や食事の世話をしたり、ガソリンの輸送や積み込みをしたり、機体の掃除をしたり、献身的な努力を惜しみません。

砂地の滑走路にも、加速しやすいようにと厚い杉板を敷き並べて傾斜をつけた長さ30mの助走台まで造りました。
三本木に、英語の話せる退役海軍軍人がいるとのことで、村の青年団で迎えにいき、通訳と助言もお願いしました。

出発に際しては、二人の飛行士のために、当時なかなか手に入らなかったパンも調達しました。
前村長の娘さんの小比類巻チヨさんは、サンドイッチと鶏の揚げ物を作り、彼らにプレゼントしました。

飛び立つミス・ビードル号
翼長14.8M、長さ8.5M、エンジン出力425馬力
ミス・ビードル号


昭和6(1931)年10月4日午前7時1分、ドラム缶なんと18本分ものガソリンを積み込んで極端に重くなった「ミス・ビードル号」のエンジンがかかりました。

機体に乗り込んだクライド・パングボーンと、ヒュー・ハーンドンに、機内食用に青森・三沢産のリンゴの紅玉20個を包んでプレゼントしました。
渡す役目は、パンとサンドイッチを作った小比類チヨさんでした。

美しい少女にリンゴを渡され、村人たちが手を振って見送る中、杉板の傾斜滑走路で助走した「ミス・ビードル号」は、徐々に加速しながら、ながいながい滑走をしたあと、フワリと大空に舞いあがりました。

離陸に成功した「ミス・ビードル号」は、予定通り途中で車輪を捨てて飛行を続けました。

北太平洋の海原を舞うこと40時間、「ミス・ビードル号」は太平洋沿岸時間の5日午前1時に、カナダのバンクーバー島標識灯を確認します。

そして着陸のためにスポケーンへ向かったのですが、霧が深くて着陸できない。
やむをえずさらに西のパスコに向かうけれど、ここも厚い雲に覆われて着陸が不可能でした。

翼には氷が張り付き、機体の重量が増しています。
燃料も残り少ない。

乗員の二人は、故郷のウェナッチに着陸しようと決心します。
ウェナッチなら霧も雲も心配ない。

飛行の模様は、アマチュア無線や新聞のニュースなどで、離陸から、アリューシャン列島上空通過、米国本土での飛行ルートなどの情報がもたらされていました。

ウェナッチ着陸の報道がもたらされると、地元の人々は大喜び。
ウエナッチの丘の上には、地元の人々、朝日新聞社を含む新聞記者達などが集まりました。
その中には、パングボーンの母親や弟、いとこたちもいました。

みんなが見守る中、昭和6(1931)年10月5日の朝7時14分を過ぎ、「ミス・ビードル号」はウェナッチ東部の丘から低空飛行で、小さな赤い機体を現わしました。

そして着陸地点に侵入します。
車輪はありません。
胴体着陸です。

機体のスピードを失速するくらいまで下げました。
滑走路の端に入りました。
エンジンスイッチ、OFF。

二枚羽のプロペラを水平位置で止めようとしたのだけれど、不幸にもプロペラは垂直位置でとまってしまいます。
パングボーンは操縦桿を駆使して、機首をアップさせました。
機体の胴体が地面をこすりました。
いったん機種を上げた機体が、胴体を地面にこすり、前のめりに土煙を上げてつんのめりました。
テールエンドが持ち上がる。
持ちあがった機体が、すぐまた後ろに倒れる。
倒れながら地面をすべる。

ウェナッチの人々が固唾を飲んで見守る中、そのまま地面を滑った機体は、左翼を地面にこすりながら、ようやく止まりました。

機体の中から、笑顔のパングボーンとハーンドンが降りてきました。
拍手が起こりました。
こうして、41時間13分をかけた、人類初の太平洋無着陸横断飛行の成功しました。

その日のウェナッチ市は大変な騒ぎになりました。
飛行場に集まった人々は、はるか太平洋のかなたから飛んできた赤い小さい飛行機をあくことなく眺めて乾杯しました。

飛行場の中には、真っ赤なりんごが5個残っていました。
パングボーンが
「日本からのお土産はこれだけ」
とおどけた調子で、りんごを母に手渡しました。

ウェナッチもリンゴの産地です。
日本からの真っ赤なリンゴの贈り物。
5個のリンゴの話は、たちまち町中に広がりました。

ウェナッチ市では記念のパレードが盛大に行われ、翌日にはシアトルでもパレードが実施されました。
ニューヨークでは市長主催の歓迎会も行われました。

二人が飛行に成功した1か月前には、満州事変が起こっています。
満州の制圧を開始した日本に対し、米国政府は否定的な見解を出して、日米間に険悪な空気が漂いました。

しかし、パングボーンとハーンドンは、機会あるごとに、日本人が親切であったこと、特に三沢の人々の献身的な援助があったことを話してくれました。
おかげでで米国の新聞にも、
「日本は我々と近い国」
「友情の橋がかけられた」等々、
日本に好意的な記事がたくさん見られるようになりました。

ウェナッチはアメリカのリンゴの大産地です。
その年の11月、ウェナッチ商業会議所は、お世話になったお礼にと、リンゴの新品種リチャードデリシャス一箱を船便で朝日新聞社宛に贈りました。
ところがその前年から輸出入植物取締法の適用が厳しくなっていて、リンゴの上陸が認められません。

青森県リンゴ試験場長須佐寅三郎氏らも植物検査所長に、送られてきた果実を研究用に提供して欲しいと懇願したのですが、これも断られてしまう。
結局、日本の港まできたリンゴは、送り返されてしまいます。

須田試験場長は、ウェナッチ商業会議所会頭あてに、今回のお詫び文を書きました。
そして「できれば穂木を贈ってくれないか」とお願いしました。

ウェナッチ商工会議所は、快くこれに応じてくれました。
こうして昭和7年4月、リチャードデリシャスの1メートルほどの接穂5本が、青森県リンゴ試験場に到着しました。
試験場では、生産者代表と関係者が、なんと68名も出席して、盛大な接木式を行いました。

リチャードデリシャスの原木
リチャードデリシャスの原木


この接木は、すくすくと成長しました。
そして昭和10年頃からは、青森県内各地に接穂として配布されるようになりました。
こうして昭和16年には、はじめはたった5本だった穂木が、なんと1万227本のリンゴの木になりました。
栽培面積も22ヘクタールに拡大した。
しかもこのりんごの評判は高く、りんご試験場の樹から枝が盗まれることもあったといいます。

このような心温まる交流も、昭和16年の大東亜戦争開戦で中断してしまいます。
しかし太平洋無着陸横断飛行から50年後の昭和56年、ウェナッチ市と三沢市はふたたび姉妹都市になりました。

三沢市の淋代海岸には、この快挙をたたえる「太平洋無着陸横断飛行記念碑」が建っています。
そして近くには、「ミス・ビートル号」の復元機が展示されています。
この復元機は、2003年4月に完成しました。
この復元機は、実際に飛行が可能なもので、その離陸や飛行の様子が、いまyoutubeで公開されています。
【三沢基地航空祭2011 ミス・ビードル号 航過飛行】
https://www.youtube.com/watch?v=CCUaBp66d5M

太平洋無着陸横断飛行のときの、三沢の村の人々の温かい心遣い、そして少女が贈ったリンゴ。
あたたかな心の連鎖が、わたしたちの食卓に並ぶ、おいしいリンゴです。

もしいま、わたしたちの地元で、こうした飛行がおこなわれるとなったらどうだろうか。
みんなで無報酬で頑張るなんてことはあるのでしょうか。
手伝いのための公共事業費を、国はいくら出せ、県はいくら出せ、日当払え。
飛行場周辺の住宅への補償は出るのか、そもそも予算の無駄遣いではないのか。
地元には全国から反日左翼が集まり、滑走路建設反対のデモや集会が行われ、今年度予算からの凍結・廃止のための行政作新会議の事業仕訳がおこなわれ、少女がプレゼントしようと持参したリンゴは、生ゴミとして廃棄されてしまうかもしれません。
日本人は、いったいいつまでそのような茶番に付き合わなければならないのでしょうか。

そもそも世界初の偉業の達成のためにと、無償で村のみんなで力を合わせて貢献することができたのはなぜでしょうか。

昔の日本は「貧しかった」と言われています。
けれど、では現代日本人は、このようことが起きたときに、無償で道路用地を提供し、無償でみんなで働いて滑走路を準備できるのでしょうか。
経済的にも、時間的にも、用地的にも、そのようなゆとりの一切を失ってしまっているのが、いまの日本なのではないでしょうか。

では昔はなぜそのようなことが可能だったのかと言うと、ひとことでいえば、民衆が豊かだったからです。
お金はなかったかもしれないけれど、食べるものに困らない。
食料の備蓄がしっかりしていて、誰もが食うに困ることがないから、みんなの心に余裕があり、その余裕が勤勉へと向かったし、こうしたイベントへの協力という形にもなったのです。

人が生きる上で大切なことは何なのか。
国民共同体として、最も必要なことはどのようなことなのか。
私達はその原点に還って再考してみなければならないのではないかという気がします。

※この記事は2009年12月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント

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No title
>反日左翼
それは、『反日(の自称)左翼』という意味で
半ばお約束のようなものです

名無し

反日左翼ってなんですか?
わざわざ「反日を目的」としている人を右左に分ける様な呼称で書いてるのでしょうか?
そこは、侵略者か、反日、の間違いでは無いでしょうか。

古格

No title
今日のお話は、55年前、子供に買ってやった「日本人の力」3巻世界に生きる 滑川道夫著 小峰書店 で初めて知りました。今回詳しく知り、感慨を新たにしました。最後の方に触れられている、日本人の優れた素質がどこから来たのかは今に至る私の内心のテーマです。日本は侵略されたことがあまりないから、特別攻撃隊員のような最優秀な人が亡くなった割合が少ない。人類がアフリカからアジア大陸の端まで来るのに、団結力や優秀さが必要だった。幼生進化が最高のため発想が柔軟、心がまっすぐで優しい。今は、一万年以上も長く続いた縄文時代のせいと思っています。
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう)

Author:小名木善行(おなぎぜんこう)
連絡先: info@musubi-ac.com
昭和31年1月生まれ
国司啓蒙家
静岡県浜松市出身。上場信販会社を経て現在は執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」を運営。
ブログ「ねずさんの学ぼう日本」を毎日配信。Youtubeの「むすび大学」では、100万再生の動画他、1年でチャンネル登録者数を25万人越えにしている。
他にCGS「目からウロコシリーズ」、ひらめきTV「明治150年 真の日本の姿シリーズ」など多数の動画あり。

《著書》 日本図書館協会推薦『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』、『ねずさんと語る古事記1~3巻』、『ねずさんの奇跡の国 日本がわかる万葉集』、『ねずさんの世界に誇る覚醒と繁栄を解く日本書紀』、『ねずさんの知っておきたい日本のすごい秘密』、『日本建国史』、『庶民の日本史』、『金融経済の裏側』、『子供たちに伝えたい 美しき日本人たち』その他執筆多数。

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