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半島の現実(史実)です。
「国民は、妻を女奴隷と同じように見なし、
些細な罪で妻を追い出す。
夫は子を引き取ろうとしないので、
妻が連れて行かなければならない。
そのためこの国は人口が多い。」
なぜこのことが人口の増加を招くのか、その意味するところはあえて説明しません。
少し考えたら誰にでもわかることです。
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)1653年7月、日本でいったら江戸時代の初期頃のことです。
日本に向かう途中のオランダの東インド会社 (VOC) 交易船デ・スペルウェール号が、朝 魚羊半島南部沿岸の済州島付近で難破しました。
乗員は64名でした。
その中に、ヘンドリック・ハメルという書記官がいました。
ハメルは、生き残っった36人とともに、済州島で李氏朝 魚羊の官吏によって捕縛され、漢陽(現在のソウル)にいる国王のもとに「めずらしい貢物(みつぎもの)」として送られました。
そして彼らは朝 魚羊から出ることを禁じられ、13年の歳月を李氏朝 魚羊の奴隷として、漢陽で過ごしました。
彼らは漢陽から出ることは禁じられました。
けれども朝 魚羊社会の異なる階級との多少の交わりを得ることができました。
ある日、あまりの悲惨な境遇に耐えかねた一行のうちの2人が、清の使節に日本への送還を直訴しました。
見れば、明らかに朝 魚羊人とは異なる人たちです。
清の使節は彼らを保護することに決めるのですが、李氏朝 魚羊は清使に賄賂を送ってこの一件をもみ消し、彼らを捕縛すると、オランダ人一行の待遇をさらに悪化させました。
そして彼らは全員、全羅道(半島南部)に送られました。
ハメル一行の生活状態は、中央から派遣される役人の意向によって変転しました。
生活費も食料も与えられず、彼ら自身で物乞いをして命を繋ぐこともあったそうです。
1659年には熱病が流行、さらに1660年から1663年に大飢饉が起こり、全羅道では、兵営が彼らを養いきれなくなり、ついに役人たちが彼らに注意すら払わなくなりました。
1666年8月のことです。
この時点ですでに生存者は16名になっていたけれど、ハメルと7人の乗組員は、決死の覚悟で朝 魚羊から船で脱出して、日本に向かいました。

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そして五島列島で捕えられ、長崎奉行所に送られました。
日本は、彼らを丁重にもてなし、幕府は翌年には、ハメル一行の帰国を認め、ハメルたちは、11月にはオランダ・バタビアに無事帰国しました。
朝 魚羊国内に残ったオランダ人に対しても、幕府はその引渡しを、朝 魚羊側に求めました。
そして残りの生存者7名を1668年6月にひきとり、これも健康の回復を待って、オランダに送り届けています。
江戸日本は、抑留された外国人でさえ、半島から堂々と取り戻すことができたのです。
いまの日本は、どうでしょうか。
さて、オランダに帰国したハメルは、東インド総督および17人委員会に宛てて、朝 魚羊幽閉当時の状況報告書を書いています。
この報告書は、1667年に出版されました。
そしてこの本が、ヨーロッパに初めて、朝 魚羊に関する詳細かつ正確な描写を紹介した本となりました。
それが『朝 魚羊幽囚記』です。
東洋文庫で読むことができます。
そのハメルの『朝 魚羊幽囚記』から、李氏朝 魚羊時代の半島の様子を抜粋して紹介します。
多少の解説を記します。
──────────
『朝 魚羊幽囚記』
H.ハメル、N.ウィットセン (著)
生田滋訳 東洋文庫
──────────
(p. 41)
夫を殺した妻は、人々が通る往来に肩まで土に埋められた。
その傍には、木の鋸(のこぎり)が置かれた。
貴族以外の通行人は、彼女の首をその鋸でひいて死にいたらしめなければならない。
他方、夫が妻を殺したときは、しかるべき理由があることが証明できれば、姦通であってもなくても、その罪によって訴えられることはない。
過失致死を犯した者は、酸っぱくて濁って鼻をさすような強い匂いがする水で死者の全身を洗い、その汚水をじょうごで使って罪人の喉から流し込めるだけ流し込み、胃のところを棒で叩いて、胃を破裂させる。
盗みは厳重な刑罰が課せられているにもかかわらず、盗人は非常に沢山いる。
盗みへの刑罰は、足の裏を叩いて、次第に死にいたらしめるものである。
▼福沢諭吉は『学問のすゝめ』のなかで、次のように述べています。
「愚民を支配するにはとても道理をもって諭(さとす)べき方便なければ、ただ威をもって畏(おどす)のみ。西洋の諺ことわざに『愚民の上に苛(から)き政府あり』とはこのことなり。こは政府の苛きにあらず、愚民のみずから招く災(わざわい)なり。愚民の上に苛き政府あれば、良民の上には良き政府あるの理なり。」
まさにこの通りで、「ニワトリが先か卵が先か」と同じで、民度が低ければ、政府の程度も低く、政府の程度が低ければ民度もまた低くなります。
その結果、政府は苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)となり、それでも国民は従わないから、より一層、刑罰が見せしめとして厳しいものになります。
後に日本は朝 魚羊総督府において、こうした半島の苛(から)い刑罰を止めさせるように法をあらためましたが、すると彼らは、半島人の判事まで一緒になって日本人の目から隠れて厳しい刑罰を実施し、また一般の民衆は、日本人が彼らに重罰を下さないと知って舐めてかかって悪さを公然と行いました。 (p. 43)
一般の人々は彼らの偶像の前で、ある種の迷信を行うが、彼らが経緯を払うのは、偶像よりも、自分の目上の人に対してである。
大官や貴族は、偶像に対して敬意を表するということをまったく知りません。
なぜなら彼ら自身が、偶像よりも偉いと考えているからです。
▼ここでいう「偶像」というのは仏像のことであり、「ある種の迷信」というのは読経のことであろうと思われます。
いまさら日本が仏像を盗んだ云々と嘘をついていますが、仏像等を軽んじたのは彼ら自身です。 (p. 46)
大官たちの家は非常に立派ですが、一般の人々の家は粗末である。
一般人には、自分の考えに基づいて家を建築することは誰にも許されていない。
総督の許可なしに屋根を瓦でふくことも許されていない。
▼要するに賄賂を送らなければ、どんなに雨漏りがひどくても屋根を葺くこともできなかったのです。その賄賂は金銭または娘であったといわれています。 (p. 48)
国民は、妻を女奴隷と同じように見なし、些細な罪で妻を追い出す。夫は子を引き取ろうとしないので、妻が連れて行かなければならない。
そのためこの国は人口が多い。
▼なぜこのことが人口の増加を招くのか、その意味するところはあえて説明しません。
少し考えたら誰にでもわかることです。
ちなみに西洋においても、昔は妻は夫の所有物です。そこに人権はありません。
Chinaも同じで、女性には纏足(てんそく)の習慣がありました。
なるほど日本でも、古来、妻は夫のことを「主人」と呼びます。
しかし日本では、「主(あるじ)」がウシハク(領有)する人々は、天子様の大切な「おほみたから」とされてきました。
つまり夫は妻を、大切な「たから」として守る義務(責任)があるわけで、ここにイザナキ、イザナミ以来の「男女は対等」という社会の構図が実現しています。(p. 52)
彼らには、盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向がある。
彼らを信用してはいけない。
他人に損害を与えることは彼らにとって手柄と考えられ、恥辱とは考えられていない。
(p. 53)
彼らは病人、特に伝染病患者を非常に嫌う。
病人はただちに自分の家から、町あるいは村の外に出され、そのために作られた藁ぶきの小屋に連れて行かれる。
そこには、彼らを看病する者の外は誰も訪れないし、誰も彼らと話をしない。
その小屋の傍を通る者は、必ず病人に向かってつばを吐く。
病人を看病してくれる親戚を持たない人々は、病人を看病に行かないで、そのまま見捨てる。
******
現実は、夢のような韓流時代劇の世界とはだいぶ違うようですね。
ハメルよりだいぶ時代が下りますが、1874(明治7)年、フランス人宣教師であったクロード・シャルル・ダレ(Claude Charles Dallet)が、日韓併合直前の朝 魚羊半島の様子を『朝 魚羊教会史』という本にまとめています。
すこし引用してみます。
──────────
『朝 魚羊事情―朝 魚羊教会史序論』
シャルル・ダレ著
金容権訳 ワイド版東洋文庫
──────────
(p. 20)
この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。
人びとは、各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。
また大部落はほとんどなく、田舎の人びとは3〜4軒、多くてせいぜい12~3軒ずつ固まって散在している。
年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝 魚羊では飢饉が頻繁にみられる。
(p. 34)
1637年に締結された条約は、清に対していっそう屈辱的な従属関係のものとなった。
朝 魚羊国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認を求めなくてはならなくなった。
(p. 53)
朝 魚羊の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物である。
王宮は、女と宦官で充ちている。
(p. 64)
ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市だが、建築物には見るべきものはない。
かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。
家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。
(p. 71)
官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、そのためには体裁をかまおうとさえしない。
上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。
国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。
(p. 135)
朝 魚羊における学問は、全く民族的なものではない。
読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝 魚羊語でなく漢語であり、歴史に関しても朝 魚羊史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。
公開試験(科挙)は、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。
(p. 192)
朝 魚羊の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。
他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝 魚羊では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。
(p. 212)
朝 魚羊においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。
女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。
(p. 269)
朝 魚羊人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。
子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。
(p. 272)
不思議なことに、軍隊は概して非常に弱い。
彼らは重大な危機があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない。
(p. 272)
朝 魚羊人は、金儲けに目がない。
金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。
彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。
しかしまた、守銭奴はほとんどいない。
いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。
この国では、現金の2、3万フランもあれば金持だといわれる。
一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。
(p. 273)
朝 魚羊人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。
この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。
多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。
したがって食事中にほとんど話をしない。
ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。
そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。
母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。
それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。
(p. 300-301)
朝 魚羊の家屋は、一般に、非常に小さく不便である。
台所の煙を送りだす煙突を下に通す必要上、地面よりも少し高く建てられているが、しかしソウルでは、必ずしもこの方法が一般的とはなっていない。
冬場をしのぐにはかなり便利だが、夏場になると熱気が屋内にこもって、まるで人びとに耐えがたい体罰を課していると同じような状態になる。
それで、おおかたの人は戸外で眠る。
(p. 303-304)
衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。
不潔ということは朝 魚羊人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している。
(p. 309)
朝 魚羊人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。
この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。
(p. 314-315)
商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。
航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。
この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。
したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。
(p. 322)
政府は、おのれの保持のためには必要であると信じているこの鎖国を、細心に固守しており、いかなる利害や人道上の考慮をもってしても、これを放棄しようとしない。
1871年、1872年の間、驚くべき飢饉が朝 魚羊をおそい、国土は荒廃した。
あまりのひどさに、西海岸の人のうちには、娘を中国人の密貿易者に一人当たり米一升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東にたどりついた何人かの朝 魚羊人は、むごたらしい国状を図に描いて宣教師たちに示し、
「どこの道にも死体がころがっている」
と訴えた。
しかしそんな時でさえ、朝 魚羊政府は、中国や日本からの食料買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。
(p. 323)
アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、いずれその難関は突破されるだろう。1860年から、彼らの領土は朝 魚羊と隣接するようになり、これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。
これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、いつの日にか、朝 魚羊はロシア領に併合されてしまうであろう。
**********
19世紀の終わり頃の半島の描写ですが、21世紀になったいまでも、すこしも変わっていない。
このひどい体たらくの国から、日本は何を「教わった」というのでしょうか。
むしろ問題は、近隣諸国条項によって、日本側が隣国に配慮した教育をしなければならいとされることによって、日本の美しい歴史が、彼らの国の模様とすり替えられ、上にある描写がそのまま日本の歴史であるかのように事実を捻じ曲げられて教育されていることにあります。
*
さてここで問題です。
もしあなたが、Chinaや半島の指導者層にあり、民衆の間に、「東の海上に神仙郷とみまごうばかりの桃源郷があり、そこでは人々は上下心をひとつにして、誰もが仲良く助け合い、治安もよく、人々は玄関に鍵をかけることさえもなく、互いに慈(いつく)しみ合い、豊かで安心して安全に暮らすことができる国がある」という噂話が広がったとします。
それは事実であって、あまりに自国の惨状と異なる、まさに天国のような国の存在です。
けれども、そのような国が現実にすぐ隣りにあるということになれば、民衆は自国の政治権力の言うことを聞かず、王朝そのものの崩壊さえも招きかねません。
そのような中にあって、もしあなたが司政官なら、どのような対応を取るでしょうか。
(A)そのような神仙郷が存在することを公言する者は、逮捕し処罰し、国内向けには、その桃源郷は我が国が文化を伝えてやった国なのだと、嘘の情報を国内に広げる。
(B)そのような国があるならば、その国の良いところを積極的に学び、自国の統治に取り入れて民衆の幸せを目指す。
普通の日本人なら(B)を選ぶと思います。
けれど、半島やChinaでは、ずっとずっと大昔から(A)だけが選択されてきました。
なぜなら(B)を選択することは、すなわち自国の王朝の崩壊を引き起こすからです。
そしてこのことは、いまもなお続いていることです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
はらさり
残念ながら私の実家族もこの半島の民に近い感じです。。。
特に子どもに食べさせる時はお腹いっぱいになっても食べさせ続け、大人が満足したら食べさせるのを止めます。
女性は奴隷又は働き手。これも当てはまります。
そしてカネについては執着が強い割にはあっさり万金を使う。
あーやだ!私の近しい親族はそんな人達ばかりですわ!
そして何故か前を向いて歩こうとしない…半島やChinaが選んできた様な後ろ向きな選択を選ぶ。
その割に文句だけは立派!
自分や親族に半島や大陸の血が流れているかは私は判りません。ただ日本人なのに半島や大陸の人みたいな親せきだらけなのを再確認しました。
愚痴になりました。話もズレましたが私は日本に生、ねずさんみなさんに巡り会えて感謝の気持ちを新たにした記事でした。
2019/03/11 URL 編集
takechiyo1949
嘔吐感が半端無いです。
今朝はご飯を抜きます。
種の保存を図るため?
蛇蝎の如く嫌われる?
そういう生物もいる?
と…ねずさんは他のBlogで書いていましたが、私達が目指す「豈國」とは程遠いです。
しかし、そんな半島にシンパシーを持ってバカ騒ぎをしている者共が我國にも大勢います。
余所事ではありません。
2019/03/08 URL 編集