手結内(ていない)港

手結内(ていない)港というのは、高地の桂浜から室戸岬へと伸びる海岸沿い約18キロにある石積みの港です。
津呂(つろ)港は、別名を室戸岬港といって、これまた室戸台風が上陸した、室戸岬にある港です。
どちらも野中兼山が命じて、海面から11メートル余りの高さに石堤を築いたものです。
港の堤防も深く、外洋の潮が流れ込まないように巧妙に造られました。
これによって、手結内も津呂も、まさに台風に対して無敵の要塞となったのです。
築かれたのは江戸時代の初期のことです。
当時はもちろん建設土木重機なんてありません。
すべての港湾工事は人力です。
海中に土嚢を積上げ、周囲を締切って内部に潮が入り込まないように処置したあと、クワやスコップなどの工具で海底を掘り下げ、崖を削って、水深3メートルの港を築いています。
このとき地盤が軟弱なところには、海底に木材を敷き詰め、その上に石垣を構築して強化しました。
また、堤防にするところには土嚢を積みあげ、土盛りし、上から石を積み上げて、強化しました。
さらに港の入口を狭くして、高波が港に入らないように工夫しました。
港の中の四方も石堤で囲みました。
おかげで港はどんな大嵐が来ても、外海から完全に守られる良港となったのです。
工事の開始は、承応元(1652)年、完成が3年後の明暦元(1655)年です。
工事には、なんと延べ36万人もの人夫が動員されました。
これだけの大規模な港湾工事を推進したのが、野中兼山(のなかけんざん)です。
完成当時は、野中兼山に対して、
「なにもここまで大工事にしなくても」
などという批判的な声が多かったそうです。
しかしこの堤防のおかげで、港は数々の台風の直撃に完璧に絶え、さらに250年後の室戸台風という史上最大規模の台風にさえ命と港を無傷に守り通しました。
その場しのぎの工事ではなく、末代まで安心して暮らせる町を築く。
その野中兼山の姿勢が、250年後の室戸を守ったのです。
土佐藩には有名な「郷士」制度がありますが、この「郷士」制度を創設したのも、野中兼山です。
もともと土佐は長曾我部家の治める土地で、その長宗我部氏が大坂の陣で豊臣方に与(くみ)して敗れたために、一族斬首となり、藩がお取りつぶしになりました。
そこに山内一豊が、移封されてやってきたわけです。
長宗我部氏というのは、もともと飛鳥時代の秦河勝の後裔とされます。
(秦河勝=
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3819.html)
要するに由緒ある家柄です。
一方の山内一豊は、信長や秀吉の部下として出世した戦国大名で、いわば生い立ちのわからない新参者であるのに対し、長宗我部の旧家臣たちは誇りある旧家の家格を持つわけです。
両者は互いに折り合いが悪く、藩内の事情は複雑なものとなりました。
元長宗我部の家臣たちである「郷士」たちの反乱が頻発したのです。
あまりの郷士たちの反発に業を煮やした山内一豊は、長曽我部家の遺臣らを桂浜の角力大会に招待し、その場で彼らを捕縛して、73名をいきなり磔(はりつけ)にして殺してしまいます。
当然のことながら、藩内には混乱と緊張が生まれました。
一豊が高知城を築城したときなどは、なんと影武者を6人も揃えて、現地の視察をしています。
それだけ藩内には緊張状態が続いていたのです。
城下は日々斬り合いが絶えないという殺伐とした状態になってしまったのです。
野中兼山が土佐藩の家老職として総奉行に就いたのは、まさに土佐の上士と郷士の対立が極限に達していた頃でした。
そのなかで山内一豊が逝去し、一豊の養嗣子(よしし)であった山内忠義が二代藩主となりました。
その忠義が、21歳の若者であった兼山に藩政改革の一切を委ねたのです。
なぜ兼山が選ばれたのかというと、すでに藩内の騒乱は極限に達していたからです。
これを治める総責任者になるということは、失敗すれば、即、切腹です。
ですから古くからの家老衆は、総奉行になることを拒み、若い兼山に土佐行政のすべてを委ねたわけです。
どんな場合でも、八方良しの改革など出来るはずもありません。
あちら立てればこちら立たずが世の常です。
どんなに良い政策であったとしても、それを不服とする人は必ず出るのです。
その不服派の人たちの声が苦情となったとき、総奉行は現代社会のように、単に職を解任されるという程度では済みません。
それどころか、当時はすべてが「家」を単位に動いていますから、処分の対象は、自分だけでなく、自分を育ててくれた養父一家にまで咎がおよぶのです。
下手をすれば一族郎党全部が断罪され、処刑される。
21歳の野中兼山は、それだけの重責を担ったのです。
彼は、その後、土佐藩の総奉行を30年間勤め、藩内の揉め事を一掃してしています。
彼が行った制度改革のひとつに、郷士制度があります。
彼は山内家の家臣たちを上士(じょうし)として藩の上級武士として高位を与え、郷士たちの身分は低く据え置く代わりに、郷士たちの生活を豊かにしたのです。
郷士には未開の土地の開墾を命じ、新たに開墾した土地は、全部郷士たちに所有を認めました。
誰だって、争ったり斬り合ったりするよりも、生活が豊かになることの方が好ましいものです。
ですから長曾我部の侍たちは、争って土地の開墾をはじめました。
末孫のことを考えて、土地を開墾し、孫や子が食べれるようにしていこうと努力するようになったのです。
この、経済的豊かさと、身分や地位の逆転という発想は、日本が生み出したたいへん素晴らしい制度です。
幕府の士農工商も、経済的豊かさという意味では、商工農士の順です。
郷士たちは、身分こそ山内家譜代の武士よりも低く置かれたし、藩士としては下級役人にしか登用してもらえなかったけれど、新田の開墾によって、圧倒的に豊かな生活が送れるようになりました。
長宗我部家そのものも、なるほど斬首によって直系は絶えたけれど、傍系の一族はこの新田開墾によって帰農し、姓氏を島姓に変えるなどして豪農として生きながらえています。
そして明治にはいってから再び姓を「長宗我部」に戻し、お家の再興をしています。
ちなみに近年の時代劇などを見ると、土佐藩の「上士」たちは美しい着物を着ていかにも豊かそうに描かれ、一方「郷士」たちは、まるで乞食のような極貧状態に置かれていたかのような描き方をしていますが、事実は逆です。生活は郷士の方がよほど豊かだったのです。
有名な坂本龍馬は、土佐藩の郷士の出ですが、彼は脱藩後、全国を飛び回って幕末の志士として活躍しました。
全国を飛び回るには、食費も宿泊費もかかります。
経済的裏付けがあったからこそ、彼は幕末の志士として活躍ができたのです。
もっとも郷士は豊かになったとはいっても、豊かさゆえに、なかには飲んだくれたり、遊郭にはまったり、バクチに走ったりして身を持ち崩す者も出ます。
野中兼山は、そうした人たちには、豪農や商人などに「郷士」株を売ることを認めました。
藩はその手数料をいただいて、藩の財政を潤し、同時に身代を潰した郷士への救済を与えたわけです。
ちなみに、おもしろいもので、郷士株を売っても、売った郷士には武家としての身分は保障されています。
足軽としてなどの録がもらえなくなるだけのことです。
買った豪商たちは、武家として苗字帯刀が許されています。
坂本竜馬の「坂本家」は、もともとは豪商、大金持ちの家です。
坂本家は郷士株を買うことで、郷士の身分を手に入れています。
「人斬り以蔵」の異名をとった岡田以蔵の家も、やはり郷士株を買った豪農の家です。
身分は足軽だから碌(ろく)は少ないけれど、家は豊かで食うに困らない。
だから若き日の岡田以蔵は、安心して剣術の稽古に精を出せたのです。
話が脱線しましたが、こうして野中兼山は、上士と郷士の対立を解消しただけでなく、他にも植林や間伐の計画化を実施し、土佐の山林を守っています。
米価についても、それまで土佐藩内の米価は変動制で、豊作の年には米の値が暴落し、不作の年は暴騰するという状態だったものを、「公定価格制度」を導入して米価を安定させて農民たちの生活を安定させています。
おかげで台風のメッカともいえる高知県(土佐藩)で、江戸時代を通じて飢饉の記録がありません。
自給自足経済であり、豊作と凶作が代わる代わるやってきた江戸日本において、野中兼山の行ったこの米価安定策が、どれだけ庶民の暮らしを助け、支えたか。
郷士、上士の区分も、争いを終わらせるため、米の備蓄は、万一の備え、新田は豊かな藩を築くため。
野中兼山の政策は、いずれも「おおみたから」である民の生活を第一とする道であったわけです。
兼山が、最初に手掛けたのが、冒頭でご紹介した港湾堤防の建設です。
いまも昔も、土佐は台風のメッカです。
まずは、台風対策。
彼はそこからスタートしました。
これは大事業です。
その大事業の港湾作業に、兼山は、土佐の郷士たちを積極的に登用しました。
郷士たちを、藩の重職に就けることはできなかったけれど、港湾建設という特定目的の責任者に据えることはできたのです。
郷士たちは、長宗我部家という名誉ある家の残党です。
民から慕われ愛され、尊敬を集めている。
しかも台風被害のためにと任された仕事です。
俺たちの実力を目にもの見せてくれると、彼らは真剣に、また誠実に頑張りました。
港の工事は順調に進み、もはや台風などには絶対に負けない、最強の港湾設備が出来上がりました。
笑顔で出航する漁師たちは、安定した港を得ることで、後顧の憂いなく、漁に打ちこむことができるようになりました。
この結果生まれたのが、土佐のカツオの一本釣りです。
カツオ漁は、たとえば津呂の港だけで、年間の水揚高10万尾を誇るものに育ちました。
兼山は、このカツオの流通にも気を配りました。
漁師たちに、問屋を通さず商人と直取引することを認めたのです。
これによって漁民の生活は著しく改善し、向上しました。
こうなると、さらに欲が出るのが人間というものです。
津呂村では、カツオだけでなく捕鯨にも進出。
冬季のひとシーズンで、なんと座頭鯨3頭、児鯨25頭、さらに背美鯨8頭、イワシ鯨1頭を仕留め、漁銀283貫という大金を稼ぎ出しました。
となりの手結内港の漁師たちも負けていられません。
漁師たちは、互いに競うように水揚げ高を伸ばし、生活はますます好転していきました。
港の改築工事が終わると、今度は、兼山は、郷士に平野部の新田開墾です。
開墾したら、そこは自分の土地です。
土佐の郷士たちは、もともと一領具足といって、半農半兵の武士たちです。
新田開発となると、彼らは眼の色を変えて開発をはじめました。
新田の開墾というのは、単に樹を切り倒し、土地を耕せば良いというものではありません。
田んぼですから、当然、水路もひかなくちゃならないし、そのための堤防工事など大規模な治水工事が必要となります。
自分勝手に適当な土地を開墾すれば良いというものではないのです。
組織だった活動が不可欠になる。
兼山は、これを旧・長宗我部の家臣団の序列をまるごと援用することで、大規模開発を可能にしています。
長宗我部の家臣たちは、手にした槍や刀を、スキやクワに持ち替えて、農地の開墾をしたのです。
これによって、土佐藩の米は、爆発的に増産されました。
幕末、薩長土肥の新政府軍の一翼として、土佐藩が大きな力を振るうことができたのも、こうした社会インフラが、土佐山内家の初期に構築されたからです。
この頃の兼山に、おもしろい逸話があります。
ある日、兼山が江戸の土産にと「ハマグリ」や「アサリ」を船一隻分持ち帰えったのだそうです。
江戸土産です。
みんなが貝汁が腹いっぱい食えると楽しみにしていると、人々の前で兼山は、持ち帰った貝を全部、土佐の海に投げ捨ててしまいました。
驚く人々に兼山は、
「これは諸君へのお土産ではないのです。
諸君の子々孫々のためのお土産なのです」
と嬉しそうに答えました。
集まった人たちは、兼山のそうした見識に、まさに舌を巻きました。
こうしていまでも土佐湾は、「ハマグリ」や「アサリ」の海産物で潤っています。
野中兼山の業績をみると、つくづく政治というのは百年、千年の大計によるものなのだと感じます。
兼山の行った業績は、まだあります。
彼は、陶器、養蜂などの技術者を積極的に藩内に招き、殖産興業に勤めています。
いまでも土佐焼といえば、ブランドです。
また、「念仏講」という民間組織もつくられました。
これは町内のみんなで積立金をして、誰かが亡くなったとき、みんなで丁重な葬儀を営もうというものです。
いまでいったら互助会のようなものです。
兼山のすごいところは、この互助会を、単に積み金を行う民だけのものにしなかったという点です。
四国は、中世からハンセン氏病患者の巡礼地です。
巡礼の途中で亡くなる人も多い。
なにせハンセン氏病は、体が腐る病気です。
誰だって遺体に触るのは気が引ける。
だからハンセン氏病の巡礼者の遺体は粗略に扱われていたのだけれど、兼山は「講」を通じて、これらも手厚く葬儀をし、丁重に埋葬させるようにしたのです。
遺体といえば、他にも、当時、難病とされた天然痘患者を、置棄(おきすて)にするという習慣があった。
これは天然痘患者を、山に連れて行って置いてけぼりにして、飢え死にさせてしまうという古くからの風習です。
兼山は、これも全面的に禁止しています。
そして藩内に天然痘患者専用の介護施設を築き、葬儀の体制もちゃんと整えています。
野中兼山の施政は、常に遠大な理想に基づいて仕事をする、というところにあります。
目先の対処療法ではない。
「根治」を前提に政治を進めています。
その根幹にあるのは、郷士であれ百姓町人であれ、すべては「おほみたから」であるという思想です。
これが不動の「格(核)」になります。
その不動の格(核)を中心に据えたうえで、遠大な戦略に基づいて目先の政治が進められます。
ですから兼山の施策は、何をしてもうまくいきます。
多くの善意ある人々が兼山に心服し、兼山を慕いました。
当然といえば当然のことです。
ところが、世間というものは、立派な業績を残し立派な成果を残した人を必ずしも顕彰するとは限りません。
藩の筆頭家老などは、自分よりも地位が低くて歳の若い兼山が、次つぎと政策を成功させるのが、腹立たしくてしかたがない。
そもそも30年間にわたって、兼山に藩政を委ねてきたということは、裏返しに言えば、筆頭国家老らは、それまで30年間にわたってなんら藩政に貢献できず、無為に過ごしてきたということになるのです。
それこそ重臣として情けない話です。
誰が何と言おうが、国のために精一杯力を尽くし行動してこそ、筆頭国老としての重責を全うしたというものです。
万年野党に甘んじ、政府与党の行う政治にケチばかりつけ、何の実績も成果も挙げられなかった連中が、政権交代となるや、なんでもかんでも前政権の「せい」にして、その実、自分たちは何一つまともな政治をしない。
事業仕分けで予算がカットされたスーパー堤防は、これがなければ首都圏のゼロメートル地帯は、いざ津波が起きた途端に水没してしまうのです。
けれど事業仕分けの影響で、いまだ一部しか復活していません。
それでいて政権を追われたら、こんどは自分たちが政権与党だった時代の失政までも、自民の「せい」にする。
同じことは昔の土佐にも起こりました。
二代目土佐藩主山内忠義が存命中は、家老たちも大人しくしていたのです。
それだけ忠義公の、兼山への信頼が厚かったからです。
ところが藩公が急逝し、三代目藩主が後を継ぐ段階に至ると、彼らは牙をむき出しました。
藩内に、野中兼山の中傷を撒き散らし、藩内の数々の矛盾や不足を、ことごとく野中兼山の「せい」にしたのです。
そして若い三代目藩主に対し、
「これまで兼山は、
藩政を私物化して壟断し、
筆頭国老の体面をも踏みにじり、
目に余る独断専横を行ってきた」
と、兼山打倒のための「弾劾書」を提出しました。
内容は、
一、武士たちが租税で苦しんでいる
一、農民たちが工事で苦しんでいる
一、町人たちが御用金で苦しんでいる、
というものです。
そして彼らは、農民、漁民、町人の代表を呼んで、藩主の前で藩政への苦情を上申させました。
ぜんぶ、ヤラセでした。
そもそも封建制度の中にあって、民衆に藩政を公然と批判させるなどということは、通常ではありえないことなのです。
それをやったのです。
ところが見かけ上は、筆頭家老らが藩政を憂いて決意を新たにした真摯な態度を装っています。
「ふだんは民のことなど考えもしない彼らが、
この時ばかりは“民の声”を持ち出した。
ここにも彼らの狡猜さと、
いかに追放の口実を欲していたかを見ることができる。
事実、土佐藩において、
このように民の意見に耳を傾けることなど、
このあと、ただの一度もなかったのである。」
(『野中兼山』横川末吉著 吉川弘文館)
要するに、彼らは民を「利用」したにすぎなかったのです。
筆頭国老らの「弾劾書」が出でから、わずか十日後、野中兼山は、総奉行職を解かれ、蟄居が命じられました。
野中兼山は、「藩主中心の土佐藩」を築くことに半生を賭けてきました。
ところが「藩主中心の土佐藩」という美辞麗句で職を追われたのです。
言葉は同じ 「藩主中心の土佐藩」 です。
しかし、藩主を中心に藩の民が潤う善政をひくという意味での「藩主中心の土佐藩」と、藩主の地位を利用し、藩の高官の保身を図るという意味での「藩主中心の土佐藩」では、その本質はまるで違います。
蟄居を命じられた日、兼山は屋敷で彼は子供たちを集めて次のように語りました。
「お前たちはまだ幼い。
いまここで、
父の申すことがわからなくても、
その芽を、
そち達の胸の中に
残し置いておきなさい。
やがてお前たちの心の中で、
それが大きな木となり枝となって、
はっきりとしてくる日が
かならずやってくる。
人というものは、
いかなる場合でも
休んではならぬ。
どのように踏まれても叩かれても、
いつでも再び飛び上がる、
以前よりもっともっと高く飛び上がるという、
心の備え、身の備えをしなければならぬ。
土佐、いや日本国は
これから日一日と開けてゆく。
人もふえるであろう。
そうなれば、
ひとりの野中兼山では足らなくなる。
百人の兼山、千人の兼山が
必要となるであろう。
そなたたちは、
ひとりのこらず、
この父の上に立ち、
この父を土台にして
立派な野中兼山にならなくてはならぬ。」
兼山蟄居後、兼山が登用した人々も、次々と追放されました。
そして彼自身にも切腹の命が下されるだろうとの噂が広まりました。
ところが、寛文3(1663)年12月15日、兼山は病となり、香美郡山田村中野(土佐山田町)で、あっけなく急死してしまいます。享年49歳でした。
病死と伝えられているけれど、おそらくは自分で割腹したのでしょう。
そしてそれさえも、病死として片づけられたというのが真相だったのかもしれません。
兼山の没後、彼が辞職時に一切言い訳をしなかったことが仇となり、兼山の一族は、以後、一か所に押し込められて幽閉されました。
幽閉が解かれたのは、なんと40年後です。
長い幽閉生活で、兼山の男系の血筋が完全に絶えたとき、はじめて幽閉が解かれたのです。
正しいことをする。
民のために政治を行う。
そのことは、とても素晴らしいことです。
けれど、それを行う人は、世間のウシハク人たち、いまの世間で権力や財力を持った人たちを敵に回すことになります。
ですから、正しいこと、本当に国民のためになることをする人は、いつの時代にあっても末路は必ずしも幸福になっていません。
菅原道真公しかり、吉田松陰しかり、野中兼山しかりです。
それでも正しい道を行く。民のために生きる。
それが志ある日本男子の生きる道なのであろうと思います。
野中兼山が生前に残したエピソードに、次のような話があります。
ある日、すさまじい暴風雨となったとき、灌漑のために築いたばかりの堤防が切れるのではないかと、ひとりの役人が見回りにでたそうです。
見れば豪雨により、川はどんどんと水かさを増していきます。
たいへんに危険な状態です。
けれどその暴風雨の中で、その役人は、できたばかりの堤防の上で、腹ばいになって堤防の無事を確かめているひとりの武士の姿を発見したのだそうです。
それが野中兼山でした。
彼は藩を預かる執政として堤防の無事をたしかめるために、嵐をついて出てきたのです。
兼山は轟々と流れる川面を見つめながら、役人に言ったそうです。
「この堤は、未来永劫切れることはないよ。
なぜなら野中兼山、
私のためにひと塊の土、
ひと筋の水も動かしていないからだ。
すべて藩主のため、
領民のため、
ひいては日本国のためです。
この心は、
誰も知らなくても
天のみ知っている。」
兼山は、自らの私欲を捨てることで、一念を天に通じさせたのかもしれません。
同じく野中兼山の言葉に、次のものがあります。
「たとえ90歳、100歳まで長生きしても、
死後ひとりもその名を伝えないのでは、
虻(あぶ)も同然である。
長生きの甲斐もない。」
兼山は、人生の短い幕を降ろしました。
しかし兼山が残した偉業は、土佐藩繁栄の礎となり、21世紀を迎えたいまでも、高知県に息づいています。
歴史上、偉業をなす人には、必ず迫害がつきまといます。
それが人の世というものです。
しかし、その人物の本当の偉大さは時とともに必ず明らかになります。
野中兼山の生き方は、まさにその一点を我々に教えてくれています。
野中兼山を考えるとき、まったく別な時代、別な場所で語られたひとりの人物の言葉を思い出します。
次の言葉です。
「日本民族が今まさに滅びんとする時にあたり、
身をもってこれを防いだ若者達が
いたという歴史が残る限り、
五百年後、千年後の世に、
必ずや日本民族は
再興するであろう。」
特攻隊の生みの親、大西瀧治郎中将の言葉です。
歴史は、ときに大きな間違いを犯します。
しかし、そうした間違いを誘発するのは、決まってきれいごとを言いながら、自己の保身と他者への中傷、批判を繰り返し、なんでも悪いのは「人のせい」にする馬鹿者たちです。
こうした馬鹿者たちは、いっときは時勢の中で綺羅星のような輝きをみせることがあるかもしれないけれど、結局は世の中に害毒しか残さず、多くの人を不幸にする原因を作ります。
一方、時代を超えて残るのは、百年、千年の大計に立って未来を見つめ、私心をなくして公に尽くし、何事も「人のせい」にしない。
そしてそういう人は、いつの時代も必ず
「泥をかぶる覚悟」を持った人たちです。
わたしたちは、ひとりひとりは小さな人間です。
何の力もない。
過去を振り返れば、間違いや失敗の連続です。
しかし、その失敗だらけの小さな私たちが、私心を捨て、日本の百年後、千年後の未来のために活動を開始したとき、それはきっと天に通じる大きな働きとなります。
日本の保守派、いまやマイノリティ(少数派)と化したといわれています。
違います。
圧倒的大多数の日本人は、日本が好きです。
日本人のDNAの中には、日本を護り育んだ英霊たちや先人たちの魂がちゃんと宿っています。
そしていま、陸続と日本に目覚める人々が全国から湧き起こっています。
そういうひとりひとりの目覚めた日本人が、私心を捨て、未来を見つめて行動を起こすとき、日本は必ず変わるのです。
大西中将は、それを五百年後、千年後とおっしゃられました。
でも戦後70年、時代の変化は、昔より格段に速くなっています。
おそらくは、もっとずっと日本の目覚めは早い。
善であれ悪であれ、いつの時代であっても現状を変えようとする者は必ず叩かれます。
なぜなら現状には必ず既得権益層があるからです。
とりわけ我が国における善は、民衆をこそ「おほみたから」とするものです。
自分だけが利益を得ようとする人たちからすれば、その動きは社会の敵、彼らの敵となることを意味します。
それでも誠実に戦う。
先人たちは、それを実践してきました。
それが勁(つよ)い日本を取り戻すことだからです。
※この記事は2015年4月の記事のリニューアルです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
谷山靖浩
さらにねずさんのいう心元号、健知なら最高ですね。
2019/03/30 URL 編集
-
幕末の志士などの享年にも驚かされていましたが、それらの超ハイレベルな日本人達が普通に多く存在していたことは事実ですよね。
今の日本人との違いが一層浮き彫りにされます。DNAは受け継いでいるはずなのに。
大東亜戦争で散られた者達が、もしも、終戦後も生き残っておられたならばを時折妄想します。
歴史にタラレバはありません。
託され継いだ者達がその責をそれぞれに努めるしかないのだろうと思っております。
2019/03/28 URL 編集
岡 義雄
このお話は何度か読ませて頂いています。我が母が尋常高等小学校の時に大阪吹田で実際に小学校内で室戸台風に遭遇しています。校舎があっという間に吹き飛び、大勢亡くなった事も何度も話を聞かせれました。特に被害が大きかった岸辺、山田周辺の小学校の事も聞きました。そして自分自身が幼稚園で伊勢湾台風、小学生で第二室戸台風を経験しました。当時はなすがままという状態でした。近所の屋根は吹っ飛ぶし、自宅のガラス窓も割れるし、家は大きく揺さぶられ、生きた心地がしなかったです。そして近年では阪神淡路大震災も先日の台風も、大阪北部地震も直接経験しました。
国土強靭化計画も、相当突っ込んだ政策にしないと、外側だけでは意味がありません。国民の安心安全の為に妙なところにお金を使わせず、国民の為に使って欲しいと思います。
2019/03/26 URL 編集
takechiyo1949
それにしても随分な話です。
正しい道を歩く「背私向公」の人傑が叩かれ…地位を追われ酷い目に遭う…こういうことをして平気な方々は現代にもいます。
嫉妬ばかりで、自分の満足しか考えない連中はこんなことも言います。
『自虐史観を批判する「愛国者」は、外国の歴史にイチャモンをつけるが、結果的に日本の評価が下がるから、国益を損なう…とんでもない輩だ!』
国益って何だと思っているのでしょうかね。
皇國史観!
勁い我國を取り戻す!
私は「日本派」です。
2019/03/26 URL 編集