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強さとやさしさ。
一途な思い。
常に堂々とした態度。
そしていつも元気がよい。
そんな須佐之男命は、古来、日本中で愛され、慕われ続けた神様です。
ギリシャ神話に出てくるヒドラ。ヒドラは頭が9つある蛇で、ヘラクレスによって倒されます。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)全国にある神社の数はおよそ15万社。
そのなかで、素盞嗚神社(すさのをじんじゃ)、須佐(すさ)神社、八重垣(やへかき)神社、八坂(やさか)神社、熊野神社、氷川(ひかわ)神社、広峯(ひろみね)神社、天王(てんのう)神社などの名前のついている神社は、いずれもスサノヲ大神をお祀りする神社です。
それらの神社の系列の神社は、神社の中でも最も数が多いといわれています。
それだけスサノヲ大神は、古来、庶民に愛され慕われ続けてきた神様といえます。
素盞嗚神社は、そのまま「すさのをじんじゃ」と読み、御祭神は明らかです。
須佐神社は、スサノヲ大神がヤマタノオロチを退治したことにあやかって、諸願成就の神様と言われています。
八重垣神社の名前は、スサノヲ大神がオロチ退治の後に、愛する櫛稲田比売(くしいなだなひめ)とスサの地で幸せに暮らし、いよいよ御子がお生まれになるというときに、
八雲立つ やぐもたつ
出雲八重垣 いずもやへがき
妻籠みに つまこみに
八重垣作る やへがきつくる
その八重垣を そのやへがきを
と歌を読んだことに由来します。
そこから縁結びや夫婦円満、安産祈願の神様とされています。
八坂神社は、もとの名前を祇園神社と言います。
祇園祭りの神社としても有名です。
強力な武神であるスサノヲ大神が、祇園精舎の守護神である牛頭天王(ごずてんのう)と同一視されたことが、祇園神社の名前の起こりですが、明治のはじめの廃仏毀釈運動のときに、仏教の神様である牛頭天王が御祭神から外れて、弥栄=八坂様として、いまの名前になっています。
武門の神様として、古来信仰され、家内安全、厄除けなどでも有名です。
熊野神社の主祭神の家都美御子大神(けつみみこのおほかみ)は、スサノヲ大神の別名です。
熊野様は、身分の貴賤や老若男女を問わず全ての人を受け入れる懐の深い神様とされ、江戸時代までは「蟻の熊野詣」と呼ばれるくらい大勢の人々が競って参詣したと言われています。
また熊野様に伝わった文書が、有名な九鬼文書(くかみもんじょ)です。
氷川神社も、スサノヲ大神をお祀りする神社です。
名前の「氷川(ひかわ)」が、実はスサノヲ大神がヤマタノオロチを退治した場所が、奥出雲の「肥川(ひぃかわ)」であったことに由来します。
河川としての「肥川」は、いまでは「斐伊川(ひいかわ)」と表記されるようになりましたが、一方、神社のお名前は「氷川」と書かれるようになりました。
「ひ」をどうして「氷」と書くようになったのかというと、「氷」の清浄性に基づくと言われています。
他にもご紹介しなければならないことはたくさんあるのですが、上にご紹介したそれぞれのスサノヲ大神にまつわる神社は、更に全国に末社を2千〜3千抱えています。
どれだけたくさんの人たちから、スサノヲ大神が愛され続きてきたのか、ということです。
スサノヲ大神が、これだけ多くの人々から愛され、慕われ続けてきたことには理由があります。
簡単にまとめると、次の7つになります。
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1 情の強い神様スサノヲ大神は、若い頃、母が恋しいと言って泣きちらしていました。
それだけ情が深い神様であるということを意味しています。
時折、「ママ、ママ」と言って、いつもママにぴったりとくっついていたがる幼い子を見かけることがあります。
それは、その子が「情が深い」ということで、心に深い愛情を育んでいることを示しています。
かわいいものですね。
2 あえて泥をかぶる高天原で天照大御神が八百万の神々に、自分たちで責任を持って政治を行うことを求めようとされていることに気付いたスサノヲ大神は、あえて泥をかぶって高天原で悪役を演じます。
その様子を天照大御神は最後には「見てかしこみて(畏みて)」天の石屋戸にお隠れになられます。
天地が真っ暗闇となり、そのために八百万の神々は、自分たちが立ち上がらなければならないと、我が国初の国会を天の安の河原で開きます。
これを好感して天照大御神は、岩屋戸からご出現あそばされるわけですが、このあと八百万の神々はスサノヲ大神に幾重もの厳しい罪を科して地上に追放します。
スサノヲ大神にしてみれば、
「俺が動いてやったからお前たちは目覚めることができたのだろう」
ということになるのでしょうけれど、このときスサノヲ大神は、何も言わずに従容として罪に服しています。
あえて泥をかぶる、その堂々たる姿勢は古来から日本男児の誇りとされるものとなっています。
3 ヤマタノオロチを退治する地上に放逐されたスサノヲ大神は、その時点で神としての霊力をすべて削がれて、一介の人間となっていますが、それでも、奥出雲で困っている人たちを見かけて、その人たちのために立ち上がり、見事、ヤマタノオロチを退治しています。
男子たるもの、たとえどのような境遇にあったとしても、常に人々のため、民衆のために立ち上がる。
その堂々としたスサノヲ大神の態度は、まさに日本男児の模範となるものです。
4 形見の品を身につけるいよいよヤマタノオロチ退治をするとなったとき、スサノヲ大神は、櫛稲田比売(くしいなだひめ)が髪に差していた湯津爪櫛(ゆつまくし)を取り、自分の髪に刺します。
これは「お前のことは必ず俺が守る」という意思表示です。
かつて戦地へと出征する兵隊さんたちが、妻や愛する子や恋人、家族などが身につけているものを、形見として自分の身に付けて出征して行きましたが、これはスサノヲ大神の故事に倣った行動です。
そこから湯津爪櫛は、女性が身に付けると奇魂の霊力が増して、不慮の災難、事故、いやがらせから身代わりとなって守ってくれ、御神縁の良縁の道が開かれ、また、女性から困っている男性に真心こめて念じ贈ると、男性に霊力が湧き、困難打開の道が開かれ、男性から女性に贈ると「かけがえのない大切な女性」の証となるとされてきました(相模国総社『六所神社略史』より)。
5 鉄器の神様スサノヲ大神がヤマタノオロチを倒すと、その尻尾から都牟刈(つむがり)の太刀が出てきます。
この太刀は、スサノヲ大神によって高天原の天照大御神に献上され、後にこの刀は草那芸之大刀(くさなぎのたち)と呼ばれるようになります。
三種の神器の中のひとつです。
この太刀は、玉鋼(たまはがね)と呼ばれる錆びない鉄でできているといわれています。
そしてヤマタノオロチの舞台となった鳥上村は、古来、たたら製鉄の本場とされるところでした。
実は、人類の社会生活が大きく変化した理由のひとつが、鉄器の登場です。
鉄器の登場によって、それまでの青銅器や木製の武器は、鉄製の武器によって滅ぼされることになったし、なにより鉄器の登場は、スキやクワなどの農機具として、人々の農業生産高の向上に大きな役割を果たしました。
それまで、生きるためには食べなければならず、食べ物を得るためには誰もが働かなければならなかったものが、鉄器の登場によって農業生産高が格段にアップし、これによって食料を得るための仕事をしないで済む人々が社会の上層に君臨するようになるのです。
スサノヲ大神は、人々に鉄器をもたらし、人々の生活を格段に向上させました。
ところがスサノヲ大神は、それでただ君臨して権力を行使する世界における「王」のような存在にはならず、どこまでも民衆の生活の安全や安心を守ることを、国の統治の基礎としました。
そしてこのことは、現代に至ってなお、日本人の「上下関係は信頼によって成り立つ」という文化の基礎となっています。
6 櫛稲田比売と結ばれるこうしてヤマタノオロチを退治したスサノヲ大神は、めでたく櫛稲田比売と結ばれて、奥出雲の須佐の地に新居を構え、人々から慕われ愛されて幸せにお暮らしになります。
この二神の間に生まれた子が須勢理毘売(すせりひめ)で、この須勢理毘売は、後に大国主神と結ばれて幸せに暮らします。
古事記には、この二神が「宇那賀気理弖(六字以音)、至今鎭坐也」と書かれています。
互いのうなじに手をかけあって・・つまり二神がきつく抱き合う姿で鎮座されている。
そういう神社が、どこかにあったということが書かれているわけです。
いまではその神社がどこにあるのかは、まったくわかりません。
ただ男女が抱き合った姿で描かれる神様としては、インドのヒンズー教のガネーシャ神が有名で(この神様は日本では歓喜天と呼ばれます)す。
ガネーシャ神は、ヒンズー教最高神のシヴァ神を父、パールヴァティー(Pārvatī)を母に持つとされ、シヴァの軍勢の総帥を務めたとされています。
もしかするとシヴァ神は、スサノヲ大神、パールヴァティーは櫛稲田比売のことかもしれません。
なにせ娘婿の大国主神の別名が、八千矛神(やちほこのかみ=槍を手にした8千の大軍の将の神)という名なのですから。
ちなみに神代には、いまのような国境なんてありません。
そして3万年前には、すでに高度な航海技術を持っていたことが、神津島の石が長野や沼津の遺跡で発掘されることで証明されています。
人は動く生き物です。
1万年前には、相当広い世界で船を利用した交易や流通、人の往来があったのではないかと思います。
ちなみに古事記は「宇那賀気理弖(六字以音)、至今鎭坐也」に続いて、
「此謂之神語也(このいわれは、かむかたりなり)」
と書いています。
神語りというのは、ご先祖を何十代もさかのぼった共通のご祖先の物語という意味の言葉ですが、もしかすると大いなる国と言われた大国主神の時代の国は、いまの日本列島よりもはるかに広い範囲の、もしかすると世界と言っても良い時代の物語なのかもしれませんね。
7 日本最古の和歌の神上に述べた「八雲立つ」の和歌は、我が国最古の和歌とされる歌です。
古事記の原文では、漢字の音だけを用いて次のように記述されています。
夜久毛多都 やくもたつ
伊豆毛夜幣賀岐 いつもやへかき
都麻碁微尓 つまこみに
夜幣賀岐都久流 やへかきつくる
曾能夜幣賀岐袁 そのやへかきを
ここでは使われている漢字は音(よみ)を用いただけで、使われている漢字に意味はありません。
ですからこれを意訳して、「八雲立つ」としています。
日本における和歌の文化は、ただ七五調で、調子が良いというだけのものではなくて、三一文字という短い言葉の中に万感を込めるものです。
そして和歌を聞く側(鑑賞する側)は、その歌に込められた万感を、察します。
これが「和歌は察する文化である」とされる理由です。
この歌が詠まれた場所は、奥出雲の須佐の地で、周囲は山々に囲まれています。
山間部にお出かけになられたり、お住いになられている方なら、ご存知のことと思いますが、よく雨上がりなどに、山の中腹に、木々から沸き立つように雲が湧いていることがあります。
これは、山の木から蒸発した水蒸気が、空気で冷やされて小さな水の粒になったもので、そんな水蒸気の雲が、ある日、たくさんに沸き立ったわけです。
それが「八雲(やぐも)」で、「八」というのは古語で「たくさんの」を意味します。
出雲八重垣というのは、奥出雲の鳥上村で、須佐之男命(すさのをのみこと)が反乱する斐伊川を治めるために幾重にも築いた堤防のことで、この堤防を模した垣根を、妻の櫛稲田比売の出産用に築いた産屋(うぶや)の周囲に張り巡らしたものが、「妻籠みに八重垣作る」です。
その八重垣によってお腹の中の赤ちゃんがすくすくと育って立派な赤ちゃんとして生まれてほしい。
生まれた赤ちゃんが、父のスサノヲと同じく、人々のためにお役に立てるような立派な人に育ってほしい。
そして子孫が繁栄し、未来永劫、みんなが幸せに暮らしていける国となってほしい。
そうした願いが「その八重垣を」という言葉に凝縮されています。
短い言葉ですが、たいへんに愛情あふれる歌であり、母が恋しいと泣いていた、あの幼い日の須佐之男命と同じ一途な思いが、歌の中から温かみをもって伝えられている名歌です。
強さとやさしさ。
一途な思い。
常に堂々とした態度。
そしていつも元気がよい。
そんな須佐之男命は、古来、日本中で愛され、慕われ続けた神様です。
トップに貼った絵は、ギリシャ神話に出てくるヒドラです。
ヒドラは頭が9つある蛇で、ヘラクレスによって退治されます。
日本では、ヤマタノオロチが、身ひとつに、頭が8つです。
両者はとても良く似ているといわれています。
もとは同じひとつの物語だったのかもしれません。
かつて何千年もの昔、世界に影響を与えたたいへんに高い文化を持つ民族があり、その民族が世界に散って、世界中で原始的な生活をしている人々に文明文化を授けたという伝承もまた、世界に共通する神話であるようです。
そしてそれが行われた時代は、ノアの箱舟の時代よりも、はるかに古い時代だとされています。
ノアの箱舟は、大洪水によって地上が海に沈み、ごくわずかな者だけが生き残ったという物語ですが、近年の研究で、実際にそういう時代があったことが確認されるようになりました。
それが1万3千年前の出来事で、ビクトリア湖に溜められていた多量の水が決壊してエジプトに大洪水を起こして、地中海に流れ込みました。
同じような事態は世界中で起こり、大量の淡水が流れ込んだ海は塩分濃度が低くなって,大量の魚類が死滅。
それを捕食していた地上の動物も、洪水と食料不足で多くが死に絶えました。
そしてこのことが原因となって、1万1千年前には、地球全体の海流のシステムが停止するという事態に至っていたりするのですが、こうした気象条件の大変化によって、このとき人類の多くが死滅し、地球全体で1万〜3万人くらいしか生き残る者がいなかったといわれています。
猿は、体の大きなゴリラから、小さなメガネザルに至るまで種類も豊富で体長や体系もそれぞれ大きく異なりますが、人類は肌の色の違いくらいで、世界の人種にあまり大きな変化がないのは、こうした人口が極端に減った時期を経過したからだという説があります。
これをボトルネック効果と言います。
ヒドラの伝説はノアの時代よりも、もっとはるかに古い時代の出来事といわれています。
仮にもし、ヒドラとヤマタノオロチが同一の存在であったとするなら、スサノヲ大神の神語りは、1万3千年よりも、もっとずっと遠い昔の記憶だったのかもしれません。
あるいは古事記はヤマタノオロチを斐伊川の洪水伝説として記録していますから、その伝説が景教が伝わったときに、ギリシャ神話のヒドラと同一視されて八岐大蛇とされたのではないかという人もいます。
あるいは神々の世界に本当に頭が8つ(ヒドラなら9つ)ある蛇に似た悪神がいたのかもしれません。
真実はわかりません。
ただ、神話(あるいは神語り)は、そこに何らかの大切な学びがあるから、長い歳月を生き延びた物語です。
そして我が国においてスサノヲ伝説は、愛と勇気と男のやさしさの物語として、これからもずっと長く伝えられていくものと思います。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
八十猛命様
朝鮮半島にも渡り植林と統治をされたと
古記にもしるされています。本来は、朝鮮半島も大和の一部だったのが伺えますが、今、反日を声高く叫んでいる韓国朝鮮人は神縁を失った野蛮人以外の何者でもないです。
2019/02/17 URL 編集
大阪市民
先の大戦で、昭和天皇の終戦の詔に対する陸軍の抵抗を止める為に一切の責めを負い
阿南大臣は切腹されましたが、この姿勢こそスサノオ大神様から連綿と伝えられている
武士道の精神だと想います。
2019/02/17 URL 編集
疑問
平将門は、下総国に王城を築き、「新皇」を名乗って関東の独立を標榜したと言われていますが、流れでそうなってしまったのであって、当初「関東独立」には関心が無かったと思います。
むしろ、実際のところはよく分かりませんが、情が深く庶民に近い頼れる兄貴といったイメージがある為に、関東など一部地域で人気があるのだと思います。
日本人は、仏様のような温和で完璧な聖人君主よりも、こういうタイプのヒーローが大好きなのだと思います。
2019/02/17 URL 編集
takechiyo1949
我町に鎮座在す「吹上神社」の御祭神は「大山咋命(おおやまくいのみこと)」です。
大年神(おおとしかみ)と天知迦流美豆比売(あまちかるみずひめ)との間にお生まれで、須佐之男命の孫にあたるそうです。
ヘラクレスに退治された「9首の大蛇ヒュードラ」は「海蛇座」になり、踏み潰された「化け蟹カルキノス」は「蟹座」になった…ギリシャ神話の世界も面白いですね。
因みに、私も相方も蟹座です。
『須佐之男大神は渡来人?』
そう聞いてくる方々が結構います。
記紀を読み込むのは大変ですから仕方無いと思います。
そんな時は、ねずさんの【スサノヲ渡来人説を斬る】を紹介し「須佐之男大神は歴とした日本の神様ですよ」と申し上げています。
きょうも朝から勉強になります。
2019/02/17 URL 編集