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7世紀の改革も、19世紀の改革も、どちらも合言葉になったのが
「神武創業に還れ」
です。
その神武天皇は、天地開闢の精神への回帰を図られて初代天皇に昇られた方です。
その天地開闢の精神とは何か。
それは日本書紀に書かれています。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)ほんとうに次から次へと、あきれるくらい政治問題が起こります。
とりわけ外交問題と与野党の対立、あるいはその争点となっているものなどは、腹の立つことばかりで、こうなると腹がいくつあっても足らないくらい。
むかし「討匪行(とうひこう)」という戦時歌謡があって、その歌詞に、
「どこまで続くぬかるみぞ
三日二夜を食もなく
雨降りしぶく鉄かぶと」
という台詞がありましたが、ほんとうに、近年の政治も報道も、あきれるほどに腹の立つことばかりです。
ところが、いろいろと調べてみると、戦前も実はまったく同じだったのです。
もちろん現代と質は違いますが、腹が立つという意味においては、いまよりももっと深刻だったかもしれません。
なにせ生死がかかっていたのです。
たとえば日本はKorea半島を併合しましたが、あまりに半島の生活水準と民度が低すぎるからと、莫大な予算を当時の日本政府は半島に投入しました。
しかしそのために、当時起こった東北地方の凶作対策への予算投入が行き届かず、東北地方では子供達が学校にお弁当を持っていくこともできずに、大根を持っていってかじる。
あるいは、幼い娘さんを遊郭に売る。
年寄りを姥捨(うばすて)にする等々、ほんとうに悲惨な状況が国内で起きていました。
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ところが時の政府は、こうした窮状に何の対策も施さないばかりか、与野党の政治的対立ばかりを繰り返し、国益よりも政党の利益のための対立ばかりを繰り返し、現実に困っている国内への景気対策も、飢餓対策も何もしない、行わない。
このため、怒った一部の青年将校たちが決起して起こした事件が、有名な「二二六事件」です。
別名「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」とも言います。
このような事件が起きたということは、青年将校たちが決起せざるをえないほど、当時の政治が腐っていたということです。
政治家ひとりひとりの資質が、最悪であったとは思いません。
ひとりひとりの政治家は、それぞれが立派な人でした。
けれど、そうした立派な人が、立派に政治を行うことができないような、あやしい社会的仕組みが、当時にもあったということは、考えなければならないことであろうと思います。
このことは、どんなに立派な良い社員がそろっていても、お店や会社のシステムに欠陥があれば、その能力を十分に発揮できないどころか、せっかくの逸材がむしろつぶされてしまったりする身近な事例を考えれば、すぐにわかることであろうと思います。
結果、日本は先の大戦に巻き込まれて敗戦して国土を焼け野原にし、多くの命を失うことになりました。
戦争に負けたのは仕方がない。
一生懸命頑張って戦って、負けたのです。
しかしだからといって条約もなしに、それまで投資し、築き上げた大陸や半島、南洋の個人資産まで、全部放棄です。
これもまた負けたのだから仕方がない。
ところが戦前1ドル(100セント)=1円(100銭)だった為替が、戦後には1ドル=360円です。
ですから日本が占領統治されている頃の米国人にとっての100円は、日本人にとっての3万6000円です。
日本人が3万6千円出して買わなければならないものが、米国人なら100円で買えるわけです。
簡単に言えば、売春婦に一晩相手してもらうのに、米兵は100円で済みました。
それならばと日本人が頑張ったのが輸出です。
日本国内なら360円するモノが、米国では1ドル(100円)で買えるのです。
だから日本製品は安い。
そこで日本は輸出産業が頑張って世界中から注文をとって、必死で良いものをつくって売りました。
すると政治が行ったことがプラザ合意です。
いきなり1ドル=240円になった。
一生懸命民間人が働いて、なんとか生活ができるようになると、その富を政治が奪う。
戦後、我が国は世界的に観ても素晴らしい経済復興を遂げましたが、高度成長の時代、民間企業でいつも言われたことは、だから「職場では政治は口にするな」です。
職場では、たとえ飲み会であっても、政治問題は話題にしないということが大人の常識でしたし、この時代に成長した民間企業各社は、政治や行政が関与してくることを、極度に嫌ったものです。
政治や行政が介入してくると、ろくなことはないといわれていました。
儲かっている会社がつぶされてしまうし、利益を得る新事業もつぶされる。
これはいまでもそうで、最先端技術の開発のために政府に資金援助を求めると、資料提供を要求され、言われたとおりに資料を提供すると、なぜかその技術が米中韓などで、画期的新技術として発表されて特許をとられてしまう。
外交関係、内政関係、災害対策、教育問題等など、いまも昔も問題点が山積みです。
いったいどこから手を付けて良いのかわからないほど、山のような問題を抱え、その解決がつかないまま、明治維新からなんと150年が経過しました。
150年やってきて、うまくいかない社会システムです。
果たしてこのシステムで、向こう100年、千年、日本はやっていくことができるのでしょうか。
「困ったときには現場百回」といわれます。
どうしようもなく行き詰まった時は、原点に還れ。
これもまた、よく言われる、古来変わらぬ大原則です。
ではその原点とは、日本の場合、いったいどのあたりにあるものなのでしょうか。
戦前の明治から昭和初期でしょうか。
江戸時代でしょうか。
もっと昔の、奈良平安の頃でしょうか。
縄文文明の時代でしょうか。
原点に還ることを、英語で「リボルブ(Revolve)」と言います。
これが名詞になったものが「リボリューション(Revolution)」、つまり「革命」です。
我が国では、過去に2回、歴史的な大改革が行われました。
ひとつが7世紀、もうひとつが19世紀の明治維新です。
7世紀の改革は、推古天皇の御代の聖徳太子の時代から、天智天皇の大化の改新などが行われた時代ですが、最終的にこれが日本の社会の仕組みとして一応の完成に至るのが794年の平安京遷都です。
京の都は、東京奠都(1868年)まで、およそ千年の都となりました。
これは世界一のご長寿首都です。
7世紀の改革は、その始期には諸説ありますが、おおむね600年の遣隋使派遣とされています。
603年には冠位十二階、604年には十七条憲法が制定されています。
そして終期が794年の平安京遷都です。
つまり194年の歳月を経て、一応の完成をみています。
では19世紀の改革はどうでしょうか。
始期は嘉永六年(1853年)の黒船来航とされています。
そこから明治維新がはじまりました。
では、終期はいつでしょうか。
これまた諸説あり、大日本帝国憲法発布(1889年)とする説、不平等条約の解消(1911年)とする説などがあります。
しかし私は、いまなお継続中と見ています。
外国からの圧力によって、千年続いた日本の形に変革が求められるようになり、試行錯誤の上、最終的に日本的な精神の原点に還る。
そのためには、およそ200年の歳月を要します。
7世紀の改革も、19世紀の改革も、どちらも合言葉になったのが
「神武創業に還れ」
です。
その神武天皇は、天地開闢の精神への回帰を図られて初代天皇に昇られた方です。
その天地開闢の精神とは何か。
それは日本書紀に書かれています。
「豈国(あにくに)」です。
現代語に訳せば、「よろこびあふれる楽しい国」となります。
そんな日本を取り戻すため、今年は黒船来航から166年目です。
日本の本来の精神回帰は、もう始まっています。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
にっぽんじん
彼等の歴史は事実ではなく、その事実が自分たちにとって「不都合」かどうかを問うものです。決して事実を問うものではありません。日韓併合は彼等にとって不都合な事実だから「悪」であり、受け入れることはありません。
今年は「独立宣言100周年」だから大々的に祝うでしょう。
3.1独立運動がどんな運動であったか事実を知っておくことは大事です。それを世界に拡散し、韓国は歴史を改竄していると訴え続けることが必要です。
三・一運動とは大正8年(1919年)日本統治時代の朝鮮で起こった運動で、独立万歳運動や万歳事件とも呼ばれています。反日運動のように言われていますが、宣言文には朝鮮の独立、自由を掲げ、日本を責めるものではない、となっています。まさか日本を排斥して李朝時代の飢餓と貧困に戻ろうなどとは誰も考えないでしょう。
この運動は民族代表33名が独立宣言書に名前を連ねていますが、実際は天道教とキリスト教が31人で、仏教が2人となっています。仏教が少数なのは李朝時代に迫害を受けていましたから、日韓合邦は歓迎すべきものだったでしょう。ですから、この運動は民族運動というより宗教運動、そしてその裏に外国の陰謀があります。
天道教は孫 秉熙(ソン・ビョンヒ)が教主で、東学の流れを組んでいます。1904年に権東鎮、呉世昌らと進歩会を結成し、李容九(イ・ヨング)に実務を任せましたが、李容九は親日組織「一進会」を結成し、「侍天教」に発展していったのに対し、孫 秉熙は「天道教」を宣布し、東学の正統な教団であることを主張ました。
京城日報(1919年3月9日)
「孫 秉熙はそれ以前から、各地の教徒たちに丙辰(1919年の干支)3月は国権回復の機会だと称して、また同年某月某日は成功の瞬間であると主張し、その運動費を口実にすでにかなりの額を徴収していた。しかし、自分だけが豪奢な暮らしをし、今日に至るまでなにも現れなかったため、地方の教徒たちから約束履行を追求されていたそのとき、今回の国葬(国王高宗のこと)のころに地方のリーダーや多数の教徒が入京するときを利用し、この機会に一度芝居を打たなければ信者たちが自然に脱会するだけでなく、自分自身の浮沈にもかかわると判断し、今日のような事件を引き起こしたのである」
反日路線で宗教活動した結果のようです。
キリスト教は台頭してきた日本を牽制するため裏に米国がいたと思われます。白人の植民地支配でよく使われる手法に宣教師を差し向けるというのとデバイド・アンド・ルールというのがあります。デバイド・アンド・ルールというのは民族間を争わせて、その上に白人が君臨するというものです。米国が日本弱体化を狙って宣教師を使ってデバイド・アンド・ルールを仕掛けてきた可能性があります。日本民族と朝鮮民族を仲たがいさせるわけです。米国ではこの三・一運動が大々的に報じられ、議会でも2回議題として提出されたといいますから、なるほどです。
三・一運動は当初は平和的なデモで、日本軍警はデモ隊を保護していました。次第にデモは暴力的なものに変質していきます。「堤岩里事件で日本軍が全員教会に集めて虐殺した」という話がありますが、嘘っぱちで、暴力を取り締まるために武力を使ったのであり、それまで平和的に話し合おうとしていたのです。
この三・一運動は花樹里警察官駐在所で日本人の憲兵6人と警察官2名が殺害され、放火などによる役場全壊19、一部破壊29、警察署・警察官駐在所・憲兵分隊・同分遺所・同駐在所については全壊16、一部破壊29、郵便局の全壊2、一部破壊9という暴力行為が行われました。この逮捕者はその年の5月8日には1万2668人にのぼりました。そのうち3789人は不起訴となり、約半数ほどが起訴されました。5月20日時点で有罪は3967人でしたが、死刑はゼロ、無期もゼロ、15年以上もゼロ、10年~14年が6名であり、3年以上の禁固刑になったのは有罪となった3967人のうちわずか80名であり、2%です。日本の裁判は公正であり、寛大だったといえます。
この三・一運動の独立宣言書のもとになったニ・八宣言を起草した李光洙(イ・グァンス)は逮捕されますが、起訴されず釈放され、東亜日報に就職しています。彼は朝鮮近代文学の父と呼ばれました。独立宣言書を起草した崔南善(チェ・ナムソン)は逮捕され2年6ヶ月の懲役刑をうけました。仮出所後は朝鮮銀行総裁・美濃部俊吉の後援を得て、雑誌「東明」を刊行し、1924年(大正13年)は「時代日報」の主幹兼社長になります。三・一運動後もなんら社会的制裁がなかったことを物語っています。
2019/02/16 URL 編集
takechiyo1949
私達に宿る和の心と優しさ。
お互いを認めて尊重し合う。
誰にも備わる自然な気持ち。
祖先から贈られ受け継いで育んできました。
「日本人の原点」はこれだ!
そう思って生きて来ました。
しかるに…昨今の世相は何ですか。
官民問わず、アホみたいな問題を多発させています。
何かあると「逃げる自己中」ばっかりで、少々食傷気味です。
強制ダウンと再起動を繰り返しましょう。
豈國を目指さない方々との縁などリセットする時ではないか?
そんな気がしてなりません。
2019/02/16 URL 編集