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天皇の四方拝は、天皇が元旦の夜明け前に行われる天皇の祭祀です。
とても大切なお話です。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。) 四方拝(しほうはい、よほうはい)は、毎年元旦に天皇が行われる行事です。戦前戦中までは、四方節(よほうせつ)と呼ばれていました。元旦の、まだ夜が明けない早朝に天皇陛下が特別の建物に入られ、四方の神々をお招きして、そこで祈りを捧げられる行事です。
どのような祈りかといいますと、ちょっとショッキングです。
天皇が神々に、
「国家国民の
ありとあらゆる厄災は、
すべて私に先に
お与えください」
と祈られるのです。
少し詳しく述べます。
知らす国において、天皇は臣民を代表して神々と繋がる御役目です。その天皇が神々に、「ありとあらゆる厄災は、すべて我が身を通してください」と、年のはじめに神々に祈られます。お招きされる神々は次の通りです。
伊勢神宮(皇大神宮・豊受大神宮)
天神地祇
神武天皇の陵(みささぎ)
先帝三代の陵(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)
武蔵国一宮(氷川神社)
山城国一宮(賀茂神社)
石清水八幡宮
熱田神宮
鹿島神宮
香取神宮
そして次の祈りを捧げられます。
賊冦之中過度我身
毒魔之中過度我身
毒氣之中過度我身
毀厄之中過度我身
五急六害之中過度我身
五兵六舌之中過度我身
厭魅之中過度我身
萬病除癒
所欲随心
急急如律令
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「中過度」の度という字は、古語では「篇」を省く習慣がありますが、サンズイを付けたら「渡る」になります。
従って「中過度我身」は、「我が身の中(うち)を過ぎ渡れ」となります。
少し詳しく申し上げますと、「度」は、「广+廿+又」で成り立つ字です。
「广」は、建物の中。「廿」は、器、「又」は、人が手を交差しているところです。
屋内で器を前に人々が手を交差して何かをしているわけです。
そこから「のり」とか「おきて」、あるいはモノサシなどで計る度量衡や尺度などを意味する言葉になりました。
従って「中過度」の「度」は、「のり」とか「おきて」として「かならず」といった意味で用いられているとわかります。
ということは「中過度我身」は、ただ身中を過ぎ渡れと述べているのではなくて、
「かならず我が身中を過ぎよ」
と述べているとわかります。
天皇は、あらゆる厄災を、何よりもまず自分にふりかけて下さいと、元旦の早朝に神々に祈られているのです。
この「中過度我身」を、我が身だけには降りかからないようにと願っているなどと、下劣な解釈をしているものがありますが、どこにも「降りかからないように」を意味する文字は使われていません。
まして最後に
萬病除癒(万病を取り除き癒せ)
所欲随心(欲するところは神の御心のまにまにあり)
急急如律令(その成就よ速まれ)
と祈られているのです。
そうであれば、「降りかからないこと」が「急急(はやまれ)」では、意味が通じませんし、「随心(神の御心のまにまに)」ともつながりません。
要するにあらゆる災害は、民衆がその厄災を受ける前に、まずは我が身を通してください。
そして万病を取り除いてください。
自分の心は常に神々の御心のまにまにあります。
そして「急急如律令(その成就よ速まれ)」と祈っておいでなのです。
陛下は、新年のはじまりにあたって、誰よりも早く起きて、
ありとあらゆる厄災は、自分の身にこそ降りかかれ。
そして万病が取り除かれ、民が癒やされるよう
自分の心は神々のまにまにあるのだから
厄災は我が身にのみ先に降りかかれ、
と祈られているわけです。
その厄災とは何かといえば、「賊冦、毒魔、毒氣、毀厄、五急六害、五兵六舌、厭魅」です。
「賊冦」は、危害を加えようとする悪い賊です。
「毒魔」は、この世に毒を撒き散らす魔です。いまの時代ならメディアかも。
「毒氣」は、人に害を与える悪意です。
「毀厄」は、人を傷つける苦しみや災難です。
「五急」は、五が森羅万象を示す五行(木火土金水)、これが急というのですから突然発生する自然災害のことです。
「六害」は、十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の中の二つの支が、互いに争う害を言います。要するに先輩後輩や世代間の争いなどですから、ひとことでいえば人災です。
「五兵」は、戈戟鉞楯弓矢のことで、戦火のことです。
「六舌」は、二枚舌どころか六枚舌ですから、外交による害のようなものです。
「厭魅」は、「えんみ」と読みますが、人への呪いのことをいいます。
四方拝では、今上陛下が神々に、
「これらの厄災は、
すべて我が身に
先に振りかかるようにしてください」
と祈られているのです。
そして、この四方拝が、皇居において元旦の早朝に行われたあと、夜が明けると、一般の民衆(臣民)が、氏神様に初詣に行きます。
天皇がすべての厄災をお引き受けくださったあとだから、人々は安心して、神社に新年の感謝を捧げに詣でるわけです。
だから新年の参拝は、「拝み参らせる(参拝)」ではなくて、「詣でる」です。
「詣」は、言偏が魚偏に変わると「鮨」という字になりますが、「旨」は、匙(サジ)で食べ物を掬う姿の象形文字で、美味いものがあるところに行く、という意味から、神様のところに行ってお参りすることを「詣でる」というようになりました。
新年においしいものがあるということではなくて、おいしいものを食べさせていただけることへの感謝を捧げに行くから「詣でる」となるわけです。
世界中に、王や皇帝と名のつく人は、古今東西、歴史上枚挙に暇がないほど、数多くいたし、いまもいます。
けれどそれらすべての王侯貴族は、ことごとく「支配者として君臨する人」です。
これを古い日本語で「ウシハク」といいます。
ところが日本の天皇は、神々の御意思を臣民に知らし、神々の「おほみたから」である臣民の豊かで安心して安全にくらしたいという思いを神々にお伝えする役割です。
つまり天皇は支配者ではなく、無私の大神官です。
その天皇を頂点とする体制を、これまた古い日本語で、「シラス(知らす、Shirasu)」といいます。
ですからシラス統治のもとでは、民衆が神々の「たから」となります。
神々のたからであるということは、民衆に国家として最高の尊厳が与えられているということです。
つまり究極の民主主義といえる統治が、シラス(知らす、Shirasu)なのです。
日本は、神話の昔から、このことを基本にできあがっています。
ただしシラス国であるためには、民衆の側にも高い民度が求められます。
そうでなければ民は我執我欲に走り、なかでも飛び切り欲の深い者が富や政治を私物化して独占し、他の民から収奪をはじめてしまうからです。
ですから知らす統治には、そうしたゆがみを正す機能が必要です。
それが荒魂(あらたま)であり、まっすぐにすることを「たける」といいます。
漢字で書いたら「武・健」などの訓読みにあてられています。
世界中の言語で、武は攻撃か防御の意味でしか用いられませんが、我が国ではどこまでも、歪みを正してまっすぐにするために用いられるのが武であるとされてきたのです。
人々が私的な欲を自ら抑えこみ、誰もが公徳心を持って真っ直ぐに生きることができるならば武は必要ないかもしれません。
けれど、そのようなことは人間社会ではあり得ませんから、歪みを正す武(たけ)る人が必要となるのです。
いまの日本に欠けているのは、その武です。
正義の力である武と、他人の迷惑を顧みない暴力とは、まったく異なるものです。
ともあれ、高い民度を保たなければならない国に、私たちは生まれました。
これはとてもたいへんなことです。
ひとりひとりにルールが求められるからです。
赤信号ならば、誰もいなくても、ちゃんと停まらなくてはならない。
それは誰もいなくても監視カメラがあるからではなくて、天が見ているからです。
外国人の方が、よく間違えることですが、だから
「日本人は自分たちを神と思い、優等民族であると思っているから傲慢だ」といいます。
だからいけないのです。
すでにこの時点で、双方ともに対立軸を設けています。
神か悪魔か、優等か劣等か。
そうではなくて、どこまでも謙虚に、自分の幸せだけでなくみんなの幸せを願っていく。
根底において相手を思う「愛」を大切にする。
その姿勢を見失うと、日本人は鼻持ちならない傲慢な民族ということになってしまいます。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
河童工房 草野
いわれることがある。
日本は優れた人を神ということがある
天皇を神とは思っていない ローマ法王と同じように
民の幸せを祈ってくれるから神のようにありがたい存在
とは思ってる
と答えるんですがね。
ソ連時代最後の書記長が皮肉で
日本は最も成功した社会主義国だと言うたけど
そのとおりです。
シラス 国 究極の社会主義です。
2019/01/02 URL 編集